71. それでもない
あれ?
って思っていたらイザムの顔が近づいてきて、わたしは反射的に自分たちの顔の間に両手を入れていた。
「……」
真剣な表情が、すごく嫌そうなしかめ面に変わる。
「いや、そんな顔されても……止めるでしょ、普通? 何、急に」
「その手、どけて」
さらに近づいて来られて、わたしはソファの上でできるだけ身を引いた。
「……何で身体が離れる?」
動きを止めたイザムの眉の間の溝が深くなる。
「いや、離れるでしょ? 何のつもり?」
「アイリーンは、俺の婚約者だろ?」
「や、それってここの設定でしょ? しかも今、それを見せておいた方がいい人なんていないし……話し合い、するんでしょ? そのためにあの二人を部屋に帰したんじゃないの?」
「それもあるけど――」
ちょっと目をそらして言い淀む。
「けど、って何? え、ちょっと待って。あるけど(・・・・)って何? まさかわたしにキスするために追い払ったとか言わないよね?」
「……文句は出なかったし」
目はそらしたままだ。
「……それって何に(・・・)ついての文句が誰から(・・・・)出なかったってこと? まさかあの二人は、イザムがそういう(・・・・)つもりでわたし以外解散って言ったって、わかってたってこと?」
アルフレッド様のやや呆れたような顔と、俯いたタイガくんの耳が赤かったことを思い出す。
「うそ」
イザムを押しのけて立ち上がろうとしたら、その腕をつかまれた。肩から滑り落ちたショールか床に柔らかい音を立てる。
「……たとえ芝居でも、俺があいつをアイリーンに近づけるつもりはない、ってことがあいつらにもわかった、ってだけだから、いいんだよ」
その後で小さなため息と一緒に、腕は離してくれたけど。
「でもだからって――待って、『あいつ』ってアルフレッド様? また気にしてたの?」
今日お城に行った時はご機嫌だったのに。
「アルフレッドだろうが、へぼ剣士だろうが、ベタベタされれば腹立つし……気になるんだよ。あいつと楽しそうにしてたの、見たし」
そんなことを言われても、ベタベタした覚えなんてない。確かに踊るのは楽しかったけど、その間、アルフレッド様の手は背中の高い位置をずっとキープしていたし、会話の間も適切な距離があったはずだ。
心配させるようなことはしていない。
「そんなこと言われたって……わたしに、どうしろってこと?」
「だから、キスさせてって」
伸ばされた手はゆっくりだったけど、あのチャームの後と同じような感じがした。感情を行動に変えて、有無を言わさずにぶつけられそうになっている感じに、慌てて立ち上がって距離を取った。
「わたしが聞いてるのは今のことじゃないの。キスとかそういう意味じゃなくて――ちょっと、待って。なんか、嫌だ。今のそれって、怒ってるの?」
その質問に、イザムが軽く目を見開いた。
「いや、怒ってるとか全然そういうつもりじゃ……嘘でもアイリーンを婚約相手にって言うアルフレッドに対してちょっとイラっとしたのは確かだけど、どっちかっていうとアイリーンがちゃんとここにいることを確認して、安心したいっていうか……キスがダメなら、ハグでもいいし、とにかくもうちょっと近くにいて欲しいんだけど」
その言葉と一緒に、さっきまでのちょっと緊迫した雰囲気が薄らいだ。
「そう、なの?」
「ハグもダメ?」
わたしにむかって開いた両腕とちょっと困ったような顔。五歳児みたいな――ああ、お気に入りのおもちゃを取られそうになったとか、親を探してる子どもか――そういう困惑と不安か。
「そんなことしなくても、別にいなくなったりしないよ?」
ゆっくり近づくと、イザムが苦笑した。
「なんか、警戒中の猫みたいだな」
「驚かしたら引っ掻いて逃げるかもよ」
そう返しつつも、わたしは一つ息を吐いてイザムの腕の中に納まった。
イザムもほっと息を吐いたので、わたしも体の力を抜く。
「アイリーンは俺に対して、警戒心が強すぎるんだよ。他の奴には甘いのに」
眦がさがって、穏やかな表情になったイザムが口を尖らせた。
「他の人に警戒しろって言われても困るよ。わたしのこと、そういう相手だと思ってる人、たぶんイザムしかいないし。本当に、そういう意味では心配しなくていいと思う」
「それが甘いんだよ。あれだけ他のやつらから結婚相手に、って見られてるのに。他のやつに対しては俺の十倍ぐらい警戒した方がいいんだ」
そう言いながら髪の毛を撫でる、その手は優しかった。
離してくれるつもりはまだないみたいだけど、とりあえずイザムの気分は落ちついてきたみたいだ。
「イザムはそんなこと言うけどさ、今日だって、イザムが持たせてくれたお守りのせいで恐怖の目で見られてはいたけど、わたしに近づく人なんていなかったよ。忘れた? あのお守りを外した時のみんなの安心した様子――ところで、旅に出るの?」
ドラゴンの鱗を外した時のことを思い出したイザムが笑顔になったところで、話を変えた。
「確かに王様がうるさいからその方がいいかな、って思ってる。だけど、アイリーンはちょっと大変になるかなって――ほら、この世界って結構文明が遅れてるだろ? この館の中は三年の間に覚えたことを活かして、あっちこっちいじりまわしてあるから現実とそんなに変わらない状態にできてるけど、外に出ると一体何百年前かなって思うような家とか、道具とかを普通に使ってる。
トイレだって流せないところが多い――これは絶対に改善したいね。
それにここには顕微鏡もないんだよ。まったく! 初めて来たときは本当に、大変だった」
あ、その話題は突入すると長そう。
顕微鏡がないことがどれだけ大変かを力説されそうなのがわかったので、わたしはすかさず話を戻した。
「トイレは重要だね……ここのひとたちってみんな、お風呂は入らないの?」
「川で水浴びとかならする人はいるけど、お風呂はかなり贅沢でさ。絞ったタオルで身体を拭くとか、そういう状態で――その辺はアルフレッドに聞いた方がいいと思う。とにかく、さっきあいつに洗面所を見せた時は魔法かって聞かれたし、いろいろ発達してないのは確かだよ。
それに、あんまり長々と居続けたくないって話は前にもしただろ? ここに永住するつもりがない以上、滞在期間はどんなに長くても二週間を越えたくない。少しずつだけど、現実を忘れそうになるから――本当は三日くらいで帰りたいんだ。
一番忘れやすいのが学校で何を習ったかとか、宿題があったかとかで、朝ごはんの内容だとか、親と何を話したとかいう日常生活の出来事が全部夢みたいで、すごく曖昧になるんだよ。あんまり心配かけたくないし」
そう言って眉をひそめた様子から、以前ここに入り浸っておじさんやおばさんを心配させたことがあるのがわかる。来始めたのが中学のころだって言ってたし、それは頻繁に学校を休むようになった時期なのだから、当然だ。
わたしも親を心配させたいわけじゃないし、確かにごく簡単な日常のことは忘れやすいと思っていたので、そこはうんうんと頷いた。
「こまめに戻って来るならこの世界では転移陣が楽なんだけど、使い過ぎにも気をつけたい。アイリーンはあれに酔いやすいし、体調不良とか、万一変な呪文にかかったりして転移陣に乗れなくなったらどうやって戻るかとか――まあ、それについては考えがないわけでもないんだけど、それもすぐにってわけにはいかないし」
そう言ってなぜかにやりと笑う。なんだか、危険な感じだ。
「普段の乗り物だって、基本的に馬車とか、馬やロバが引く荷車とかだから、女の子が旅をするには快適とは言えないし、馬車にはスプリングもついてない。そこは改良できるけど、それにもちょっと時間がかかるし、アイリーンの基本装備も、何人かで旅をするならちょっと変えたいし――タイガはできるだけ早く出発したいみたいだったけど、少なくとも準備にこっちの時間で一週間くらいは欲しいなって思う。
もし、アイリーンが行くとしたら、だけど」
いろいろ考えてくれているのはよくわかった。
その上で、選択権を与えてくれていることも。
「そこまでいろいろ考えてるってことは、行った方がいいんでしょ? せっかくの異世界だもん。わたしもいろいろ見てみたい。一週間の間にせめてお湯を沸かせるように魔法の練習をするよ」




