67. 閑話 僕たちの理由(タイガ)
この世界に来て何に驚いたかって、虚仮威しの自称だとばかり思ってた魔導士の力だ。
城で話は聞いていたけれど、実際に目の前で王子がカエルになったのを見たときは、顎が落ちるかと思った。
しかもその直後、蝙蝠の羽の生えた男が二人がかりで、シンデレラの衣装を着た女の子を拉致して飛び去ったし。
女の子は馬車の中で呆然となっていたけど、当然だと思う。しかも、おそらく話の流れからして、その中学生くらいの――本来の自分と同じくらいの歳のシンデレラは、実は五歳の王女様を変身させた姿だったらしい。
ここが異世界なんだ、魔法が存在するんだって、実感した。
それからもっと驚きだったのは、連れて行かれたその魔導士の自宅の、水回りの設備だった。
与えられた一室、その洗面台の前に立って呆然となった。
「家とほぼ変わんないんじゃ……? いやひょっとして家より立派かも?」
この世界に来るようになってから約ひと月。僕とヴェッラは最初の何日かこそ、小さな村で村人の家に泊めてもらって、宿代代わりに音楽と踊りを提供したりした。
けれど、異世界から来たってことで、すぐに城に招かれて、それからは衣食住には困らない暮らしをさせてもらった。広い部屋で、身の回りのことはほとんど使用人がやってくれ、好きなだけサックスが吹ける。なにしろ王様の客として招かれたんだから、この世界では最上の扱いのはずだ。
だけど、その最上の生活も、もといた現実と比べれば遅れてるなんてもんじゃなくて、特に水回りの不便さは痛感させられた。水は井戸から人力で汲んでくるし、風呂は贅沢で、毎日入れるようなものじゃない。トイレも、汲み置きの水で流すところはまだましで、最初にいた村ではお釣りの来るようなぼっとん式、しかも共同だった。
それがこの魔導士の家では、いったいどうやっているのか、まるで現実世界から持ち込んだかのような風呂とトイレが備え付けてあって、それだけじゃなくてごわごわしないタオルや石鹸も揃っていた。
今のところ現実に帰りさえすればいつでも風呂には入れるけれど、興奮してつい長風呂してしまったのは仕方ないと思う。水回りをこんなふうに改善できるなら、異世界暮らしはずっと楽になるはずだ。
風呂から出て隣のドアを開けると、言われたとおりそこはクロゼットで、がらんとした棚の一つにきちんとたたまれた白いTシャツと紺のハーフパンツが入っていた。これも驚きだ。
僕がこの世界に持ち込めるのは楽器だけなのに。
僕がこの世界に来ると、現実でどんな格好をしていようとも、服装は毎回必ず同じ、緑のコートのスナフキ○になる。
旅の楽師っていう設定を決めた時、ふと思い浮かんだのがそれだった。別に嫌なわけじゃないし、旅にはふさわしい格好だと思うけど、必ずその格好になるなら、もうちょっとかっこよさとか見た目も追求したかった。
装備品のリュックサックの中身もいつも同じで、テントと楽器の手入れをする品々と簡単な着替えのセット、短剣が一本と携帯用の食糧と水筒。必要に応じて衣装。それだけだ。
服以外の物もそうだけど、向こうの世界からいろいろ持ち込めるならその方法も教えて欲しい。
とにかく、そういったことをいろいろ最速で教えてもらって、できるだけ早くこの世界を見て回らなければならない。僕には時間がないんだから。
――ため息を吐いて、鏡の前で右目に眼帯を当て直した。
この世界に来た後で気づいたけれど、自分の身体には本体にあるような醜い傷がまったくない。確かにそういう設定を望んだ。整った顔に銀色の髪。濃い青い目も、楽師にはぴったりだと思ったし、年齢も希望したとおり、高校生くらいになっていた。
でも、この片目は殆ど景色を映さなかった。接続の悪いネットみたいに、細切れに見える時があるけれど、それだけだ。
それは、僕の本体が右目でものが見えるっていう状態を知らないからじゃないかと思う。小さい頃に事故で右目の視力を失った僕は、右目でも見えるというのがどういうことなのか、いまいちわかっていない。
だとしたら。
そう考えると怖い。僕の左目はこの三年でずいぶん視力が落ちている。近いうちに完全に視力を失う可能性が高いと病院で言われた。このまま本当の僕が左目の視力も失って、見えないことに慣れてしまったら、僕は今この世界で見えているものさえ失ってしまうに違いない。
ぞっとする。
現実世界で視力を失いつつある本当の僕のことを思う。
お城に置いてきたヴェッラのことも。
ヴェッラは大丈夫だ。現実を捨ててこの世界で生きることを望んでいるし。
そうして欲しいわけじゃない。だけどヴェッラの本体は現実に絶望している――もう踊れないって。
~~~~~~
数年前に僕たちはある大学病院の食堂で出会った。僕は目の検査にきた音楽好きの小学生で、ヴェッラは中学生のバレリーナだった。
小学一年生で右目の視力を失った時、原因は事故で視神経が圧迫されたせいだと説明された。成長期に入った時にどうなるかはわからない、そう言われたことも覚えている。
遠近感がつかみにくいから体育は殆ど見学。残った左目に負担をかけないように電子メディアはできるだけ使わない。精一杯気をつけてきた。それでも、五年生になったとたんに僕の視力はどんどん落ち始めた。だから検査に行った、その病院でのことだった。
両親が医者の話を聞きに行っている間、僕は視力を失う恐怖と闘いながら食堂で待っていた。
「治らないなら、治療をしたって何になるっていうの?」
そんな時に聞こえてきた女の子の声。けして声を荒げていたわけではない。
静かな声だった。
「また踊れるようにはならないんでしょ?」
声のした方を見ると、自分と大して変わらない年齢の女の子、その子が母親らしき人と一緒に座っていた。
その日はそれだけで、暗い顔の両親が迎えに来て、再検査の予定を告げられ、僕は帰宅した。
三年後に僕たちは再会した。とはいっても、当然覚えていたのは僕だけだったけど。
同じ病院の、同じ食堂で。
僕の症状はじわりじわりと進んでいて、このまま失明するのはほぼ明らかだった。それまで通っていた公立の中学からも、盲学校に転校していた。
それまでは避けていた電子メディアを最大限に利用して、失明した後の生活に役立てることのできる機能を覚えた。病院には定期的に通っていて、カウンセリングも受けた。光を失う恐怖は全部、中学に入ってから始めたサックスにぶつけた。すぐに楽譜も読めなくなったけど、僕は片っ端から耳で聞いて、毎日新しい曲を吹いた。そんな時だった。
「もう、諦めてもいいと思うの」
落ちついた声に聞き覚えがあって、ぼんやりした視界で声のした方を振りかえると、後ろの席に女の人が二人座っているのがわかった。
一人が黙って立ち上がり、席を外した。なんとなく、母親じゃないかと思った。
「治らなかったの?」
つい声をかけていた。
返事は返ってこなかった――びっくりしているんだと思った。
「三年前、ここにいたよね? 踊れるようにはならないのかって聞いてた――治らなかったの?」
相手の頭が動いた、テーブルに立てかけた僕の白杖の方を見たんだと思った。
「再発したの」
「そうなんだ……踊りはもう辞めたの?」
返ってきた声は、思いのほか明るかった。
「まさか、踊りはやめられない。わたしにとって踊ることは生きることだもの。君、中学生? これがないと生きていけないってくらい大切な物、ある?」
たぶん彼女は笑顔で聞いていたんだと思う。声が明るかった。
「これがないと生きていけない……? そうだな、これがなかったら死んでたかもしれないって思うものならあるよ。怖くてたまらなくなった時に助けてくれるもの、かな」
毎日吹いている、サックスのことを考えた。
「そっか。なら、大丈夫だね」
女の子はそう言って黙った。
大丈夫、なのかな。僕は毎日怖くてたまらないのに。
でも、大丈夫だって言い切ってもらったことで、ちょっとほっとした。
「……ねえ、それ、わたしに分けてもらえない?」
唐突な質問だった。
「え?」
「その、『怖くてたまらなくなった時に助けてくれるもの』っていうやつ、誰かとシェアできるようなものなら、分けてくれないかなって思ったの。これからきっと大変になるから」
表情は見えないからわからないけれど、口調が真剣なのは確かだった。
「僕なんかのでよかったら」
それから毎日、僕たちはSNSで連絡を取り合って、僕は新しい曲を吹く度に彼女に送った。僕には写真は殆ど見えないから、彼女はいつもメッセージを吹き込んでくれる――タンポポが咲いていたとか、制服が夏服になったとか、そういう日常や、こんな本を読んだ、こんなゲームをしたなんていう娯楽、テレビでどこかの王室の結婚式を見たとか、ミサイルが発射されて煙が尾を引いて飛んだとかいう世界情勢まで、全部感想付きで僕の代わりに見てくれる。
ハンドルネームがプリマヴェッラだった。
「見えないのはわかってるけど、冬服の写真を送ります」ってメッセージが来たころから、送られてくる返信の間隔が開いてきたことに、僕は気づかないふりをしていた。
「また入院することになったから、今度からは看護婦さんやお医者さんの観察日記でも送るね」
ある日、送られてきたそんなボイスメッセージの弱々しい声が気になって、「お見舞いに行くよ」とメッセージを返した。
「弱ってるところ、見られたくない」って返ってきたから「どっちにしろ、見えないから気にしないで」って返して、母親に頼んで次の休日に会いに行った。
その時が最初だった。
個室の入り口まで連れて行ってもらうと、母親は「慣れた病院だし、食堂で待ってるね」と言って、さっさと行ってしまった。
ノックするとけっこう元気そうな声が聞こえて、中に入って少しだけ世間話をした。彼女が「入院中は暇でゲームばっかしてるんだよね」って言って見せてくれたゲーム機は僕にとってはただの真っ黒い塊だ。その暗い表面が一瞬光ったと思ったら、あたりが真っ暗になった。
「職業を選択してください」って声が聞こえて、もうそのあたりからおかしかったんだと思う。
名前、年齢、性別、容姿、初期装備。
「わたしは間違いなく踊り子だなぁ。名前はプリマヴェッラ。容姿は今やってるゲームの子そのまま、衣装もそのままで、年齢も、そうだな十六で」
結構適当な彼女の声が聞こえて、妙に安心してしまったのがまずかったのかもしれない。
「だったら僕は楽師かな。旅の楽師。ス〇フキンみたいな感じであっちこっち歩きまわっていろんなものを見たい。容姿はかっこよく、銀髪で、身体の傷もない方がいいな。年齢はプリマヴェッラと同じで。あと絶対に外せないのは楽器! 持ち込みたいけどできるのかな」
「初期設定を終了します」
また声が聞こえて、あたりが明るくなったと思ったら、二人、希望通りの格好でこの世界にいた。
あれから何回かここに来てわかったことは、ここにいる間の時間が向こうでは瞬きをする程度の時間でしかないってことだ。
ヴェッラにとっては、命の危険を感じずに好きなだけ踊れる世界。
僕にとってはクリアにものが見える世界。
「踊ることが生きること」
そう言い切ったヴェッラはこのままこの世界で生きることを望んでいる。 僕は――僕にはそこまでの覚悟はまだない。
今は向こうで過ごす時間をできるだけ減らして、時間を稼ぎ、本当にこの世界で生きられるのかを確認しないと。
そして、まだこっちの世界が光ときらめきを保っているうちに――本当の僕が光を失った世界に慣れてしまう前に、この世界で光とともに生きていくか、光のない現実世界で生きていくかを決めなければならない。




