47. 消えていた記憶
なんの話なのか少しもわからない。
「わたしが言ったの? いつ? 本当に言ったの?」
本当だとしたら、随分恐ろしいことを口にしたものだ。
「本当に覚えてないの? ……ずっとハサミがダメだったのに?」
「ハサミ……?」
何で今、ハサミ?
確かにわたしは小さいころからハサミが苦手だった。先端のとがったところが怖くて嫌いで、カッターや包丁は平気なのになぜかハサミだけはやたらと怖かった。顔や目に刺さりそうで、とにかくダメだった。
今は普通に使えるけど、小学校に入学したころは工作がすごく大変で、周りの友達が代わりに切ってくれたりしたのを覚えてる。
どうしてなのかは覚えていない。気がついたときには怖かったし、なんでハサミがダメになったかを考えるどころか、ハサミのこと自体を考えるのも嫌だった。
でも、先端恐怖症とか、そういうものも世の中にはあるし、刃物が怖いのはそんなに珍しいことじゃないと思う。
わたしの手を離したイザムが机に戻る。引き出しを開けて銀色に光るハサミを取り出した。
今は別に怖くないそれを、よく見えるようにゆっくりと持ち上げる。
なんだか嫌な感じがした。
もう怖くないはずのハサミの刃の丸い先端が妙に鋭く大きくなったように見えて、瞬きをして見直す。
ゆっくり上がっていく銀色がなぜかひどく冷たい。
――それは、イザムの手が首の位置より高くなったところで始まった。
口が勝手に言った。
「……やめて」
底冷えのするような、恐怖が沸いてくる。
銀色の向こうに、怖いくらいきれいなイザムの顔が見える。
「やめて」
なんだか、嫌な感じがする。
「それ以上持ち上げないで、嫌だ」
顎に、頬に、銀色が重なる。
体が震えだした。
何が起こっているのかわからないけど、世界から音が消えた。何も聞こえない。
絶対におかしい。こんなこと、起こったらいけない。
どうしてもあの鈍い銀色から目が離せない。
その先端が急にカッターナイフよりも鋭く尖ったような気がした。
それがイザムの目の位置に重なって――。
ハサミを握っていたはずのイザムの骨っぽい手は、いつのまにか柔らかそうな女性の手に変わっていた。その銀色の奥に見えるイザムの顔が幼く見える。
小さいころ、きっと小学校にも入らないころの勇の顔。
その瞳にあるのは恐怖。
きっとわたしの目に今あるのとまったく同じ恐怖だ。
「……お母さんと一緒に行こうね……」
何も聞こえなかったはずの耳に響く聞き覚えのない女の人の声。勇のお母さんの声じゃないし、もちろんわたしのお母さんでもない。血の気を失った勇の顔にゆっくりと近づく銀のハサミ。
「ダメ、だよ」
甲高い、幼い頃の自分のかすれた声に、その銀色がぱっとこっちに向けられた。
ぎくり、と身体が固まる。視界が赤く染まる。
その赤がすぐに真っ黒に変わる――。
~~~~~~
意識が戻ってまず最初に、わたしはベッドの傍らに置かれた椅子に座っていたイザムに飛びついて、怪我がないか、ちゃんとそこにいるかを確かめた。
心臓がバクバクして、体が震えてどうしようもなくて、イザムの都合も考えずにぺたぺたと触ってから、震えが止まるまでしっかり抱きついた。
自分が忘れていたことが信じられない。あんなに怖かったのに。ハサミが怖かった理由はものの見事に頭から抜けていた。
「……勇、怪我、したの? あの女の人、どうなった?」
見上げて問いかければ、ちょっと驚いた顔をしてから、イザムが微笑んで首を振った。
「僕は、してないよ。愛梨じゃないか。……あの人にハサミを向けられて、いったん離れたのに。あの人が背を向けた途端に飛びかかって……愛梨は歳の割に大きかったし、あの人は僕に向き合ってしゃがんでいたこともあって、倒れてお腹にハサミが刺さったんだ。あの人がハサミを抜いた腕でそのまま愛梨を振り払ったせいで、愛梨は腕を切られたんだよ。僕たちは一緒に走って逃げて、近くにいた大人に助けを求めた。すごく血が出てた。……あの人は捕まっただろ? すごい騒ぎだった」
辛そうに言って、わたしの左腕に手を伸ばす。そこにはもうほとんど見えない白い線が走っている。それが何の痕なのか今まで誰かに聞こうとも思わなかったことを思い出す。
無意識に避けていたのか。
「きっとすごく痛かっただろうし、すごく怖かったから話したくないんだ、って思ってた。様子もおかしかったし、警察でも何も話さなかったみたいだ、ってうちの両親が言ってたし。……でも、その様子だと、本気で忘れてたんだな」
そっとわたしの腕を撫でた手はとても優しかった。
「……思い出したよ。わたしたち、小さかったよね……忘れててごめん」
「そんなことない。愛梨は僕を助けようとして、あんな目にあって……忘れてたなら、その方がよかったんだ。……ごめん」
首を振ってそのまま小さかったときのことを考えた。
外に出たくない、大人が怖いっていう勇の気持ちは、あれのせい――当然だ。
あんな目にあえば、誰だって怖くなる。
勇が無事でよかった。今更だけど、そう思ってほっと息を吐く。
黙ったままでしばらくただ息をした。
そういえば、わたし、まだ何か忘れてることがあるような気がする。
何を、何で?
「カエルだ!」
身体を起こしてポン、と手を打てば、イザムがきょとんとした顔になった。
「カエルって何のこと? わたし、それも覚えてない」
そう、そもそも、最初はカエルの話だったのだ。ハサミの衝撃が強すぎて忘れるところだった。
「カエルの話、してたよね? それ、思い出してない」
「え? ああ、カエルの話してたんだっけ。ついでだし、話しちゃおうか」
イザムがみじろぎをして初めて、自分が今までイザムにほぼしがみつくようにして膝の上に乗っていたことに気がついた――保育園の頃みたいに。
さっきせがまれて膝に乗せられた時はあんなに抵抗したのに、こんなにどうどうと登るとは――急に恥ずかしさが戻って来て降りようとしたら、「せっかくだから、もうちょっとこのままで。あの頃みたいだし」って、似たようなことを言われて、ぎゅっと抱きしめられた。
「重くない?」
「重くないよ。むしろすごく安心する。あ、でも、あっちのほうがいいかな」
そう言うと、そのままわたしを抱えあげて暖炉の前の定位置に移動した。
突然の行動にあっけにとられていると、その顔がおもしろかったのか、くすっと笑って、「持ち上げればそれなりに重いけど、いまさらだし?」と、一言追加した。
怒るべきかと思ったけど、なんとなく、まあいいかって気がした――運ばれた後じゃ確かにいまさらだし、さっきの衝撃のせいですごく離れがたいし。
「あのあと、僕もけっこう傷ついて――そりゃ、知らないおばさんにハサミを突きつけられて攫われそうになった上に流血騒ぎ――仲良しの女の子はひどい怪我をして入院、警察官もたくさんいたし、知らない大人もたくさんいて、両親もずっとピリピリしてて――それが全部自分のせいだったんだから」
そんなことないって言おうとしたわたしを抱えなおして、続ける。
「今は、自分のせいじゃないし自分は悪くない、ってわかってるけど、あの頃は小さかったし、よくわからなくて。それで、ほとほと自分の顔が嫌いになった僕は、顔に傷を付けようとしたんだ。でも、うまくいかなくて。やっぱりしばらくは刃物がダメでさ。見るだけで体が震えて、ずいぶん酷い状態だったらしいんだ。
それに毎晩怖い夢を見て、愛梨と両親を探して泣いて……退院した愛梨がしばらく僕の家で一緒に過ごしてたこと、覚えてない? 愛梨がちゃんとそこにいるかを僕がいつでも確認できるように、僕が誰にも連れて行かれてないかを愛梨が確認できるように、親たちが相談してお前のこと借りてたんだよ。ちょうどお前の母さんも入院してていなかったし」
全然覚えてない。
お母さんが入院してた時期なんて、あったっけ。わたしってば、ずいぶん薄情だ。
「そんなころ愛梨が家から絵本を持ってきて、『魔法使いを探しに行こう』って言ったんだ。その絵本が『カエルの王子様』だった。魔法使いを怒らせて、僕をカエルに変えてもらおう、って。そうすれば顔なんてわからない。傷なんてつけなくていい。僕が大きくなって大人にも負けないくらい強くなったら、人間に戻してあげるから、って」




