43. 変態
呪文を詠唱するイザムから黒い靄と白い冷気のようなものが立ち上り交じり合う。尻もちをついたままの剣士の下に黒い魔法陣が浮かび上がり、ゆっくりと昇って行く。円柱状に進んで頭の上まで達すると、ピンとピアノの高音を叩いた時のような音がして陣が消えた。
「い、まのは……?」
キョロキョロと周囲を見回していた剣士の声は、恐怖と驚愕の悲鳴に変わった。
「ああ、あ、うわああああっ!」
両手で押さえているのは自分の足。それがつま先からじわじわと消えていく。よく見れば消えているのではなく変形しているのがわかる。イザムの言葉通り、ヌルヌルした小さな生き物に。
「や、いや、嫌だ! やめろ! やめ、やめてくれ!! 頼む。俺が悪かった。悪かったから!」
必死で頼む様子を暫し眺めていたイザムだが、全く取り合わず振り向いて、わたしに手を伸ばした。
「済まない。守れなくて」
その瞳にはさっきまでの凍るような迫力はない。
「こんなバカがいるとは思わなかった」
吐き捨てるようにそう言う。
「申し訳ありませんでした」
隣でアルフレッド様が地面に片膝をついた。
その頭上からイザムが、嫌悪と憤りをたっぷりと含んだ声で忠告した。
「次はない。あの妹にも、二度と俺を止めようとするなと言っておけ。俺が躊躇うと思うなよ」
さらに深く頭を下げた王子様の後ろでは、まだギャーギャー剣士が喚いている。
「自分の愚かさが身に染みるかと思って、あと十分はかかるように調整したが、煩いな。舌を抜くか切るかするか。どっちがいい?」
イザムが聞くと、聞かれた剣士だけでなくアルフレッド様も身を固くした。
「どっちもダメだよ」
とりあえず横から反対すれば、アルフレッド様はほっと息を吐いたけど、わたしは別に反対なわけではない。
「舌って、抜いても切っても血が喉に詰まって死にやすいって聞いたことがある。そんなことになったら踏み潰せなくなるじゃない」
悪ノリしている自覚はあるけど、いきなり痴漢を働くようなやつは、確実に仕留めないと。
「ああ――確かにそうだな。簡単に殺してしまっては面白くない」
ふんふんとイザムが頷く。
「だからそう……たとえば、舌を板か何かに打ち付けるとかどう? 喋れないし簡単そう。ああ、でも、準備をしてもらって打ち終わる頃にはすっかりゲーロになっちゃってるかも」
そう続けたら王子様が自分の耳が信じられないというように目を見開いた。
ちょっと血の気も引いているような気がする。
剣士の方は声も出せずに涙目になって口を押えた。
ざまあみろ、だ。
心の中で舌を出していると、楽しそうにイザムも言う。
「まあ今日のところはすっかり変態するまで転がしておいて、後で踏み潰せばいい。どうせ陣のあった場所からは出られないから、中に入ってゆっくりお茶の続きをいただこうか? 俺の(・・)婚約者殿がそこの王子サマと何の話をしていたのかも気になるし」
わたしに、にーっこりと笑って見せてから、じろりと剣士と王子様を睨む。
「今日もずいぶん楽しそうだった。もう一匹ゲーロを増やすかどうかをよく確認しないとな……だが頭だけが人の状態で残ってるところを大切な婚約者に見せるのは、さすがにゾッとしない。中に入ろう」
……確かに。それはホラーだ。見たくない。
「ちょ、それって物凄くえげつない……」
素に戻って小声で言うと、「何をいまさら」と、小声で返された。
「望んだのはそこの王子サマだ。そいつが完全に変態するまでの見届け役は王子サマがやってくれる。そうだろう?」
イザムがアルフレッド様に視線を当てたまま、絶望的な顔をしている剣士を顎で示した。王子様の肩がこわばる。
「王子様の望み?」
よくわからなくてイザムを見上げれば、黒い笑顔で説明してくれた――説明というより心理的追い打ちに近かったけど。
「俺の(・・)婚約者に手を出したらどうなるか、俺はこの前からこれ以上ないほどはっきり示しておいた。そこのバカ剣士はわからなかったようだが、『命は惜しい』って言ったからには王子サマにはよくわかっていたはずだ。
それなのにさっきこいつはアイリーンを庇おうとした手を止めた。
そのバカは俺たちの客じゃない。王妃が席を外している以上、ここの責任者は王子サマだから、止めなかった時点で王子サマは同罪だ。
いや、妹からバカの気をそらすために俺の婚約者を利用し、自分の手を汚さずにここまで俺にやらせたんだから同罪よりもたちが悪いか」
話すにつれてイザムの声が凄みを増していき、王子様の顔色がどんどん悪くなっていく。
怒りがぶり返して来たのか、イザムの笑顔が能面のように固まっていく。
「満足したか? 大魔導士ではない、ただの弟子の俺の力量を知りたかったんだろう? 本当にやるかどうかも含めて。
俺にできないと踏んだら、もう一度アイリーンに手を出す気だったのか? それとも第一王子をあてがう気だったのか。……見せしめには妹の方をゲーロかメギマにした方がよかったか? そうすればおままごとに付き合う必要もなくなるな」
王子様ががくりと両膝をつく。その表情からは余裕がきれいさっぱりえていた。
わたしは王女様まで妙な生き物にしたいとは思わないし、イザムだって本気で言っているとはさすがに思わないけれど、それでも「やろうと思えば他愛ない」その事実だけは確かに王子様に伝わった。
「……子ども嫌いだっけ?」
そっと聞く。
「嫌いじゃないけど、好きでもない。嫌いなのは茶番に付き合うことだ。誰かの思惑に乗せられることも」
イザムが自分のことを思い通りに動かそうとする人間を特に嫌うのはわたしも知っている。
冷たい笑顔の仮面。
「興覚めだな。踏むのはその王子サマに任せて帰るか」
王子様をその場に残し、わたしを誘って歩きだす。
「っ! お待ちください」
背中を王子様の声が追いかけてきた。
「……この者を手にかけることは私にはできません。それだけはお許しください」
「ふうん? 自分や妹の命乞いはしないわけ?」
足も止めず、振り向きもしないままイザムが聞くと、ごく短い沈黙の後で、簡素な返事が返ってきた。
「……私のことはいかようにも。御不興を買ったこと大変申し訳なく思っております」
畏怖の音が含まれた謝罪の声にやっと立ち止まる。
「へえ? 妹は?」
「……妹は。どうか、ご容赦を」
今度は苦悩を含んだ声だ。
「だったら、責任をもってそいつをどうにかするんだな。それから、直接であろうと関節であろうと、金輪際アイリーンに手を出すな」
剣士にも王子様にも背を向けたまま歩き出す。
……アルフレッド様にはわたしに対する恋愛感情は最初からないし、手を出されたこともないんだけどね。
いつものようにわたしの右手を取るのではなく、身体を包むように、守るように左の腰に当てられたイザムの左手のおかげか、わたしの中の怒りは既にない。
その代わり、今イザムが感じている自分自身への憤りと後悔を案じる思いが強くなってきた。
室内に入って廊下を進めば、視線を感じる。
ここは王城なのだから誰もいないはずはないのに、人影はなくひっそりと静まり返っていた。何が起こったにしろ、迂闊に近づいて刺激したくない――そんな人たちがいるらしい。
触れていた手から少しずつ怒りの力が抜けて行くのがわかった。だけど強ばっている。さっきのことで責任を感じているんじゃないだろうか――だとしたらそれはイザムのせいなんかじゃないのに。
いつの間にかわたしの方がイザムを先導しているような状態になっていた。
出所不明の視線も続いていて落ちつかず、適当に近くの扉の一つを開けて中に入れば、そこはこの前パーティーが開かれていた広間の一隅だった。
中に入って扉を閉めてからイザムに向き合おうとしたら、案の定というかなんというか、目をそらされた。
「イザム?」
返事はなく、さっきまで腰に触れていた手は硬く握られて微かに震えている。
「イザム? 大丈夫?」
そっぽを向いた顔に両手を伸ばし、頬に触れて無理やり目を合わせる。
顎がこわばっていて、瞳にも涙が滲んでいるように見えた。
この表情はどこかで見たことがある――そう、知らない人に連れて行かれそうになったり、誰かに後をつけられたりした時――確かこんな顔をしていた。
自分に起こったことがショックで、怖くて。
「大丈夫だよ?」
しっかり視線を合わせて言った。唇がピクリと動いたけれど、言葉は出てこない。
酷く傷ついているのがわかるのに、かける言葉が見つからない。静かに両手を下ろしてぎこちなく抱きしめれば、頬に当たった胸からは穏やかな鼓動が聞こえた。
小さい頃と同じように声をかける。
「大丈夫――わたしがここにいるよ」
安心して欲しかった。




