35. 意識
「あの時、イザムは何をされた? って聞いたけど、チャームをかけられて質問された以外は特に何もされなかった」
イザムが、攻撃が決まった箇所を押さえながら、「お前、手加減しろよ……」と、呻いているが、手加減はしたので気にしない。
なんならお得意の魔法で治すことだってできるんだろうし。
「あの人、わたしの手以外には指一本触れなかった。それだって手袋してたし。変態王子様も命は惜しいんだって」
「命は惜しい? ……ああ、あからさまな警告したから? ちゃんと伝わってはいたんだ」
痛みから復活し、口の端で笑う、その顔は、ちょっと黒い。
「そんなに大げさな警告がしてあったなら、どうして何かされたと思うかな」
は~、とため息が出た。あれがとばっちりとか、ひどい話だ。
「大魔導士のプライドにかけて準備はしたけど、世の中には想像の斜め上を行くやつもいるから」
あっけらかんとした返事に、もう一つため息が出た。
斜め上を行くのはいつだって自分のくせに。
あきらめの深呼吸をして話し出す。
「わたし、今日、びっくりしたのもあったけど、イザムのことすごく怖かったの。だから逃げた」
「俺が?」
顔を見るのが難しくて、抱えた両膝の上に顎を載せて、正面だけを見て話す。
「ん。チャームがかかってたせいもあるんだって今はわかるけど、肩をつかまれた時、すごく怖かったの。今までずっと、全面的に信じてたし、安心してたみたい。だけどあの時は怖かった。
何だろう、あれも第三者視点なのかな。なまじっか顔が整ってるせいなのか、怒ってるってわかった時、すごく冷たい感じがして。
それに自分とは違うんだな、っても思った。本気でつかまれたら敵わないんだ、離してもらえないんだ、ってすごく怖かった。あんなふうに怒るとか、あんな顔するんだって……知らない人みたいで」
うまく話せてないんじゃないかって思うけど、ちゃんと伝えられてるかな。
言葉を切ってもうちょっとだけ顔をあげてみた。
「俺もアイリーンが全然知らない子になっちゃったみたいに感じたよ。拒絶されたのがかなりショックで……それに、アルフレッドは変人だって話だったから、万一ってことも……あいつに何か――俺に言えないようなことを無理やりされたかもって思ったら、腹立って……あいつにも、自分にも。
ごめん。怖がらせるつもりはなかったんだけど」
思い出すように、ゆっくり話してくれる。
イザムの方はそんなことを感じていたんだ。
息を吸って、ちゃんとイザムの方を見た。
「あのね、いまさらだけど、もう一回ちゃんと聞いていいかな。ここに連れてくるのってわたしでよかったの? もっと他の人の方が合ってるんじゃないかって、本当に思わない?」
大して役に立たないわたしなんかより、同じような趣味の人を誘った方がいいんじゃないかと思う。
「アイリーンをこの世界に来させたのは――僕の方だよ?」
「でも、気が変わったり、してない? 今日会ったあの人たちが普通の人間じゃなくて、シルバーやクロちゃんみたいな魔物で、イザムが妙な趣味に走って集めてたんじゃないってことはわかったけど、でもそういう人たちだってわたしなんかよりよっぽどいろんな格好もしてくれるし、できることもあるでしょ?」
いろんな点でイザムの希望に応えられないわたしじゃなくたって、いや、むしろわたしじゃない方がいいんじゃないかって――思った。
イザムが大きく息を吐いてから話し出した。
「そういうふうに考えることもできるかもしれないけど、気が変わったりしない。今の僕にとって、アイリーンの存在は不可欠だ。前にも言ったし、気づいてると思うけど、この世界は僕にとって現実より居心地がいいんだ。もう帰らなくていい、すべて放棄してこの世界で暮らすのもありかなって思ったことも、何度もある。
アイリーンが僕を現実に繋げてくれてるんだ。アイリーンに対して責任があると思うことで、僕はアイリーンを現実に帰らせて、自分も現実に帰らなきゃいけないって、前よりずっと思えてる。全部自分が望んだことで、こうやって一緒にいられて、嬉しいし、来てくれてよかったってずっと思ってる。
だけど今日のことは僕のせいだって、それはわかってるし……ここでアイリーンが嫌な思いをしないように、これからも努力するよ。そうとしか言えない……アイリーンが、今日のことで、もうここには来たくないって言うならそれは仕方ないってわかるけど、できれば……まだ諦めたくないんだ」
ちょっと困ったような顔をしてそう言ったイザムの声は穏やかで、とても優しかった。
それにこうやってちゃんと話せていることは嬉しいし、今は怖くはない。
だけど。
「なら、もう一つ聞くけど……いきなりキスされることは嫌なことには入らない、とイザムは思ったわけ?」
掴まれたことも、問い詰められたことも、キスされたことも、あれはイザムがやったことだ。
「それはごめん。あれはその……ちゃんと考えた行動じゃなかった。でも殴れなんて言うから……」
「そうだよ。わたしは殴れ(・・)って言ったの!」
そうだ。殴ってもいいとは言ったけど、キスしていいとは言ってない。
「殴るなんて、そんなことできないよ」
「……キスはできるのに?」
「それは……うん、したからには否定しないけど」
否定できるなら否定したいってこと?
「なんで?」
「なんで、って?」
「なんで、キスなんかしたの?」
あれから、わたしの頭の中はぐちゃぐちゃだ。わたしにチャームがかけられていることに気づいた時のイザムも怖かったけど、キスされた時に背中を走ったぞくりとした感覚も怖かった。
顎に触れた指の冷たさ、唇にふれた温かさ。頭や背中に触れた手の力が、ついさっきの出来事みたいに蘇って、嫌だ。
自分を律することができていない状態は嫌いだ。道場でへとへとになるまで練習したい。
わけがわからなくて悔しい。
涙が出そうになって、顔を伏せて歯を食いしばった。
そのままそうしていたら、イザムが大きく息を吐いたのが聞こえた。
「……殴れって言われたからだよ」
「え?」
答えの意味がわからなくて、膝から顎を上げてイザムを見た。
「チャーム、解けただろ? あのままじゃ帰れなかったし。他人のチャームがかかったような胡散くさい状態で僕の結界内には入れない。もちろん転移もできない」
つまり、ちゃんとした理由があった、ってこと、かな。
「そうなの? だったらそう言ってくれればよかったのに……それに殴っていいって言ったよ?」
「殴ったりできない。そんなのは問題外だ。どうしてもチャームをかけさせてくれないなら、あいつのチャームが解けるくらいの衝撃を与える必要があったし、そのためには先に話すわけにはいかないだろ?」
こっちは見ないまま、また大きく息を吐く。
「それで、キスしたの?」
「……まあ、それもあるし、ちゃんと考えてなかったし」
「まあ、って、だってあんな……ううん、何でもない」
思い出しそうになって慌てて首を振って追い払う。熱くない炎に顔を向けて、またひとつため息。並んだまま炎を見つめ、また顔を伏せた。
「……そんなに、嫌だった?」
小さな声で発せられた質問はすぐに取り消された。
「いや、答えなくていい。手をつなぐのも嫌がってたし、馬車の中でもできるだけ遠くに行こうとしてた。ずっとびくびくしてたのもわかってるんだ」
顔を上げてイザムを見ると、ひどく辛そうな顔をしてた。
「嫌っていうか……そうじゃなくて」
そういう意味でなら、嫌だったわけじゃないし、そんな顔、しなくていい。
手をつなげなかったのも、馬車で近づけなかったのも、それは『イザムのことが嫌だから』じゃない。
わたしが嫌だったのは、キスされたことよりもむしろ、その後からずっと抱えている、この自分の感覚と、感情だ。
混乱した頭の中に抱えた、わけがわからない感情と感覚を、どうやったら伝えられるだろう。
「あの、ちょっとそっち向いてくれない?」
突然の要望に訝しむ顔になったイザムに、できるだけ背を向けた。
「何とか話そうとしてみるから、でも、話してる間だけでいいからこっち見ないで。見られてると頭が回らなくなるから、たぶん話せなくなると思う」
イザムは納得がいかない顔をしながらも、反対の方に身体を向けてくれた。大きく深呼吸をしてから話してみる。
「嫌だったっていうか、嫌……ではあったんだけど、そうじゃなくて、どっちかというと混乱したっていうか、驚いたのもあって……うまく説明できなかったらごめん。
でもあの、わたし、キスとか――いや、いつかは、あるかも、って、そういうのはわかるけど。だけどそれが、こんな――こんな差し迫っていたとか、思ったことはなくて、それですごくびっくりして。びっくりしてたらその、あの……し、舌がね……で、もっとびっくりして、それにぞわっとした感覚が怖くて。
とっさに肘を打ち込んで逃げ出したでしょ? 一人になって落ちつこうとしたんだけど、イザムの手とか、腕とか、その……触ったら思い出しそうでやっぱり怖くて。顔を見ただけでも逃げ出しそうで、手なんてぜんぜん繋げない感じだったの。だからエスコートとか、してもらえなくて。
馬車でも、距離が近すぎて何も考えられなくて。だからイザムが嫌だとかじゃなくて……すごくびっくりしたっていう方が……あ、でもあの、全然嫌じゃなかったわけでもなくて、いや、やっぱダメだ。うまく話せない」
立ち上がって首を振り、どうにもままならない思考を追い払おうとしても、すっきりしてはくれない。
またため息だ。
「あの……イザムは、平気?」
ぐるぐるしてるのはわたしだけなのかな。
おそるおそる振り向けば、いつのまにか立ち上がったイザムもこっちを見ていた。
さっきよりはましな顔をしているように見えるけど、その内面はわからない。
「平気って?」
「その、……頭の中がぐるぐるしてない? 嫌じゃなかった? 嫌だったって言われても今更なんだけど」
「嫌!?」
驚いたように聞き返してきたイザムの声が裏返って。
「……嫌だったら最初からしないよ」
「そうなの?」
「殴った方が簡単」
「……そうかもしれないけど」
そうか、イザムは平気なのか。
そういうところもわたしとはずいぶん違うみたいだ。
「今も僕のことが怖い? 逃げ出したいって思ってる?」
そう言われて見てみれば、今朝までと何が違うかわからない、いつものイザムに見えるけど。でも、やっぱりなんとなく同じではなくて。それに、『僕』だ。
「今は、怖くない……たぶん」
そんな返事しかできなかった。
「今はこれまでみたいに、手をつないだりとか、できそう?」
掌を上にしてまっすぐわたしに伸ばされた手は、わたしの手より大きくて骨ばっていて、そーっと触ってみると、なんでこの手を怖いと思ったのかわからないくらい優しい。
知らない人なんかじゃなくて、大事な――幼馴染の男の子。
それでもわたしは目の前にいる幼馴染が自分とは違う存在なんだと――これまでとは全く違う見方で、そう感じていた。
「平気?」
伸ばされた手の奥で、イザムが伺うようにわたしを見ている。
「うん。大丈夫みたい」
今はあの時みたいに体が震えることも、逃げ出したいような気持ちに追い立てられることもない。
ちょっと警戒はしてるけど、なんだかんだで話ができたことで気持ちが落ち着いたみたいだ。
さっきまでのため息とは違う、安堵の息を吐きだせば、イザムも同じように大きく息を吐いた。
「嫌だと思ったら言って」
つないだままの手をゆっくり引き寄せられて、不自然に開いていたわたしたちの距離が少しずつ近くなる。慎重に様子をうかがいながら、つないでいるのとは反対の手をあげてわたしの左肩に伸ばした。触れる寸前で止めて、いいか、と確認するような視線をよこす。
指先が肩に触れたとき、肩をつかまれた時の感覚が蘇って、わずかに身体がこわばった。イザムがぴたりと動きを止める。
「大丈夫?」
そう聞かれてあらためて思い出す。この手は、故意にわたしを傷つけたりしない。一度目をつむってから開けば、心配そうな瞳と目が合った。
「大丈夫」
息を吐いて頷くと、イザムが微笑んだ。それは、嬉しい。
「心配させてごめん。大丈夫になったみたい」
転移陣にも乗れるし、一緒に現実に帰れるし――また、ここに戻って来られる。




