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110. かどわかし

「演奏していいってさ」


 どういう交渉をしたのか、カウンターから戻って来たレオさんがそう言って、タイガくんが立ち上がった。


「ありがとうございます。リクエスト、ありますか?」


 嬉しそうに聞く。


「そうだな~、俺、最近の曲は聞けてないから、今、あっちではやってるやつ、いくつか聞かせてよ」

「はい」


 立ち上がってお店の人に挨拶に行く。カウンターで楽器ケースを開けているタイガくんは、背中も嬉しそうだ。


 レオさん、いい人じゃないか。


 せっかくの異世界なんだからいいとこどりだけしたい、って発言は好きになれないけど、見た目だけでロクデナシだなんて判断して悪かったかな。

 タイガくんがいくつか音を出して、指を動かす。いつもながら滑らかで、いい音だ。


 吹いてくれた最初の曲は、自分の気持ちが伝えられないままでいたら大好きな子が他の人の彼女になっちゃった男の子の悲恋ソングだった。次が、別れた彼女を忘れられない男の子の歌で、次が恋心が覚めちゃった彼女が切り出す別れに、引き止めたい自分をどうにか止めて諦める男の子の歌で……。


 タイガくんが今夜はそういう気分なのかな? 

 しんみりしていたら、ヴェッラが、「そんなふうに思ってくれたら、イチコロなんだけどね~」って、投げやりなため息とともに呟いたから、イザムと二人で顔を見合わせて、おもわず笑った。


「そのうち、そのうち。今はいい音楽聴いて、夢見ておこう」

「アイリーンはイザム君がいるから夢、いらないじゃん~」


 とりなしたわたしに下唇を突き出す。その顔がかわいい。


「じゃあ、今だけ俺が彼氏だと思ってみたら?」


 レオさんが苦笑を浮かべてヴェッラの腕を肘で突いた。それを聞いて喜ぶかと思ったら、意外にもヴェッラは眉を寄せた。


「期間限定の恋人はいらないの。……でもせっかくだから一曲分、三分くらいなら甘えさせてもらってもいいと思う? いや、やっぱダメかな。わたし、基本的に浮気性じゃないはずだし」


 その言葉に、「短っ!」ってレオさんが言って、「確かに俺は手が早いけど、これだけ人がいる中でなら五分くらいは無害だと思うよ」って笑った。


 人好きのする笑顔になって、ヴェッラも笑う。


「あ、でも、まず飲み物もらってこようかな、三人にも、もらってこようか。何がいい?」


 レオさんが腰を上げた。


「彼女たちの分は俺、わかるんで行きますよ。レオさんは何ですか?」


 イザムが立ち上がる。


「ありがとう。酒なら何でもいいよ。適当に、頼むね」

「はい」


 すぐにタイガくんがもう一曲悲恋ものの曲を吹き始めて、わたしは目を閉じた。


「ヴェッラちゃん、ちょっといい?」ってレオさんの声が聞こえて、小声で何か話している。五分間の恋人役、がんばるみたいだ。


 恋人役、ねえ。わたしなら、五分だけでも恋人があの人なのは嫌だと思うのに、ヴェッラはなんで平気なのかな――そう思いながら目を開けた。


「ねえ、ヴェッラ、どうせなら――」タイガくんに恋人役を頼んだ方が建設的じゃないのか、そう言おうとしてヴェッラの顔を見たら、とろん、とした夢心地な顔をしていた。


 サックスに聞き惚れているにしては、頬が緩んでいる。


「ヴェッラ?」


 返事がない。

 ? 


「……すっごい、ふわふわしてる……」


 ヴェッラがぽつりとつぶやいてレオさんを見る、その目が焦点を結んでいなかった。

 こんな状態、思い当たるのは一つだけだ。


 チャーム。


 でもなんでヴェッラに?


「アイリーンちゃん、ちょっとこっち見て――」


 低く響く声。ぞわりと背中に不快感が走った。立ち上がろうとしたら、レオさんに右腕を掴まれた。一瞬睨みつけたものの慌てて視線を外す。


 この人を見ちゃダメだ。


「あ、知ってるんだ? でも見なくても、いいよ」


 余裕の言葉でふふふ、と笑う。


「俺のジョブはね、ドンファンなんだ、何のことか知ってる? 知らない? チャームのプロだよ。こうやって囁きかけるだけでじゅうぶん――一分もいらないよ」


 言葉と一緒に、つかまれた腕から何かが這いのぼってくるような感覚。

 腕から肩、肩から首。ざわざわする。嫌だ。気落ち悪い。


「――へえ、耐性があるのか。ますますおもしろいね」


 半眼になって見定めようとするかのようにわたしを見る。


 その目が怖い。


「離して。すぐにイザムが戻って来る。タイガくんだって――」

「だろうね、嫌な感じがするし、君はこっちの子より時間もかかりそうだ。君の婚約者は手強そうだし、俺、逃げた方がいいかな」


 逃げたほうが、なんて言っているのに、余裕で楽しんでいるような話し方。


「わからないって顔をしてるね。こう言ったらわかるかな。狩りやすい獲物は面白みがない――売り物はなおさら」


 なにその鬼畜な理由。


 自由になる左手で、ポケットに入れっぱなしのドラゴンのお守りを探った。

 これがあるから、大丈夫なはず。


「今すぐ、離して」

「いいよ? ……アイリーン」


 !?


 そう呼ばれた自分の耳が信じられなかった。


 今の、声は。


 おもわずそむけた顔を戻す。

 目の前で呼びかけているのはレオさんだ。

 なのに。


「アイリーン? 俺の声、聞こえてる?」


 優しく呼びかけるのは、聞き慣れた声。


 驚愕に、おもわず見つめてしまいそうになって、無理やり目をそらした。


「大丈夫? こっち向いて?」


 心配する、声。

 これまで何度も聞かれた、大丈夫? の声。


 目をつむって首を振って追い払う。


 こんなのは違う。


 これは、違う。


 それなのに、目を開けたら、目の前にいたのは、どう見てもレオさんじゃない。

 見慣れた顔。聞きなれた声。腕をつかんでいる手だって、もう力なんて入っていない。

 優しい手、わたしより大きくて骨の太い、見慣れた手。

 『大丈夫?』って聞くくせに、自分の方がずっと不安そうな――。


「どう、して?」


 そんなはずない。こんなところにいるはずない。これは偽物だ――。


「アイリーン? 一緒に行こう」


 いつもみたいに髪の毛の間からのぞく目が不安そうに揺れた。

 イザムよりも抗いきれない。


 現実の勇――。


 違う。


 勇はこんなところにはいない。これは違う。これはチャームだ。ついて行っちゃダメ。勇はわたしのこと、アイリーンなんて呼ばない。


「アイリーン、行こう」

「……行けない……呼ばないで」


 身体が震える。


 抵抗しきれない。


「アイリーン、お願いだから、俺と来て」


 柔らかい声が頭の中に響いて、ぐらりと世界が回る。そして全てが消えた。

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