103. 閑話 悩める息子の人生 幸枝 後半
かくして息子は大人全般に対してかなり慎重で臆病になった。それでも子どもに対しては普通で、中でも愛梨ちゃんは別格だった。
私にとっても別格で、それまでに輪をかけて引っ込み思案になった息子を外に連れ出して、みんなと遊べるようにしてくれる大事な存在だった――時には斬新なアイディアで息子を表に引っ張り出し、私を大笑いさせてくれたりもした。そんな二人に大きな転機が訪れたのは小学四年生の時だ。割に仲良く過ごしていた二人だったけれど、ついに息子の生き物解体に対するすさまじい欲求についていけなくなった愛梨ちゃんが、息子をきっぱりと拒絶したのだ。
――それは、息子にとっては青天の霹靂だったようだけれど、私としてはごく当然のことに思えた。ムカデを退治してくれるのは本当に助かったけれど、その後で肢を外して身体の仕組みを調べるのはやはりどうかと思っていたし、ゴキブリに至っては……正直思い出す気など今生では起こり得ないと断言できる。
息子は酷く落ち込んだけれど、私は心の中でひそかに愛梨ちゃんに喝采を送った。
なにしろその後、我が家のごみ箱の中身はごく普通のごみとして処理できるようになったし、びくびくしながら冷蔵庫や冷凍庫(開けた途端に冬眠中のカエルを発見したり、凍った蛇の死骸と目があったことがある)を開ける必要もなくなった。
ただ、ちょっとかわいそうだったのは、息子がまた口をきいてもらえるようになるまで半年近く落ち込んでいたことだ。あくまでも、ちょっとだけど。
そしてこの事件? をきっかけに、息子は生き物の解剖を『生理的に受け付けない』人がいるということを、身をもって学んだ。
ブラボー、愛梨ちゃん。最高だ。
続いての転機は、これも当然と言えば当然だったけれど、中学校に進学したことで起こった。同じ小学校からの友達は全員、息子の恐ろしい正体を知っていたこともあり、恋心を抱くような相手は皆無だったけれど、近隣四つの小学校から集まった子どもたち(特に女子)の目に、息子は単なるイケメンだと写ったらしい(人の目に最初に判るのは外見だから、仕方ないとは思う)。
かくして「追っかけ」や「ファンクラブ」のような物ができた。
下校途中に違うクラスの子や違う学年の子についてこられたこともある。
息子自身は特別な関心はなく、どうでもいいとしか思っていなかったようだけれど、そんな息子のつれない様子に関わらず、周りの盛り上がりはエスカレートしていったらしい。そして、息子の無関心の原因を突き止めようとした女の子たちが、目下一番仲がいい(それは息子の正体を知りつつも幼なじみのよしみで仲良くしてくれていただけだと思う)愛梨ちゃんに目をつけるまでに、たいして時間はかからなかったようだ。
何があったのか詳しくはわからないが(暴力的なことではなかったようだし、愛梨ちゃんも酷く悩んでいるようなことはなかったと、梨沙子さんが断言したのでそれは確かだ)息子は学校に行くのを渋り始めた。
息子自身がいじめられているのではないかと気をもんだことも一時あったけれど、「女子と距離を取りたい」という理由を聞いて納得した――男子としてそれでいいのか、とちらとは思ったけれど、「女子は怖い。僕に対しては見せないけど、愛梨が言いがかりをつけられてる」と言われれば、むしろ休んでくれた方が安心かとさえ思えた。中に一つだけ、本当に怖いとしか思えない行動があって、その時だけは警察に通報した。未成年のことで、相手が誰だったかは知らない。幸い警察からの注意だけで済み、繰り返されることもなかった。けれど、息子本人に向かうのではない悪意はとても怖かった。
息子にとって愛梨ちゃん以上に大事な女子がいないのも……もう既によくわかっていたし。
ますますこもりがちになった息子は、愛梨ちゃんと遊べなくなったことがけっこう堪えたようで、その頃から口数が減って、夜中まで起きていて朝起きてこない日も増えた。反抗期、っていうのもあったと思う。
さらに、そんなふうに始まった意図的な不登校をきっかけに、息子はまたおかしな方面に趣味アンテナを伸ばし始めた。だけど――自宅で生き物の解剖をされるよりはるかにましだったし、たとえ実物ではなくとも女の子に興味があると思えるのはいいことだし、何よりも、元気で生きていることがわかるだけでいいと思えたのは――やっぱりあの年長時の事件のことが大きかったと思う。
私は基本、息子に甘い。一人息子だってことも大きいと思う。
「高校にはちゃんと通えるように勉強はするし、中学も行けそうになったら行くから、とりあえず勉強する手段と情報を得る手段が欲しい」という理由を聞いて、使用制限付きでPCを買い与えたことも、ちょっと甘かったかな、という自覚はある――新しい趣味を助長することに繋がったような気もする。
中学では一年生の終わりから二年生の前半を、テストの日以外ほぼ全て休んだ。そして二年生の後半からぽつりぽつりと登校を始めたのは――自称「女子対策」という顔隠しモードに加えて、本来の趣味に新しい趣味が追加された、「絶対に女子受けしない自分」を作り上げるためだった。その見てくれは、「三年生で登校日数を確保するための対策」だという。
そこまで徹底していると面白くて、服の似合わない着方、似合わない眼鏡の形とかっこ悪いかけ方、似合わない髪型など、夫と一緒に試させてもらったこともある。学校は、行けるなら行ってほしいと思っていたし、できるだけ協力した。
愛梨ちゃんの方は、息子がいない中学生活を、穏やかに過ごせていたようだ。梨沙子さんによれば、周りに男の子の影はなく、新しい習い事だという空手に夢中らしかった。ときどきプリントや資料や先生からの伝言を届けてくれ、学校に来たら、と、押しつけがましくない程度に聞く。
愛梨ちゃんが来た日は息子が嬉しそうなのですぐわかる。
それに面白いことに(私も何回か会っているのだけれど)、愛梨ちゃんは息子がどんな見た目で応対しようと、あまり気にならない様子だった。ハンサムな顔をバッチリ晒して笑いかけようが、むさい格好でうっすらと髭を生やしてあくびをしようが、一切気にならないらしい(一度だけ似合わない眼鏡に気づいて吹きだして、貸してくれと言っていたことがあるけれど、私が知っている限り、息子の変えられる外側に反応したのはその時だけだ)。
その代わりに寝不足でくまができているとか目が赤いとか、風邪気味で声が変だとか元気がないなど、そういう変化にはよく気がついた。
「ちゃんと夜は寝て、朝は起きなよ」「風邪薬飲んでから寝なよ」「PCとゲームやりすぎ」と何度か注意されていた。まるで母親だ。反抗期のせいもあり、私が言ってもろくに聞かないことが多かったけれど、愛梨ちゃんが言えば「そうする」と素直に言うし、実際行動もする。
昼夜逆転があまりにひどくて、梨沙子さんに「近いうちに愛梨ちゃんを派遣して」と頼んだことも、実は何度かあった。
「愛梨は俺の何を見てんのかな……」
当時の息子が呟いたことがある。息子の内面には納得できないことだらけの私だけれど、その呟きには激しく同意――そして、おそらくもの心ついた頃から恋心を抱き続けている息子の想いが、当面報われないだろうことを残念に思った。
いつだって愛梨ちゃんの表情にあるのは単なる考察(しかも息子がダンゴムシを見つめる時の方がまだ熱心で愛のある、そういう類の物)だったから。
同僚の結婚式の写真を見つめれば、この時の方がずっとましに見えた。
中学の三年になって再び登校し始めた息子は、クラスではほとんど話さない。行事には出ない。体育も参加しない。と、ないないづくしで通し、修学旅行も――これは少し悩んだようだったけれど「危険が大きいから」とやっぱり行かなかった。
それでも登下校の途中やちょっとした外出の際に不用意に顔を晒したせいで、知らない人に突然声をかけられたりすることが何度かあったらしい。口もきかずにダッシュで逃げることが殆どで、駅前の交番に飛び込んだことも(車で迎えに行った)何度かあった。警察官のお兄さんと顔見知りになった――今でも通ると挨拶をする。
そんな息子だったけれど、本人も言った通り高校進学には前向きで、そつなく愛梨ちゃんの志望校を聞きだしていた。息子がたいして曲がらずに成長し、進学率も悪くない高校に進学できたのは、百パーセント間違いなく愛梨ちゃん(と情報を回しつつときどき愛梨ちゃんを派遣してくれた梨沙子さん)のおかげだ。
そして四月、「どの見た目でも愛梨には関係ないなら、これが無難」という結論とともに見た目を最悪で固めて、息子は無事高校生になった。
残念なことに、クラスは全部で七クラスのうちの二組と五組で、かなり離れていたらしい。同じクラスになれるとしたら一般教科がメインの低学年のうちなので、けっこうがっかりしていた。声をかけるタイミングを探そうにも、まず、接点がない。割と活発な愛梨ちゃんの周りには誰かしら女子の友達がいるらしく、息子にはアウェイの教室に、周りの女子の様子を窺いながら乗り込む勇気はないようだった。
がっかりしてまた不登校になったりしたらと心配したが、それは杞憂だった。最初からかっこ悪い見た目を作っていったせいか、女子の目にとまることはなく、すんなり男子の輪の中に入ることができたのだ。中学の時には部活動など全くやらなかったけれど、高校では参加することにしたようで、それが「生物部」だというのはちょっと気になったし、他にも「異世界研究同好会」なるものに入ったという言葉にはそれはいったい何なのだろうと思ったけれど、愛梨ちゃんのこと以外にも、高校生活をちゃんと楽しもうとしていることがわかってほっとした。
愛梨ちゃんとは、頂き物のおすそ分けなど、お使いめいた用事を頼めばそれなりに会話をして帰って来るし、登下校が重なれば、話もしているようだけれど、いかんせん、恋愛関係には発展しないままだ。じれったいけれど、告白しても玉砕しそうなので、放っておいた。
そんな状態が半年ほど続いた一年生の秋口のこと。その夜の息子は酷く荒れていて――と言っても暴力を振るうわけではなくて、単にひどく落ち着きがなくて二階から聞こえてくる独り言が多かっただけだけど――次の日、会社でさり気なく梨沙子さんに聞いてみたら案の定、前の日の下校時に愛梨ちゃんが友だちと一緒に帰っていたところ、他校の男子に声をかけられたらしい。「『興味ないから』ってあっさり断って帰ってきたのよ、いつ異性に興味を持つのかしら」と梨沙子さんは笑っていたけれど、おそらく息子はその話を聞いたか目撃したかしたのだ、とすぐに分かった。
イライラしてないで、後悔する前に自分も動け、と心の中で応援したその週末、久しぶりに愛梨ちゃんが遊びに来た――どうやらがんばったらしい。
それからごく短時間だけれどちょくちょく遊びに来るようになって――彼氏彼女の関係には発展していないようだけれど、息子は前よりよく笑うようになったし、二番目の趣味が多少抑えられているような気がしている――新しい人形をいくつか見かけているからあくまでも多少だけれど。やっぱり女の子は本物の方がいいと気づいてくれたのなら重ねて愛梨様々だ。
親バカなのはわかっているけれど、見た目が人並み以上に整っていることと、基本的に穏やかな性格で、頑張り屋である。とてもいい性格だと思う。一途だし。
でも、二つの趣味を生理的に受け付けないと言われればそれはどうしようもないし、何よりあのゴキ……いや、息子の趣味に関しては愛梨ちゃんも一度絶交しているし、耐えられる女の子が簡単に見つかるとは思えない。しかも愛梨ちゃんには迷惑をかけまくっている。
だからたとえこっぴどく振られてもそれが愛梨ちゃんならしかたないと思う。……振って欲しくはないけれど。
幸いこの頃では生物系の趣味には手を出していない様子だし、やめてくれたんだといいなと思っている。
たとえやめていなくても、もしかしたら将来の息子は生物学者とかになるかもしれないし、今はダメでも将来的に家庭内に持ち込まなければ大丈夫、という可能性だって大いにあると思う。
このかわいらしい小さな新郎新婦がいつか本物になったらいいのに、と思ってしまうのは、親として仕方のないことで、写真に両手を合わせて「何とか上手くいきますように」と拝むのもいつものことだ。




