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101. わたしたちの速度

「これ、ダメだった?」


 さっきは似合うって言ってたのに。


「いや、似合ってるよ」

「じゃあ何が――」


 ダメなのか聞こうとしたら、勇がちょいちょいと手まねきをして、床に座って正座した。


 ?


 手招きされたってことは、向かい側に座れってことか。


「こっち向いて、座って」

「ええと?」


 とりあえず向き合って座ってみる。はい、こんにちは、みたいな感じ。


「ちょっと勉強する体勢になってみて。こんなふうに」


 ちょっと笑うと、「殴るなよ?」って前置きして、自分も少し前かがみの体勢になって見せた。それから「殴るなよ?」って、もう一回言う。


 なんだ?


「あの、ええと、こう?」


 真似してみる。


「そのままちょっと前かがみの状態になって。勉強してるみたいに。もうちょい。もう~ちょい。で下、見て」


 ? 


 揃えた膝に両手が乗っているだけだ。


「これが何か――」


 したのかって、聞こうと思って顔を上げたら、「顔、上げんな。……もっと下、見て」って、何――。


 そう言われてぐっと顎を引いたところで、ニットの胸もとに気がついた。顔を上げた時に正面の勇から何が見えたかって――今日のブラが水色なのは明らかにバレてる。


 即座にV字に開いた胸もとを押さえて身体を起こした。


「勇、あんた今……」


 続きの言葉を、どう言ったものかが、口から出てこない。


 勇が「な? まずいだろ」って、肩をすくめた。


「『な?』じゃないよ!」


 な? なんてなんでもないことのように言わないで欲しい。


「だって、着せたのは俺じゃないし」


 両手を挙げるいつもの降参のポーズだけど。


「わざわざやらせなくたって、口で言ってくれたらよかったじゃん!」

「せっかく着せてくれたんだし、今日は勉強するって言ってあったんだから、そういうつもりかと――愛梨はともかく、少なくともおばさんの意図はそこかなって思って。

 男好きじゃないなら普通気づくし、知らないとお前は他のやつの前でもやるだろ? だからちゃんと知らせておこうかと――先に恋愛の五か条と同性愛の疑惑を聞いてなかったら、うっかり手を出して危なく縁切りされるところだ」


 笑ってるし、口で言うように簡単に手を出したりするような勇じゃないのはわかってるけど。


「とにかく、うちに来るならいつもの格好で、頼むよ。俺の理性に挑むな」


 言われなくても、次から男子に会うときはお母さんおすすめのカッコはしない。


「わたしが挑んだわけじゃないし」


 帰ったら文句言ってやる。親なのに何させてんだって。


「わかってるよ。だから何もしなかったろ?」


 ちょっとイラついているような言い方は、お母さんの余計な疑惑のせいだ。

 それに、意図的に勇の反応を窺われたのが嫌だったんだろうとは思う。


 でもこの場合、絶対に被害者はわたしだと思う。


「……わたしに怒らないで。それに、見たじゃん」


 むむう。


「え? あ、そこは……まあ、せっかくだから」


 そう言って、頬をぽりぽりかいてるけど、なにが「せっかく」だ。


「愛梨が自分の意思で挑むならぜんぜん構わないし、大歓迎だけどさ」


 何が「大歓迎」だ。誰が挑むか。


「挑まないよ! なんなの、もう。できるだけ普通の格好を選んだのに」


 親のくせに、何をやらせてるんだ。

 納得がいかなくて、むう、と下唇を付き出せば、勇がちょっと笑った。


「……似合ってるよ。でも、ちょっと期待しちゃったのが悔しかったんだよ。昨日のこともあって、心配だったし」


 肩をすくめて諦めの顔。


「心配……」


 朝も会ったのに。


「……昨夜帰るときは平気そうだったけど、やっぱり吐くほどショックだったんだろうし……かなり気持ち悪かったってことだろ? この前帰ってくる時に様子が変だったのも、俺がシルバーたちのことを、その……だからあいつらに会ったときにいろいろ確認してたんだってのもわかったし、それで怖がってたんだってのも……。

 今朝もだいたい普通には見えたけど、よく見ると目の下、隈ができてるんだよ。ちゃんと寝られてないんだってわかったから、平気な顔をしてても、今度向こうに行くのが嫌だとか、うまく転移できないとか……そういうのがあるかもしれないし、やっぱり悪かったなって思ってたんだ。

 そしたら、今朝と違う格好だし、それがいつもよりかわいい格好だったから、ちょっと普通に喜んじゃったんだよ。

 まさかおばさんの策略だとは」


 斜め下に視線を外して説明してくれた。その言い方がかわいかったので、黙って胸もとを覗かれた怒りは案外簡単に解けた……それに済んだことはまあ、しかたない。『顔を上げるな』って、言われたし。


「昨日はあんまりちゃんと話せなかったもんね……。

 でも、本当に、アレはただ、初めて見た時の衝撃をそのまま思い出しちゃったからで……眠れなかったのはネズミのことじゃなくて、むしろ、その前の、その、……あっちから戻ってきたときのこととか、その後の、あの……玄関のとこの、あれが気になって、眠れなかったせいだし、勇のことは嫌じゃないし、ちゃんと」


 すんなり言葉が出てこなくて、そこで止まってしまった。


 あーもう、ばかばか。ここで止まるな。

 

「ちゃんと?」


 正座で向き合ったまま、なんとなくできの悪い生徒がお説教されているような感じだ。


「……大事だよ?」


 どうにかそう口に出せば、「それを聞いて安心した」って、笑った。


 ちょっと照れ臭い。

 小学生の頃に戻ったみたい。

 それがたぶん、今のわたしたちの距離で、それを急いで埋めなくていいのが、嬉しい。


「勇?」

「ん?」

「あの、ありがと」


 何が? って疑問の顔をされた。


「『待てる』って言ってくれたこと」

「……待てないやつはロクデナシ、だろ? あれ聞く前に言えてよかった」


 ちょっと呆れたような声で言う。


「あ、本当だね」


 でも、あれは別にキスを待てって話じゃないんだけど、ってところは口に出さなかった。なのに、勝手に続きを読んだらしい。


「その先だって待ちたいわけじゃないけど? なんなら……」


 って、先取りしないで。

 それに腰を浮かせないで。


「いや、待てるって言ったんだから待とうよ! せっかく感謝したのに」

「確か、外じゃないならいいって聞こえたけど」

「それは無理やり言わせたやつ」


 座ったままでささっと、後退すると、仕方ないな、って顔をされた。


「ん」


 立ち上がった勇が、また両腕を差し出した。わたしも立ち上がりはしたものの、昨日の反応を思い出して躊躇だ。


「昨夜の分」

「……うん、そうなんだけど」


 開かれた腕を見つめて考える。これは、大丈夫だろうか。


「けど?」

「ちょっとゆっくり、で、いい?」

「……いいよ? 警戒中の猫バージョン?」


 首を傾げて観察しながらそう聞かれた。


「そんな感じ。でも警戒対象は勇じゃないから。昨日みたいにものすごい現実感に襲われそうなことだから」

「ああ、現実の現実味が強すぎるってやつ?」


 そう言って楽しそうに笑う。


「そう。あっちとは違い過ぎて、すごく……大変だったから」


 不安に思いつつも、勇が笑ったことで、何とかなりそうな気がした。


「嫌だったら、言って。すぐ止めるし、俺は愛梨がちゃんと自分の腕の中にいて、自分が嫌われてないって確かめたいだけだから」


 そうなのか。


 勇の声はすごく優しくて、昨日の玄関でのことが嘘みたいだ。見上げれば、力が抜けた表情もいつもの勇で、不安に感じたのが嘘みたいにすんなりと、広げた腕の中に入ることができた。


「そっか」


 そう言ってそっと抱きしめれば、胸もとに寄せた額の上に、勇の顎が乗る。背中に回された腕もやっぱりすごく優しくて、昨日あんなに焦ったのが信じられないくらいだ。

 勇が本物で、よかった。

 ほっと息を吐く。

 ここはわたしにとって安心できる場所なんだって、今日は素直にそう思えた。

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