11章から終章
十一章
ぐずぐずと鼻をすすりながらも、星は輝日の髪の先を小刀で整え続ける。
「泣くならやるな」
「泣いてない」
見かねた昴の言葉に、星は手を止めることなく言い返す。
「姉様はいつも、こうなんだから」
輝日は何もいわず、妹のするがままに任せていた。
勢いで髪を切ってしまった後、やってきた端女頭の寿媛が悲鳴をあげ、腰を抜かしてしまった。その後に駆けつけた継母の志濃と、妹の星もまた驚き、嘆いた、輝日が切ってしまった黒髪の束は、寿媛が這いずり回りながらも回収した。
星は、散切りになってしまった輝日の髪を整えると言って聞かなかった。そして星の部屋で、輝日はおとなしく妹に髪の始末をゆだねている。少しずつ、毛先が整えられてゆくのを感じながら、輝日は星の手先の器用さを知る。
「姉様の髪、ずっとうらやましかった。私もこんなに黒くてきれいな髪になりたかったのに、姉様はあんなに乱暴に切ってしまって……」
知らなかった、そんな風に思っていたなんて。星の髪は昴と同じ、少し明るい色合いだ。
「姉様が何をなさろうと、私は止めません。でも、ご自分の事は大切にして下さい。髪もそうです」
「わかってる。ごめんなさい」
本当に申し訳ない心地になり、輝日は謝る。そこで星は小刀を置いた。
「輝日殿、本当に戦に出られるのですか。いくら何でも……」
ずっと娘たちを見守っていた志濃が、ようやく口を開く。
「はい。父上も、共に戦うことをお許し下さいました。母上には、女たちをまとめて頂きたいのです。母上ならば、伊那の女は皆、付いて参りましょう」
「輝日殿……」
志濃の目から、涙がこぼれる。
「それから、戦になれば傷を負う者は必ず出ます。母上と星と女たちで、その手当もお願いします」
「わかりました。長さまをはじめ、皆覚悟を決めているのですから、私たちも同じように覚悟を決めなければ」
涙を拭いながらも、志濃は強く答える。
「私も、母上と思いは同じですから」
星もそう言いながら、適当な長さにそろえられた輝日の髪をまとめ始めている。小さく丸く結い、最後にあの紫の布を結ぶ。
「これ、きれい。姉様がこんなものを持っているなんて」
「もらったの、陽鷹殿に」
何気ない輝日の答えに、星は少し意外そうな表情になる。
「姉様でも、男の人からの贈り物を使うのね」
贈り物、という言葉が輝日の中につっかえる。思えばあの人は、衣服や飾り物などをいくつも与えてくれた。それが嬉しかったのかどうか、今ではもうわからない。ただ、あの片方だけの髪飾りは結局手放せず、箱に入れてしまってある。
「……髪が邪魔で、彼がちょうどいいものを持ってたから、もらったの。それだけ」
「はいはい、わかりました」
「ちょっと星!」
星は楽しそうに笑っている。そばの昴も微笑んでいた。
「そうだ……彼は、どうしているのかしら」
紫の布で、思い出す。陽鷹は伊那の人間ではない。戦いに巻き込むことは到底できない。たとえ彼が望んだとしても、大歳も許さないだろう。
「さっき、父上と話をされていました」
すかさず昴が教えてくれる。
「父上と? 何のお話を]
「陽鷹殿も、共に戦いたいと言われていました。僕の一存では決められませんから、父上に談判をしに」
昴が彼らしくなく、あっけらかんと言う。
「陽鷹殿はきっと、姉上のためにそうされるんです。姉上を守りたいから」
「やめて、昴」
輝日は思わず強くさえぎり、昴ははっと口をつぐむ。昴はきっと、輝日と陽鷹が結ばれれば良いと思っている。だが輝日にはそんなつもりはない。誰に対しても、もう輝日はそんな思いを持ちたくはない。
「すみません、姉上。でも僕はそうだったらいいなと思って」
「陽鷹殿は、あなたを気遣っているのよ。あなたがそんなにも慕ってくれるから」
「姉様は素直じゃない」
いきなり割り込んできたのは、星だ。まっすぐこちらを見る妹は、どこか自信に満ちているようにも見える。そういえばもうすぐ刀梓と正式に夫婦になるはずだ。お互い思い合っているという自信なのだろう。
「姉様だって、誰かが力になってくれれば嬉しいはずだわ。それでいいじゃありませんか。昴の言うことはともかく、その陽鷹様が姉様の力になってくれるのなら、素直にありがとうって受け入れていいと私は思う」
誰かが力になってくれれば。確かにそうなのかも知れない。結局人は一人では何もできない。人に頼るのは、悪いことばかりではないのだ。
「……そうね。でもね、彼は伊那の人ではない。本当は巻き込むべき人ではないのよ」
「それは、僕たちもわかっています。でも、陽鷹殿がそうしたいと言われるならば、それを拒む方がひどいかも知れない」
今度は昴が、確信を持った口調で言う。
「わかった。でも、父上がお許しにならなければ、この話は何の意味も持たないわね」
「まだそんな言い方して」
星が呆れている。でもそうなのだから仕方がない。輝日は逃げるように妹の部屋を出た。
「……陽鷹殿」
ちょうど向こう側から、陽鷹がやって来ていた。あの少年のような笑顔が、いつにもまして明るい。
「親父さんから、許しもらったよ。俺も伊那の軍の一員として、一緒に戦う」
「え……」
父が、許したというのか。
「そこまで言ってくれるならば、力を貸して欲しいと言われたよ」
「でも、戦になったら死ぬかも知れないのよ」
輝日は自分でも驚くほど、あわてている。
「あなたに、これ以上迷惑を掛けるわけにはいかないわ」
「俺はお前を守りたいんだよ」
ふいに陽鷹が真顔になる。
「俺はあのきざ野郎なんかと違う。お前に惚れているから、お前を守るために戦う。お前のために死ねるなら本望だって思っている」
「やめて、そんなこと言わないで」
たまらなくなって、陽鷹に背を向ける。彼を信じていいのか、わからなくなる。あの人を信じたのに、考えは違っていた。陽鷹はそうじゃないとわかっていても、信じきれないことがつらい。
「……でも、父上がお許しになったのなら、そしてあなたがそれでいいというなら、あなたと共に倭と戦います。私からの願いは、昴の力になってやって欲しいの」
元々昴は、陽鷹を兄のように慕っている。それならば輝日も受け入れられる。
「……わかった。昴のことも、力になるよ。それでいいんだろ」
陽鷹の声は、決して落ち込んではいない。仕方ないと言っているようだ。振り返ると、やはりいつもの笑顔だった。
「まあ、俺しつこいからさ。お前の側にいれば、そのうち情にほだされてくれるかなって考えてるけど」
「まあ、何言ってるのよ」
驚いて言い返すと、陽鷹が少しほっとしたように見る。
「やっと笑った」
「……え」
「ずっと、厳しい顔だった。あの時泣いて、俺の方がほっとしたくらいだ。お前にそんな思いさせた奴を、俺は許さない」
陽鷹の方が、今は厳しい表情になっているのではないだろうか。これほどまで自分を思ってくれる。だけど、応えることができない。
「……心配掛けて、ごめんなさい。これから、よろしくね」
「ああ」
それでも陽鷹は笑ってくれる。今の自分は、別の形で応えるしかないと、輝日は言い聞かせていた。
明日にでも戦ということで、あわただしく武器などの調達が始まった。輝日も大歳に付いてその様子を見たり、運び込みを手伝った。輝日の後には昴が付いてきて、その側にはいつも陽鷹がいる。いつしか周りは陽鷹のことを、衆長の一族と見るようになっていた。
輝日が一つ気にしていたのは、妹の星とその許嫁になっている刀梓のことだ。それが、戦が本格的に始まる前に婚姻の儀式を執り行うことが決まった。戦となれば刀梓も戦い、明日をも知れぬ命となる。その前に夫婦になる方が良いと、大歳たちは考えたのだろう。
戦支度の合間を縫った夜に、その儀式は行われた。若い二人は向かい合い、静かに夫婦としての誓いを立てる。儀式の後はささやかな宴となり、二人を祝う傍ら、皆で戦への英気を養うこととなった。あるいは、つかの間の安らぎだ。
妹が恥ずかしそうに刀梓に寄り添う姿を、輝日は遠くから見つめている。あんな風に、何の疑いもなく思い人に寄り添えることが、もう遠く思える。それを捨てて、戦うことを選んだ。
「申し上げます!」
宴の和やかさを破るような、とがった声が響く。
「何事か」
大歳が、立ち上がる。それまで談笑していた場が、静まりかえった。
「伊那へ続く山沿いの集落がいくつか、焼き討ちに遭っているそうにございます」
「何!」
今度はざわめきが起きる。焼き討ちとはただ事ではない。
「倭の軍によるものと思われます」
さらなる言葉に、たちまち場が凍り付く。それはつまり、すぐ近くまで倭軍が来ているという事だ。
「もうそこまで迫っているのか……」
誰のつぶやきかわからないが、皆同じ思いだ。大歳は表情こそ変わらないものの、両手は拳になっている。
「でも倭はなぜ、すぐに伊那には向かわずに、関係のない集落にそのようなことをしているのですか!」
昴は少し青ざめている。彼の予想を越えたやり方だったのだろう。
「……伊那へ恨みを向かわせるため」
輝日のつぶやきに、皆が振り返る。
「なんと、こうなったのも伊那が従わぬせいだと、そう思わせるということか!」
岸楠が叫び、一同が再びざわつく。何という、ひどいことをするのか。あの人が考えたことなのか。思えば以前、伊那に害なせば褒美が出るという妙な風評も流れた。あの人は否定したが、やっぱり策略だったのではないか。
「……倭の総大将なら、やるかも知れません。従ったはずの十河の衆長を、些細なことで首をはねたのです。伊那がそのような暴挙に従ういわれはありません」
輝日はいつしか立ち上がり、言葉を並べていた。自分のなかにあった、甘い感情が消えて行く。目的のためなら手段を選ばない、あの人はそういう人だ。ならばこちらも覚悟を決めて戦うだけだ。
「そうだ! 伊那は最後まで、倭には従わぬ!」
「強引な力に対しては、戦うまでだ!」
その場の若い男たちが叫びだし、周りは戸惑う。女たちは顔を伏せた。
「静まれい!」
場を落ち着かせたのは、やはり大歳だった。
「倭のやり方に怒りを覚えるのはようわかる。だが、その怒りのままに立っては相手の思うつぼだ。まずは頭を冷やし、倭がいつ、どのような形で攻めてくるのかを考える。同時に守りを固め、いつでも戦える用意をするのだ。よいな、決して、先走ってはならぬ」
さすがの落ち着き払った言葉に、すぐに静かになった。
「今宵はめでたい宴だ。せめて静かに夜を過ごそう」
そうだった、この場は祝いの宴だ。それなのにぶち壊してしまうところだった。そうさせたのは倭の、あの人の仕業だ。
輝日が顔を上げると、陽鷹と目が合う。陽鷹はいつもの笑顔ではなく、小さな子供を気遣うような目で、輝日を見ていた。
その夜は静かに更けていったが、翌朝には皆、戦支度を始めていた。
輝日もまた、大歳の許しを得て陣に連なった。放った物見からは、次々と知らせが入ってくる。倭の軍は驚くべき早さで伊那の国の境にまで来ているようだ。周辺のほとんどは倭の傘下だから、妨げもない。
たちまち、小競り合いから戦に発展した。大歳率いる本隊も、山の麓まで進軍した。
「倭の軍はおよそ二千との事にございます」
その数には驚くしかない。こちらの軍はかき集めても七百にも満たない。真正面から戦ったとしたら、大変なことになる。
「数の上では不利だが、倭の軍は山には不慣れ。山道に誘い込み、数をつぶす作戦しかなさそうだ」
大歳の策どおり、伊那の軍はあえて少数で倭の軍に挑み、一度引く形を取った。狙い通り倭の軍は山道まで進軍する。
「かかれ!」
山道の両脇から、潜んでいた兵が矢を浴びせ、石などを落とす。不意を付かれた倭軍の兵が次々と倒れる。
だがそれでも、倭の軍は進んできた。伊那の軍との衝突になる。輝日もまた剣を取って馬にまたがり、倭軍の兵と対峙する。
「無茶するなよ!」
輝日の近くにはいつも陽鷹が、時にかばうようについて来る。だが輝日は陽鷹のことを気に掛ける余裕もない。
なぜならば、目の前で次々と死んで行くからだ。剣を振るうと、倭の兵が血を吹いてその場に倒れる。それは輝日が初めて目の当たりにする、戦場の姿だ。だが斬らねば自分がやられる。再び倭軍と斬り合う、顔にまで、血しぶきが飛んでくる。乱暴に拭うと、頬がべたつく。
「容赦するな! 討ち取って己の手柄とせよ!」
聞き覚えのある声が飛ばす檄で、引き気味だった倭軍がまた勢いを盛り返してくる。声の主が、馬を駆けてやって来る。
「高市麻呂殿!」
思いも掛けぬ再会だった。それは向こうも同じなのか、輝日を見て一瞬動きを止める。
「輝日殿、まさか、戦場に立たれるまでとは!」
「私がこのような者であることはご存じのはず。そして私はもう、女ではありませぬ」
剣を構え直すと、高市麻呂もまた同じように構えてくる。
「あなたの覚悟はよくわかった。それほどまでならば、正々堂々とお相手いたす!」
高市麻呂はこのたびも、副将なのだろうか。それほどの者がここまで来ているとなると、攻め込まれているのは明白だ。一騎打ちになるとは思っていなかったが、討ち果たせれば形成を逆転できる。
「高市麻呂様、ここは我らにお任せを!」
高市麻呂の後ろを守るのは、歴戦の大将とおぼしき武者たちだ。だが高市麻呂はその者たちを制す。
「かまわぬ、このお人は特別だ。皆はこの間に撃って出よ!」
言うなり高市麻呂は馬を駆る。輝日も同じようにして、二人の剣が激しい音を立てて交わる。やはりこの男の腕前は本物だ。そして輝日を、一人の武者として向き合っている。いっそ清々しいほどだ。
他の武者たちが、四方に散って伊那の兵をなぎ倒して行く。それに立ちはだかる刀梓と、そして陽鷹。多くの者が血を流し、倒れている。
「これが戦だ、輝日殿」
輝日の狼狽を察したのか、高市麻呂がつぶやく。彼の表情もまた、苦悶に満ちている。一瞬離れたかと思うと、高市麻呂が振りかぶってくる。不意を付かれた輝日は馬から落ちてしまう。高市麻呂もまた下馬して追ってくるが、すかさず現れた影があった。
「また貴様か!」
高市麻呂の剣を受けたのは、陽鷹だ。
「俺で悪いか。輝日には指一本触れさせねえ」
今度は陽鷹と高市麻呂の一騎打ちになる。輝日は落馬の衝撃が残り、うまく立てない。刀梓がかばうように輝日の側にいる。伊那の兵の数が、かなり減っていた。
「長姫様、ここは引かねばなりますまい!」
伊那のみならず、倭の兵も多く倒れている。陽鷹と切り結んでいた高市麻呂が、陽鷹から離れて叫ぶ。
「引け、引けえ!」
その声に合わせ、倭の兵が引いて行く。すでにお互い、充分打撃を受けている。
「大丈夫か、輝日!」
陽鷹がすぐに駆け寄ってくる。輝日はしかしその手を取らず、立ち上がる。
「大丈夫、ありがとう。でも、この状況は……」
死体ばかりではなく、負傷してうめく者もおびただしい。これが、戦の正体だ。陽鷹も刀梓も、何も言えずにいる。
「とにかく、けが人を運びましょう。急いで手当をしないと」
自分を叱るように、輝日は言った。
伊那の陣では、負傷者が入りきらないほどになっていた、志濃や星をはじめとする女たちが、必死で水や食事を与えたり、手当を続けている。輝日もまたそれに混じり、前線に出してもらえなかった昴も手伝っている。
「姉上、この戦は我々に不利なのですか」
未だ戦いに出られない昴は、もどかしげに尋ねる。
「……倭はもうすぐ、総大将が直々にやってくるでしょう。そうなるとどんな策を取られるか、わからない」
輝日は今になって、その恐ろしさを感じていた。手段を選ばぬ彼のことだ。皆殺しにされるかも知れないと。
「でも、なんとしても民たちは守らなければ。そのためだったら僕も戦いたい」
これがあの、毎日のように熱を出していた弟だろうか。まだ体は細く、力も強いわけではない。だが声には張りがあり、顔色も良い。
「輝日、昴」
呼びかけたのは、陽鷹だった。ちょっと戸惑いのある表情だ。
「親父さんから、二人を連れてきてくれって頼まれた」
それで困惑しているのかと、輝日はふとおかしくなる。いつの間にか陽鷹は、大歳からも信頼を得ているらしい。
「わかりました。姉上、行きましょう」
昴の方は、屈託がない。本当に陽鷹を兄のように思っているのだ。思えば男兄弟もおらず、父は虚弱だった彼にとっては偉大すぎた。陽鷹と接することで、男としての生き方が見えてきているのかも知れない。
陽鷹に付いて大歳の元へ行くと、大歳は地図をにらみつけていた。
「おお、来たか」
三人を見て相好を崩すが、直前の厳しい目つきの方が気になる。
「座ってくれ。陽鷹殿も」
三人は言われるままに座り込む。輝日は大歳の隣に、昴が大歳と向かい合い、陽鷹は昴の隣に座った。
「これから、大事な話をする。伊那の皆を生き残らせるための策だ」
大歳が、先程の目つきに戻る。昴は一瞬ひるんだようだ。輝日は背筋を伸ばす。
「戦は正直、我らに分が悪い。このままではおそらくここまで攻められるだろう」
潜めた声で大歳は言い、地図の真ん中を指す。それは伊那の中心、輝日たち住まう館がある所だ。
「すでに戦を止めることは難しいが、民たちをこのまま死なせるわけにはかぬ。特に年寄り、女、子供は」
「父上……?」
昴が、父の顔を見る。大歳はじっと昴を見据えていたが、やがて口を開く。
「昴よ、お前に大事な役を与える。お前は明日の夜明けと共に、岸楠、刀梓、そして陽鷹殿と共に戦に関係ない民を、この山奥の館まで逃がすのだ」
「え……」
昴は明らかに、落胆した表情だ。
「父上、私はやはり、戦の場では足手まといなのですか」
「そうではない」
昴の悲しげな問いかけを、大歳は叱るように否定する。
「前線で戦うばかりが戦ではない。お前はわしの跡を継ぐ身。それはすなわち、わしがいない時はお前が伊那の民を守らねばならぬ。それは剣を振るって戦うことよりよほど難しい。だが昴よ、お前ならばできる。お前は確かに体が弱く、武芸の鍛錬も満足にできずにいたが、その分誰よりも伊那の男としての誇りと、心根の強さを持っている」
大歳はやはり、わかっている。昴の本当の強さを。そして最も大事な役割を、跡を継ぐべき息子へ託すのだ。
「伊那の民の命が、お前のこの肩にかかるのだ。それがどれほど重要なことか、お前ならばわかるだろう」
大歳は息子の華奢な両肩に手を置く。昴はじっと、父を見上げている。
「民たちを避難させるだけではない。万が一敵が迫ってくれば、また安全な所へ逃がし、あるいは敵と切り結ばねばならぬ。大変な役割だが、お前にしか任せられぬ。頼む」
昴は、涙を浮かべていた。
「父上……すみませんでした。私は、前線に出ることばかり考えていました。でも、私は私のできることをやらねばならないのですね」
「そうだ。やってくれるな」
昴は大きくうなずく。
「はい、誰一人欠けることなく、安全な所へ連れて行きます。でも父上はどうされるのですか」
「わしは倭の軍と再度戦う。それが衆長としての和紙の役目だ。陽鷹殿」
ふいに呼ばれたからか、陽鷹が瞬きをする。
「はい」
「昴のこと、なにとぞ頼む。そなたが付いていてくれれば、昴も心強かろう。頼む」
「親父さん……」
陽鷹はまだ、戸惑っている。前線に出るつもりだったのだろうか。
「わかりました、任せて下さい」
陽鷹は大歳と、がっちりと手を携える。輝日はどこかほっとするような思いで、二人を見る。
「少し、輝日とも話をしたい」
一息入れるように、大歳が言う。昴が「わかりました」と言って、陽鷹をうながす。陽鷹は一度だけ輝日を見て、昴に付いて出て行った。
「……さて、お前はどうする」
聞かれるとは思っていたが、答えは用意していなかった。
「お前を倭へ行かせたことは、やはり後悔しておる。わしの見たところ、お前は倭に対しわだかまりを持っているのだろう」
「わだかまり……」
父は、ある程度察しているのかも知れない。輝日が何も言えずにいると、父は言葉を続ける。
「ここまで来てしまえば、そのわだかまりは戦うことでしか消せぬだろう。それで戦うということでも、わしはかまわぬ。お前の思うとおりにすればよい」
輝日も、自分の中にあるわだかまりには気付いている。いやわだかまりという言葉だけでは片づけられない思いがまだ、志計史麻呂にはある。もう戦うことでしか、向き合うことはできない。
「父上、私をお供に加えて下さい。私は戦いたい。お願いします」
もしかすると、命を落とすかも知れない。そしてやはり、あの人と対峙するのが怖い。でも、逃げたくはない。
「……わかった。お前はわしについて、進軍に加われ。ただ……」
ふいに大歳が、輝日から視線を外す。見ているのは陽鷹が去って行った方向だ。
「お前も、悔いを残さぬ方がよい。今宵はあの男と、ゆっくり語り合って参れ」
「え、父上?」
いきなりの言葉に、輝日は面食らう。
「あの男って……」
「皆まで言わすな。ほれ」
やはり陽鷹のことを言っている。
「父上、私は陽鷹殿とそんな間柄ではありません。そんなお気遣いは必要ありません」
「そう申すな。いずれにしても世話になっているのだから、礼の一つでも言って参れ。話をするだけでも、少しは気持ちが落ち着くだろう」
などと言いながら、大歳はしかめっ面だ。この緊張した戦の前夜に、父とこんな話になるとは思わなかった。
「わかりました……では、すこしだけ……」
輝日はそれだけ言って、その場を去る。少し歩くと、陽鷹が一人、夜空を見上げていた。
「話、終わったのか」
振り返った陽鷹は、いつもの笑顔を見せる。
「……私は、父上に付いて戦いに出ます。だから、昴のこと、お願いします」
輝日は陽鷹に向かい、頭を下げる。
「……やっぱり、そうすると思ったよ。でも、いいのか」
陽鷹が真顔になって、近づいてくる。
「いいのかって……何が」
「あいつと、戦うことになるだろう」
まさか陽鷹がこれほど正面切って尋ねてくるとは、思っていなかった。
「……正直、怖いけど、やっぱり私はあの人を許すことができない。このままでいることもできない。だから、戦う」
輝日も本音を口にする。あの夜以来、志計史麻呂とは顔を合わせることもなかった。彼が今、何を思っているかなどわからない。輝日のことなど、もう忘れているかも知れない。
だけど輝日はそうたやすく忘れることはできない。初めて思いを寄せた人。認めたくないけれど、やはりそうなのだ。だからこそ、受けた仕打ちが許せない。
「お前……死ぬなよ」
陽鷹はいつしか、輝日のすぐ目の前に立っている。今までも、彼の顔がすぐ近くに来たことは何度もあった。けれど今はそのことに動揺し、そして胸がざわめいている。
「わかってる。あなたこそ、命を粗末にしないで。昴を守って欲しいのは本当だけど、そのために――」
いきなりだった。止めようがなかった。陽鷹が、輝日の体を抱き寄せ、そして唇が重なる。抱きすくめられたまま、輝日は陽鷹の唇が温かいことに気付く。すると陽鷹がそっと顔を離した。
「この戦が終わって、お互い生きてたら、俺と一緒になってくれ」
陽鷹は、まだ真顔だ。唇に、彼の温かさが残っている気がする。輝日が何も言えずにいると、陽鷹は輝日の体を離す。
「……ごめん、調子に乗った……」
陽鷹は顔をそらす。彼の中で、輝日にそういう触れ方をしないことが一つの線引きだったのだろう。
「……ごめんなさい、今はまだ、何も答えられない……」
他に、答える言葉が出てこなかった。彼を受け入れることは簡単で、彼を喜ばせることでもあるだけど、それがどうしてもできない。彼の好意に、ぬけぬけと甘えているようにすら感じるからだ。ここまできて、まだ彼にこんな仕打ちをする自分が、嫌だった。
「相変わらず、きついなあ。じゃあ、もう少し考えておいてくれよ。いい返事、待ってるからさ」
陽鷹はいつの間にか、いつもの少年の笑顔に戻っていた。
「昴のことは、心配するな。あいつはもう立派な一人の男だ。お前は、お前のことを考えろよ」
「……ありがとう」
陽鷹はいつもよりさらに明るい声で言いながら、去って行く。追いかけ、抱きつけばすぐに腕の中に入れてくれるだろう。だが、それはどうしてもできなかった。
思い出してしまったのだ。志計史麻呂の、冷たかった唇を。あんな形ではなく、優しかったあの時のあの人ならばどんなに良かったかと、思ってしまった。自分でも信じられない、未練だ。
だからこそ、戦わねばならない。自分の中の未練を断ち切るためにも。そして戦が終われば、また一人で歩き出せばいい。私はもう、女として生きることはないのだから。
髪を結んでいた、紫の布をほどく。そしてもう一度、きつく結び直した。
十二章
山道はうねり、曲がりくねっている。その中を年老いた者と女と子供、そして幾人かの武者がそれらを守って歩き続けていた。
「みんな、もう少しの辛抱だ! あと少し行けば、戦の火の手も届かない」
昴は声を張り上げ、皆をうながす。昴の体の弱さを知る伊那の民たちは、嘘のように頼もしい彼に驚き、そして心配そうに見つめている。
「若様、どうかお休み下さい」
「若様のお体に、何かあったら」
そう声を掛けてくる者もいる。昴はそれに対し、微笑みさえ見せて答える。
「私のことなど気にするな。体はもう、すっかり元気なのだから」
本当は、以前のように途中で高熱を発しないかという不安もある。だが昴は自分の体を信じることにしたのだ。陽鷹も、そう言ってくれたのだから。
「お前が自信を持ってやれば、絶対に大丈夫だ」
背中を押されたような気がした。何としても、皆を無事に避難させねばならない。その役目を与えられ、昴はようやく自分を疎む気持ちが消えた。
父と姉は、昴たちが発ったとのと時を同じくして、残った軍を率いて伊那の中心地へ発った。そこには倭の軍が攻めてくるはずだ。また無事に会えるのか、それすらわからない。
「昴、大丈夫ですか」
母の志濃が、声を掛けてくる。
「はい。何の心配もありません」
「そう。あとは長さまと、輝日殿が無事に戻れば……」
志濃は、輝日が最前線へ行くと聞いて強く反対した。なぜ女の身で、そんなことをするのかと。だが輝日の意志は固かった。
「母上には、昴と星を守って欲しいのです。わがままばかり言って申し訳ありません。私は母上がいらして、本当にありがたかった。私を本当の娘として育てて下さった。何も恩返しができないのが辛いけど……」
「輝日殿……」
母は、止めようのないものを感じたのだろう。ふいに、輝日を抱きしめた。
「必ず、戻ってきて下さいよ。私を本当の母と思ってくれるなら、生きて戻ってくるのが恩返しです」
「母上……」
こんな母と姉の姿を、昴は初めて見た。二人は継母と継子という間柄で、やはりどこか気を遣っていたのではないかと思っていた。だけどお互い、大事に思っていたのは確かだ。そうして発っていった父と姉を、母はいつまでも見送り続けていた。
「昴」
次に呼びかけたのは、妹の星だった。さっきまで夫の刀梓と共に歩いていたはずだ。
「刀梓を、前線に行かせてあげたいの。彼はずっと、父上と姉様に付いていたから、きっと一緒に戦いたいはず」
「星……」
驚いた。これまでの星だったら、夫には自分の側にいて欲しいと思うはずだ。なのに、結ばれたばかりの男を、戦場へ返すという。
「本当にいいのか、前線は、おそらくすさまじい戦いになる。生きて戻れるか……」
言ってしまって昴は、自分の言葉の残酷さに気付く。だが星は首を横に振る。
「それは、私だって刀梓と一緒にいたい。でも、それは私のわがままだから……無事に到着したら、その足で行かせてあげて」
こぼれる涙を拭いながら、星は懇願する。昴は同い年の妹の手を握る。
「わかった。絶対に生きて帰ってこいと、お前から言うんだ」
「ええ」
本当は刀梓のような武者を前線へ返すのは、こちらの守りの上では不安だ。だが、最後の決戦になるかも知れないという予感が昴にもある。生きて帰って来るのを願うしかない。
やがて、大歳が指示をした場所へ到着することができた。疲れ切った民たちを休ませながら、昴は次の段階を考える。
「どうにか来られたな」
陽鷹も、ほっとしているようだった。昴は陽鷹に向き合う。
「何だよ、改まって」
「陽鷹殿、ここは僕が命を懸けて守ります。だからどうか、姉上の側に行って下さい」
「昴……」
それが、彼の本当の願いのはずだ。ずっとずっと、輝日を思いここまで来てくれた。そしていずれ姉と、一緒になって欲しいというのが昴の願いだった。
「姉上を守れるのは、陽鷹殿しかいません。よくわからないのだけど、姉上は何かを恐れ、それを払拭するために戦うことを選んだ気がするんです。お願いします、姉上を、助けて下さい!」
倭の都から戻ってきた輝日は、変わってしまったように昴には見えた。以前のような明るさがなく、切羽詰まったような目をしている。倭で何があったのか、おそらく陽鷹は知っているのだろう。だからこそ、姉を守って欲しいのだ。
「……お前にまで、見透かされてたぁ、恥ずかしいぜ」
わざとふざけた言い方をして、陽鷹は笑う。
「あいつを、守りたいんだ。俺の手で。あいつから笑顔を奪った野郎を、俺はどうしても許せない。そいつに一太刀浴びせてやりたいんだ、本当は」
「だったら!」
「でもな、あいつの心は別にあるんだよ」
陽鷹が口にしたのは、昴が全く想像もしていなかったことだった。姉の心が、別にある。
「あいつの心は、俺にはない。あいつだって困ってるんだろうけど、あいつは好きな男と戦おうとしてるんだ」
「え……」
陽鷹の言うことはまたも、昴の想像の上を行っていた。それはつまり、姉の心は倭の男にある。その男とは、つまり――。
「俺はもう、どうしたらいいかわからない。どうやったらあいつを助けてやれるのか、もうわからないんだ」
陽鷹の横顔が、弱々しく曇っている。こんな顔を昴は初めて見た。
「……そんなこと、どうでもいいじゃないですか!」
大声が出て、自分でも驚く。陽鷹も驚いたように振り返る。
「陽鷹殿は姉上を思ってくれているんですよね、だったらそれでいいじゃないですか! 僕は姉上の苦しみを、何もわかっていないんだと思う。けれど、そんな姉上を救えるのも、陽鷹殿しかいないんだと思うんです!」
姉の心があるのは、倭の総大将なのだろう。二人の間に何があったのか、昴にはまるでわからない。第一その男がどんな人間なのかすら知らない。
だけど、陽鷹はその姉の苦しみも、倭の総大将のことも知っている。そして姉を思っている。そんな陽鷹以外に、姉を苦しみから解放できる人間などいるだろうか。
「だから、姉上の所へ行って下さい! そんな弱音なんて、陽鷹殿らしくない」
何がどうあっても、昴は陽鷹に姉を託すと決めた。少なくとも、姉は陽鷹を嫌っていない。むしろ、親しみを持っている。ならば陽鷹に救われることで、さらなる思いを抱くこともあるかも知れない。もう昴には、他に姉を救う道が思いつかなかった。
「……昴」
「お願いします、陽鷹殿!」
昴は陽鷹の手を取り、強く握る。陽鷹が、顔を上げる。
「わかったよ。行かせてもらう」
陽鷹の言葉に、昴はただうなずく。そして陽鷹はそのまま走り出す。祈る思いで、その背中を見送る。これでいい。あとは、自分がここを守り抜き、前線へ行ったものが無事に戻ってくるだけだ。
夏のはじめの強い日差しが、山の麓の伊那の陣まで貫いてくる。さらなる激しい戦いを思い、輝日は流れる汗を拭く余裕もない。
倭の軍は、悠々と迫ってきた。それは志計史麻呂の余裕の証のようだ。
そして昼になる前、ついに両軍は激突した。輝日は馬を駆り、敵前へ向かう。次から次へ現れる倭の兵を、時にはかわし時には斬る。斬ることにはためらいがあるが、勢いに任せ斬ってしまう。戦の恐ろしさを、改めて感じていた。
だがまだ日が高いうちに、すでに形勢が見えてきていた。伊那の軍は押されている。何人斬っただろう。輝日を守るように付いている武者たちも、すでに顔まで血みどろだ。
「長姫様、やはり押されております」
「わかってる。でも、まだ……」
輝日が向かおうとしたときだった。
「長姫さまーっ、撤退して下さい! 衆長の命にございます!」
突然、大歳に付いていた武者が馬で駆けてきて、輝日に怒鳴る。
「撤退? 父上がどうして」
「衆長が、負傷されました!」
「何ですって!」
大歳が、敵に斬られたのか。輝日は信じられない思いだ。
「どうかお引き下さい。衆長も引いておられます」
輝日は言われるまま、敵に背を向けて馬を駆ける。父の怪我の具合が気になる。
「父上!」
麓の陣まで戻った輝日は、下馬するのももどかしく大歳の元へ駆けつける。
「父上!」
大歳は、付き従う武者たちに手当を受けていた。右の二の腕と左のわき腹、そして左足が真っ赤に染まっている。
「慌てるな……大した傷ではない」
意識ははっきりしているようだ。だが手当をされるたびに苦悶の表情を浮かべる。この傷では、戦うどころか山の奥まで逃げることも難しいのではないか。
「父上、どうしてこのような」
「数人に囲まれてな。油断しておった。わしももう年ということか。どの傷もさほど深くはないが、このままではどうにもならぬゆえ、昴の元へ引き上げる。お前も早うせい」
声が、弱々しい。致命傷にならぬ程度の傷で、徐々に力を奪うということなのか。やはりあの人が率いる倭の軍は、やることがひどい。
「……父上は、皆を連れて撤退して下さい。私は、倭の軍を引きつけます」
言うなり輝日は立ち上がり、駆け出す。やはり直接、あの人と戦わねばならない。父にこのような傷を負わせた、あの人が率いる軍が許せない。
「待てっ、輝日! その必要はない!」
そこで大歳は再び苦悶のうめきを上げる。輝日は一瞬振り返ったが、駆け出した。
「誰か、輝日を止めよ! ……止めるのだ!」
父の声が、苦しげに響いていた。
輝日は再び馬を駆り、先程の道を戻って行く。いつの間にか倭の軍も少なくなっている。伊那の軍が引いているのをわかっているのだ。
追っ手がどれほど来るのか。一人でくい止めるのは不可能だ。だけど、たとえ切り刻まれてもかまわないとまで思っていた。
「止まれ! 止まらんと矢を射るぞ!」
倭の兵だろうか。このまま走りかき回してやる。だがたちまち囲まれ、馬が驚いて暴れ出す。そのまま輝日は地面にたたきつけられた。
「捕らえよ!」
「待て、女だぞ!」
倭の兵たちが騒ぎ出す。輝日は体の痛みを飛ばすつもりで剣を抜く。一瞬ひるんだ兵たちに、剣を突きつける。
「総大将を呼びなさい! 私は伊那の衆長の娘。狼藉を働くなら、この場で斬って捨てます!」
しかしそんな言葉を聞く兵たちではない。一斉に輝日に襲いかかる。輝日は剣を一閃させ、それをしのぐ。兵たちは思いがけない抵抗にまたひるむ。
「待て!」
現れたのは、やはり高市麻呂だった。
「輝日殿、何のおつもりか! 戦はもはや伊那の負け。潔く我らに下られよ」
「まだ終わってはおりません! 志計史麻呂様はどこです」
輝日の問いに、高市麻呂は剣を抜き掛けた手を止める。
「兄上に、お会いになるのか!」
高市麻呂とて、あの夜に居合わせた一人だ。だからこそ、輝日が志計史麻呂の名を出したことが意外だったのだろう。
「戦は総大将を撃てば良い。私が志計史麻呂を討つ」
「何を言われる。そんなことをさせるわけには行かない」
高市麻呂は剣を抜く。あたりが異様に静まりかえっている。
「かまわぬ。私が戦を終わらせてやろう」
その声に、やはり胸が締め付けられる。いや、負けてはならない。
「伊那の輝日、やはり来たか」
初めて会った時と同じ、黒光りの甲冑に身を包んだ志計史麻呂が、剣を片手に悠然と立っている。そしてそこに、あの澄んだ沈香の香りはしない。
「なぜわからぬ。そなたがそのようにすればするほど、伊那は滅びの道をたどるのだ」
「いいえ、あなたは伊那を完全に滅ぼすつもりはありません。ただ倭に従えさえすればいいはず。だからこそこうして、私はあなたを討ちに来た」
輝日の答えに、志計史麻呂はふっと笑う。なぜかそれは、ひどく寂しげに見える。
「……私を討つとは、愚かなことだ。だがそれほど言うならば、そなたの望み通り、相手になろう。高市麻呂、下がっておれ」
言われるまま高市麻呂は剣を収め、そして志計史麻呂はゆっくりと剣を構えて輝日を見る。その時初めて輝日は、恐ろしさを感じた。一瞬で殺されてしまうのではないかと。
いや、この人へのわだかまりは、こうでもしないと残り続ける。震えを押さえるように、剣を構える。
輝日から、飛びかかって斬り付ける。だがわずかによけられる。志計史麻呂の剣をどうにか受けるが、力の差は明らかで押し込まれて行く。たまらず横へよけると、追うように相手の切っ先が飛んでくる。
「うっ」
痛みが走り顔を押さえる。赤い血が付き頬のあたりを切ったのだと知る。だがこれくらいで怯むわけにはいかない。すぐに志計史麻呂の剣が追いかけてきて、輝日は転がるようによける。何とか立ち上がり構えるが、息が乱れる。志計史麻呂が振りかぶってきて、落ちてきた剣を剣で受け止める。鋭い金属音が響き、そしてぎりぎりと、輝日の剣が削られる音が聞こえる。
「やはりそなたは、美しい」
あまりにこの場に不似合いな言葉が、輝日を慄然とさせる。そのとたんふっと剣が軽くなり、輝日の体が傾く。そして一瞬、左腕が燃えた。
「……あっ……」
二の腕から、血が流れ出る。燃えたと思ったのは、斬られたときの痛みだ。そしてそこだけが別の生き物のように、どくどくとしている。
「私に従うのだ、輝日」
志計史麻呂が、切っ先を向けている。刃には輝日の血が付いている。嫌だ、このまま死ぬのは……。
輝日は痛みを振り切るように地面を蹴り、右手に持った剣を振り抜く。ほんの一瞬の隙だった。
「兄上っ!」
高市麻呂の叫びが響き、志計史麻呂がわずかに顔をゆがませる。左の肘のあたりを斬ったはずだ。だが、それを気にする様子はなく、剣を持ち替える。
左腕の痛みが、増してくる。さっきの一撃が限界か。志計史麻呂の剣をよけるが、側の太い木に追い込まれる。木に背中が打ち付けられ、顔の横に伸びてきたのは切っ先ではなく、志計史麻呂の腕だった。
「……これで終わりだ」
志計史麻呂の燃えるような目が、すぐ側にある。右の掌を幹に押しつけ、輝日を囲い込むようにしている。輝日は立っているのがやっとだ。左腕が、痛い。
「待てぇっ!」
その声を聞いた瞬間、輝日は体の力が抜けその場に崩れ落ちる。
「貴様っ、性懲りもなく!」
高市麻呂が色をなす。陽鷹が、剣を抜き息を切らしている。志計史麻呂が輝日から離れ、無言のまま陽鷹に向き合う。
「てめえ、これ以上輝日を傷つけるような真似するなら、俺がお前を殺してやる!」
陽鷹の声は怒りに満ちている。逆に志計史麻呂は無表情で陽鷹を見ている。高市麻呂が前に出ようとするのを手で制し、志計史麻呂は剣を構え直す。陽鷹も剣を構える。
「……待って……やめて……」
輝日は止めねばと思うが、体が動かない。陽鷹が先に、志計史麻呂に斬りかかる。志計史麻呂はそれを軽くかわす。剣が何度も当たり、なかなか勝負が付かない。しかし輝日は、少しずつ陽鷹が自分へ近づいてきていることに気付く。そして志計史麻呂の剣をよけた瞬間、姿が消えた。
「なに!」
志計史麻呂がさすがに声を上げる。輝日もはっとして辺りを探すが、いきなり手首をつかまれて引き上げられる。
「行くぞ!」
陽鷹が、笑っている。あの少年の笑顔で。輝日は自分の力で立つ。陽鷹が先に行けと言うように、輝日の手を前に引っ張り出す。輝日はそのまま走り出す。「待て!」と志計史麻呂の声が響く。思わず振り返ると、二人は共に剣を突き出していた。
「やめて!」
二人の影が、交差した。志計史麻呂の剣が、陽鷹の腹を貫いている。
「――陽鷹!」
陽鷹が、ゆっくりと倒れ込む。だが陽鷹だけでなく、志計史麻呂も片膝を突いてくずおれる。
「兄上!」
高市麻呂が悲鳴を上げる。志計史麻呂は右腕を押さえている。そこからはおびただしい血が流れているが、まだ剣を構えている。輝日は陽鷹の元へ駆け寄り、抱え込んだ。
「どけ!」
「お願い、やめて!」
同時に声を上げていた。志計史麻呂は、先程と同じ燃えるような目で輝日と、輝日が抱え込んだ陽鷹をにらんでいる。その間を、高市麻呂が割り込んで来た。
「兄上、ここは引きましょう! 向こうはそうは保ちませぬ。まずは傷の手当てを!」
高市麻呂は珍しく、有無を言わせず兄を抱え込む。志計史麻呂はそれに抵抗する様子もなく、しかし眼差しはそのまま輝日を見据えていた。
「……ちっくしょう……ここまでぶっ刺されるとはな……」
陽鷹の声は、すでに弱り切っている。輝日は怖くなって陽鷹をきつく抱き締める。志計史麻呂が、高市麻呂に引きずられるようにして去って行く。歩くたび、腕から流れる血が地面にぽたりと落ちている。なぜ、どうしてこんなことになったのか。輝日は震えが止まらない。
「……お前、傷、大丈夫か……」
こんなになってまで、気遣ってくれるのか。輝日は陽鷹が、逆に憎らしいほどになる。
「あなたこそ、こんなひどい……」
でも、どうすることもできない。ただ失われて行く彼の体温を留めたくて、抱き締め続ける。誰か、助けて……。
「長姫様ーっ!」
あの声は、刀梓だ。昴に付いていたはずなのに、戻ってきたのか、
「刀梓、ここよ! 陽鷹を、陽鷹を助けて!」
駆けつけた刀梓は、陽鷹の重篤さを見て動きが止まる。さらに輝日も負傷していることに気づく。
「これは、いったい?」
「陽鷹を、陽鷹を急いで連れて戻って! このままでは死んでしまう!」
「は、はっ!」
刀梓は慌てて陽鷹を背負おうとする。しかし陽鷹の手は、輝日の手を離れない。
「陽鷹……」
「行こう」
もはや声にならない声で、陽鷹は言う。輝日は背負い上げられる陽鷹に付くように、立ち上がった。
輝日は刀梓と共に、深手の陽鷹をかばいながらようやく、昴の待つ山の中腹まで戻った。そこにはすでに大歳も戻っていて、傷の手当てを受けどうにか落ち着いていた。
大歳が負傷して戻った時点で、皆は敗戦を悟っていた。そしてそれは、輝日の負傷と陽鷹の重篤な姿を見て決定的になった。
「まさか陽鷹殿をこれほどの目に遭わせるとは……」
大歳にも、後悔の色がにじむ。昴もまた、陽鷹の姿に衝撃を受けていた。
「僕が、僕が姉上を助けてくれと言ったばかりに……」
涙をこらえきれずにいる昴に、陽鷹は弱々しく微笑むだけだった。
輝日もまた、腕の傷は思っていたより深く、手当を受けてもまだ痛みが引かない。だがそんなことはどうでも良かった。自分のせいで重篤な傷を負った陽鷹の側から、離れることができなかった。昴と共に、何とか彼の命をつなぎ止めようと必死だった。
だが陽鷹の息はあっという間に弱っていった。陽鷹自身、すでに落ち着き払っている。輝日は罪悪感にさいなまれながら、陽鷹の汗を拭う。いつしか昴はその場におらず、二人だけになっていた。
「ごめんなさい……私のせいで……」
こんな事になったのは、自分のせいだ。陽鷹が自分のために、戻ってきてくれるだろうとどこかでわかっていた上で、志計史麻呂に戦いを挑みに行ってしまった。陽鷹が来れば、二人の一騎打ちになることも、わかっていた。わかっていて、避けなかったのだ。
「……抱いてくれ……」
陽鷹の、かすれた声が聞こえた。そして身を起こそうとする。
「だめ! 動いたりしたら!」
「もう、いい。それより、お前に抱いて欲しい……」
陽鷹が、輝日にもたれ掛かってくる。輝日は何も言えず、ただその体を受け止める。その体つきは、どこか志計史麻呂と似ているような気がする。こんな時まで、彼にこんな傷を与えた志計史麻呂の事を考えてしまう自分が、本当に情けない。
「……あの野郎、あいつも、お前に惚れてるくせに、お前に怪我させやがって……」
陽鷹の掌が、輝日の頬の傷に伸びる。今、何て言ったの。あいつもお前に惚れてるくせにって……。
「……俺だったら、こんな事しねえぞ……好きな女の顔に、傷なんか……」
「こ、こんなの、傷のうちに入らない」
自分の答えが、馬鹿みたいだ。
「……泣くなよ……」
見れば、陽鷹はいつもと同じ、少年のような微笑みだ。どうして涙が出るのかわからないまま、頬の傷にしみて痛む。
「お前のせいじゃない……お前だって、嘘付けないもんな……だから……今だけ抱いてくれたら……」
陽鷹はまるで甘えるように、輝日の胸に顔を埋めてくる。本当に小さな子供に戻ってしまったかのように。輝日はたまらなくなって、陽鷹を強く抱きしめる。嘘でも彼を受け入れていたら、こんな事にならなかったのだろうか。自分の体の温もり全てを、彼に与えれば命をつなぎ止められるだろうか。どうしようもない後悔と、詮無き願いばかり繰り返す。
「俺は……お前が好きだ……だから……なんにも後悔してない……だから、泣かないでくれよ……」
「もうやめて! 私なんかのために……もうやめて……お願い……死なないで……」
こんな時になっても、彼の思いに応えられない。でも陽鷹は失いたくない、大切な人だ。その大切な人をこんな目に遭わせたのは、私だ。
「行かないで、陽鷹……」
ぎゅっと、陽鷹の頭を抱え込む。すると陽鷹はそれをそっと外すように、輝日を見た。
「お前は……死ぬなよ……お前のために生きろ……ずっと見ててやるから……お前が……好き……だから……」
再び陽鷹の手が、頬に伸びる。だけどそれは届かず、落ちるのを必死で輝日は取る。握りしめても、陽鷹の手は動かない。
「陽鷹……陽鷹……」
呼びかけても、陽鷹は輝日の胸の中で一息付いたような表情をしている。目は開くことなく、何一つ言わない。急に彼の体の重みを感じ、輝日は動けなくなる。
「陽鷹……どうして……」
陽鷹を抱きしめたまま、輝日は涙が止まらなくなる。私が、殺したのと同じだ。私のせいで、彼はこんな目に……。冷たくなっていく陽鷹の体を、強く抱きしめ続ける。とうとう思いに応えられなかった、その後悔のように。
十三章
おびただしい、弔いの数だ。
倭との戦で命を落とした者たちを、皆で地中に埋葬した。短い戦いの間に失われた命の数に、誰しもが愕然としている。
そして陽鷹もまた、この伊那の地に葬られた。皆は伊那のために、輝日のために力を尽くしてくれた彼の死を嘆き、悼んだ。
輝日は、陽鷹にもらった紫の布を、髪から外して自分の左腕の傷に巻いた。彼の思いに応えられなかった悔恨と、二度と誰にも思いを寄せないという、戒めのためだ。そして自分にはまだ、やることがある。
弔いが済んだその日のうちに、大歳が皆を集めた。まだ負傷の影響で立っているのがやっとだが、衆長としての決断を皆に伝えるためだった。そして集まった民たちは女と子供、そして高齢の者が多い。
「皆には、つらい思いをさせてすまぬ。多くの命が奪われ、もはやこれ以上、戦いを続けることはできぬ」
切り出した言葉だけで、倭へ降ることを示していた。早くもすすり泣く声が上がる。
「伊那の誇りは、充分示せた。だがそのために大きな犠牲を生み、失ったものもあまりに多い。さらなる犠牲を払うことは、ただ愚かな行いだと思う」
大歳は精一杯声を張り上げているが、やはりまだ辛そうだ。輝日は皆が居並ぶ最後列に立ち、眺める。
もう、戦うことはできない。元々ぎりぎりで戦ってきた伊那だが、とっくに限界に来ている。輝日もまた、残る力などない。
「とても辛いことだが、我らは倭の軍門に降ることした」
その言葉で、皆が一斉に泣き、あるいは苦悶の息を付き、その場にくずおれる。輝日もうずくまって泣きたいが、できない。するわけにはいかないと、自分に言い聞かせる。
「たとえ倭の支配を受けることになろうとも、我らが伊那の民であることは変わりはない。皆の命は、衆長である私が責任を持って守ることを、約束する」
それだけはという思いが、大歳の言葉の強さにこもっている。さらに泣き声が大きくなる。皆がこれほどまで伊那の民としての思いが強かったのだと、輝日は感動し、そして申し訳ない思いになる。皆のために、何もできなかったと。
「明日にも倭の軍に、幸福の使者を遣わす。岸楠よ、最後まで面倒を掛けるが、ひとまず明日、倭の陣へ行ってくれるか」
大歳がその役目に選んだのは、やはり古くから信頼を置いている岸楠だった。岸楠が返事をしながら立ち上がろうとする。
「お待ちください」
輝日は、勝手に口が動いているかのように父を呼んだ。皆が一斉に、振り返る。
「そのお役目、私にさせて下さい」
皆が、不安そうに見ているのがわかる。倭の都に行きながら、事態を好転させるどころか、結局戦を招くことになったのだ。もしかすると、そのまま倭になびいてしまうのでは、と思われているかも知れない。
「長姫様が、そのようなことをなさる必要はありませぬ」
命じられた岸楠は疑っているというよりは、むしろ輝日を心配しているかのようだ。
「いいえ、私は、このような事態を招いた責任があります。それに……せっかく倭の都まで乗り込んでおきながら、何の成果も出せなかった……だからせめて、最後は皆のために……」
悔しさがにじみ、言葉が続かなくなる。
――そなたが招いた、戦だ。
また、志計史麻呂の言葉がよみがえる。そう、私が招いた戦だからこそ……。
「いや、長姫様は女人の身ながら、戦の最前線に立たれ戦われた。皆を守るために。それだけで、もう充分ではありませぬか」
岸楠の言葉に、多くの者がうなずく。輝日にとってそれは、思いがけない事だった。
「私が戦ったのは、皆に申し訳なかったから。私のために、皆を大変な目に会わせてしまったから、皆を守るのは当然のこと」
「それは違います、姉上」
声を上げたのは、昴だった。誰しもが驚いたように、細身の若君を見つめる。
「倭は元々、伊那を攻めるつもりだったんです。姉上が行かれても、行かれなくても、きっと何らかの口実を作ったに違いありません。だから姉上は、何も悪くないんです。そんな風に言わないで下さい。皆がかえって、姉上に申し訳なく思います」
昴はいつから、これほど強くなったのだろう。きっとこれも、陽鷹のおかげなのだ。そしておそらく彼は輝日よりも、陽鷹の死を嘆いている。そんな弟に対し、自分が恥ずかしくなる。
「……それでも、行くと決めれば行くのだろう、お前は」
ついに、大歳が口を開く。さすがに体が辛いのか、用意された台に腰を下ろしていた。
「お前は、一度こうと決めたら変えることはない。降伏の使者になるというのも、今思いついた訳ではなかろう。止めても無駄なのは、倭へ行った時からわかっておる」
わざとらしく腕を組んでみせる大歳に、笑いを漏らすものさえいる。一瞬だけ和んだ空気に、輝日は涙が出そうになる。
「行くのは、許す。だが、わしの名代として、岸楠と共に行くのだ」
渋々、という様子で大歳は言った。
「本来なら衆長たるわしが行くべきところ、この傷で今しばらくは動くのもままならぬ。お前が望むならば、わしの名代を務めてくれ。娘のお前を行かせることは、できればしたくなかったが……」
降伏の使者として行っても、すんなり受け入れられるとは限らない。その場で命を奪われる事もあり得る。父親としては当然それは避けたいことだが、それでも行ってよいというのは、策はほぼ尽きてしまったということなのだ、
「ありがとうございます!」
輝日は頭を下げる。皆の命を守りきること。それが最後にやるべき事だ。そのためならばどのような辱めであろうと、受け入れなければならないのだ。
皆が、不安そうに輝日を見つめる。微笑もうとして、うまくできないことがもどかしかった。
朝になり、輝日は岸楠と共に倭の陣へ向かった。武装を解き、剣なども持っていない。恭順の証だ。
「これなるは伊那の衆長の名代、輝日姫。私は使者の岸楠と申す。此度の戦に対し、衆長の降伏の意を、伝えに参った」
岸楠の申し出は、すぐに総大将等に知らされたようだった。降伏するのはもう分かり切っていて、あとはいつになるか、といったところだったのだろう。しばらく待たされ、現れたのは高市麻呂だった。
「輝日殿……あなたが参られるとは」
「父・大歳の名代で参りました。父は戦の傷が深く、まだ動けません」
まだ高市麻呂に対しては、冷静に応えることができる。だがあの人と対峙したとき、同じようにできるだろうか。
「衆長は伊那の民の命を守るべく、倭へ降る決断をされた。そのことをなにとぞ、総大将殿にもご理解頂きたい」
岸楠が、輝日と高市麻呂の間に立つようにして言う。高市麻呂は少し戸惑った様子を見せたが、すぐにうなずいた。
「わかった、私からも総大将にそのように申し上げておこう」
「かたじけない」
「では、こちらへ」
高市麻呂は別の陣幕へ、二人を案内する。もちろん前後には倭の兵が付いている。その兵たちは輝日と岸楠が陣幕の中へ通されるとそのまま付いてきて、二人を囲んだ。
高市麻呂が「しばし待たれよ」とだけ告げて陣幕から出て行く。待っている間誰も口を聞かない。輝日は左腕の傷に巻いた、紫の布にそっと触れる。大丈夫だ、私は父上の名代。誇りを持って向き合えばいい。
陣幕の帳が揺れて、高市麻呂が姿を見せる。帳をそのまま、引き上げている。それをくぐって志計史麻呂が姿を見せた。
輝日は岸楠とそろって、その場に平伏する。陽鷹や自分が斬りつけた傷は、どうなっているのか。現れた時の様子では、以前と変わりないようにも見える。
「伊那の衆長の、使いの者か」
志計史麻呂が尋ねる。声も、あまり変わりがない。
「はっ。こちらは衆長の名代である輝日姫、私は使者の岸楠でございます。衆長は戦の傷が未だ癒えず、輝日姫が名代となり参上いたしました。伊那は降伏し、倭に従う所存にございまする」
岸楠はさすがに落ち着いている。
「倭の帝に、従うということだな」
志計史麻呂は帝という言葉を強調する。岸楠はうなずく代わりに、再び平伏した。
「衆長の名代たる、伊那の輝日」
名を呼ばれて、やはり胸がずしりと重くなる。左腕の紫の布に触れてから、顔を上げた、
「はい」
輝日はそこでようやく、志計史麻呂の顔を真正面から見た。以前より顔色が良くない。腕が甲で覆われているため、受けたはずの傷の様子はわからない。だが影響は少なからずあるように見える。
「それが大歳殿の決断、そして伊那の総意ということで間違いないか」
志計史麻呂の目を見て、なぜか輝日は少しほっとしていた。もうこの人は、私を女としては見ていない。衆長の名代を務める者でしかない。
「はい。父は、伊那の大歳は、これ以上の戦を無益と判断いたしました。民の命を守るためには、倭の帝のご厚情にすがるより他はないと。どうか、伊那の民たちだけは、これまで通りの暮らしができるよう、お取り計らいいただけますようにというのが、大歳の願いでございます」
静かに、落ち着いて、言うことができた。皆を守るためなのだから。
「……よくわかった。伊那の地では、暴挙を働くことがないよう、兵たちに厳しく言っておく。民たちの暮らしについても、私から帝へ奏上しよう」
「ありがとう、ございます」
輝日は再び平伏する。
「ただ――」
志計史麻呂がふいに切り出したので、輝日は再び顔を上げた。
「そなたが捕虜として、倭へ来るというのであればだ」
「えっ」
驚きの声を上げたのは、岸楠だった。
「いや、長姫様は衆長の名代として参ったに過ぎませぬ。いずれは衆長が倭へ上り、恭順の意を……」
「名代であるならばなおのこと、代わりに俘囚の身になることも厭わぬのではないか」
輝日は驚かない。ある意味殺されるよりつらいそれを、受ける覚悟もできている。
「岸楠殿、私は総大将の仰せに従います。それで皆が救われるなら、喜んで」
「長姫様」
輝日が女の身であるからこそ、岸楠は慌てたのだろう。女が捕虜になるということは、男とは意味合いが違ってくる。それを恐れているのだ。それはおそらく、大歳も。
「使者は衆長の元に戻り、事の次第を伝えるのだ。こちらからも使者を出す。良いな」
「いや、しかし……」
「下がれ」
志計史麻呂が命じると、二人を囲んでいた兵が岸楠の両腕をつかみ、引きずるように連れて行く。陣幕の中には輝日と志計史麻呂、そして付き従う高市麻呂だけになった。
「高市麻呂、そなたはしばし後、使者として伊那の衆長を訪ねよ。こちらの決めごとを伝えるのだ」
「はっ」
高市麻呂はそのまま去ろうとする。
「待て。しばし、人を寄せ付けるな。近くで見張っておれ」
「……はい」
高市麻呂は戸惑いを見せつつも、陣幕の外へ出て行く。ついに二人となり、志計史麻呂が輝日のすぐ前に立つ。
「……髪を切ったか。なぜだ」
その場にはあまり似つかわしくない、問いだった。この人に美しい髪だと言われたことも、遠い過去だ。
「必要なくなったからです」
志計史麻呂を見上げ、答える。
「私は、もう女として生きることを捨てました。だから、私の唯一の女の証だった髪は、いらなくなったのです。もう私は、女として生きることはありません」
もう二度と、女として、男という者に寄り添うこともないだろう。初めて思いを寄せた人は、今こうして侵略者として立ちはだかっている。そして自分に思いを寄せてくれた人を、見殺しにしてしまった。そんな自分に、女として生きる価値も資格もない。うつむいた輝日を、志計史麻呂は顎をつかみ顔を上げさせる。
「愚かなことだ。そのように虚勢を張っても、そなたが女であることには変わりはない。それを、思い知らせてやろう」
言うなり志計史麻呂は輝日の両肩をつかみ、その場に押し倒す。あの夜と同じように志計史麻呂は自分の体で輝日を捕らえ、のしかかる。地面に背中を押しつけられ、砂粒が食い込んで痛む。
「――もう、思い知っています」
ふいを突かれたのか、志計史麻呂の動きが止まる。見下ろされて輝日は、自分が抵抗していないことに気づく。
「思い知っています。あなたに……橘志計史麻呂という人と会ってから、私はずっと……」
そうなのだ、どうしても、逃れられない。悔しくてつらくて、輝日は目を閉じる。流したくなかった涙が、その瞬間こぼれ落ちる。するとその涙を、志計史麻呂の唇が受け止める。それはあの夜の冷たい唇ではなく、熱を帯びている。
「……輝日……」
志計史麻呂の唇はそのまま、輝日の顔の傷を撫で、そして輝日の唇に重ねてくる。まるでいとおしむかのように、何度も重ね合わせる。それを受け入れている自分を、輝日はわかっている。志計史麻呂の手が、輝日の体に触れてくる。思わず目を開けると、志計史麻呂が輝日を、初めて見る眼差しで見下ろしている。それはあの優しく力強い初恋の人でもなく、酷薄で容赦ない侵略者でもない。欲望と恋情に翻弄されている一人の男の眼差しだ。
「……やめて……」
輝日は水を浴びせられたように、恐ろしくなる。だが志計史麻呂は輝日を押さえ込み、さらに奥へ触れようとする。輝日は自分がしようとしていたことに改めて気づき、志計史麻呂の手から逃れようとする。
「痛っ……」
左腕に、強い痛みが走り声を上げる。志計史麻呂の動きが止まり、息づかいだけが聞こえてくる。腕の傷をかばう紫の布に、志計史麻呂の手が触れた。
私は、本当に愚かだ。もう女として生きないと、決めたばかりだったのに――。
「……なぜだ……」
志計史麻呂の、うめくようなつぶやきに輝日は我に返る。左腕が投げ出され、志計史麻呂が輝日から離れて立ち上がる。こわごわ起き上がると、志計史麻呂は背を向けて立っていた。
「高市麻呂、おるか」
志計史麻呂が突然、強い口調で弟を呼ぶ。輝日は乱れた襟元を慌ててかき合わせる。なぜか、とても惨めな心地になる。
「はっ」
高市麻呂が、転がるように現れる。二人を見て、気まずそうにうつむいた。
「この女に縄を打て。倭に最後まで抵抗した者として、都を引き回す」
「えっ」
高市麻呂はさらに慌てて二人を見比べる。さすがに輝日も驚いたが、何も言えない。
「都を引き回すとは、本気でおっしゃっているのですか。伊那は降伏し、恭順の意を示しているのでは。ましてや輝日殿は女人で――」
「私の命令が聞けぬというのか、高市麻呂!」
志計史麻呂が声を荒げる姿を、輝日は初めて見た。
「いえ、そのようなことは……」
「ならば言うとおりにせよ」
「……はっ」
志計史麻呂はそれだけ言うと、一瞬だけ輝日を見る。しかしすぐに背中を向け、陣幕の外へ去って行く。その瞳にはもう、何の感情も残っていなかった。輝日もまた、ただまっすぐ前を見ていた。
「輝日殿……何があったのですか。いくら何でも、引き回しとは……」
「私は俘囚の身です。逆らうことはいたしません」
やがて兵が二人ほど現れ、輝日に縄を掛けようとする。
「待て。腕の傷に当たらぬよう、後ろ手にして手首に掛けよ」
自分で左腕を見ると、紫の布に、赤黒い染みが付いている。傷が開いてしまったのか。でも仕方がない。輝日は高市麻呂を見上げ、気遣いに対し頭を下げた。
高市麻呂の指示通り、後ろ手にされて手首を縛り上げられる。またあの都へ行くのか。今度は本当の意味でさらし者になるために。
ただ一つ、傷が癒えていない父や、留守を守ってくれている義母と弟と妹、そして皆の事だけが気に掛かる。どうか無事に、だれも何の害もうけることのないように、そのためならばどんなにつらいことも耐えてみせると、輝日は祈り続けていた。
岸楠が戻ってきたと聞き、昴は真っ先に出迎えに出た。
「……姉上は」
岸楠と共にいるのは、立派な鎧姿の若い男だった。姉と同じような年頃か。倭の軍の、高官であることはすぐにわかった。
「こちらは、倭の副将にして、総大将の名代の橘高市麻呂様でございまする」
岸楠の紹介を受け、高市麻呂なる男は軽く会釈をする。
「衆長の長男、昴でございます。このたびはお運びいただき、恐れ入ります」
姉のことが気になるがひとまず、倭の使者に礼を取る、
「輝日殿の、弟君であられるか」
高市麻呂は、微笑みながら昴を見ている。
「姉を、ご存じなのですか」
「倭のお越しの際は、我が邸に滞在いただいた」
「そうですか」
高市麻呂の態度から、少なくとも姉は倭で丁重に扱われていたのだろうと察する。
「あの、姉はどうしたのでしょうか。なぜ、共に戻らないのでしょうか」
どうしても気になり、昴は尋ねる。すると高市麻呂の表情がにわかに曇る。
「……衆長と、会うことは叶いますか」
それを聞いた瞬間、昴は悟る。姉は、捕らえられたのだと。そして姉もそれを承知しているのだと。
「まだ、戦の傷が癒えず見苦しい姿ではありますが、お使者がお越しとあれば、お会いいたします」
「かたじけない。よろしくお取り次ぎのほどを」
昴は高市麻呂に一礼すると、すぐに大歳の元へ戻る。大歳は床の上に座ったままだが、身支度は調っている。側には母の志濃が付き添っていた。
「父上、倭の使者がお見えになりました。副将の、橘高市麻呂様です」
「そうか……輝日は、戻ったか」
「……いいえ……」
答えが、自然と重くなる。大歳はもうあらかたを察しているようだ。むしろ志濃の方が、驚いている。
「どうして、輝日殿は戻らないのです」
「……捕らえられたのだ、おそらく」
「そんな、輝日殿は女人ですよ! 捕らえるなど、あまりにむごい……」
志濃は泣き出してしまう。大歳は慰めるように志濃の手を取る。
「これもさだめと思うしかない。昴、使者殿をここへお通しせよ。志濃、すまぬがしばらく外してくれ」
父に言われ、母は泣きながらもその場を去る。昴は父に頭を下げ、高市麻呂を呼びに戻った。
大歳を見た高市麻呂は、その様子に驚いている。
「ご無礼、お許しくだされ。まだ立つのがやっとの身でござる」
大歳はそう言いながら高市麻呂に頭を垂れる。高市麻呂は気圧されたように座り込み、同じように頭を下げた。
「そのようなお気遣いは無用。私は総大将の名代に過ぎませぬ」
高市麻呂のたたずまいは、昴が勝手に抱いていた倭の人間の姿から大いに外れている。倭の者以外を人とも思わぬのだとばかり思っていたが、高市麻呂は大歳に最大の敬意を払い、昴に対しても丁寧だ。
「しかし、伊那は我らに降り、その属国として存続する道を選ばれた。衆長はこの先、この地を倭の民の一人として守ることになります。民は倭の国の者として、一人一人戸籍を取り、倭に対して年貢を納めていただく。それがまず一つ」
すでに本題に入っている。これから先は倭の人間として生きてゆかねばならない。
「そして……ご息女の輝日殿は、総大将の命により、伊那の倭への恭順の証として、都へ連行することが決まりました。その命は、帝のご意向次第となります」
「え……?」
昴は思わず高市麻呂を見る。戻らぬ事で、捕虜の身となったのはわかっていた。だが。
「それは……姉は、場合によっては処刑されるということなのですか」
「……そういうことに、なります」
高市麻呂は昴に向き直り、しかし言いにくそうに答える。
「それは、いくら何でもむごいことではありませんか。姉は女の身。それが処刑もあり得るとは」
「昴」
声が高くなる昴を、大歳が制した。
「父上、姉上はそれを承知で名代を自ら引き受けられたのですか。姉上は、陽鷹殿の後を追うつもりで……」
「そうではない!」
大歳もまた大声を出し、そしてうめく。傷が痛んだのだ。
「輝日は……これ以上、伊那に犠牲が出ぬようにと、自らを差し出す覚悟を決めたのだ。確かに陽鷹殿を失い、深く悲しんでいたが、そんなことでは自ら身を投じたりはせぬ。あれはどこまでも……伊那を守ってくれるつもりなのだ」
父はそのまま、しばらくうつむいていた。傷の痛みではなく、心の痛みなのだと、昴にもわかる。
「……使者殿、倭の帝のご意向、承知いたした。娘も覚悟の上で、参上した。いずれこの傷が癒えれば、わし自らが必ず倭の都へ参上つかまつる。それまでは、何とぞご猶予を頂きたく、よろしくお伝えくだされ」
大歳はそのまま深々と、高市麻呂に頭を下げる。昴も同じようにそうする。
「どうか、お手をお上げください。私にどれほどの事ができるかはわかりませぬが、お気持ちのほどは必ずお伝えする」
高市麻呂が、大歳の身をゆっくりと起こす。大歳は何度も頭を下げていた。
倭との取り決めは他に、伊那にはしばらく倭の軍が駐留し、監視をすること、伊那の土地や作物、さらに民に倭の兵が関わることを禁じることなどがあり、大歳は全て承諾した、
倭の陣へ戻る高市麻呂を、昴は大歳に代わって見送ることになった。
「先程言われていた……陽鷹殿、というのは、輝日殿につきまと……いや、ずっと付いていた若い男のことですか」
ふいに高市麻呂に尋ねられ、昴は少し困惑する。この人もずいぶん、姉のことを知っている。
「はい。ずっと、姉を気遣ってくれていた人です。僕にとっても、兄のような人でした。深手を負われて、そのまま……」
「やはり、そうか……あの時の傷が……」
高市麻呂はなんとも言えない、悲しんでいるのか、それとも気が抜けてしまったのか、どちらとも取れる表情でつぶやく。
「あの、陽鷹殿に何か」
昴の問いかけに、高市麻呂は今気付いたように見てくる。
「いや、多少、関わりがあったので」
「そうですか……」
高市麻呂はそのまま歩き出すが、何か考え込んでいるようでもある。昴はいつ、送り出しの言葉を掛ければよいか悩む。
「昴殿は今、お幾つになられる」
「え?」
あまりに思いがけない問いに、つい間抜けな声が出た。
「十六で、ございますが……」
「そうですか。輝日殿は、立派な弟君をお持ちなのだと思ったので」
「そんな、僕なんて、まだまだです。ついこの間までは、たびたび熱を出していた身ですから」
急に褒められると返す言葉に困る。思えばそういう経験も、あまりしたことがなかった。
「そうなのですか、とてもそうは見えないが。このたびの戦は、私もかつてないほどつらい思いもしました。けれど、生き残った者は命を落とした者の分まで、しっかりと生き抜かねばならないのだと、改めて感じています」
高市麻呂の言葉に、昴は困惑しつつも納得する。昴も、自分を導いてくれた陽鷹をはじめ多くの人の死を見た。だからこそ、自分が生きている意味を考えねばならないのだ。
「では、これで失礼する。これから先のことは、また改めてお知らせすることになると思います」
「わかりました。道中、お気を付けください」
高市麻呂の微笑みが、どこか寂しそうに見えたのは気のせいだろうか。そのまま去って行く彼を、昴はしばらく見送った。そして父の居場所へ戻ると、帳が下ろされている。隙間からそっと様子をうかがうと、父がうずくまっていて、その肩を母が優しく抱いている。昴は帳を閉じて、その場から去る。
姉上、どうか無事に戻ってきてください。
届かない願いを、昴は心の中で叫んでいた。
十四章
強い日差しが、輝日の全身を刺してくる。後ろ手に縛られていては手綱を操ることもできず、馬が進むままに揺れ、少しめまいを覚える。
だが輝日は目を見開き、まっすぐ前を見据えていた。私は伊那の衆長の娘、そして父の名代だ。捕虜という身であっても、誇りは失ってはならない。
それにしても、倭の都の道はこれほど広かったのか。以前来た時は、ずっと輿に乗せられていたのではっきり見たことがなかった。そしてその広い通りに、びっしりと人が集まっていて、馬上に後ろ手を縛られている輝日を指さしている。
――あれが、伊那の女武者か。
――さすが蛮族の娘、平然としておるな。
――しかしうら若い娘を引き回すとは、むごいのう……。
――それにしても、これほどの扱いを受けてもあの目はどうだ。
――恐ろしい女がおるものだな……。
時々聞こえてくるそんな声も、何を思うこともない。まるで罪人の護送のようなこの状態も、自分が受ける罰にはふさわしいとさえ思っている。
輝日は遙か先を行く、志計史麻呂の事を思う。あの人はこれで満足なのだろうか。このまま私を、罪人として首を打つのだろうか。それで伊那の皆が守れるなら、この首くらいは差し出せる。
首筋から全身にかけて、ずっと汗が流れている。もしかすると体の中の水がなくなり、干からびるのを待っているのだろうか、と考えたところで、暢気で馬鹿馬鹿しい考えにおかしくなる。
「おい……見たか。あの女、笑ったぞ」
「ああ。こんな目に遭いながら笑うとは、やっぱり蛮族の女だ。恐ろしいのう」
そうか、私は笑ったのか。自分でも、妙なことだと思う。本当は揺れに揺れているため、少し胸が苦しくなっている。そしてあの時開いてしまった左腕の傷が、わずかだがまた痛み出している。だが、苦しい様子など見せたくはない。
あとどれくらい続くのか、さすがに少し考えるのだった。
輝日の引き回しは都に入ってから大通りを端から端まで行われた。それが済んだ後に入れられたのは、倭の宮廷の端にある牢だった。あの夜入れられた後宮の牢獄とは違い、本当に罪人を放り込む、暗く湿った牢だ。
長く引き回されたこともあり、暑さと揺れですっかり具合が悪くなってしまった。左腕の傷も、痛みが強くなっている。胸のむかつきと体のだるさもひどく、牢の中に敷かれた古い筵に横たわったまましばらく過ごしていた。
幾日か経っても、体調は良くならない。これは暑さのせいだったのか、それとも傷の悪化によるものか。左腕に巻いたままの、紫の布に触れる。苦しい。でも、陽鷹はもっと苦しかったのだろう。ならば彼を突き放し続けた私の苦しみなど、この程度ですまされる訳がない。
少しうとうととしてしまった。気が付くと、人の声が聞こえてくる。男ばかり、数人いるようだ。
「ここか、蛮族の女が入れられてるってぇのは」
粗野な言葉遣いが、輝日の恐怖心をあおる。
「ってか、誰か鍵持ってんのか」
「ねえよ。鍵はお偉いさんがしっかり預かってるんだってよ」
「なんだよ、ちょっとくらい俺らにも楽しませてくれたっていいじゃねえか。どうせ蛮族の女で、しかも反逆者だろ」
何のつもりで来たのか。鍵は持っていないようだが、壊して入ってくることだってあり得る。輝日は起き上がり、背筋を伸ばして座る。相手にしてはいけない。
「おっ、いたぞ」
「へえ、案外上玉だな」
「鍵開けられたら、かわいがってやるのにな」
「いっそ壊しちまうか、鍵」
「やめとけやめとけ。おとがめの方が厄介だぞ」
品のない笑い声が、壁に跳ね返り響きわたる。不快だが、彼らを見ないようにする。牢番なのだろうか。こんな人間に見張られねばならないのか。
「おーい、聞こえねえのか」
「蛮族だから、俺らの言葉もわかんねえのかね」
さらに下卑た笑い声が広がる。本当に鍵を壊し、襲いかかってくるのではないかという恐怖がある。そうなっても、助けてくれる者などいない。
「貴様ら、ここで何をしている!」
突然、聞き覚えのある声がして、輝日は思わず目を開ける。見れば格子の向こうに高市麻呂がいた。
「誰に断ってここへ来ているのだ。さっさと己の役目に戻れ!」
高市麻呂があれほど人を怒鳴りつけるのは、見たことがない。男たちは散り散りに走り去って行く。
「何事も、ありませなんだか」
高市麻呂が、格子の向こうからのぞき込んでくる。
「ええ、何も……少し、具合が悪いので、休ませて頂けませんか」
自分でも、気がゆるんだのがわかる。高市麻呂がうなずき、少し格子から離れる。
「わかった。私がしばらく見張りますゆえ、ゆっくり休まれよ」
「え……?」
高市麻呂の答えが思ってもいなかったものだったので、輝日は戸惑う。高市麻呂ほどの高官が、こんなところで俘囚の女の見張りなど、あり得ない。
「そんな、そんなことまで甘えるわけにはいきません……どうかお気遣いなく……」
何とか意識を保とうとするが、一度ゆるんでしまった気持ちはすぐには戻らず、その場に倒れ込んでしまう。鍵の開く音がして、足音が近づいてくる。高市麻呂に抱き留められているのはわかっていても、抵抗する力はない。だが高市麻呂がこれ以上のことをするとも、思えない。
「……まったく、情けないことだ。誰もいない、あなたも弱っているというのに、何もできぬとは」
やはり、そうだったのか。輝日はふと、申し訳ないような心地になる。きっと何度も、この人を傷つけていたのだろう。私はつくづく、男という者をわかっていない。あの人のことにしても。
「あなたと兄上は、初めから惹かれあっていたのでしょう」
輝日は急に正気に返ったように、顔だけ上げて高市麻呂を見る。陽鷹も、似たようなことを言っていた。でも、自分のことはともかく、あの人が私を思っていることはないはずだ。あるとすれば、少し珍しい女だったということくらいだろう。
「あなたからすれば、兄上にはだまされたとしか感じられないのだろうけど、兄上からすれば、そのような策を取るしか無かったのかも知れない」
高市麻呂は何を言っているのだろう。輝日にはわからない。
「兄上はあなたを手に入れたかった。あなたと共に時を過ごしたいと思われていた」
「そんなこと……あるはずがない」
あの人は倭の高官、そして帝の影を務める男だ。そして自分は「蛮族」と呼ばれる。倭とは異なる一族の女。その一族を飲み込むために、私を利用しようとしたのではないか。
「そんな兄上とあなたを見ていたら、私はもう何もできない。今こうして、誰も来ることのない場所で弱り切ったあなたと二人でも、私は手も足も出ないのだ」
高市麻呂が、輝日から離れる。どこを見るでもない目は、輝日から遠い。
「……高市麻呂様、志計史麻呂様は今、どこに……?」
なぜ、それを聞いたのか、輝日は自分でもよくわからなかった。
「兄上に、お会いになるのか」
高市麻呂の問いかけに、驚きの色はない。むしろ思っていたとおりと言いたげだ。
「会って、どうなるものでもないとは思います。今や私は俘囚の身です。でも……」
思えば、あの人の確かな気持ちなど全くわからないし、わかろうとしていなかった気がする。あの人は確かに、酷薄だった。陽鷹を殺しさえした。それでも、輝日にとっては他の男たちとは違う、特別な存在だ。恐れて怒り、憎み、そしてやはり、恋している。
「私は、私なりの決着を付けなければならない。あの人は陽鷹を殺しました。そしてそれは、あの人に惹かれた私のせいなんです」
左腕の傷に触れる。紫の布は、傷が一度開いてしまった時の血が染み着いている。あの人に斬られた傷。私を殺さず、苦しめている。
「志計史麻呂様は、どこにいるのですか」
輝日はもう一度尋ねる。高市麻呂は深くため息を付く。
「……この宮中にはおられぬ。邸のご自身の部屋にて、休まれている」
「休んでいる?」
高市麻呂の言葉尻が、輝日には引っかかった。
「傷の回復に、務められているのだ」
その傷は、陽鷹に斬られた傷か。輝日が斬ったのは、それほど深くならなかったはずだ。
「私が申し上げられるのはここまで。そして、できることはもう、これだけだ」
高市麻呂はふいに輝日を見たかと思うと、懐から何かを取り出す。それが美しい細工の鞘に収まった、細い短剣だと気づき、輝日は驚く。
「ここから兄上の邸まで、少し距離がある。人に見咎められることもありましょう。その時に使われよ」
「……それだけで、済むでしょうか」
もしかすると、再び志計史麻呂と手負い同士、斬り合うことになるかも知れない。その覚悟も必要だ。
「私にはもう、何も言えない。このままあなたか、兄上を見殺しにすることになったとしても」
輝日は高市麻呂から短剣を受け取る。鞘から抜くと、輝日の手から肘くらいまでの刃は白く輝く。
「高市麻呂様。これは私が、一存ですることです。伊那とは一切関係がありません。伊那はすでに倭に降っております。私がもし、志計史麻呂様を死なせたとしても、あくまでも私の一存。そのことだけ、お願いします」
短剣を鞘にしまい、輝日はそれを懐に入れた。
「委細、承知した」
高市麻呂がうなずくのを見て輝日は立ち上がる。すでに牢は開いている。誰もいないのを見て輝日は、牢の外へ出る。同じく出てきた高市麻呂に、輝日は黙って頭を下げる。そして振り返ることなく、駆け出した。
牢獄の狭い道を駆けると、すぐに外へ出る。明るい日差しが輝日の目を射るようだ。そして聞こえてくる、追っ手の足音。輝日は短剣を片手に、しかし追っ手を見ず再び駆ける。たどり着けるだろうか、志計史麻呂のところに。
きっと、たどり着ける。あの人は、私を待っている。それは私を殺すためか、あるいは……いずれにしても、相見えるのはこれが最後だろう。ならば、どちらにしても会いたい。決着をつけるために。
輝日は走る。もう左腕の傷も、体の疲労も気にはならなかった。
都の広い通りを走っていても、誰も気にしなかった。人は大勢歩いていて、女が一人、走っていたところで別段気にとめるものでもないのだろう。
なんとか志計史麻呂の邸にたどり着いた時には、すっかり息も上がっていた。息が乱れるのは、それだけのせいではない。左腕の傷が、また鼓動を打つように痛んできている。懐を押さえると、短剣はちゃんとある。この先邸へ入れば、これを使うことになるかも知れない。汗が、こめかみを通って落ちる。それを手の甲で拭い、門から離れる。築地の一部に、破れ目のような穴がある。輝日はそこから邸内へ侵入した。
「誰だ!」
当然、見張りの者が見咎めてくる。輝日はすかさず短剣を抜き、向かってくる者たちをなぎ払う。一人、二人までは何とかなったが、それ以上は難しい。すかさず床下に潜り込む。低い姿勢で床下を走ると、覚えのある庭へ抜け出る。
宮中に上がる直前、志計史麻呂と会ったあの部屋の庭だった。あの時は春の花が、まさに爛漫という様相で咲いていた。そのほとんどが、輝日の知らない花だった。今は全て緑の葉となっている。
そして辺りに、忘れもしない香りが漂っている。あの人が身にまとっていた、沈香の香り。この場に彼はいないのに、むせかえるほど香っている。
何かが違う。輝日は、部屋の入り口を見る。誰か見張りの一人くらいいてもよいものだが、人の気配すらない。回廊へ上がり、入り口の扉に手を掛ける。沈香が、さらに強くなりせき込みそうになる。なぜ、こんなにも香りが強いのか。
間違いない、ここに、あの人はいる。この香りは、魔除けとして使っていると言っていたことがある。これほど強く薫らせているのは、まさか……。
輝日は、扉を開ける。木の扉のはずだが、やけに重く感じる。開けた瞬間、沈香の香りが襲いかかる。そして室内は、あの日開け放たれていた窓が全て閉まっている。設えはそのままで、机や書棚も変わらない。
だが、あの日は無かった横に長い椅子が、部屋の奥に置かれている。そしてそこに、志計史麻呂が半身を横たえていた。
「……志計史麻呂様……!」
思わず、その名を呼ぶ。志計史麻呂の右腕には布が巻かれている。白いはずのその布には、緑にも紫にも茶色にも見える染みがある。輝日の声に反応するように、志計史麻呂が目を開けた。
「……そなた、やはり、来たか……」
志計史麻呂が身を起こす。あまりに緩慢な動きは、輝日の胸を締め付ける。そして顔色はどす黒く、目も充血している。
「あの男の、最後の執念か……まさか膿んでくるとは……」
輝日は自分の、左腕の傷を押さえる。紫の布の染みが、いつしか濃くなっている。私も、同じようになるのか。
「私を、殺しに来たのか、輝日」
志計史麻呂の声に、張りが戻る。よく見れば机には大きな香炉がある。沈香はそこから香っている。魔除けの香なのに、魔を呼びそうにさえ感じるほど、香りが濃い。
どんなときにも動じなかったこの人が、弱っている。強い香りがその証拠だ。その現実を突きつけられ、輝日は無性に悲しくなる。こんなにも弱ってしまったこの人と、対峙しなければならないのだ。
「……私は、私の決着を付けるために来ました。もし、それが決着の形だとしたら、そうなるかも知れない……」
懐から、短剣を抜く。ふいに涙がこぼれる。それを見た志計史麻呂が、短く笑う。
「それがそなたの、意志か」
「はい。でも、あなたが死ぬとは限らない」
涙は拭わず、志計史麻呂を見つめる。もう、そらしたりはしない。左腕の傷が、胸の鼓動と同じ拍を打ち、そのことで息が切れてくる。志計史麻呂もそれに気付いたのだろう。ゆっくりと立ち上がる。手を高く伸ばして、剣を手にする。この部屋の最も奥の壁に、飾られていた物だ。
「ならば私と共に死ぬか」
志計史麻呂は剣を抜き、切っ先を輝日に向ける。だがそれはかすかに震えている。
「……私を、どう思っていたのですか……」
輝日は短剣を構えながらも、尋ねていた。陽鷹も、高市麻呂も、志計史麻呂が輝日を思っているといっていた。お互い、惹かれ合っていたのだと。今にして思えば、あの日この部屋で向き合った時に、共に二人だけの世界に堕ちてしまおうとしていたのだろう。しかし、それをするには二人とも、背負うものがありすぎたのだ。
「……どうしても、知りたいか」
志計史麻呂が、少し微笑んだ。輝日はうなずく。沈香の煙が二人を包み込み、香りはいっそう強くなる。志計史麻呂は問いかけには答えず、切っ先が近づいてくる。輝日はそのまま、志計史麻呂へ向かう。振り下ろした件を何とか短剣で受け止めるが、やはり無理がある。かがみ込んで剣をよけると、そのまま床に転がり込む。剣が床に突き刺さり、輝日に向かい倒れてくる。かろうじてそれもよけ、何とか片膝を付いて起きあがる。剣は再び志計史麻呂の手に収まる。輝日は短剣を構えた。二人とも、すでに息が荒い。
「あの時、連れ去って隠してしまいたいと言ったのを、覚えているか」
志計史麻呂が、思いも掛けないことを口にする。覚えている。覚悟を決めていたのに、それを乱そうとする彼が、恐ろしかった。だけどその一方で、そうされたいと思っていた。
「……それが、全てだ。そなたを、私だけのものにしたかった。それだけだ」
これが、最後の答えなのだ。輝日は足元がぐらつくのを、こらえる。輝日が伊那の女で、彼が倭の男、そして帝の影まで務める者である限り、それはできなかった。だからあのような形で輝日を取り込もうとしたのだ。しかし輝日には受け入れられない、やり方だった。
「……私たちは、どこまでも交わらないのですね。今もこうして、剣を手にして向き合っている……」
ここに至るまでに、いろんなものを巻き込んだ。人を死なせることにもなった。陽鷹の笑顔が、輝日の胸を締め付ける。私のこんな思いのために、もう誰もあの笑顔を見ることができないのだ。
輝日は一歩、足を踏み出す。その瞬間、志計史麻呂は不思議な表情を見せる。やはり、そうするのか、と、口が動いたように見えた。身を低くして、志計史麻呂へ向かう。だが彼はすぐに剣を構え直し、短剣をなぎ払う。そして――。
体中から、紅い飛沫が飛んだ。志計史麻呂が、大きく傾いた輝日の体を抱き留める。そのまま二人で、倒れ込んだ。
「そなたは、酷い。私にこのような役回りをさせるとは……!」
志計史麻呂の声が、震えている。この人のこんな声を、初めて聞いた。私はやはり、どこまでも愚かなのだ。とうとうこの人まで、深く傷つける――。
「追っても、追ってもそなたは私の手には収まらなかった……まるで花の間を抜ける蝶のように……そうして今また、私を置き去りだ……」
ああ、そうだったのか。だから、最初に贈られた髪飾りは、蝶だったのか……結局捨てられず、箱にしまったままの、片方だけの髪飾り。もう片方は、あの宮中の夜にどこかへ行ってしまった。
「行かせぬ……そなただけは、決して……」
強く、抱き締められる。もっと違う形で、この人の胸に抱かれたかった。だけど、もう全てを振り捨ててしまった。体中が、痛い。
閉じた瞼の裏に浮かんでくるのは、桜の花が散る様だ。これは、どこ……? 伊那の山の桜なの……それとも……。みんな、ごめんなさい。でもみんなには何の関わりもないこと。だから……。
「……私が……伊那の……最後の犠牲に……皆には……関わりのないこと……」
自分の声が途切れ途切れなのに驚く。私はこのまま、どこへ行くのだろう……この人を置いて。
「行くな、行くな輝日!」
体がいっそうきつく抱き締められ、手も強く握りしめてくる。行きたくない、あなたと離れたくない……そう思っていても、体から力が抜けて行く。桜の花びらが、目の前で散っている。ああ、あのとき「寺」という所で見た桜だ。この人への恋心を、自覚したあの時に。
あんなに強かった沈香の香りも、遠くなってきた。輝日は抱き締められるまま、志計史麻呂の胸に頬を、体を寄せる。もっと早く、もっと素直にこうできれば――。
重なった唇は、優しいほど温かい。だが輝日に待っているのは、もう静かで暗い闇ばかりだった。
十五章
伊那の里も、ようやく桜が咲き始めた。昴はそれを見上げながら、これまでのことに思いを馳せる。
「早いものですね……あの戦いからもう、一年近くになろうとは」
刀梓のつぶやきに、昴はうなずく。戦いなど無かったかのように、伊那は穏やかに夏を終え、秋を過ごし、冬を乗り越えた。桜の花びらが、昴の目の前に落ちてくる。
「姉上も、どこかでこの桜を思っておられるのだろうか……」
あの凄惨な戦いの後、倭の都に連行された姉の消息は、しばらくはっきりしなかった。伊那は倭に併合され、新たな仕組みを浸透させなければならなかったからだ。
戦の傷が癒えきらない大歳を助け、昴はこれまで姉に頼っていた分を取り返すつもりで働いた。租税についての取り決め、滞在する倭の軍とのやりとりなど、山のような事案を片づけることで精一杯だった。
そんな中、突然倭から、昴に対して都へ上るようにとの命令が届いた。しかも、至急に。
「これは、姉上の身に何か会ったのではないでしょうか」
命令を伝えたのは、あの橘高市麻呂からの書状だった。そこに、姉に関することは何一つ記されていない。だがそれがかえって、姉に何かがあったことを匂わせているように、昴には感じられた。
「……いずれにせよ、倭からの要請は無視できぬ。刀梓を連れて、行って参れ」
大歳も、何かを感じているのだろう。跡取りである昴が倭の都へ呼び出されることに、伊那の皆は不穏なものを感じていたが、どちらにしても一度は大歳か、あるいは昴が行かねばならなかったのだと説得し、どうにか納得させた。
昴は刀梓を従え、早々に伊那を発った。倭の都までは幾日か要したが、途中で倭からの迎えがやってきたおかげで、何事もなく到着することができた。迎えに案内されるまま昴は、橘高市麻呂の邸に入ることになった。
そしてそこで昴は、最も聞きたくなかった事を高市麻呂から聞かされた。
「……姉上が、自害……?」
到底、信じられないことだった。あの姉が、自ら命を絶つなど。
「姉上が、そんなことをするはずがありません! もしそんなことになったのだとしたら、よほど何かが――」
言い掛けて昴は、あることを思い出す。陽鷹と、最後に話したことだ。
あいつの心は、別の所にある。
姉の心が、倭のかつての総大将にあるのだと、陽鷹はほのめかしていた。その総大将は目の前の高市麻呂の兄・橘志計史麻呂という人だというが、昴はほとんど会ったこともない。だが姉とは深い関わりがあるのだ。
「……いったい、姉に何があったのですか。どうして、弟の私がこんな形で知らねばならないのですか。教えてください、高市麻呂様!」
怒りと、悲しみがない交ぜになって昴は叫ぶ。高市麻呂はそんな昴を、どこか寂しげな目で見つめる。
「それを知るのは、我が兄、志計史麻呂ただ一人。そして昴殿、あなたにわざわざ来てもらった理由の一つは、それを兄からあなたにお伝えするため」
「私に……」
なぜ自分が選ばれたのか、昴にはわからない。それでも聞かねばならないのだ、姉に何があったのかを。姉はその志計史麻呂の側で命を落とし、そして今もなお、彼の側にいる。なぜそうなったのかを、聞かねばならない。
「わかりました。全て、お伺いします」
昴は覚悟を決めた。高市麻呂はうなずき、立ち上がる。そのまま高市麻呂の案内で、橘志計史麻呂の邸へ行くことになった。
志計史麻呂の邸に着くと、すぐにかつての倭軍の総大将と対面することになった。
「そなたが、輝日の弟か……似ているな」
志計史麻呂の第一声に、昴は少し驚く。彼が姉の名を呼んだとき、不思議なほどの親しみを感じたからだ。
そして初めてまともに会う倭の総大将について、以前少しだけ聞いていた事を思い出す。三十代の若さながら、上品かつ威厳のある男だと。だが目の前にいる橘志計史麻呂は、上品さは感じられるがひどく顔色が悪く、力なくその場にいるだけに見える。
「姉のことについて……ご存じだと伺いました。もしまだこちらにいるのであれば、伊那へ連れて帰りたく思います」
まだ、姉が死んだとは思いたくない昴は、連れて帰るという言い方を選んだ。しかし志計史麻呂は首を横に振る。
「それはできぬ。輝日は捕虜となりながら、倭の判断を待たずに勝手な行動に出た。いまだ彼女は倭の捕虜だ。倭を出ることは許されぬ」
「そんな……そんな理屈が通るんですか」
気色ばむ昴を、刀梓と高市麻呂が抑える。
「それに、姉は本当に死んだのですか。それも自ら死んだなんて、僕は信じられない!」
「ならば会うか、姉に」
昴の激高を鎮めるかのように、志計史麻呂が尋ねてくる。
「……こちらに、いるのですか、姉上は」
声の震えに気付きながら昴が尋ねると、志計史麻呂はうなずく。
「ただもう、そなたには何も話しかけぬが」
志計史麻呂が、ゆっくり立ち上がる。緩慢な動きに、昴は彼の具合の悪さを見た。だがそれどころではない。
「話しかけない……そんな」
それはどういうことなのか。そういえば志計史麻呂は輝日が「死んだ」とは、一言も言っていない。ならば本当は生きていて、何か理由があって死んだことにしたのだろうか。……いや、そんな手の込んだことをする理由を、昴は思い当たらなかった。
志計史麻呂に付いてやってきたのは、広大な屋敷の奥まった一室だった。初めて嗅ぐ、香ばしいような強い香りが漂っている。その香りに昴は今度は体が震える。どこか禍々しささえ感じる香りは、死の匂いにも思える。
扉が開くと、真昼なのに室内は薄暗かった。香りが一気に昴の方へなだれ込み、むせてしまう。大きく咳をした昴に刀梓が背中をさすろうとするのを制してそこに残し、中へ入った。
「……姉上……?」
室内の寝台に、確かに輝日が横たわっていた。しかし側へ近づいて、足が止まる。止まりかけた咳が、また出てくる。
姉は、見たこともないような豪奢な装束を着せられ、顔には薄化粧が施されていた。肩までに切った髪がきちんと結い上げられ、そして蝶の形をした小さな髪飾りが挿されている。それは輝日ではあるが、昴の姉ではない女だった。
「……姉上」
ようやく咳が治まった昴は、恐る恐るその女に近づく。美しすぎる彼女は昴が側まで来ても、目を開くことはない。
「……そなたに、聞いてもらいたいことがある。だから、わざわざ呼んだのだ」
「え?」
昴が振り返ると、志計史麻呂がこちらを見ている。そして近づいて来たかと思うと、輝日の側に立つ。何も言わない輝日の、白く粧われた頬に手のひらを当て、しばらく見つめる。昴はその様子に、愕然とする。あまりに似合いの、一対の男女である二人に。
昴はずっと、あの陽鷹と姉が一緒になれば良いと思っていた。だが陽鷹は、姉の心は別の所にあると言っていた。そして姉のために討たれ、姉の腕の中で死んでいった。そのことで姉が、もしかすると陽鷹の事を胸に秘めて、倭へ身を投じたのかも知れないと思っていた。
しかし、それは違っていた。姉は陽鷹に対しては贖罪の思いを持っていても、昴が願っていた思いはなかったのだ。そしてこの、橘志計史麻呂という男に、それがあった。そこからどうなったのかはわからないが、姉は今物言わぬ姿で、彼の側にいる。
「輝日は、倭と伊那の絆を深めるためこのまま、我が妻という形を取って倭に残る。だから伊那へ返すわけにはゆかぬのだ。それは承知してもらいたい」
「えっ、妻……?」
昴は、改めて輝日の姿を見る。この華やかすぎるほどの姿は、婚礼装束とでも言いたいのか。
「……それは、姉も承知していたことなのですか、それとも……」
もしかすると、それを拒み命を絶ったのか。だがそれを問うことができない。ここにいる輝日は、本当に息絶えていると思えないからだ。亡骸なら、今の夏の季節ならもう、これほどの姿を保っているはずもない。なのにこの輝日は、美しすぎる。
「そのために、輝日は伊那の女としては死んだ。伊那の女として生きてはそれをできぬゆえ。これは私と輝日の間にしか存在しない約束事だ。そなたには到底理解できぬだろうが、輝日の意志と思って欲しい」
志計史麻呂の答えは、不明な言語のようだ。だけど、昴は何も言えなくなる。輝日の、眠っているような静かな表情を見ていると、それが確かな意志なのだと思えてくるのだ。
「……しかし、伊那の民にはどのように伝えればよいのですか。ここでの話は、誰も理解できそうにありません」
輝日が帰らぬ訳を言わぬ限り、伊那では倭への不安と不信がまた吹き出してくるだろう。
「表向きは、輝日が自分一人の判断で私を殺そうとし、失敗して自害したということになっている。伊那の者は誰も何も関わりがなかったということで、この話は終わる。伊那がとがめられることはない。それで、全てが終わる……」
全てが終わる、そうだろうか。昴はどうしても、気になることがある。姉が本当に死んだのか、それとも……。
「――生きているが、目は開かぬ。眠ったまま、生き続けるのだ……」
ふいに、潜めた声が聞こえ昴は顔を上げる。志計史麻呂が、昴のすぐ後ろに来ていた。思わず輝日の顔を見る。生きている。だがずっと眠ったまま――それが、この姿の真実だった。これはおそらく、高市麻呂でさえ知らされていないことだ。昴に打ち明けたのは、弟だからというだけではないだろう。もう一人、この真実を知る者がいなければ隠し通すことはかえって難しく、破綻する。輝日と絆の強い弟であり、この先伊那を背負う者である昴を、志計史麻呂は真実を共有する者として選んだのだ。
そして志計史麻呂はふらふらと輝日の側から離れると、近くの長椅子に座り込む。まるで全てを出し切ったかのように、昴には見えた。
「……わかり、ました。今、伺った話は、僕の胸に秘めておきます。姉は自分だけの判断で狼藉に及び、失敗し、そして自ら命を絶った……倭の捕虜としてここへ残ると、父や皆に伝えます。だから……」
昴はもう一度、輝日を見る。息づかいは、まるで感じられない。震えを抑えながら、胸の上で重ねられた輝日の手に、触れる。温かさは、幼いときに自分をかばってくれた姉の手と、変わっていなかった。涙が、こぼれ落ちる。
「どうか姉を、大切にしてください。姉は、いつも自分を後回しにして生きてきました。でももう、その必要もありません。ここで、姉が、自分の思うように生きられるように、してあげて欲しいんです」
ようやく、ここに眠るのが自分の姉だと、昴は感じられた。このまま目を覚まさない姉がどうなるのか、まるでわからない。でももう、姉と思い合っているという、この男に託すしかないのだ。昴は椅子に座り込んだままの志計史麻呂を、じっと見つめる。
「わかった、約束しよう」
志計史麻呂はそのまま、昴を見てうなずいた。そして大きく息をついて目を閉じる。
「ありがとうございます」
頭を下げた昴は、少しあたりを見渡す。薄暗いその部屋の様子はあまりよくわからない。輝日が横たわる寝台と、志計史麻呂が座る長椅子、そして小さな机と、むせかえるような香を焚いている香炉があった。この香は、何の香りだろうか。姉に近づく不穏な者を、全て遠ざけるほどの強さを感じる香りだ。
昴は志計史麻呂に一礼だけして、姉から離れる。居室を出ようとしてふと振り返ると、再び志計史麻呂が輝日の側にいた。髪を撫で、見下ろすその目の優しさに、昴は二人のつながりの強さを知る。
「……若君……」
居室の外で待っていた刀梓が、こわごわといったように声を掛けてくる。
「刀梓……姉上は、安らかだったよ……」
それ以上言うことができず、昴はその場に崩れるように座り込む。涙があふれ、喉から声が沸き上がる。
「若君……」
刀梓もまた昴に寄り添うように座り、自分の涙を拭っている。昴は訳もわからず、ただその場で声を上げて泣き続けていた。
志計史麻呂の邸を出た昴は、再び高市麻呂の邸に入った。「死の穢れ」に触れたというので形ばかり、沐浴を済ませた。
姉に関する真実は、昴一人で抱え込むにはあまりに重かった。だがこれが姉の望みであるとすれば、耐えるしかない。昴ができる、姉への恩返しなのだ。
刀梓は、昴が姉の死に落ち込んでいるのだと思っているらしく、そっとしてくれた。そんな刀梓を見ていると、姉の「死」を皆に伝えるのがつらい。刀梓の妻でもある妹の星も、きっと悲しむだろう。母だって、継娘であっても姉のことを大切に思っていたから、同じだ。
そして何より、父だ。父がどれほど長女の姉を可愛がり、また頼りにしていたか、昴は誰よりもわかっているつもりだ。その父が、娘の方が先に死んだなどと知れば、どれほど悲しむか。
あるいは父には、真実を告げた方が良いのだろうか。姉は生きているが目を覚まさず、隠されたまま橘志計史麻呂の妻となったと……。わからない。いずれにしても、父は娘を失うことになる。
高市麻呂の邸に滞在する間、昴はずっと考え込んでいた。考えすぎて、もう訳がわからないほどだ。
考えているうちに伊那へ戻る日となり、昴は倭の都を発った。心の整理は完全にはできていないが、皆に輝日のことを伝えなければならない。伊那への道すがら、昴はそのことをずっと考えていた。
伊那へ戻ると、まず昴は父に皆を集めてくれるよう、頼んだ。長姫様と皆に慕われる姉の「死」を、伝えなければならないからだ。志計史麻呂が言っていたとおり、すでに倭から使者は行っていて、父をはじめ皆、輝日が「死んだ」ことは知っていて、悲しみと不安が伊那中を包んでいた。だがさらにその顛末を、改めて伝えなければならない。
「いったい長姫様に、何があったのですか」
皆を代表するように、刀梓の父である岸楠が尋ねる。昴は用意していたとおり、輝日が自分だけの判断で倭の総大将を討とうとし、それが果たせず自害した、それゆえ輝日はまだ倭の俘囚であるため、亡骸も戻すことは叶わぬと話した。
「そのような……そのようなことが、あって良いものか!」
岸楠の叫びは、伊那の皆の叫びでもある。母と妹をはじめとする女たちは泣き崩れ、男たちの中には倭を討つべきだという言葉まで出始める。
「みんな、みんな待ってくれ!」
昴が声を上げると、皆はいったん静まる。父の大歳は目を閉じ腕を組んだまま、何も言わない。
「姉上は姉上なりに、決着を付けねばならなかったのだと思う。それが果たせず自ら命を絶ったのは、伊那に害を及ばせないためなんだ。ようやく戦が終わって、倭の支配に置かれたとはいえ平穏な暮らしを取り戻した今、また争うことは姉上の気持ちに反する事になるはずだ」
白々しいかも知れないと思いながらも、昴は必死だった。少なくとももう戦を起こしてはならないというのは、姉の意志で間違いない。それだけは絶対に皆にわかってもらわねばならない。
「だから、この話はこれ以上蒸し返さない。姉上は、もう伊那へは戻られない。姉上が望まれた平和な伊那を守ることが、私たちのするべき事だと思う」
それがどれほどつらい選択か、昴が一番よくわかっている。姉とは二度と、会えないのだ。だが、もうこれ以上戦いで人を死なせる訳にはいかない。
「……仕方のない、ことだ」
ついに、大歳が口を開いた。
「輝日は、我らの最後の犠牲となり、伊那を守ってくれた。それが、あれの望みだったのだ。その望みを、我らが無にするわけにはゆかぬ。耐えるしか、ないのだ」
大歳の声がかすかに震えていることに、昴は気付いている。父も、悲しみと怒り、そして後悔の念をこらえている。それが伝わったのだろう、誰も、もう何も言わない。静かに涙を流し、嗚咽を漏らしている。話は、終わった。
昴はその後父の元へ行き、父と二人だけで話すことにした。やはり、真実を告げるべきだと、先程の父の表情を見て感じたのだ。本当のことを知れば、父はますますつらい思いをするだろう。しかも、姉のために決してどこにも明かせない真実。だが、父だけは知っているべきだろうとも思った。
全てを聞いた父は、言葉を忘れたかのように絶句していた。無理もない。実は輝日が生きていて、だが戻ることはない。さらに目覚めないというのだから。
それでも父は、どこか納得しているようにも見えた。そして、ついには何も言わなかった。輝日と志計史麻呂の間に何があったのか、これ以上考えない方が良いと思ったのかも知れない。
そのまま伊那では、輝日の話をする者はいなくなった。話すのがつらいのか、それとも忌むものを感じるのか、昴もまた、真実を秘めるために姉のことは言わずにいた。
結局、伊那は穏やかに秋を迎え、冬を静かに乗り越えた。
そしてようやく春を迎え、山に咲く桜が、風に揺れている。花びらが昴の前に落ちてくる。昴はそっとそれを手のひらに乗せる。
本当に、これで良かったのだろうか。おそらくずっと、問い続けるのだろう。だけどもう、争いは終わった。昴は手のひらの花びらを、再び風に任せて解放する。花びらはゆらゆらと揺れて、見えなくなってしまう。まるで姉上のようだ、と昴は涙をこらえ続けるのだった。
終章
花びらが、窓の側まで入ってくる。
こうして、何もせずに花が散るのを、じっと眺めている。ただそれだけなのに、穏やかな心地がするのはなぜか。
「……すまぬ、窓を、閉めてくれぬか……」
部屋の奥から、優しい声がする。言われるままに窓を閉じる。そういえば風は少し冷たかった。体に、障るかも知れない。
そのまま、奥の寝台の側まで行く。歩くのに、まだ少し時がかかる。ゆっくりとたどり着いて、寝台の側に置かれた椅子に座る。
「花を眺めていたのに……悪いことをしたな」
「いいえ……だって、少し、寒いから」
私こそ、ごめんなさい。そう口にすると、手が伸びてきて髪を撫でてくれる。まだ肩の辺りまでしか長さがないが、変わらぬ黒髪だ。
「こうしてまた、そなたと話すことができるというのに……もう私には、さほどの時は残っておらぬ」
悲しげに髪を撫でる手を、そっと握る。本当に、自分でも不思議だ。あの時、自らも息絶えるばかりだと思っていたから。
彼の刃に体を斬られ、意識を失ってからの事は覚えていない。残っている最初の記憶は、いるはずのない弟が、自分を呼ぶかすかな声だった。そして重なった手の、温かさ。その手が離れてしばらくすると、今度は髪と、頬を撫でる彼の手の感触がはっきりと伝わった。
まだ私は、生きていた。そうわかった瞬間、目を開いていた。そこにいたのは、やはり彼だった。何度も、名前を呼ばれた。そのたびに、元の世界に引き戻されたように、今は思う。
後からわかったことだが、斬りつけられた傷は急所を外れていて、出血は多かったものの命は取り留めた。そして意識を失ったまま、時だけが流れていたのだ。
目覚めた後は、少しずつ体が回復していった。以前に腕に受けた傷も、共に癒えていった。
そして知ったのだ。自分が、すでに死んだことになっているのに。あの戦の最後の犠牲として、命を捧げた事になっていた。そして気がつけば、この隠れ家にいた。
彼はかつて言ったとおり、自分を人の前から連れ去り、ここへ隠してしまった。そして彼もまた、隠れた。あの戦で受けた傷の膿みが、さらにひどくなったから――。
自分が回復するのと歩調を合わせるかのように、彼の体力は奪われていった。今ではもう、寝台から起き上がるのがやっとだ。その彼の側から、決して離れることはない。私もまた、ようやく歩けるようになった程度なのだ。
「……温かい」
彼の手を、頬に当てる。これで良いのだ。すでにどこへも行くことはできない。でも二人でこうしていれば……。
「……私から離れるな、輝日……」
彼が、力なくつぶやく。ただうなずき、手を握る。顔を近づけて唇を重ねる。何度も、何度も。
「あなたこそ、離れないで、志計史麻呂様……」
もう、何にも妨げられることはない。志計史麻呂がふと、満ち足りたような微笑みを浮かべ、目を閉じる。その優しく穏やかな顔を、輝日はいつまでも見つめている。
窓を、わずかに風が打つ音がする。その音を聞きながら輝日もまた、静かに目を閉じていった。
―了―




