6章から10章
六章
構えた剣の先は、しっかりと狙いを定めている。相手もまた、寸分違わずこちらを狙っている。
「やあっ」
どちらが先に声を上げたのか、剣が派手な音を立てて重なる。相手の力はかなり強く、押し返すのがやっとだ。ふっと力を抜くと、予想していなかったのか相手は一瞬ぐらついた。すかさず後ろに飛び跳ねると、相手はすぐに体勢を立て直し、またお互い剣を構える。
「……さすがにお強いですね」
輝日が褒めると、高市麻呂は少し不満げに笑う。
「これでも私は、帝の宮殿をお守りする近衛府の大将ですよ。いくらあなたも腕が立つとはいえ、簡単に負けければ一大事です」
こうして高市麻呂を相手に剣の鍛錬をするようになって、何日になるのか。
あの梅見の宴の後、さすがに数日部屋に引きこもって過ごした。外へ出ると、またあのような恐ろしい目に遭うのではという恐怖もあった。
高市麻呂はおそらく志計史麻呂から事情は聞いていただろうが、輝日には一切何も聞いてこなかった。その代わり咲子が、日に何度も輝日の様子を見に来てくれた。それに甘え、しばらく病人のように過ごしていた。
時が経つにつれ、受けた衝撃や苦い思いは和らいでいったが、そうなると今度は退屈してくる。じっとしていることは、元々不得手なのだ。
剣に見立てた棒を手に庭で素振りを始めると、案の定咲子が血相を変えた。
「女人の身で、そのようなことをなさるなんて!」
咲子はただ、驚いているだけだ。おそらく彼女の周りに、剣を振り回す女などいなかっただろうから。
「大丈夫です。私、腕には自信がありますから。あと、相手になって下さる方がいれば幸いなんですが。もちろん殿方でかまいません」
輝日の頼みに、咲子は言葉もなくしているようだった。そんな輝日の行動は、高市麻呂もすぐ知るところとなった。
「どうやら、お元気になられたようですね。兄上からはなるべくお好きなようにさせよと言われておりますから、誰か寄越しましょう」
意外にもあっさりと、高市麻呂は輝日の頼みを聞いてくれた。かくして輝日の鍛錬は続いたが、肝心の相手たちの腕はほどほどでしかなく、あっさり負かしてしまう。
「これでは意味がありません。いっそのこと、高市麻呂様がお相手して下さいませんか。むろん、手加減なしで」
彼が、倭の軍の副将を任されるほどであるのは重々承知だ。でも今の輝日はそれくらい腕の立つ者とやり合わないと、嫌なことばかり考えてしまうのだ。
「わかりましたよ。怪我のないようには心がけますが、手加減はいたしませんよ」
そういうわけで、輝日と高市麻呂は時折剣の鍛錬をするようになった。真剣を使うこともある。興味本位で見物している咲子も、真剣はさすがに恐ろしいようで見ることはない。
「……いつになったら、帝にお目通りができるのでしょうか。志計史麻呂様は考えておくとおっしゃってましたが、やはり気休めだったんでしょうか」
今日も真剣のやり合いを終え、輝日は高市麻呂に尋ねる。高市麻呂は汗を拭く手を止め、その布を従者に預けた。
「そう言われますな。我々ですら、御簾越しにお言葉を頂くくらいが関の山なのです。特に今の帝は、お目通りをお許しになる機会が少ないと言われています」
「……そうなんですか……」
輝日は束ねていた髪をほどく。高市麻呂とて、帝を警護する近衛府の将であるのに、帝と直接顔を合わせることがないというなら、異国の民である自分は到底無理ではないか。
「ただ、兄上は決して気休めだけでものをおっしゃる方ではない。あなたのために、何かお考えなのだろうと思いますよ」
それこそが気休めだと思うが、さすがに口には出さない。
「ああ、あの桜もそろそろ見頃だな」
高市麻呂は再び汗を拭きながら、庭の木を見上げていた。輝日もつられて木の方を見る。
それは伊那で見慣れた桜と比べて、ずいぶん寂しげに見える。一本の木だけで、しかもまだ咲いていない花が多い。山を覆うような桜並木を思い出す。皆、春の畑仕事をしながらそれを眺めていたものだ。わざわざ花見の宴などしなくても良かったのだ。
「兄上」
ふいに咲子が現れる。真剣の鍛錬は避けるはずだが、急いでいたらしく息を切らしている。
「どうした咲子」
高市麻呂は従者に剣を渡し、輝日も剣を咲子に見えないように隠す。
「あの、志計史麻呂様が、今、お越しに」
「ええ? 兄上がなぜだ」
「そんなこと、私だってわかりません。でも、輝日様にご用があると……」
「私に?」
つい今し方、不満を言っていたので気まずい。
「とにかく輝日様、お召し替えを」
咲子は輝日を引きずり上げんばかりだ。そのまま自室へ連れ込まれ、汗にまみれた衣服を侍女の手ではがされる。
「ご無礼、お許し下さいね。志計史麻呂様はお忙しいので、長くお待ちになるの嫌われるのです」
咲子の言葉を聞く余裕はない。侍女たちの動きに全く無駄がなく、なすがままだからだ。さっきまでの動きやすい格好から、また倭の姫君然とした装束になる。
「お付けになって。頂いたものを付けていれば、喜んでいると思われますわ」
咲子があの髪飾りを出してくれる。輝日はそれを受け取り、自分で髪に挿す。咲子はどこかびくびくしながら、輝日の支度を見守っている。そんなに志計史麻呂を待たせるのが怖いのだろうか。それほど待たされるのを嫌う人だろうか。
咲子に追い立てられるように、輝日は志計史麻呂の待つ居室へ向かった。
「輝日様、お越しでございます」
中から「入られよ」と告げたのは、高市麻呂の声だ。先回りしたらしい。中へ入ると、正面に志計史麻呂が座っていた。
「何だ、これはまた仰々しい姿だ」
志計史麻呂は輝日を見るなり、微笑んで言う。
「咲子様が、失礼のないようにと整えて下さったのです」
思わず言い返す。彼女なりに、輝日が志計史麻呂に嫌われぬようにと気遣ってくれたのだから。
「それは、すまなかった。それよりも伊那の輝日、せっかく美しく装っているところをすまぬが、今日はそなたを連れ出しに来た。もう少し動きやすい姿になってもらいたい」
「連れ出す?」
聞き間違いではないようだ。どういうことなのか。
「それは、私をどこかへ連れて行くおつもりなのですか」
「都を、案内したいのだ」
「……え」
全く思っていなかった、志計史麻呂の答えだった。
「兄上、輝日殿に都を案内するとは、いったいどういう……」
「言葉そのまま、都の様々を、見せてやりたいだけだ。じゃじゃ馬の伊那の姫君が、そうそういつまでも邸でおとなしくしているとも思えぬからな」
志計史麻呂はずいぶんご機嫌のようだ。この様子では、輝日が高市麻呂を相手に剣の鍛錬をしていることも、とっくに知っているだろう。
「……いいのですか。あの、お忙しいときいてますけど」
志計史麻呂は三位の位を持っていると、咲子から聞いたことがある。それがどのようなものかはわからないが、倭の軍の総大将をつとめるほどだから、よほどの高官だろう。そんな彼が、輝日に都を案内するような時間があるのだろうか。
「案ずるな、それくらいは都合がつく」
志計史麻呂はやけにあっさりとしている。
「輝日殿、とりあえず」
高市麻呂の方が急かしてくる。輝日はいったんその場を辞して、部屋へ戻る。と同時に咲子がやって来た。
「輝日様、またお召し替えですって?」
すでに聞いているらしく、咲子はさらに慌てている。
「すみません咲子様。せっかく整えて下さったのに」
「志計史麻呂様のお言いつけであれば、仕方ありませんわ。でも、何をお召しになります? 動きやすいといっても……」
咲子は連れてきた侍女と顔を見合わせる。輝日はふと、思い出す。
「あの、あります。着るもの」
輝日の言葉に、咲子は小首を傾げていた。
その姿で現れたことを、志計史麻呂も少しは驚いたようだ。
「……まさかそれを着て来るとは」
「せっかく頂きましたから」
輝日が選んだのは、あの時志計史麻呂が掛けてくれた、青地に蔓草の文様の彼の衣服だった。それに男用の袴を穿き、長い髪を後ろで一つに束ねると、ほとんど男の格好だ。
「まあ良い。そなたならばそのような姿もまた、美しい」
「……またからかわれるのですね」
美しいなどと、てらいもなく言える彼に少し腹立たしさを覚える。
「からかってはおらぬ。そなたが己の美しさに気付いておらぬだけだ」
「もうやめて下さい」
言われれば言われるほど、おかしな心地になる。胸がざわめき、志計史麻呂の顔を直視できない。
「しかし兄上、本当に輝日殿とお二人で出られるので?」
高市麻呂はまだ、疑問に思うようだ。
「ずいぶん春めいてきている。出かけるにはちょうど良い」
問いかけの答えにはなっていない。輝日もまた、こんなにいきなり連れ出されるのは少し不安に思っている。
輝日は、志計史麻呂が用意させた輿に乗せられた。志計史麻呂は馬に乗っている。男のような姿だから輝日も馬に乗りたかったが、そうはいかないらしい。
一行はゆっくりと邸を出て、都路地を進む。同じような塀が並ぶ道は、山道よりよほど迷いそうだ。
「あの、どこへ行くんですか」
行き先を聞いていなかったことに気付き、尋ねる。輿に横付けするように馬を進めていた志計史麻呂は、目だけこちらへ向ける。
「市だ」
「市とは、様々な品物を売り買いするあの市ですか」
伊那でも皆、作った作物などあらゆる品物を、山の麓に開かれた市へ売りに行っていた。輝日は売り買いこそしないものの、何度も見に行ったことはある。
「都の市は広い。珍しい物も多く売られている。初めて目にする物もあろう」
都見物の最初が市とは意外だ。あるいは輝日が市を知らぬと思っていたのだろうか。しばらく進むと、人の声が増えてくる。歩く音、荷車のきしむ音、何かをたたく音まで聞こえてくる。
「ずいぶん、賑やかなんですね」
輝日の知る市は、ここまで騒々しくなかった。人の数が違うのだ。
「ここからは歩く」
ふいに輿の帳が開いたかと思うと、志計史麻呂が顔をのぞかせる。
「あ、はい」
輿はすでに置かれ、降りるための段が用意されている。輝日がそこへ降りようとすると、志計史麻呂が輝日の手を取る。そのまま輝日はゆっくりと、輿から降りた。
「わあ……」
目の前に広がるのは、数え切れないほどの店だ。通りを挟んでぎゅうぎゅうに並んだそれらの前には、様々な格好をした人が品物を物色していたり、店の者と話していたりする。
「こんなにたくさん、何を売っているんですか」
輝日は思わず、側の志計史麻呂に問いかけていた。志計史麻呂は微笑んでいる。
「何を、と聞かれると答えが難しい。なにぶん、あらゆるものが揃っているからな」
「あらゆるもの……」
志計史麻呂が、ゆっくりと歩き出す。輝日は慌ててそれについて行く。従者たちが二人を囲むようにして歩いている。
「あれは何」
輝日は一つの店先に目が行く。見たこともない、木で作られた道具がいくつも並べられている。
「これは大陸で使われている、数を数える道具だよ」
輝日が道具の側まで行くと、店主らしき中年の男が答えてくれる。
「数を数えるの? どうやって」
細く削った木を組み合わせた横に長い枠の中に、細い芯が何本も通されていて、その芯には小さな玉が何個か通してある。
「上のこれが、十と数える。それに下を足していくんだよ」
店主が玉をぱちぱちはじくのを、つい見入ってしまう。こんな道具は初めてだ。
「面白い! これが十ね。えっとそれで、ああ、こうやって数えるんだ」
「なんだ、あんた女かね。そんな格好してるから、男かと思ったよ」
店主が目を丸くしている。輝日が夢中で道具をいじっていると、従者の一人に肘を引かれる。
「あの、そろそろ参ります」
「ごめんなさい!」
すでに志計史麻呂は先へ歩いている。何も買わないのだろうか。
「楽しそうだな」
ふいに志計史麻呂が振り返る。いきなりだったので輝日は後ずさる。
「ええ……見たことないものばかりで」
「見てみよ、あれは大陸の人間だ。さっきそなたがさわっていた物の使い方を、皆に教えている」
志計史麻呂が指さす先には、くるぶしほどもある長い装束を着た男が、確かにさっきと同じ道具を手にして、周りの者に何か話している。だが、言葉がまるでわからない。
「あれは、大陸の言葉なんですか」
「そうだ。隣の小さい男が、倭の言葉に直している」
見れば長衣の男の横に、まだ若いが背丈の低い男がいて、威勢良く喋っている。
「何だか、変な取り合わせですね」
「そうだな。それにあれは単なる計算の道具だが、どうも違うことを言っている」
「そういえば、さっきからやたらあれを振ってますね」
小男が道具を振る度に、ちゃらちゃらと軽快な木の音が響く。ありがたいありがたいという言葉が聞き取れる。すると聞いていた者の一人が、急に小男と長衣の男に手を合わせる。さらにほかの者も同じように、二人に手を合わせている。
「霊験あらかたな品、と聞こえたな」
「それって、だましてるんじゃないですか」
輝日はあきれて声が高くなる。そっちへ向かって歩こうとすると、肩を引かれた。
「放っておけ。もう行くぞ」
志計史麻呂に、まるで抱き寄せられているような格好になり、輝日は動きが止まる。すぐ側に、彼の横顔が見える。端正な、それでいて隙のない横顔。それを見つめたまま、志計史麻呂のなすがままに歩き出す。すると志計史麻呂の手が、輝日の肩から離れた。
「もう一つ、行くところがある。ついて参れ」
そう言って、先に歩き出す。あの澄んだ香りが辺りに漂う。輝日はまるでその香りに誘われるかのように、後に従った。
輿から降りた輝日は、ただその建物を見上げるばかりだ。
「なんて大きい……」
天に届くかと思うほどの高さと、山の裾野にも見まがう幅。こんな建造物は伊那には存在しない。
「これは門だ」
「えっ、これが門?」
「そうだ。行くのはあちらだ」
志計史麻呂が指さす先に、また同じような巨大な建物がある。そしてこちらの建物は確かに、門の形をしていた。
「大きすぎて、わからなかった……」
「そうか。行くぞ」
志計史麻呂は少し微笑むと、また先に歩き出す。それについて行く、の繰り返しだ。門をくぐると、先の巨大建造物まで長く広い道がある。いや道というよりは、広場だ。
「ここは寺だ。大陸よりもたらされた、仏という新しい神を祀っている」
「ほとけ……」
聞いたこともない、神の名前だった。
「神様を祀っているから、歩いて向かうんですね」
輝日の問いに、志計史麻呂は満足そうにうなずく。ただ「ほとけ」という神がどのような神なのか、まるで知らない。
「この寺には、帝の命により造られた大きな仏がおられる」
「造られた? 人の手で、神様が造られたんですか」
神というのは、姿があるものではないはずだ。伊那では、山や大地、森や木、川などにそれぞれ神がいると信じられている。
「仏というのは、人の手でその姿を作り、それを祀る。そういう神なのだ」
「……不思議な神様ですね」
話をしているうちに、その「ほとけ」を祀るという建物にたどり着く。大きな入り口には一人の老人が、にこやかにたたずんでいた。老人は頭を剃り上げていて、見たこともないゆったりとした衣をまとっている。
「志計史麻呂様、お待ちしておりました」
剃り頭の老人は、丁寧に頭を下げる。
「御坊、この姫が、伊那という国から来た者で、初めて仏を見る」
志計史麻呂に言われて、輝日はとりあえず頭を下げる。
「伊那の輝日、この者は仏に仕える僧侶という立場の者だ」
「そうりょ……」
それがこの老人の名前でないことだけは、わかった。
「さあ、こちらへ」
僧侶が二人を案内する。輝日はやはり、志計史麻呂について行く形だ。
「ええ……!」
中へ入るなり、輝日はは声を上げ天井まで見上げる。天井はかなりの高さがあり、輝日を見下ろすかのように、巨大な彫像が座っていた。
「これが仏だ。帝の命により、数年がかりで造られた」
鈍い金色に輝く巨大な彫像は、半分しか開いていないような目と、粒が集まったような髪型をしている。片手は手のひらをこちらに向けて掲げ、もう片方は何かを掬うようにしている。その手は輝日など易々と載せてしまいそうだ。
「こんな大きな物を、造ったんですか」
いったいどうやって、という疑問すら出てこないほど、彫像に圧倒される。
「御仏を形として体現するのです。ぜひお手を合わせなされませ」
僧侶の静かな言葉が、どこか遠く聞こえる。ふと見れば、志計史麻呂が彫像に向かい、目を閉じて手のひらを合わせている。長い睫毛が影を作る横顔は、鼻筋が通っていてはっとするほど美しい。輝日はその穏やかで美しい横顔から目をそらすように、彫像に向かい手を合わせた。
目を開けると、やはり彫像は細い目で輝日を見つめ続けている。こんな巨大な、そして豪華なものを造ってしまう倭という国の力を改めて思い知らされる。
「御仏は、我らをただ、見守って下さります。多くを願わず、ひたすら祈られませ」
僧侶の言葉が、心に響く。倭の人たちはこの大きな神に、己の不安を包んでもらいたいのかも知れない。
「では、参ろうか、輝日」
志計史麻呂が「伊那」と前置きしなかった。輝日はどきっとして振り返る。
「あの、どこへ」
「花を見に行く」
「花?」
「この寺の裏庭の花が、ちょうど盛りだ」
志計史麻呂はまたさっさと歩き出し、またそれを追いかける格好になる。
「あの、先程は何を祈っておられたんですか」
何となく、聞いてみたくなった。
「国の安泰だ。そなたこそ、何を祈っていた」
「私は……内緒です」
本当は何を祈ればいいかわからず、ただ手を合わせていただけだ。けれどそれをそのまま明かす気にはなれなかった。
「何と、なかなかずるい物言いだ。私も言うのではなかったな」
「だって、大したことではありませんもの」
いつしか、二人して笑っていた。それに気付いた時、なぜか恥ずかしさを覚える。
「すみません、ご無礼をしました」
「何を言う。そなたはそなたのしたいようにすればよい」
穏やかな声音。耳の奥まで届いているようだ。
「あれがこの寺自慢の、花たちだ」
志計史麻呂が指さした先を見て、輝日は目を見張る。
「……きれい!」
数え切れないほどの桜の木が広い庭に植えられていて、その全てに薄紅の花が咲いている。時折ひらひらと落ちるその花びらは風に舞い、蝶のように飛んでいる。
「お邸では、まだ桜は開いていなかったのに!」
いつしか、駆け出していた。桜の木の群に入ると、天上を覆うような花が迫ってくる。落ちる花びらを追って走ると、また花びらが舞う。それの繰り返しを続けていると、束ねていた髪もほどけ風に流れる。
「なんとも、じゃじゃ馬なことだ」
志計史麻呂が、笑いながら近づいてくる。輝日は勢いのまま彼に走り寄る。
「だって、こんなに駆けたの久しぶりなんですもの!」
息を切らせる輝日を、志計史麻呂は微笑んだまま見つめている。そして志計史麻呂の手が、輝日の方へ伸びてきた。
「付いておるぞ」
大きくしなやかな手が、輝日の髪を梳く。まとわりついていた薄紅の花びらが、はらはらと落ちてゆく。黒髪が志計史麻呂の手にまとわりつき、やがて離れる。そしてあの澄んだ香りが、輝日の鼻をかすめた。
「あ……」
輝日はまた、動きが止まる。落ちる花びらをただ眺め、ゆっくり戻って行く自分の髪を見つめる。
「まるで幼子のようであったぞ」
志計史麻呂は楽しそうに笑って、その場に腰を下ろす。輝日はまだ髪に、彼の手の感覚が残っている。
「ああ、良い日和だ。やはり今日参って良かった。そなたもここへ座ったらどうだ」
志計史麻呂が輝日を見上げている。輝日は力が抜けたかのように、彼の隣へ座り込んだ。
「……すみません、はしゃぎ過ぎました」
「かまわぬ。ずっと邸から出られず、さぞ退屈しているだろうと思っていたところだ」
そっと志計史麻呂を見ると、彼は手のひらに桜の花びらを載せていた。そしてふっと息を吹き、花びらを飛ばす。こんなこともするのかと、輝日はしばらくその端正な横顔を見つめる。先ほど祈っていた時に、初めて男の顔形を美しいと感じたことを思い出した。
「そなた、帝にもの申したいと言っておったな」
「え?」
振り向いた志計史麻呂の顔が思いがけず近く、少し後ろへ下がる。
「帝に、伊那の者たちの考えを直接伝えたい、と言っていたであろう」
「……方法が、あるんですか」
本気にしてもらえるとは思えず、諦めかけていたことだ。それに、帝にはそう簡単に会えないとも言っていた。
「なくは、ない。だがそれは、そなた次第だ」
「私次第?」
「そなたが、帝に仕える女儒として宮中に入れば、あるいはそのような機会に巡り合うかも知れぬ」
含みを持った志計史麻呂の言葉の意味を、輝日は察する。察したくはなかったが。
「女儒とはつまり宮中の侍女だが、同時にお側に侍る者である。そなたがそれを受け入れられれば、帝も耳を傾けられるやも知れぬ」
先程まで高まっていた何かが、急に鎮まってゆく。帝の女になる以外、目通りなど叶わないということなのか。
「そんな、大事なこと、父に相談しなければ決められません。そもそも、倭の者でもない私が帝のお側に侍るなど、できるのですか」
どうしても、抵抗してしまう。しかし志計史麻呂は静かな表情を変えない。
「そなたが男であれば、いくら待っても帝への目通りなど叶わぬ。だが女であれば、そのような形であっても帝のお側へ行くことができる。そなたさえその覚悟があれば、あとは私が道筋を作ってやる」
言いながら志計史麻呂は、先程のように輝日の髪を梳く。それは、輝日にとって残酷な振る舞いだ。そうされればされるほど、胸の高鳴りが抑えきれないというのに。
そうか、そうなのだ。輝日はようやく、自分の持て余していた思いに気付く。だが今ここでそれを言うこともできない。髪からふわりと離れた桜の花びらが、志計史麻呂の袖に落ちた。
「……しばらく、考えさせて下さい。やっぱりすぐには決められません。父にも、聞いてみないといけませんし」
父に、果たしてそんなことを言えるのだろうか。私は倭の帝の女になりますなどと。
「そうか。ならば、心が決まれば知らせてくれ」
志計史麻呂はそのまま立ち上がり、輝日に手を差し出す。一瞬、輝日はためらったがやはりその手を取り、引き上げられる。そして漂う、彼の香り。
「良い答えを、待っている」
まるで何かを断ち切られたかのような、強い寂しさに襲われる。それを押し込めるように、志計史麻呂に微笑んでみせる。このまま時が止まればと、輝日は二人の間を落ちてゆく花びらを見つめていた。
七章
橘高市麻呂邸の桜の木は、すでに花も散り緑の葉が日の光を浴びている。
輝日はまだ、心を決め切れていなかった。志計史麻呂に、帝の女儒になれば伊那の思いを訴えられると言われたが、それはつまり帝の寝所に侍るということでもある。
だが輝日は、自分の中にある思いに気付いている。いやこれまでも、気付かない振りをしていただけなのかも知れない。
気が付けば、志計史麻呂のことを考えている。彼の穏やかな声、優しい微笑み、そしてしなやかで力強い手の感触。考えるのをやめようとすればするほど、それらがよみがえる。
ほどいている髪を、自分で撫でてみる。あの人は何度もこの髪を、美しいと言ってくれた。そして、触れられた。今まで男になど、さわらせたことなどなかったのに。
でもあの人は、私のことをそんな風には見ていないだろう。伊那の姫として、丁重に扱ってくれているだけだ。それに彼とて倭の高官。幾人もの妻を持っているとも聞いた。
あの人へこんな気持ちを持ったまま、帝の女儒になるなど、できるのだろうか。でもこのことは、あの人が勧めてきたことだ。それくらいでなければ、帝に直に話など出来はしないと。ならば受け入れるしかないのだろうか。
そんな風に考え込んでいるうちに、日が暮れてしまう日々が続いている。今日もまた、同じように夜を迎える。夜になるたび、あの人は今頃誰とどのように過ごしているのかなどと、柄にもないこと考えてしまう。
「……ばかみたい」
いつから自分は、こんな女になってしまったのか。一人の男のことばかり考えるなんて、一度もなかった。自分にあきれ、もう寝ようと部屋の明かりを落とす。
ふいに、何か物音が聞こえた気がして、輝日は部屋を見渡す。今宵は風もないはずだ。
「誰か、いるの?」
ここは仮にも、橘高市麻呂という高官の邸。大勢の見張りが囲んでいるはずだ。にもかかわらず侵入者がいるとすれば、よほどの者なのではないか。
輝日は思わず、剣を探す。しかしさすがにこの部屋には置かれていない。鍛錬に使っているものは、粛々と回収される。
「いるなら出て来なさい。私はただの女じゃありません。簡単にはやられないわ」
輝日は足に力を入れて立つ。暗がりに、部屋の入り口がわずかに開いているのが見える。やはり、誰か入っているのだ。
「……やっと見つけた……ずいぶん探したぞ」
どこかで聞いた声。すぐには思い出せない。でも確かに、知っている。
「俺だよ、陽鷹だ。おまえを捜してたんだよ、輝日」
「……陽鷹?」
思い出した。幾度か窮地を助けてくれた、元盗賊の男だ。
「覚えててくれたか、良かった! あれだけ関わってて忘れられたらさすがの俺も立ち直れねえとこだった」
「ど、どうしてあなたがここに?」
輝日は頭が整理できない。まずどうやってここへ入り込んだのか。そして何のために、彼はここまで来たのか。
「どうしてって、お前を連れ戻しに来たんだよ」
「連れ戻す?」
ますますわからない。伊那の民でもない彼が、何の権利があってそんなことを言うのか。
「さすがに守りのきつい邸だけど、俺は元は盗人だから、忍び込むのはお手の物だ。ちょうどお前、今一人になってるから、今しかないって思ったんだ」
「そんなこと聞いてるんじゃない!」
思わず輝日は声を上げ、すぐに黙る。不審な物音や声がすれば、すぐに侍女や舎人が駆けつける。貴顕の家とはそういうものだ。
「私を連れ戻しにって、なぜあなたが。それにあなたに連れ戻されるいわれなどないわ」
言い返しながら、どうにか明かりをつける。ほんのり闇を照らすその明かりの中に、確かに見覚えのある長身の男が見えた。
「良かった……本物の輝日だな」
陽鷹は相変わらず、少年のように笑っている。だけど今はそれどころではない。
「私に何かしようっていうなら、人を呼ぶわよ」
「なんでだよ。俺は昴に約束したから来たんだ。お前を連れて伊那へ戻るって」
「昴に?」
思いがけず弟の名前が出てきて、輝日はまた戸惑う。昴はこの男を兄のように慕っていたが、それにしてもだ。
「昴が、頼んだの、あなたに」
「いや、そうじゃない。でも昴もお前に帰ってきてほしいと思ってる」
「勝手なことを。昴だって私が倭へ行くのを納得した。今更そんな事を思うはずはない」
これは自分に言い聞かせている。昴は本当は、跡取りである自分が行くべきだったと思っているはずだ。
「とにかく、夜が明ける前にここを出るぞ。早く」
陽鷹が近寄ってきて、輝日の手を取ろうとする。
「私はここを出るわけにはいかないわ。勝手にいなくなれば、倭が伊那に何をするかわからない」
実質的な人質である輝日が、許可を得ず伊那へ戻ればそれは脱走と見なされる。
「どっちにしたって、倭は伊那に戦を仕掛けるんだろ。だったらお前がここにいる理由なんかないじゃないか」
「なんですって? 私は戦を起こさないためにここへ来たのよ!」
輝日は陽鷹の手を振りほどく。思いがけず力が強くなり、陽鷹がぐらついた。
「……お前、まさか、あの男の言うことを信用してるんじゃないだろうな」
陽鷹から笑みが消える。
「あの男? 志計史麻呂様のことを言ってるの」
「そんな名前だったっけな、倭の総大将のきざ野郎。あいつにもう誑かされたのか」
「誑かされた?」
何という暴言だろう。
「ああそうだ。あの手の男ってのは、女の扱いなんか手慣れてる。ましてやお前みたいに純粋で、男のことなんかろくにわかっちゃいない女のことはな。ああいう男は自分の目的のためなら、女の三人や四人、平気でだますんだよ」
「いい加減にして!」
人が来てもいい。こんな人捕まってしまえばいい。あの人のことをそんな悪し様に言うなんて。
「あなたこそ、私の何をわかっているというの。私がどんな思いでここまで来たのか、何も知らないくせに! 志計史麻呂様は私のそんな思いをわかって下さってる。私にはわかる。あなたが昴とどんな約束をしたのか知らないけど、勝手なことを言わないで!」
「輝日……」
その瞬間、陽鷹の顔が昴に見えた。自分の体が思うようにならず苦しんでいた、弟の表情に。
「どうなされました」
外から、男の声がした。警護に当たっている舎人だ。輝日と陽鷹は一瞬顔を見合わせる。すると陽鷹の体が飛び上がった。
「……何でもありません。ちょっと、大きな虫がいて、追い出そうとしたらつい声が出たんです」
陽鷹は天井の梁に猿のようにぶら下がっている。何とか舎人が入ってこないようにと、祈る。
「叩き潰しちゃって、ちょっと気持ち悪くてまた声が出てしまって、もう大丈夫ですから、ご心配なく」
「わかりました。何かあれば、いつでもお申し付け下さい」
ひどくあっさりした返事の後、足音が遠ざかって行く。輝日が息をつくのと、陽鷹が音もなく降りてくるのはほぼ同時だった。
「もう、出て行って。次に誰かが見に来たら、もう隠せない。伊那の為にも、妙な疑いは駆けられたくないから」
輝日は陽鷹に背を向ける。陽鷹がどんな顔をしているのか、見たくなかった。
「……わかったよ。お前がそこまで言うなら、出て行く」
陽鷹の声はさっきよりずっと低く、力がない。輝日が思わず振り返ると、すでにそこには誰もいなかった。
「どうして……こんなところまで来るの……」
その場に座り込んでしまう。陽鷹が、志計史麻呂を罵った言葉が頭で回っている。あの手の男は、目的のためなら平気で女をだます……。
「違う!」
そんなはずはない。あの優しさが、嘘だなんて思えない。
だけど、どちらにしても、私はあの人の側にはいられない。伊那のために、私は帝に直訴しなければならない。そのためには……。
肩からこぼれ落ちる、自分の髪に触れる。この髪は、私が残していた唯一の女の部分だった。それに気付かせたのは、あの人だ。どうあっても、私は女であることから逃れられない。それでも、自分で決めたのだ。伊那を守ると。
この髪に、私の思いを封じ込めよう。そう決心した。
「本当にそれでよろしいのか」
高市麻呂の繰り返しの問いに、輝日はうなずき続ける。
「他に方法がないのであれば、仕方ありません。女儒として宮中に上がり、その機会を待ちます」
輝日は高市麻呂に、志計史麻呂から提案されたことから、それを受け入れることまでを話した。高市麻呂は輝日が帝の女儒になると聞くと、思っていた以上に驚きを見せた。
「しかし何も、女儒とは……それが何を意味するのか、おわかりの上で言われているのですね」
「……覚悟の上です」
男を知らぬ身であれば、たとえ相手が倭の王であっても、恐怖と不安が伴う。それでも、もう後には引けない。
「それで一つ、高市麻呂様にお願いがあります」
「私に?」
輝日が手を付くと、高市麻呂は身構える。
「このことを、伊那の父・大歳にお伝えいただけないでしょうか。このところ、伊那からの便りも見えず、私から使者を出しても返答がありません。何があったのか、調べようにも人質の身では自由に身動きも取れず、結局に父に相談せずに宮中に上がります。ですからせめて、高市麻呂様から伝えていただきたいのです」
志計史麻呂から女儒の提案があった辺りから、伊那からの便りが途絶えている。それまでは数えるほどではあるがやりとりはしていた。輝日から何度か便りを出したが、その返答もまだ来ていない。高市麻呂から知らされれば、驚くに違いない。でもこれも、伊那を守るためだと思っている。
「わかりました。私が責任を持って、お伝えする」
「ありがとうございます」
少しだけ、気が楽になる。
「しかし、兄上も難しいことを仰せになる。兄上のお力を持ってすれば、他にやりようもあるように思えるが……」
「え?」
高市麻呂は何気なく言ったのだろうが、輝日にはひどく引っかかる。
「どうして高市麻呂様は、そう思われるのですか」
問いかけると高市麻呂は、輝日から一瞬視線を外した。
「それは……兄上は帝と同じお血筋でもあられ、帝のご信頼も厚いお方。お口添えなりなんなりできるのではと思ったまで。でもやはり兄上でも、できぬことはあるのでしょう」
高市麻呂はどこか居心地が悪そうだ。これ以上聞かぬ方が良いのだろうか。
「そうなのですか。それでは、伊那へのお伝えも、よろしくお願いします」
それだけは、念押しする。
輝日が女儒として上がる話は、高市麻呂から志計史麻呂へ伝えられた。しばらくすると輝日の元に、豪華な装束や飾り物、さらには調度品までもが次々送られてくる。全て、志計史麻呂が用意したものだ。
「これではまるで、お妃として上がるみたいですね」
咲子は美々しい品物に興奮している。はじめから帝の妃として宮中に入るのは、倭の貴族の姫だけだ。あとの身分の高くない者や、輝日のように倭の女でない場合は、宮中の侍女である女儒から始まる。寵愛を受けて子を産んで初めて、妃の一人として数えられるらしい。それなのにこんな豪華な支度で、しかし侍女として上がる自分はずいぶん滑稽だろう。ましてや用意してくれるのが、あの人なのだから。
そして志計史麻呂は、女儒に上がると決めたことを聞いても、輝日に何も言ってこない。会いにはもちろん、呼び出しもしない。ただ、良く決心した、と高市麻呂に言ったらしい。
さらに、高市麻呂へ伊那の父への伝言を頼んだが、まだ届いていないのか何の音信もない。できれば、父や皆がどう思っているかを聞いてから宮中に上がりたいが、間に合いそうにない。
あっという間に、宮中へ上がる日が来てしまった。実際に入るのは夜だが、ずいぶん早く起こされて支度をさせられた。少し重みがある絹の装束に、宝玉をちりばめた飾り物、さらに濃い化粧を施された自分を見て、もう誰だかわからないほどだ。
「輝日様がうらやましい。こんなに美しい装束や飾りを身にまとって、帝の元へ上がれるのですもの」
咲子がため息交じりに言う。やはり女という者は、本来そういう身を飾ることに喜びを見出すのだろうか。輝日にはただ重く、面倒な状態だ。
ただ、志計史麻呂からの最初の贈り物である蝶の髪飾りだけは、手放さない。
宮中入りの前に、高市麻呂の勧めで志計史麻呂に挨拶をすることになった。いったん志計史麻呂の邸に入り、そこから宮中へ参上する。
輝日が通されたのは、広大な邸の中にしては小さな一室だった。それが志計史麻呂の私室であることは、隅の棚に並べられた多くの書物や、椅子や机にあしらわれた柔らかそうな絹布、そして室内の最も奥の壁に掛けられた立派な剣が表している。
思えば二人で外出したあの時から、まともに話をしていない。志計史麻呂が高市麻呂邸を訪れることもあったが、呼ばれることもなく、こちらから行く用事もなかった。そして今、宮中へ上がる身となって、何を話せばいいのか戸惑っている。
居室の四方には全て窓があり、今は開け放たれている。人の手で整えられた庭には、春とはまた違う色とりどりの花が咲き誇り、完璧なまでに美しい。
「やはり花を見るのが好きか」
声とともに、香ばしく澄んだ香りが漂う。相変わらず衣服に焚きしめているのだろう。何の香りか、また聞いていなかった。
「……本当は、山などにそのまま咲いている花の方が好きです」
向かい合った志計史麻呂の顔を直視できず、うつむく。
「そうか。だがこうして丹精込めて咲かせた花も、また良いものだ」
志計史麻呂の香りは、花の香りなのだろうか。いや違う。むしろ、あの時連れて行かれた「寺」なるところで漂っていたのと同じ香りだ。
「……こうしてお支度を整えていただき、ありがとうございます。覚悟を持って、帝のお側に上がるつもりです」
「そうか。よく、決心した」
衣擦れの音がしたかと思うと、香りが強くなる。伸びてきた手が顎に触れ、気が付けば彼と目を合わせていた。
「美しい。このまま連れ去って隠してしまいたいほどに。私の目に狂いはなかった」
顎を持ち上げられているのはわかっている。胸の奥から、強く打ち付けられるような鼓動を感じる。
「……戯れはもう、やめて下さい」
自分でも、声の震えに気付いている。怖くなり目を閉じると、手が離れる。
「花は愛でられるからこそ美しい。いくら咲き誇っていても、誰からも見られねば何の価値もない」
それは私のことだろうか。いや、私は花のような女ではない。それはもう、わかっている。逃げたくなって立ち上がると、志計史麻呂に腕を捕まれ、引き寄せられる。髪に、彼の息がかかる。
「……私はもう、決心したんです。だから、やめて下さい」
背中に男の体を感じながら、輝日は言う。志計史麻呂は抱きすくめる手は離さないが、それ以上動かない。自分もまた、強く振り払えないことはわかっている。早く、誰か来て。そうじゃないと……。
「失礼いたします。輝日様は、そろそろ出立の刻限にございます」
冷たささえ感じる、侍女の声。志計史麻呂の手が、ゆっくり離れる。輝日はただ頭を下げ、逃げるように部屋から出る。自分が何をしようとしたのか、すでに知っている。でもそれはもう、許されないことなのだと、自分に言い聞かせ続けていた。
夜に、輝日は予定通り宮中へ入った。女儒が上がるだけにしては豪華な支度だからか、はたまた異民族の女が乗り込んできたとでも思っているのか、そこかしこに視線を感じる。
与えられた居室にはいると、すぐに帝の使いなる者が現れた。
「典侍、石上萱子にございます。あなたはこれより帝の御許にて働いていただきます。くれぐれも、帝一途でお仕え参らせますよう」
六十近くだろうか、小柄で細身ながら背筋は伸び、しっかりと目を合わせてくる。
「ご指南のほど、よろしくお願い申し上げます」
値踏みするような目つきに、輝日はそう答えるのがやっとだった。
「あなた様のことは、橘三位殿より伺っております。しかしくれぐれも、余計なことには目を向けぬように。それがこの後宮で暮らす者の掟です」
「はい……」
橘三位とは、志計史麻呂のことだ。先程のことを思い出してしまう。あの人はやはり、残酷な人だと。それでも志計史麻呂がこの石上萱子なる、女にあらかじめ伝えてくれていたことは、少しばかり心強い。
翌日から、萱子から遣わされた女儒から指南を受けることになった。後宮の配置、存在する帝の妃たち、そして女儒の役目を次々と教えられ、ついて行くのがやっとだ。
「帝が後宮にお姿を見せることはありません。たとえ皇后様といえど、帝の御寝所へ参上することになっております。そして我ら女儒は、帝よりお沙汰があればお妃方の代わりにお側に侍り、いずれは子を産み参らせる立場。その身は清らかでなければなりません」
そう語る女儒もまた、帝の寝所に侍ったことがあるのだろうか。そんなことを考える自分が、嫌だった。
そして後宮での暮らしは、息苦しい。帝の使者の取り次ぎや、妃たちの支度の介添え、文書の代筆などする事は多いが、限られた場所から出ることが許されないというだけで、輝日は閉じこめられたような心地になっている。
「こんなことのために、伊那を出たわけじゃないのに……」
どうしても、伊那のことを思い出す。父は元気なのだろうか。昴はまた体をこわしてはいないだろうか。
そういえば、あの陽鷹はどこへ行ったのだろうか。昴と約束したなどと言っていたが、志計史麻呂に対する罵詈雑言に腹が立ち、追い出してしまった。そのことにほんのわずか、罪悪感がある。
それにしても、帝に侍る妃と女儒が住まう後宮であるというのに、肝心の帝が姿を見せないというのも妙な話だ。夜に女たちが参上するのはまだ良いとして、それ以外も一切現れることがないというのは不自然ではないか。
しかしそのことに疑問を持っていそうな女はいない。あるいは疑問があっても知らぬ顔をしているのだろうか。それが、後宮という所なのか。
疑問をそのままにはできない。輝日は教育係の女儒がいない隙を狙い、後宮や宮殿自体の探索を試みる。見つかればどうなるかわからないが、曖昧なままでいる方が嫌だった。
だが後宮自体は、特に気になることもなかった。女たちはこまごまとした仕事をし、何日かに一度の夜には誰かが一人が帝の寝所へ上がる。結局同じことの繰り返した。
輝日は思い切って、後宮の外へ忍び出る。普通に行けば回廊に扉がありそこに見張りの者がいるが、回廊の床下に潜れば人目に付かない。
ただ、床下を移動しているうちにどこをどう歩いているのか、わからなくなって来た。しばらくは女の声ばかり聞こえたので後宮であったろうが、いつしかそれが男の声に変わっている。元の場所へ戻れるか、不安になってくる。
「……あれは」
輝日は床下の奥の方へ戻る。広い場所が見えたからだ。その広場に何人もの人が集まっていて、何かを取り囲んでいるように見える。よく見れば男が二人、後ろ手を縛られた状態で囲まれていた。
「十河の!」
わずかに見えた顔が、輝日の記憶をよみがえらせる。以前伊那とその周辺がまだ平穏だった頃、父の元を訪ねてきたことのある、十河の衆長だ。十河は倭に降り、さらにその民が恩賞狙いで輝日を襲おうとしたこともある。いずれにしても倭の側になっていたはずだ。
だがどう見ても衆長たちは刑罰でも受けようかという有様だ。縛り上げられ、さらには顔や手足に殴られたようなあざがある。囲んでいる者たちは四人ほどで、甲冑を付けている。一人はやけに幅の大きな刀を手にしている。刃が日の光を受け、輝日の目を突く。
まさか。輝日は少しかがみ込んで、そちらを見据える。衆長たちは甲冑の者たちに後ろから押され、うなだれるような姿勢になる。何かを言っているようだが、ここからではわからない。抵抗してもさらに押さえ込まれる。大きな刀を持った男が衆長の横に立ち、刀を構える。
「やめて!」
思わず声が出るが、当然向こうには聞こえない。刀が振り下ろされ、輝日は目を覆う。
恐る恐る目を開くと、地面は赤黒いものに染められていた。以前伊那の里で、志計史麻呂が盗賊の頭目を斬った時と同じだ。側に転がるものを、とても直視できない。かなり離れているのに、はっきりと形がわかる。体の震えが止まらない。
さらに刀の男が、もう一人の横に立って振り下ろした。聞こえないはずの音が聞こえ、首が転がり落ちる。この場から去らねばと思うのに、動けない。胸から何か突き上げるような心地になる。倭に従ったはずの十河が、なぜあのような目に遭うのか。もし伊那が倭に従ったとしたら……。
「父上!」
喉の奥から出た声は、かすれていた。
「誰かいるのかっ」
男のとがった声がして、輝日は転がるように床下づたいに走る。どこをどう走ったかわからないまま、気が付けば自分の居室だった。何もかもが恐ろしくなり、寝台に潜り込む。なぜ、なぜあんな目に遭っているのか。嘘に惑わされた民のせいか。それとももっと違う理由か。忘れたいのにそのことばかり考えてしまう。
志計史麻呂に会いたい。輝日は初めて心からそう望んでいた。あって、自分の疑問の全てを聞いてもらいたい。そしてそれを、あの優しい声で否定してほしい。
でもそれが叶わないのはよくわかっていた。そしてずっと、陽鷹が言っていたことが頭の中で繰り返されていることも、わかっていた。
十河の衆長たちの処刑を見てしまってから数日、輝日は何をするにも身が入らなかった。持ち場を抜け出して処刑場に行ったことは発覚してないようだが、様子のおかしい輝日のことを怪しむ者もいるようだ。
だが輝日はそれどころではない。疑いと恐れは日に日に募ってゆく。果たして自分はここへ来て良かったのか、自分の行動次第では、伊那の父や仕える者たちが、あの十河の者たちのようになってしまうのではないか。
「伊那の輝日殿、少々よろしいか」
突然、典侍石上萱子が輝日の元を訪れたのは、そんな頃だった。
後宮の妃たちまで取り仕切っているらしい萱子は、帝の養育係でもあったという。権力があるのは当然だったのだ。
「おめでとうございまする。帝のご寝所にお侍りになることが決まりました」
「え……」
覚悟の上で来たはずだが、いざその事実を突きつけられると戸惑う。
「参上までは、全てにおいて謹んで頂かねばなりませぬ。ひとまず女儒の役目を休み、身を清め、帝にその身を捧げる覚悟をしていただきます」
身を捧げる、という言葉の生々しさに肌が粟立つ。
「よろしいですか」
強く念を押すように、萱子が聞いてくる。
「……わかりました」
他に答えようもなかった。
「参上は、明日の夜となっております。介添えの女儒が参りますまでは、こちらからお出にならぬよう」
「はい」
萱子の、女とは思えない鋭い目つきが、何もかも見通しているようで恐ろしささえ感じる。だがそれがかえって輝日に覚悟を持たせるのだった。どうせ逃げられぬ。そして自分が選んだ道なのだと。
第八章
帝の元へ侍るその日の朝、輝日の元には石上萱子率いる三人の女儒が現れ、有無を言わせぬ支度が始まった。
まず全ての装束を剥がれ、女儒の手によって体を洗われた。髪もほどかれて洗われる。
「お美しいこと。帝もさぞ、お気に召すでしょう」
輝日の髪を持った女儒の何気ないつぶやきに、寒気を覚える。あの人以外の男が、この髪に触れるのか。
体を清められると、白の装束を身につける。柔らかい絹で織られていて、白一色でもまばゆいほどの美しさだ。
洗われた髪は一日掛けて乾かされ、流したまま後ろで緩く束ねられる。一見素朴な姿だが、薄化粧を施され、つやつやした絹の装束でかえって豪奢にも見える。
夜になって、萱子に先導され帝の寝所へ向かう。白絹の装束だけが、足取りを重くしている訳ではない。あの髪飾りを忍ばせた懐に、そっと手を当てる。飾り物は一切身に付けないのが、帝の寝所に上がるときのしきたりだと言われたため、萱子の目を盗んで持ち出したのだ。どうしても、そうしたかった。
やがてひときわ奥まった館へやってきた。萱子に中へ入るよう促され、輝日は恐る恐る足を踏み入れる。思っていたより狭い室内で、敷物が広げられた手前の一間と、奥に寝台の置かれた一間だけだ。
「こちらで、お越しをお待ちになるように」
萱子が指さした敷物に腰を下ろす。寝台は薄い帳が掛けられ、美しく整えられている。とても見られずうつむいていると、萱子が音もなく去って行く気配を感じた。
待っているうちに、耳鳴りのような音が頭で響く。ほとんど物音がしないせいだ。だが。
「……これは……」
急に、辺りに覚えのある香りが漂う。いや忘れもしない、あの澄んだ香ばしい香りだ。なぜかわからず、輝日は辺りを見渡す。
「どうして、この香りが……」
「大陸より渡った、沈香という香だ。魔を遠ざけるとされているため、使っている」
聞こえた声に言葉も出ない。背後から現れたのは、橘志計史麻呂だった。
「なぜ、志計史麻呂様が……」
輝日はようやく、その問いを口にする。志計史麻呂は輝日と同じ、白絹の装束を着ている。そしてやはり、あの香りがする。
「私が、帝だからだ」
「え?」
ますますわからない。志計史麻呂が、実は帝であったということなのか。
「いや、正しくは帝の影だ。帝は帝でおわしますが、その実体ははかないもの。私は帝の身代わりでもある」
「身代わり……?」
「御子を儲けられぬ帝に代わり、その血筋をつなぐための影が、この私だ」
志計史麻呂は輝日の前に座る。まだ、ことの次第が見えない。
「帝は御体が弱く、何度か御子を儲けられたがいずれもすぐに亡くなった。それ以降帝の実の子は諦められることになり、後宮も放置なされた。だがそれでは帝の血筋がたち行かぬ。それで同じ血筋である私が選ばれ、帝の代わりに後宮の女に子を産ませ、血筋をつなぐことになったのだ」
「そう……なのですか……」
不思議と、志計史麻呂が現れたということにうれしさを感じない。ほんの少し前までは、会いたいと思い続けていたはずなのに。
「そなたが帝の妃となり、私と結ばれることによって伊那は倭と一つになる。そなたはこれより、倭の女となる」
「倭の……女?」
思わず聞き返す。違う、何かが違う。倭の女という言葉に、強い違和感がある。だが志計史麻呂の手が伸びてきて、輝日の髪に触れる。一つに束ねていた紐を簡単にほどき、髪を手に巻き付けるようにして、口づける。髪をたぐるように体を引き寄せられ、なすがままに彼の胸に抱かれる。もう片方の手が顎を持ち上げ、そのまま唇が重なる。思いがけず冷たい唇に驚いて離れようとすると、それを許さぬように再び唇をふさがれる。息をするのを忘れ、思わずうなるとようやく唇が離れた。
「……私は、伊那の女です。どうして、倭の女などと」
どうしても、しっくりとこない。すると志計史麻呂は輝日を自分の胸に抱え込む。
「それが伊那の生き延びる条件の一つだからだ」
「伊那が、生き延びる?」
輝日は顔を上げる。
「私は、帝に直接伊那の思いを言いたくてここまで来たんです。それなのにあなたがここにいて、私はどうすればいいのですか」
何とか離れようとするが、志計史麻呂は変わらぬ穏やかな表情で輝日を見下ろしながらも、決して放そうとしない。
「どうすることもない。私に抱かれ、倭の帝の子を産み、後宮の女として生きることになる。そなたは、伊那が帝に従う証だ」
証、という言葉が輝日の胸に刺さる。抱きかかえられそうになるのを、のけぞってふりほどく。
「そんなこと、何も聞いていません! 私は、伊那と倭が対等に向き合えばと思って」
「それはできぬ。全ての国が倭と一つになり、大陸に対抗し得る国にならねばならぬからだ。そなたが倭の女になることによって、伊那もまた倭の一つとなるのだ」
「嘘……」
輝日はそこで初めて、自分が何も見えていなかったのだと悟る。帝の身代わりをつとめている志計史麻呂が、そのことを隠して後宮入りを輝日に勧めたのだから。
「私を、騙したのですか! 私の思いも何もかも知った上で、こんなところまで引きずり出したのですか! はじめからそのつもりだったのですか!」
「騙したとは、ずいぶんなことを言う。戦を起こしたくないのは、そなたの最たる望みのはずだ」
志計史麻呂はまるで表情を変えない。
「私、見たのです。十河の衆長が、首を斬られるところを。十河は倭に従ったのではないのですか。なぜあんなむごい目に遭わねばならないのですか。この国の全てを倭の手中に収めるためですか」
体が震えている。あのとき流れていた血と、伊那の父や皆の顔が重なる。同じようなことにならないと、誰が保証できるのか。
「十河は倭のやり方に不満を見せた。反乱を起こすことも考えられたからだ」
言いながら志計史麻呂は、有無を言わせぬ力で輝日を引き寄せる。それまでの穏やかさなどみじんも感じさせないその力強さ、いや乱暴さに輝日は引きずられ、腕の中に入れられてしまう。
「そなたは何もわかっておらぬ。いくつもの国が並び立って力を合わせるなど、絵空事だ。いずれは軋轢が生じ、再び争いになる。そうならぬためにも、より強い国が他を従えねばならぬ」
「そんな、そんなこと、ない……」
輝日は何とか逃れようともがくが、志計史麻呂は決して腕をゆるめようとしない。
「お願い、離して下さい」
「ならぬ。そなたは帝の女、つまり私の女となる身だ」
冷たく響く、志計史麻呂の言葉。この前までのあの人と、本当に同じ人なのだろうか。
「どうして、言ってくれなかったんですか、今のこの状況を。なぜ私に何も言わず、こんな目に……」
「言えばそなたはここへ来たか」
低く響く言葉に、思わず志計史麻呂の顔を見る。変わらない静かなまなざしが、今はただ恐ろしい。すると志計史麻呂は軽々と輝日を抱え上げ、奥の寝台へ行く。
「嫌!」
寝台に投げ出されたと同時に、志計史麻呂が上にのしかかる。
「やめて、離して!」
はねのけようとしても、あまりに力が強くますます重みが掛かる。倭の貴族の子息たちに陵辱されそうになった時と違い、男の硬い体が直接輝日の体を押さえつけている。
「なぜわからぬ。もはや伊那に、倭に対抗しうる力はない。倭にとって、そなたは捧げられた者だ。他に伊那を守る手だてなどないと、なぜわからぬ」
「違う!」
強く頭を振って逃れようとする。だが志計史麻呂は輝日の白絹の襟元を押し広げようとする。その時、懐から何かがこぼれ落ちた。
それは、忍ばせていたあの蝶の髪飾りだった。こんなことになるなど、夢にも思っていなかったのに。志計史麻呂はそれを見て、ふっと笑いを漏らす。
「……そなたも、望んでいたのではないか、こうなることを」
輝日は、凍り付いたように動けなくなる。違う、私が望んでいたのは、こんなことじゃない。
だが、体が抵抗できない。志計史麻呂はそのことをどうとらえたのか、荒々しかった動きをゆるめ、ゆっくりと輝日の首筋へと顔を埋めてくる。襟が広げられるのがわかっていても、声も出ない。そのまま志計史麻呂と目が合うと、彼の手のひらが頬に当てられる。重なった唇は、やはり冷たい。
「……っ!」
自分でも何をしたのかわかっていない。だが志計史麻呂がその瞬間顔を上げて飛び退く。押さえつけられていた力が弱まり、輝日ははじかれるように起きあがる。寝台から転がり落ちて、広がった胸元をあわててかき合わせる。かすかに、血の味を感じる。無我夢中で外へ駆け出す。
「どちらへ参られる!」
突然の声に振り返ると、石上萱子がまるで岩戸のように立っている。
「その血は何事。まさかそなた、帝に害をなしたのではあるまいな」
輝日は手の甲で口の端を拭う。赤茶色の染みがこびりつく。自分のものか、あの人のなのかわからない。
「出合え! この娘をとらえるのじゃ」
萱子の声に呼応して、ばらばらと女たちが輝日を囲む。皆、槍か剣を手にしている。
「これらは後宮を守る者たち。女ながら全て手練れじゃ。帝に害なす者は容赦せぬ」
言い捨てて萱子は、帝の居室に入り込む。輝日は女たちを数える。六人なら、一人の武器を奪って逃げるより他ない。
「やあっ」
女たちの声が響き、一斉に輝日に刃が向かう。身を屈めてそれらをよけ、剣を持った女の裳裾を思い切り引っ張る。女が悲鳴を上げて倒れ込むと、すかさず鳩尾を蹴る。落とした剣を奪い取り、全ての刃を振り払うようにぐるっと回る。
女たちは動きを止め、輝日をにらんでくる。輝日は低い姿勢のまま、剣を構える。少なくとも彼女たちは倒せる。
女たちから少しずつ、距離を取り始める。長い裳裾が邪魔だ。女の一人が槍を構え切りかかってくる。輝日は剣を振り上げてそれを受ける。いったん剣を引いて押されたように見せかけ、目一杯の力で跳ね上げる。不意を付いた格好になり、女は後ろへ倒れる。さらに向かってくる他の女たちを、剣でなぎ払ってゆく。女たちは明らかに動揺している。輝日は剣を構えたまま走り出す。
「宿直の者、あれが狼藉者じゃ。捕らえよ!」
いつ戻ってきたのか、萱子の声が響く。今度は剣を持った男が三人いる。
「……高市麻呂様」
男たちの先頭に立つのは、あの人の弟だった。
「輝日殿? いったい、これは、何事で……!」
高市麻呂は唖然と輝日を見ている。
「高市麻呂殿、この者は帝に害をなした狼藉者。早う捕らえなされ」
萱子が先程よりは落ち着いた声でけしかける。
「何があったのですか、輝日殿。なぜあなたが狼藉者と追われているのです」
「……何が、あった、ですって?」
何も、知らないのか。志計史麻呂の弟でありながら、本気でそんな物言いをするのだろうか。
輝日は剣を構える。ここから出るためには、高市麻呂と一戦交えねばならない。だが彼の剣の腕は本物だ。退屈しのぎとはいえ、何度もやり合ったのだからわかっている。
「私には、話したくないということか。それならば私は、帝の臣としてあなたを捕らえねばならない。許されよ!」
高市麻呂は素早く剣を抜き、斬りかかった輝日の剣を易々と止める。お互い押し合うようにじりじりと、剣を合わせ続ける。
「かかれ!」
萱子の声がしたかと思うと、高市麻呂の後ろに控えていた二人の男が飛びかかってくる。輝日は両腕をつかまれ、剣をたたき落とされる。
「何をする!」
輝日と、高市麻呂がほぼ同時にそう叫ぶ。しかし輝日は腕を締め上げられ、膝を突かざるを得なかった。
「高市麻呂殿、何度も申し上げております。その娘は帝に害をなした罪があるのですぞ」
「それは、そうだが……」
高市麻呂は戸惑っている。勝負に水を差されたかのように。輝日は急に体の力が抜けたように、押さえ込まれたまま床にうずくまる。何だったのだ。いったいなぜ、こんなことになったのか。
「……お、お戻りなされませ!」
萱子の声が、打って変わってうろたえたものにになる。顔を上げると、志計史麻呂がそこに立っていて、皆があわてて顔を伏せたり、端へよけたりしている。だが志計史麻呂はかまわず、ゆっくりと輝日の所まで歩み寄ってくる。その目は、伊那に乗り込んできた時と同じ、鋭く冷たいものだ。それこそが彼の、本当の姿だ。
「お姿をさらすことは、なりませぬ」
萱子が袖を引く手を振り払い、志計史麻呂は輝日の前に片膝を付く。唇の端に、赤黒い傷がついている。そしていきなり、輝日の顎をつかみ上げた。
「……残念だ、伊那の輝日」
その表情は、輝日が思っていたのと違う。鋭さはそのままなのに、なぜか潤んでいるような、悲しげにさえ見える目。
「いずれ、伊那は倭の総攻撃を受けるだろう。そなたが招いた、戦だ」
輝日の顎から乱暴に手を離し、志計史麻呂が立ち上がる。まるで絞り出すようだった彼のつぶやきは、輝日の心を打ち砕くのに充分だった。彼が去って行く足音は、伊那へ近づく倭の脅威のものに思える。
「この娘を、後宮の牢獄へ押し込める。早うせよ!」
萱子が、気を取り直したかのごとく居丈高に命じる。輝日はただ引きずられるのを、感じるばかりだった。
九章
暗い。
牢獄というよりは、居室のようなその場所で、輝日は力なく横たわっていた。
志計史麻呂の正体など、一切考えたことがなかった。あの人は優しく、そして自分のことをわかってくれている、と信じ切っていた。
初めて感じる、恋という名の思いであることはすでにわかっていた。男という者に、初めて直に触れた瞬間でもあった。
だがそれらが、目をくらませた。彼の本当の狙いを知ろうとせず、その感情と、感じたことのなかった甘い疼きに身をゆだねそうになっていた。裏切られたのではない。見ていなかっただけだ。自分が何のためにここへ来たのかさえ、見失っていた。
父や弟、伊那の皆に合わせる顔もない。いずれ戦になる、とあの人は言い切った。倭の圧倒的な戦力で、伊那は滅ぼされるのだろうか。そして父が、あの十河の衆長のように殺されてしまうのだろうか。
いっそ、私が殺されてしまえばいい。すでに生きている価値もない私だ。愚かな女でしかない私は、いる必要もない。
「……おい、生きてるのか、輝日」
聞き覚えのある声。まさか、そんなはずはない。ついに自分に都合の良い幻まで見るようになったのか。愚かすぎて、涙が出る。
「返事しろって。せっかく苦労して入り込んだのによ」
潜めた声が、すぐ側で聞こえる。かと思ったら肩を持ち上げられ、ぬっとのぞき込んでくる。
「……どうして、あなたがここにいるの……」
ぼんやりとした明かりの中にいるのは、確かに陽鷹だった。
「お前を助け出すために決まってるだろ。ここまで来たら、とことんだ。どうやってもここから脱出して、お前を伊那へ連れて帰る」
「無理だわ」
ここは倭の帝がいる宮中だ。高市麻呂の邸とは比べものにならないほど、警備も厳重だろう。
「無理でも何でも、行くんだよ。お前に何があったか知らないが、俺には昴との約束があるからな」
陽鷹に体を引っ張り上げられそうになるのを、輝日は身をこわばらせて拒む。
「何だよ、そんなに俺が嫌なのか」
「そうじゃない……今更、伊那に帰るなんてできない。大事なことを見ようとしないで、甘いことに酔っていた。あなたの言ったとおり、誑かされたのよ」
違う、自分からそこへ堕ちようとしていたと思うから、余計に情けないのだ。
「お前なあ!」
陽鷹が、輝日の両肩を男の力で引き起こす。なすがままに持ち上げられ一瞬恐怖を覚えるが、陽鷹は肩に手を置いたまま、怒りと悲しみに満ちた表情で輝日を見据える。
「何をしょぼくれたこと言ってんだよ。お前らしくないぞ! お前がここに残ったとして、みんなはどうなるんだよ。これから倭が攻めて来て、お前はここでそれぼけっと見てるだけか? 違うだろうが! お前、そんなに悔しいんだったら、あのきざ野郎を見返してやれよ! お前って、そういう女じゃなかったのかよ!」
陽鷹は輝日の肩を、何度も揺する。そのたびになぜか、おかしくなってくる。
「……なんだか、あなたの方が駄々をこねてるみたい」
「駄々でもなんでもこねてやるよ。お前が一緒に帰ってくれるならな。昴がどれだけお前のことを心配してるか、わかってるのか」
「昴……」
いつも、輝日の方が弟を気遣い、心配していたつもりだった。でも本当は弟の方がもっともっと、心配してくれていたのかも知れない。
「とにかく、行くぞ。時間がない」
「行くって、どうやって」
「心配するな。こういうのは得意なんだよ」
陽鷹に引っ張られるように、輝日は立ち上がる。今ここで伊那へ逃げ帰るとして、追っ手は来るだろう。逃げきれずに二人して殺されることもあり得る。
ふと、志計史麻呂が最後に見せた表情を思い出す。なぜか、悲しげにさえ見えた。もしかすると本当に自分のことを考えてくれていたのではないか。
「……違う」
その前の、ひどい言葉がよみがえった。輝日を貢ぎ物だと言い切り、もう伊那には手だてもないのだと。そして大切なことを一切話さず、私を宮中などに引き入れた。あの人にたやすく呑まれたのは私だけど、あの人は私をだましたのだ。
「何してる、行くぞ」
陽鷹が、輝日に手を伸ばす。輝日はわずかにためらったが、うなずいてその手を取った。居室の鍵は壊されていて、そのまま出て行く。後宮の牢獄ゆえ、見張りは女だ。その女たちが、倒れ込んでいる。
「女に手荒なことは、したくなかったんだけどな」
鳩尾に一発入れでもしたのだろう。陽鷹は決まり悪そうに見下ろしている。回廊から外へ降り、床下に潜り込む。暗いのに全く迷うことなく、陽鷹は歩いている。あれから時間を掛けて、道筋を探ったのだろうか。そのことに驚き、申し訳ないような心地になる。
ようやく床下から抜け出したかと思うと、宮廷全体を囲む壁が立ちはだかる。
「これさえ越えたら、もう後は道を走るだけだ」
陽鷹が振り返ってくる。よじ登れるかと聞きたいのだろう。輝日はうなずく。陽鷹もうなずき返した時だった。
「何をしている!」
とがめてきたのは、聞き覚えのある声だった。
「……高市麻呂様」
なぜか、高市麻呂は一人で立っている。
「また邪魔な奴が来たな」
「それはこちらの言うことだ。輝日殿をどうするつもりだ。彼女は伊那から倭への人質でもあるのだぞ」
「どうせ戦するんだったら、人質もへちまもないだろ。伊那へ連れて行かせてもらうぜ」
「貴様が決めることではない!」
高市麻呂が剣の柄に手を掛けるのとほぼ同時に、陽鷹が輝日を自分の背後へ隠す。陽鷹が低い姿勢で身構え、高市麻呂は剣を抜く間合いを計っている。
「……高市麻呂様、あなたも、ご存じだったはずですね」
口が勝手に動くかのように、輝日は尋ねていた。高市麻呂がびくりと、輝日を見る。
「弟のあなたなら、あの人が帝の影を務めていることも知っているはず。それを知っていて、私に何も言わなかったのはなぜですか」
今ここで、彼を責めて何になるのか。だけど悔しさをぶつけるすべを、輝日は他に思いつかない。
「輝日殿、それは……」
「あなたもまた、私を蛮族の女と侮って、知らぬ顔で宮中に入る私を見送った。私に親しみさえ見せて!」
「輝日殿、それは違うのだ!」
高市麻呂の、柄に掛けた手が大きく震えている。帝を守護する近衛の者とも思えない有様だ。
「あなたもまた、あの人と同じだわ。薄汚い倭の男だった。倭の男は、女を、自分たち以外の民を虫けらのように扱う、薄汚い男なのよ!」
本当は自分が愚かなのだと、わかっていても止められない。高市麻呂は手を剣の柄から話してしまう。その瞬間、陽鷹がさらに体を低く屈めた。
「……貴様……!」
陽鷹は高市麻呂の鳩尾に、渾身の一撃を食らわせていた。さすがに不意打ちには勝てなかったか、高市麻呂は陽鷹をにらみながらも、その場に倒れ込む。
「さすがに言い過ぎじゃないか。まあ、おかげで時が稼げるけどな」
陽鷹は笑っていない。そしてそれ以上言葉を口にせず、壁の上にひらりと飛び乗った。輝日に手を差し出し、輝日はその手をつかみ、壁をよじ登った。
「追っ手が来るのは時間の問題だな。急ごう」
「いいえ、たぶん、追っては来ないわ」
これで、戦の名目もできてしまった。わざわざ追う必要もない。大軍を差し向ければ済むことだ。
「……とにかく、行くぞ。都から出ないと話にならない」
陽鷹が輝日の手をつかみ、走り出す。そのまま引っ張られるように走るが、白い裳裾が足にからみつきそうだ。もう片方の手で裳裾を持ち上げ、必死で走り続けた。
たどり着いたのは、都から少し離れた小高い山だった。幸い満月が明るく、木の枝の間から光が入り込んでいる。
「ここを北の方角に下っていけば、伊那への近道だ。でも夜が明けるまでは動けないな」
二人はひときわ太い木の根本に座り込んだ。陽鷹は少し間をあけて、輝日の横に座っている。何を言えばいいかわからず、黙っている。陽鷹も同じなのか、あえて輝日を見ないでいる。
「……一つ、聞いてもいい?」
思い切って輝日が口を開くと、陽鷹は振り返る。
「何だ」
「昴は、あなたに何を頼んだの」
ずっと、昴と約束したと陽鷹は言っていたけど、それが本当なのかどうか輝日にはわからない。
「頼まれたわけじゃない。俺が一方的にお前を連れ戻すって言ったことに、応じてくれただけだ。そうだ、これ預かってるんだ。俺が昴に対して約束した、動かぬ証拠」
陽鷹は懐を探ったかと思うと、輝日の前に何かを差し出す。
「これ……!」
手のひらに載る黒い護符は、間違いなく昴が父から与えられたものだ。肌身から離さぬようにしていたのも、もちろん知っている。
「あいつ、自分の体があんまり強くなくて思うように動けないのを、お前が思っている以上に辛く感じてるんだよ。その分、お前のことを大事に思っていて、丈夫になって姉上を守りたいって思いが強い。だからこんな大事なものを、俺なんかに託してくれたんだ」
輝日は陽鷹の手から奪い取るように、護符を手にする。そこに残る陽鷹の温もりが、弟の温かい心のように思える。勝手に涙があふれて来るのを、白絹の袖で乱暴に拭う。
「泣きたかったら、泣いていいんだぜ。お前だってずっと気を張って、伊那や弟の為にってがんばってきたんだ。でも、張りつめてばっかりじゃ、ぶちって切れてしまう。時々ゆるめて泣いたって、だれも怒ったりしないぜ」
「気を張ってなんかいないわ。私はただ、みんなのために……」
「そういうの、今は気にするなって」
陽鷹が、両肩に手をおいて輝日を見る。相変わらずの、少年の笑顔。輝日は陽鷹に背を向け、昴の護符を握りしめて突っ伏す。独りでにしゃくりあげてくる。泣きたくない、泣くのはみっともない。でも、もう止まらなかった。
「まだ意地張るのかよ……」
陽鷹の落胆したような言葉に、また涙が出てくる。悔しくて悲しくて、体が勝手にしゃくりあげている。陽鷹は何もいわず、触れてくることもない。その時初めて輝日は、陽鷹にひどいことを言ったのにと後悔した。
どれくらい、泣いたのだろう。子供の頃だってこんなに泣いたことはなかった。体が自分のものと思えないほど、ひくひくと震えている。体を起こすと、蝶の髪飾りが落ちていた。懐に隠し持っていた、もう片方だ。
「……私には、似合わないものだったのに……」
髪飾りを拾い上げ、見つめる。大陸渡りの、小さいのに豪奢な飾り物。それに、つやつやした絹の装束。そもそも、こんなものを身に付けるような女ではなかったのだ。
「……ちょっとは、すっきりしたか」
陽鷹が目だけこちらを見ている。輝日は髪飾りを懐にしまい直し、内側の下衣の袖を引っ張り出して涙を拭った。
「……ごめんなさい。もう、大丈夫。夜が明けたら、民家を探したいのだけれど」
「民家?」
いきなりの輝日の問いに、陽鷹はいぶかしげに振り返る。
「もう少し、動きやすい格好になりたいの。この装束を交換してくれる人を、探したくて。いい絹だから、一枚だけでも交換してもらえると思う」
「なるほどな」
「馬と交換できるかも知れないし」
足りなければ、この髪飾りも売ることになるのだろう。いや、そうしなければならないと言い聞かせる。さんざん泣いた後で、何だかすっきりしている気がする。
「やっと、元の輝日に戻ったか。どうなることかと思ったよ。案外世話が焼けるな」
「世話焼きついでに、あなたのその腕に巻いているものを、もらってもいい?」
輝日も今、初めて目に付いたのだ。陽鷹の左の二の腕に、紫色が少し褪せたような細い布が巻かれている。いつも巻いていたのだろうか。
「これか? 別にいいけど、どうするんだ」
「髪を、縛りたいの。邪魔だから」
自分で言って、少し胸が痛んだ。あの人に、何度も触れられたこの髪。けれど今となってはこの髪さえも、自分を何かに縛り付けているように思う。
「そうか、ほら」
陽鷹はすぐに布をほどき、渡してくれる。どう見ても、陽鷹のような男が持つものではない。
「ありがとう。……これ、古いけどとてもきれいね。どうしてこんなものを持ってるの」
尋ねたのは、単なる興味からだ。けれど陽鷹はちょっと決まり悪そうに口ごもっている。
「……昔、惚れて一緒に暮らした女の物だよ。まあもっとも、他に男作って逃げちまったけどな」
「……そうなの」
「別に、未練で持ってたってわけじゃないぜ。何となくさ、身につけてた物ってなると簡単に捨てられなくてな」
どうしてそんなにいいわけがましいのか、輝日はおかしくなる。陽鷹だってそんな人がいても、不思議じゃないと思うのに。
「大事なものだったのに、ごめんなさい」
「そうじゃねえって。むしろ、俺が身に付けてたものをお前が使ってくれる方がいい」
陽鷹が急にじっと見つめてくるので、輝日はつい目をそらす。あの人も、時々そんな目を向けてきた。だから怖い。また、自分が自分でなくなってしまうような気がして。
輝日は紫の布で、髪を一つにまとめる。これまでも、長すぎる髪の重さは気になっていたけれど、今は特に重苦しく感じる。布をこれ以上内くらい、固く結んだ。
「もうすぐ、夜明けだな」
「行きましょう。一刻も早く伊那へ帰らないと。もう倭から、何らかの布告が届けられるかも知れない」
――そなたが招いた、戦だ。
志計史麻呂の言葉が、胸を刺すようだ。そうかも知れないけれど、機会をうかがっていたのは倭の方だろう。いずれにしても、伊那へ戻り伝えねばならないことが山ほどある。気持ちを抑えることに、苦労しそうだった。
十章
ただならない雰囲気は、自室にいても感じられる。居ても立ってもいられず昴は、父の居室へと走る。
「いったいどういうことです、長姫様が、倭の帝の妃になるとは!」
居室に入りかけて、耳を疑った。岸楠の声だ。
「わしにもわからぬ。輝日ははそのようなこと、ここを発つ前には全く言っていなかった。何を考えているのか……」
「しかもその際に無礼があり、話が立ち消えになるばかりか、伊那に邪心ありなどと言ってくるとは、どうなっているのか!」
岸楠の憤慨する言葉が続く。伊那に邪心とは、妙な物言いに感じる。まるですでに配下に置かれているようではないか。
父は黙っている。昴は思い切って中に入った。
「若君」
岸楠の隣に座る刀梓が、あわてて駆け寄ってくる。
「いかがなされましたか。こちらへは参られぬよう、常々……」
「私は、父上の跡継ぎだ」
刀梓の言葉を、昴はさえぎった。
「跡継ぎの私は、父上からことの次第を聞かねばなりません。父上、いったい何があったのですか。姉上の身に、良くないことがあるのですか」
まくし立てる昴を、大歳も岸楠親子も驚きの目で見ている。しかも昴がこれだけ一気に話しても息が乱れないことに、二重に驚いているようだ。
「……このところ、倭へ使いを出しても輝日には会えず、追い返されることが続いておった。まさかと思うが、輝日は倭に囲い込まれたかも知れぬ」
「囲い込まれた?」
大歳の言葉は、昴の予想の上を行っていた。
「輝日を取り込み、そこから伊那を配下に置くという作戦なのかも知れぬ。輝日がわしらに何もいわず、倭の帝の所に入るなどあり得ぬ」
「……倭の者に吹き込まれて、姉上が心変わりをされたかも知れない、ということなのですか」
もちろん、そんなことは信じていない。姉は強い心を持つ人だ。倭の者などに丸め込まれるなど、考えられない。
「しかし、長姫様も女人。あの倭の総大将のような男から説得をされれば、心を動かしてしまわれるかも知れぬ」
「姉上はそんな人ではない!」
岸楠の言葉に、昴は思わず怒鳴る。
「これは、ご無礼を」
さすがに岸楠もあわてて、それ以上は言わなかった。
「姉上は普通の女人とは違います。その姉上が倭の帝の妃になるとご自分で決めたとしたら、何か他に理由があるはずです」
それが何の確信もないこと、自分の希望にすぎないことはわかっている。だがどうしても、姉が簡単に籠絡されるとは思えないのだ。
「……理由、か。確かにそれもあるかも知れぬ」
大歳は昴に同意しながらも、まだ腑に落ちない様子が見て取れる。
「もう一度、倭へ使いを出そう。もしまた倭の者が輝日に会わせぬとすれば、間違いなく何かある。その時は、倭の目を盗んで輝日の元へ行くようにせねばならぬ。刀梓、お前に頼みたい。引き受けてくれるか」
大歳が、刀梓に向き直る。
「はっ、必ずや長姫様にお会いし、ことの次第を確かめて参ります」
刀梓が、頭を下げたときだった。
「申し上げます!」
館の見張りの者が、駆け込んできた勢いで転んでしまう。
「何事じゃ! 衆長の前で騒々しい!」
岸楠が怒鳴りつける。
「も、申し訳ありませぬ。その、長姫様が、お戻りになりました!」
「何!」
「姉上が!」
大歳と昴は同時に叫んでいた。今まさに、輝日の話をしていたところではないか。
「長姫様だと? 確かなのか」
岸楠も声が大きくなっている。
「確かに長姫様でございます。その、以前こちらにおりました男を連れて、馬で駆けてこられました」
「……陽鷹殿だ!」
昴は急に、目の前が明るくなった気がする。陽鷹が、本当に輝日を連れて帰ってくれたのだ。
「いったいどういうことだ。輝日は倭で……」
大歳はそこで言葉を切る。人質、あるいは倭の帝の妃に、どちらもあまり言いたくないことなのは昴も同じだ。
「それで姉上と陽鷹殿は今、どこに」
昴が問いかけてきたことに、見張りの者は驚いている。
「はい、とにかく衆長に話があるということで、お待ちでございます。皆驚いておりまして、長姫様の身支度のために女たちを急ぎ呼びました」
「わかった!」
昴は最後まで聞かずに飛び出そうとする。
「待て! まずは二人をこちらへ連れて参れ。これはただならぬ事だ。まずは輝日に事情を確かめねばならぬ」
「父上……」
「戻ってきてくれたのならば、わしも嬉しい。だが、倭の使いと入れ違いで、しかもこれほど急に戻ってくるなど、よほどのことがあったに違いない」
「父上、それはつまり……」
そうだ、輝日はあくまで「人質」として倭へ行ったのだ。それがこんな形で伊那へ戻ってきたならば、倭は「逃亡」とみなすだろう。
「まだ、館へは上げるな。こちらの庭へ連れて参れ」
「父上、それはあんまりです。姉上は娘ではありませんか」
まるで尋問でもするかのような処遇に、昴は感じる。
「むろんわしとて、すぐにでも館の中で休ませてやりたい。だが確かなことがわからぬうちは、たとえ身内でも簡単に気を許してはならぬのだ。倭の者がどんな企みを隠しているのか、わからぬのだからな」
昴は大歳の横顔を見る。眉根は少し下がり、うつむきがちに何かを考えているようだ。父もまた、どうすべきか迷っている。これが、倭という国の恐ろしさなのだろう。
昴もまた、その場に立ちすくんでいた。
ようやく、帰ってきた。
輝日はその思いだけで、胸がいっぱいになっていた。たとえすぐに館の中に入れてもらえなくとも、伊那の地を踏んでいるというだけで不思議と落ち着く。
「姉上!」
懐かしい声が聞こえたが、こんなに張りがあっただろうかと驚く。
「昴!」
現れた弟を見て、また驚く。わずかの間に、一回り大きくなったように見えたからだ。
「姉上、よくぞ、よくご無事にお戻りで!」
昴は輝日の前に駆け寄ってくる。こんなに素早く動く昴を見るのは初めてだ。
「昴……ずいぶん、たくましくなったのね」
「はい。姉上がおられぬ間、少しでも丈夫になりたいと思い、鍛えておりました」
もうそこに、いつも熱を出していたか弱い弟はいない。まだ男としては細身でも、姉の手を握りしめるその力は確実に強くなっている。
「あなたの護符、陽鷹殿から受け取った。あのおかげで立ち直れた。ありがとう」
輝日の言葉に、昴はほんの一瞬小首を傾げたが、すぐにうなずいた。
「良かった。ようやく姉上のお役に立てました。それで……陽鷹殿は」
昴はきょろきょろし始める。
「別の所に連れて行かれたわ。戻ってきたのはいいけれど、何だか怪しまれているみたいで……」
輝日には、それが気になっていた。倭から、何らかの話が来ているのではないか。衆長の娘である自分ですらこの扱いだ。余所者とされる陽鷹はどうなっているのか。
「倭の使者が、参りました。姉上が倭の帝の妃になるという話だったので、皆が動揺しております」
昴は少しうつむきながらも、はっきりした言葉で告げる。やはりそのことだった。
「しかも、その話はすでになくなり、さらに伊那が倭に戦を仕掛けようとしているという話になっています」
すでにそこまでになっているのか。輝日は愕然とする。そなたが招いた戦だ、という志計史麻呂の言葉がまた、よみがえる。
「……父上に、お話ししなければならない。事の次第、それに、倭の本当の姿と目的を」
「倭の、本当の姿……」
昴が、姉を見上げている。そして回廊を歩く音が聞こえてきた。
「父上」
現れた父の姿が、すでに懐かしく思える。だが大歳は厳しい表情だ。
「……輝日、よう戻った。だが今、伊那は大変な騒ぎになっておる。お前が、倭の帝の妃になるという話でな」
違うと言って欲しい、と父の目が語っている。あるいは何か、目的があってのことだと。
「おっしゃるとおり、私は倭の帝の元に女儒として上がることを決めました。でもそれは倭の帝に、伊那と手を携えて欲しいと訴えるためでした」
「訴える? そのためにか」
「女の身であれば、それしか策がないと、倭の総大将に勧められたのです」
倭の総大将、言ったときに胸に痛みを覚える。
「その言葉に、従ったということか」
「はい」
いつの間にか、岸楠をはじめ伊那の集落を見守る長たちが集まっている。この中のほとんどが、輝日に対し何らかの疑いを持っているのだろう。
「あくまでも、伊那のためにと思ったのです。事前に父上に申し上げようと使者を送ったはずですが……ご存じないということは、使者は来ていないのですね」
「倭の方で、行かせなかったということなのか」
やはり、そうだった。志計史麻呂は完全に輝日を伊那から隔離していたのだ。今更だが、悔しさがこみ上げてくる。あの人の優しさは、その目くらましだったのかと。
「倭は、私を人質に取ったということで、すでに伊那を支配下においているという解釈だった」
「なんと……」
集落の長たちがざわつく。
「長姫様ともあろうお方が、なぜ囲い込まれていることにお気づきにならなんだ」
岸楠はため息混じりだ。その横には刀梓もいるが、不安げに輝日を見ている。
「……私が、浅はかだったとしか言いようがありません。でもその後、十河の衆長の処刑を見て、倭の本当の目的を知ったのです」
さすがに、志計史麻呂との事は言えなかった。ましてや、彼に恋心を抱き、そしてそれすら、彼の策略だったのだとは。
「十河の衆長の、処刑だと? 倭の軍に連行されたとは聞いていたが、まさか処刑されるとは……」
大歳はため息を付く。
「この周辺で、倭に対し臣従を明らかにしていないのは我ら伊那のみ。倭が戦を仕掛けるのは明らかですぞ」
岸楠が、輝日を見据えている。いや集まった皆が、輝日に含みのある視線を向けている。
「時に長姫様は、なぜこのときに戻られたのか? あまりにも都合が良い気がしてなりませぬ」
はじめ輝日は、岸楠の言っていることがわからなかった。だがすぐに、疑われていることを悟る。すでに倭に心を移し、含みを持って戻ってきたのではないかと。
「それは……どういう意味、ですか」
何も、やましいことなどない。倭と戦う覚悟で戻ってきたのだ。
「むろん、長姫様が伊那を裏切るなど、わしは思っておりませぬ。だが一方ではそのように思う者がいるのも確か。長姫様を信じておりますからこそ、あえて衆長の前でお伺いしました」
「父上!」
刀梓が、父の言葉に思わず声を上げたが、岸楠は逆に息子をにらみ返した。輝日が大歳を見ると、大歳もまた輝日を見ている。娘を信じようとしているのか、疑っているのか。
「もちろん私は、倭と戦うつもりで戻ってきました。……伊那と倭が対等に並びあえないかと、本当は今でも思っています。けれどそれは私の甘い考えだと思い知りました」
「なるほど。しかし一時は倭の帝の妃になろうとされた。それで伊那と倭が対等になると思われていたということですか」
まだ岸楠は疑っている。いや、おそらくここにいる中で、父と弟、刀梓以外は皆どこか疑いを持っている。
「ちょっと待てー!」
いきなり場の空気を破る大声が響く。
「陽鷹殿!」
昴が声を上げる。陽鷹は押さえようとする男たちの手を振り切って、輝日の隣に転がり込む。
「お前ら、なんで必死の思いで戻ってきた輝日を責め立ててるんだよ!」
「余所者が口を出すな!」
誰かが怒鳴りつけ、さらに男たちが陽鷹を押さえ込み、輝日から離そうとする。
「陽鷹殿に乱暴をするな!」
昴が言っても、誰も聞く耳を持たない。陽鷹と男たちのもみ合いは続く。大歳は額に手を当てる。父の一言は、皆の行動を決めてしまう。それゆえ何も言えずにいるのだ。
「私が悪いのです!」
輝日は立ち上がる。大歳もまた、顔を上げた。
「私が、倭へ行かねばこのようなことにはならなかった。そして倭の男たちの言葉を信じなければ……倭が攻めてくるのであれば、私は先頭に立って戦います」
「戦う?」
皆が、さらに疑いのまなざしで輝日を見る。
「ええ戦います。皆は私が女だから、戦えないと思っている。だったら私はもう、女であることをやめます。女が戦えないと決めつけるのならば、女でなくなってもかまわない。どちらかを選べというなら、私は女を捨てて倭と戦います!」
言うなり輝日は、陽鷹を押さえている男が背負っている剣を抜く。抜き身の刀身に薄い夕日の光が反射し、皆がどよめく。
「何をする気だ、輝日!」
その時初めて、大歳が怒鳴る。しかし輝日は自らの長い髪を引っ張り出し、刃に当てた。
「輝日!」
「姉上!」
陽鷹と昴の声が重なるのと、刃が黒髪を引き裂くのは、ほぼ同時だった。ざくりとした感触が、髪をつかんだ手のひらに伝わる。髪の束が生き物のように反って、輝日の体から離れた。
「あねうえー!」
昴が、悲鳴のような声を上げる。輝日はつかんだ髪を無造作に投げ捨てる。髪の束は一瞬、大蛇のごとくうねった。
「……この、馬鹿者が」
大歳が、力のない声でつぶやく。見れば父は、苦笑いとも、悲しげにも見える表情だ。そんな父の顔を、輝日は初めて見た。
「軽くなりました、父上。どうか私も戦うこと、お許し下さい」
輝日は片膝を付き、頭を下げる。誰も何も言わず、沈黙が続く。
「お前はやはり、そういう娘であったな。女をやめるなど、いつかは言うと思っていた」
大歳はため息と一緒に言う。いつか端女の寿媛が言っていた。輝日の亡き母も同じような黒髪を持ち、それを父は愛でていたと。そのことを、思い出したのかも知れない。
「お前が本当に伊那のことを考えているのは、よくわかった。一つだけ聞く。倭は、今にも伊那を攻めようというのだな」
大歳はもう、厳しい衆長の表情に戻っている。輝日は大きくうなずく。
「元々倭は、伊那と対等になどという気はありませんでした。何か理由を付けて、伊那を攻め滅ぼすことも考えているはずです。私がここに戻ったことは、一つの口実になるはずです」
また志計史麻呂のあの言葉が、よみがえる。そなたが招いた戦だ、と。でもそう誘ったのは、あの人だ。
「……そうか」
大歳は腕組みをする。昴が父を見ているが、その表情に恐れる様子はない。むしろ、自分も戦おうという意気込みすら感じる。この優しい弟まで巻き込むのだと思うと、さすがに胸が痛んだ。
「戦になるならば、戦うまでだ。伊那はこれまで、誰の支配も受けず、自治を守ってきた。自然を愛し、田畑を耕し、山の恵みを頂いて暮らしてきた。それを倭が変えようとするならば、そして倭のやり方を受け入れることができぬならば、我らは戦わねばならぬ」
ついに大歳の口から、戦うという言葉が出る。皆がどよめき、意気込み、あるいはうろたえる。
「戦いたくない者は、無理には戦わずとも良い。だが伊那は、倭に戦いを挑む。ついて来れる者だけ、来てくれればよい」
大歳の言葉に、岸楠が立ち上がった。
「衆長が、そう言われるならば、我らは従うまで。長媛様、先程の無礼、なにとぞお許し下され。あなた様の覚悟、思い知りました」
岸楠は地に落ちている輝日の髪を見ながら、頭を下げる。輝日はただ、首を横に振った。
「私も戦う」
「倭のやり方はやっぱり強引だ。抵抗して、それをわからせてやりたい」
皆が口々に、戦う意志を露わにする。中には何も言わぬ者もいるが、それで良いのだろう。戦うということは、いつでも死ぬということでもあるのだから。
輝日は、切り落としてしまった髪を見下ろす。黒い束のようなそれは、根元に陽鷹からもらった紫の布が巻き付けてある。輝日はかがみ込み、髪からその布を外した。
私はもう、誰からも髪を愛でられることはない。この髪はもう、必要ないのだ。
「……よくやるなあ、お前」
陽鷹が、あきれたように笑っていた。もう誰も陽鷹を捕らえていない。輝日は紫の布を握りしめる。
「本当に、軽くなった。どうして今まで気が付かなかったんだろうってくらい」
「昴も、びっくりしてるぞ」
振り返れば、弟が恐る恐る近づいてくる。回廊に立つ父と目が合うと、父は仕方がないと言うように微笑み、去っていった。
「姉上……」
昴に振り返った瞬間、散切りになった髪が肩に掛かる。そこにすでに、あの人の手の感触はない。
「これ、片づけないといけないわね」
昴に微笑んでみせる。弟の背丈はいつの間にか、輝日と変わらなくなっていた。