1章から5章
第一章
山間の道を通り過ぎる風が、ひやりと頬を撫でてゆく。どことなく心地よいその風に、輝日は身をゆだねるように立っている。空からは、秋の終わり特有のどこかはかない日差しが、木々の間を縫って差し込んでいる。
伊那の国も、すでに収穫を終え冬の支度に取りかかっている。何事もなく終わらせたいが、このところの騒々しさが気にかかる。
先日、それぞれの集落をまとめる長たちが集まり、話し合いを持っていた。これらの集落がまとまって伊那という一つの国を作っている。輝日は意見をしないという条件で、この話し合いに参加していた。
「先日はついに、尾久の一族が倭に降ったそうな」
その報告に、長たちはいっせいにため息を付く。父の大歳は黙って目を閉じている。
「これで伊那の周辺の国や郡は、ほとんど倭に降った。我らもいつまでこうしていられるか……」
「しかし、倭に従えば我らの暮らしはどうなる。奴らは土地を奪うだけでなく、我らに税なるものを納めさせる。それによって暮らしはますます厳しくなるというではないか」
「とはいえ、このまま倭に抵抗し続けるというのもいかがなものか。いっそのことこちらから取引を持ちかけるなどして」
「そんな生やさしい相手ではないぞ」
こうしていつも、堂々巡りが繰り返される。どうするべきなのか、誰も答えを出せないのだ。もちろん、輝日も。
伊那はもうずっと、この山間の地で土地を切り開いて畑を耕し、麦などの穀物、あるいは芋や菜などを作っている。また山へ入り山菜を採ったり、山の生き物を捕らえてその肉を食べている。そんな暮らしを、ずっと続けている。このところめざましく発展しているという「倭」なる国の属国になるという発想はなかった。「倭」は遠い大陸の国の文明を取り入れているからかその軍隊は強く、伊那の周りの国を従えさせている。
「長姫さまーっ」
あの声は、刀梓だ。いつも輝日が外を歩くときには共をしてくれるが、今日は一人になりたくていったん帰らせたはずだった。
「どうしたの、そんなに慌てて」
息を乱して走り込んできた若い男に、輝日は尋ねる。
「大変です、この先の道で、盗賊が待ち伏せをしています」
「なんですって、待ち伏せ?」
この期に及んで盗賊とは、輝日は腹立たしさを覚える。
「誰かを狙っているの」
「穀物を市へ売りに行った者たちが、もうすぐ通りかかるのを狙っているようです」
「ならばすぐに行かないと!」
輝日はそばの木に立てかけていた剣を手にし、駆け出す。走れば間に合うだろう。
「長姫さま、あそこに!」
刀梓が指さす先には、荷車を数人の男たちが囲んでいた。
「待ちなさい!」
輝日が叫ぶと、一斉にこちらを見てくる。
「長姫様じゃ」
「長姫様」
伊那の民は震えている。一方、荷車を囲んでいた男たちは輝日を見て、にやつく。
「なんだ、女か。えらく物騒なもの持ってるが、やる気か」
男の一人があざ笑うように言う。
「その者たちに手出しをするなら、容赦はしません」
輝日が剣に手を添えると、男たちは笑い出す。
「面白れえや、やっちまおうぜ」
男たちは今度は輝日に向かってくる。
「刀梓!」
輝日は呼びかけると同時に剣を抜く。刀梓も剣を抜いて、輝日と背中合わせに構える。
「女だからとなめていたら、痛い目に遭いますよ」
「なにぃ」
輝日の挑発に、男が声を上げて斬りかかってくる。輝日はそれをいったん受けたかと思うと、なぎ払って男の剣を飛ばす。慌てふためいて剣をとろうとする男に輝日は切っ先を突きつける。脇からもう一人が切りかかってくるのを、切っ先を返して払い、左足で先の男を蹴り上げる。つま先が顎に命中し、男は倒れ込む。
「このあまぁ!」
さらに切っ先を向ける二人目に、輝日は剣の柄を突っ込む。
「長姫様!」
反対側から切りかかる男の剣を、刀梓が受け止めた。輝日と刀梓は再び背中合わせになり、取り囲む男たちと向き合う。
「何人いるの?」
「六人です。……数えてなかったんですか」
刀梓が呆れたように答える。
「とりあえず倒さないとと思ったから」
「長姫様らしい、ってそんなのんきなこと!」
男たちが一斉に斬りかかってくる。一人の剣を受け止めると、やはり膂力で押してくる。
「確かになめてたかもな。こうなりゃ手加減しねえぜ」
「それはこちらの言うこと」
受け止めていた剣の力を緩めてかわし、構え直す。しばらくにらみ合いになり、輝日は攻撃の機会を待つ。相手の方がじりじりしている。
「てめえらっ」
ふいに聞こえた声を合図のように、男が剣を振りかぶってくる。輝日は一瞬迷ってしまい、男の剣を再び受け止めてしまう。相手からぐっと力が入り、さすがに後ろにずり下がる。しかしふっと軽くなり、その勢いで押し返した。
見れば輝日と対峙していた男は地面に転がり、その胸ぐらをつかみ上げている若い男がいた。
「またこんな真似しやがって! どこまで落ちれば気が済むんだ!」
若い男は乱暴に手を離す。立ち上がるとそびえるような長身だ。
「なんだよ、陽鷹」
倒れ込んだ男が舌打ちする。長身の男が再びにらみつける。
「俺たちは弱いものには手出ししねえ。それが死んだ親方の言いつけだろうが」
「お前こそ、頭悪いんじゃねえか。親方殺されて、そんなきれい事でやってられるか」
彼らはにらみ合っている。輝日は木の陰に集まって震えている荷運びの者たちに、逃げるよう目で合図した。
「これ以上こんなことしたら、今度こそ捕まって首切られて終わりだ。その方がばかばかしいだろうが!」
どこから出しているのだろうというほどの大声で、長身の男が一喝する。声に押されたように襲ってきた男たちは後ずさりする。
「面倒くせえ」
男たちはばらばらにその場から去って行く。輝日はしばらくその様子を眺めるばかりだった。
「おい、みんな無事だったか」
くるっと長身の男が振り返ったので、輝日は驚いて一歩後ろへ下がる。
「ええ。助太刀、ありがとうございます。あの者たちは伊那の民で、穀物を市へ売りに行った帰りだったのです」
彼に助けられなくともどうにかなったとは思うが、とりあえず礼は言わねばと輝日は頭を下げた。
「そうか。ま、あんた女なのにえらく腕が立つから、びっくりしたけど。あいつらも俺も、元は倭の都が縄張りだった。貴族と金持ちだけ相手に盗みをしてたんだが、親方が捕まって首を切られて、以来あのざまだ」
長身の男が当たり前のように語ることに、輝日は少なからず驚く。いずれにしても盗賊ではないか。
「どっちにしても盗賊には違いないが、親方がいなくなったのをいい機会として俺は足を洗おうと思ってたんだが、あいつらがあんなじゃな……弱い奴ばかり狙ってやがるから」
男は、盗賊が去った方をじっと見ている。倭の都が縄張りだったということは、倭の人間が。身のこなしも姿形も、どことなくすっきりしているように見える。
「どちらにしても、ありがとうございます。今後は皆に気をつけるよう言っておきます」
輝日がとりあえず立ち去ろうとすると、男がこちらを振り返る。
「……なんですか」
あまりに見てくるので、輝日も警戒して向き直る。なんといっても盗賊だった人間だ。油断させて何かをする、などということは十分あり得る。
「あんた、いい女だな。俺の好みだ」
男の言葉は、輝日が最も嫌だと思う類のものだった。
「あだっ!」
輝日の蹴りは、男の右腰あたりを強打したらしい。
「なんだよ、ほめたんじゃないか」
「私を女だと思ってからかわないでください! そういうことを言う人が一番信用ならないんです」
やはり盗賊の一味だった奴など、ろくな者じゃない。
「ひでぇなあ……」
「だいたい貴様、この方がどなたかわかっているのか。伊那の衆長の姫君、輝日様だぞ!」
輝日と男の間に割って入った刀梓まで怒っている。
「それを、まるで遊び女でも口説くような真似をするとは!」
「刀梓、もういいです。帰りましょう」
これ以上、この男と関わる必要もない。ちゃんと礼も言ったのだから。
「ともあれ、あなたもお気をつけてください」
輝日は男の顔をまともに見ず歩き出す。
「あっ、おい! もう行っちまうのかよ!」
男の慌てる声もそのままに、輝日はその場から去る。一刻も早く館へ戻り、事の次第を父に告げねばならないと思っていた。
「まあま、長姫さまはまたそのようなお姿で!」
館へ帰り着いた輝日を出迎えたのは、端女頭の寿媛だった。輝日の亡くなった母についてこの館へやってきた彼女は、輝日の祖母のような者だ。
「こういつまでも男と同じようなことをなさっていては、人の妻になることがまた遠のきますよ」
「父上は、お手が空いていらっしゃる?」
寿媛のお説教を完全に無視し、輝日は尋ねる。
「衆長様はただいま集落の長を集めてお話中でいらっしゃいます。それより長姫さま、そろそろお館に落ち着きなさって、おとなしく……」
「じゃあ、先に昴の部屋へ行くわ。今日はどうしているの」
「昴様は本日はお加減もよろしいようで……って、聞いていらっしゃるのですか!」
輝日は下げていた剣を刀梓に渡し、そのまま館へ入る。紐で無造作に束ねていた髪を一度ほどき、結び直す。腰まである黒髪は正直重いが、なぜか何年も切ることなく伸ばし続けている。
「輝日どの」
向かっていた居室から出てきたのは、志濃だった。
「母上様、今日は昴は加減が良いと聞きました」
輝日が問いかけると、継母である志濃は微笑む。
「ええ、すっかり熱も下がって。輝日どのの声が聞こえたら、姉上は今日はどこへ行かれたのだろうかとしきりに気にしていて」
たぶん今日も、輝日に話をせがむのだろう。そのつもりで来たのだ。
「では母上様、失礼しますね」
志濃と入れ替わるように、輝日は室内へ入る。
「姉上」
寝台に身を起こしている昴が、ぱっと笑顔になる。十六になるこの弟は、たまに咳がひどくなり熱も出ることがある。だが志濃の言ったとおり、もう熱は下がっているようだ。
「今日はどちらに? 何をしてこられたのですか」
早速聞いてくる。輝日は弟の寝台の側に腰を下ろした、
「今日は盗賊退治。穀物を売りに行った者が帰り道を襲われて、間一髪だった」
「そうなのですか。大変だったんですね」
ふと輝日の脳裏に、あの助太刀をしてくれた男の顔が浮かぶ。盗賊の仲間なのは間違いないが、行動を別にしている。いくら軽口でからかわれたからといって、蹴り飛ばしたのはやはり乱暴だっただろうか。
「私ももっと丈夫になって、姉上のお供をしたいです。そして伊那のために戦って……」
これはもはや、彼の口癖のようなものだ。慰めや気休めは傷つける。
「このところ、倭の軍があちこちを攻めているせいか、盗賊のような者までうろつくようになっているわね。星には勝手に外を出歩かないように言っておかないと」
「そんなの、ずるい!」
ふいに声が聞こえてきて、当の星が入ってくる。昴と同じ日に生まれた妹は、輝日の側に座る。
「姉様はああやって好きなように出歩いていらっしゃるじゃない。私だけだめだなんて、不公平だわ」
「じゃあ、あなたは剣が使える? 盗賊に襲われて、対抗できる? 私はあなたを心配しているのよ。ついさっきも盗賊を追い払ったばかりなんだから」
輝日が言い返してやると、星はしゅんと黙る。ただ、皆に言わせれば女ながら剣を振り回す輝日の方が、かなり変わっているようだが。
「じゃあ、誰かと一緒に出かけます、刀梓を貸してください」
「刀梓は物じゃないのよ。修行のためにこちらに来ているのだから」
刀梓は伊那の集落の一つを仕切っている長の息子であり、文武の修行をかねて輝日たちの父・大歳に仕えている。輝日の供をするのは、同時に伊那のことを知るためでもある。
「でもまあ、今度頼んでみましょう。たまには彼も私の供なんて面倒なことから逃れたいかも知れないから」
輝日は言いながら立ち上がる、そろそろ父たちの話し合いも終わる頃だろうか。
弟の部屋を出た輝日は、まだ着替えていないことに気づいたのだった。
父の居室まで来てみると、集まっていた集落の長たちが出て行くところだった。
「これは、長姫様」
輝日に気づいたのは、刀梓の父である岸楠だ。伊那の集落の中でも最も広く、また隣の郡と隣接している所を守っている。大歳にも遠慮なく意見ができて、またそれゆえに息子の刀梓を預けている。
「倅から聞いております、盗賊が出たとか」
「ええ。刀梓のおかげで追い払うことができましたが」
「近隣が倭に降り、その上盗賊まで出るとは、ますます面倒なことになりそうですな」
現に岸楠が守る集落の隣は、とっくに倭に臣従している。
「盗賊は追い払えば済みますが、倭は伊那へ侵攻してくるのですか」
輝日はどうしても、そのことが気になっていた。もし倭の軍勢が攻めてくれば、戦になるのだろうか。
「それは私にはなんとも。ただ攻めてくるようなことがあれば対抗すべきだと、私は思うておりますがな」
岸楠は抗戦派のようだ。長たちの間でも意見は分かれている。
「では、私はこれにて。刀梓は一度連れて帰りまする」
「わかりました。ご苦労様です」
輝日は岸楠を見送った後、居室をのぞき込む。
「何だ、輝日か。着替えてくるだけましだな」
父の大歳は居室の一番奥の座に、腰を下ろしたままだった。
「今日もまた、話はまとまらなかったのですね」
輝日の問いかけに、大歳はため息をつく。
「倭は尾久まで征服したのだ。伊那へ攻めてくる日も近いだろう」
「どうしても、戦になるのですか。協力し合ってやっていくと言うことは、叶わないのでしょうか」
輝日にとってそれは大きな疑問だった。倭と伊那ではやり方が違うのかも知れないが、折り合いをつけてお互いの良いところを注目すれば、うまくいかないのだろうかと。
「倭は全ての国を倭のやり方にそろえたいのだ。そうして巨大な国を作ることが目的だ。伊那の良いところは全て消そうとするやも知れぬ」
それが、抗戦派がいる原因だろう。
「私たちの暮らしが、変えられてしまうということですか」
「作った作物は倭に吸い上げられ、男は倭の軍勢にとられるか、あるいは建造物などを作るための人足として酷使され、女も倭の男の慰み者になる、とこれは極端な話だがな」
極端ではあるが、こうして言うからには実際にあったことでもあるだろう。輝日は父の顔を見る。五十になろうとするわりには若々しく、さほど上背はないががっしりした体つきも健在だ。
「そんなことになるなら、私も戦います」
輝日が言うと、大歳は吹き出す。
「いくら何でも、女のお前を戦いに引っ張り出すわけにはいかぬ。確かにお前は並みの男よりよほど剣の腕も立つ。しかしやはり女は戦になど出るものではない」
「でも、昴は父上の大切な跡取りで、それにあのとおり無理をさせてはならない体。それならば一番年上の私がと、いつも思っていました」
「そういうことを言うな。かえって昴も傷つくだろう」
父のたしなめるような言葉に、輝日は黙る。大歳は三度妻を娶っているが、最初の妻が産んだ男子は早死にし、その後迎えられた輝日の母も輝日が二歳になる前に亡くなった。三度目に迎えた志濃が昴と星を同じ日に産んだが、再び授かった男子の昴は幼い頃から今に至るまでたびたび高熱を出し、咳も出る。輝日はそんな弟を守らねばならないとずっと思っていたのだが、それは自分の体の弱さを気にする昴にとって、ある意味重荷なのかも知れないと、父の言葉で感じる。
「お前のことも、早く良い男と娶せてやりたいと思っておる。そうすれば星も刀梓と……」
そこまで言って大歳は口を押さえる。
「父上、今、なんとおっしゃいました?」
「いや、これはまだ内々の話だ。岸楠が刀梓に良い嫁をと言っておったので、それならば歳も近い星がどうかと考えただけだ」
「そうなんですか。でも、確かにそれは良い縁ですね」
刀梓は十八。十六の星とならちょうど良い年回りだ。中には刀梓を輝日の婿候補と考える者もいたらしいが、どう見ても主とお供という二人の様子から、その声は消えた。
「よいか、これは絶対に他の者には言うでないぞ。志濃にもな。志濃はお前を先に誰ぞと娶せないと、と心配しておるのだから」
「……はい」
輝日はおとなしく返事をしたものの、正直自分が誰かの妻になるということがよくわからない。なぜそれが当たり前だと思われているのかという疑問すらある。自分は好んで剣を持ち、そして弟を助けて伊那を守っていきたいだけなのに。二十歳ともなれば、人の妻になっていないことが奇妙なことのように言われる。
「それより父上。お聞き及びだと思いますが」
「盗賊のことか」
輝日が話を変えると、大歳もゆるめていた表情を再び引き締める。
「どうにか退散させはしましたが、倭の都から流れてきた者たちらしく、また現れることもあり得ます」
「倭の者だけでなく、倭に国を奪われて流れ者になるようなこともあるそうだ。今後は周りの守りも怠りなくせねばなるまいと、話していた」
「はい。私も引き続き見回りを続けます」
「それは程々にせい。いくら腕が立つといってもお前も女。大勢に囲まれれば危険だ。おおそうだ、寿媛に泣きつかれたのだった。長姫様がいつまでたっても男児のような事ばかりして織られると、それはそれはさめざめと」
大歳が寿媛の口振りを真似て言うので、輝日も思わず吹き出してしまう。
「寿媛の心配はわかりますが、私は元々こういう人間ですから、誰かの妻になるよりは伊那の為に働きたいのです。その上で誰かが、そんな私でも良い、といってくれるならでしょうか」
輝日がきっぱりと言い切ると、大歳は苦笑しながら立ち上がる。
「歩き回るのであれば、今以上に気をつけるのだ。盗賊も問題だが、もしかすると倭の手の者が侵入してくるかも知れぬ。伊那の役に立ちたいのなら、まずはこの大歳の娘であることを自覚するのだ。よいな」
「はい」
要は軽率なことをするなということだ。素直に返事をして輝日は、部屋を出る父を見送るのだった。
二章
山道を風だけが通り過ぎる。ここはこの間、盗賊を追い払った場所だ。風に吹かれて舞う落ち葉の音だけしかしない。
あれ以来盗賊の話を切くことはなかったが、集落の長たちは何度も大歳の元へ集まり、報告や今後に付いての話を繰り返していた。
先日、ついに倭から臣従を促す書簡が送られてきた。だが大歳はまだそれに回答をしていない。このまま無視を決め込めば、倭が隣国の尾久を拠点として伊那へ攻め込むという情報もある。
「もし尾久に陣を奥とすれば、ここを通るのは間違いない……」
輝日のつぶやきに、刀梓もうなずく。
「ふもとの見張りには戦の装備をさせていますが、ある程度の人数を置かねばすぐに突破されてしまいます」
その見張りの中に刀梓も含まれている。
「といって、それぞれの集落の守りも固めないといけない……悩ましいところね」
ため息を付きながら、輝日は空を見上げる。秋の終わり特有のどこかはかない日差しが、木々の隙間を縫って差し込んでいる。落ち葉で埋まる山道に視線を下ろす。冬になればこの山もいくらかの雪に埋まる。それまでに攻めてくることもあり得るのではないか。
ふいに落ち葉を踏む音がして、輝日は腰に差している剣に手を添える。
「誰っ」
隣で刀梓も、剣を抜かんばかりに身構えている。大歳に言われたことを思い出す。大人数に囲まれれば、刀梓がいてくれても危ない。
「そんなに脅かすなよ」
木の陰から男が一人、ひらりと現れる。その思いがけず颯爽とした様子に、輝日はかえって身構える。
「俺だよ、この前、あんたに蹴られた」
輝日は男の姿を改めて見据える。すらりとした長身と、磊落な声は確かに覚えがある。困ったように笑っているものの、立っている姿に隙はない。だが丸腰で、元は派手な色合いがあせている衣服が今の彼の状態を示している。
「なにか、ご用ですか」
なるべく素っ気なく、輝日は尋ねる。先日の盗賊と元は仲間だったというのだから、油断はならない。
「あんたに、詫びを言っておいた方がいいと思ってさ。俺の正直な気持ちだったけど、あんたが気分を悪くしたんなら、申し訳ない」
男はそのまま頭を下げる。
「……私の方こそ、いくら何でも乱暴でした。申し訳ありません」
さすがに輝日も後ろめたい気持ちになり、同じように詫びる。正直蹴ってしまったことを後悔していたのに、向こうに先に謝られ、どうにも居心地が悪い。
「確かに、なかなか痛かったなあ。じゃあ、お互い様ってことでいいかな」
男がふいに軽い調子になったので、輝日は居心地の悪さの理由を悟る。先手を取られた。
「そのことは確かにお互い様ですけど、私はあなたを信用しているわけではありません。あなただって、あの盗賊たちの仲間なのでしょう」
気になっていることを言うと、男の表情はまた曇る。よく見れば、整った顔立ちをしている。伊那の男たちに多い大きな目と違い、やや切れ長の目がしっかりと輝日を見ている。やはり倭の男だろう。
「俺はあいつらとは縁を切った。あいつらは今じゃ、弱い者ばかり狙う外道になり果てた。それは死んだ親分の重いとは違う」
「それでも盗賊には違いないだろう」
言い返したのは刀梓だ。男は刀梓を見て、ふっと笑う。
「何がおかしい!」
「いや、悪い。確かに言われるとおり、俺も盗賊と呼ばれる者の一人だった。だけどもうまっぴらだ。俺は俺の道を行く」
「それなら、あの者たちに命を狙われたりするのでは」
彼に問いかけていたことに、輝日は自分でも驚く。
「そうかもな。でも今のあいつらは、自分より強い奴には手を出せない。こう言っちゃなんだが、俺も腕に覚えはあるからな」
どうやらかつての仲間の中では、最も強かったと言いたいらしい。
「そうですか……用事は、それだけですか。私はもう戻りますから」
あまり長く話をしていると、彼の調子にはまってしまいそうな気がして、輝日は強引に話を切った。
「そうだ! もう一つあったんだ!」
男の大きな声に、輝日は去りかけていたのがくるっと回ってしまう。
「何ですか! 驚かさないでください」
「あの向こうの峠あたりに、軍隊がいるの走ってるか」
「軍隊?」
聞き捨てならない話だった。
「装備からして、倭の軍だと思うんだが」
「何ですって! どこにいるんですか」
すでに倭の軍が来ているなど、さすがにまだ誰も思っていないだろう。焦って走り出そうとするのを、ぐいっと肩をつかまれる。
「何するんですか!」
「待てって、いきなり一人で行ったってしょうがないだろう」
「でも、様子を確かめなければ」
「落ち付けって」
男が、輝日の両肩をつかんでいる。その力の強さに驚き、動きが止まる。
「……本当に、倭の軍なのですか」
男の手を振り払うように肩を揺すって、輝日は尋ねる。
「たぶん間違いない。俺も倭にいたからな。装備には見覚えがあるんだ」
「向こうの峠って言いましたね。それなら少し行ったところに平地があるんです。そこにとどまっているのなら、裏道から回って様子を見られる」
輝日はさっきとは違う方向へ走り出す。
「待て! 一人じゃ危ない。俺も行く」
「ご無用! 長姫様には私がついております!」
刀梓が男に立ちはだかる。
「……そうでした、失礼」
「かまいません。あなたが見た軍の様子をもう少し聞きたいので、ついて来てもらえますか。それに相手に囲まれたとしても、二人よりは三人の方がまだ対応できます」
輝日の言葉がよほど意外だったのか、男は目を丸くしている。
「急ぎましょう。こうしている間にも何か動きがあるかも知れない」
輝日が歩き出すと、まず刀梓がやや不満そうについて来る。その後から男が、なぜか微笑みながらやって来た。
「俺は陽鷹だ。あんたは伊那の衆長の娘だな」
「輝日です。こちらは刀梓。私の供をしてくれています。それで、数はどのくらいいたのですか」
輝日が問いかけると、陽鷹と名乗った男は一瞬足を止める。
「そうだな、それほど多くはなかったと思う。戦というよりは、使者が武装しているような感じかな」
「……圧力を掛けに来たのかしら……」
倭から、臣従せよと言ってきていることに対して返答をしていないからか。軍勢を見せつけて、従わせるつもりなのかも知れない。
「あそこだ」
陽鷹が、少し先の方を指さす。峠の近くだった。
「こちらに回りましょう。後ろから様子をうかがえるから」
輝日は向きを変え、急な細い道を登り始める。すぐ刀梓が後を追う。
「獣道か、こりゃ」
陽鷹がやや戸惑いながらついてくる。この程度に難儀するところを見ると、やはり倭の人間らしい。
「ここなら見えるはず」
かなり高く盛り上がった丘に上がる。平地がよく見えるので、輝日は木々の隙間から目を凝らし、息をのむ。
その平地が、すぐには数え切れないほどの人で埋め尽くされている。その全てが揃いの胸当てや被り物を身につけ、槍や剣を手にしている。
「あれが、倭の軍勢……武器の数から違う……」
後ろにいる刀梓に至っては、言葉もなく見下ろしている。陽鷹が、輝日のすぐ後ろから顔を出す。
「昨日まではあんな奴らは見なかったんだが、今朝にはもうあのとおりだ。あれだけの軍勢をすぐに動かせるんだな」
「冬になれば、この山もいくらかの雪に埋もれます。それまでにと思ったのかも知れない」
予想していたとおりだ。
「刀梓、すぐに父上に知らせに戻って」
輝日の言葉に、刀梓は我に返ったように顔を上げる。
「長姫様は、どうされるので」
「私はもう少し、様子を見ます。気になるから」
「それでしたら、私がここに残って……」
「気になるのよ」
悪いと思いつつも、刀梓が逆らえないような言い方をする。隣で陽鷹が、微笑んでいる。
「心配ご無用だぜ。お姫さんには俺がついてるから」
「それが最も心配なのです!」
刀梓が怒鳴り、輝日は慌てて刀梓の肩を押さえる。すぐ下に、倭の軍勢がいるのだ。
「……気付いたかしら」
見れば下の軍勢が少しずつ動いている。誰かが来たのだ。
「今、何か声がしなかったか」
若い男の声が、尋ねている。先ほどの言い合いを聞かれたのだ。
「我々には、何も……」
「すぐに辺りを調べろ」
若い男は司令官らしい。兵士たちが「はっ」と慌てて駆けて行く。輝日は一度息を付き、左手を剣の柄に添える。
「長姫様?」
刀梓の呼びかけに答えることもなく、輝日は目の前の坂を駆け下りた。
「おいっ」
陽鷹の面食らったような声が付いてくる。かまわず輝日は滑るように坂を飛び降りた。
「……誰だ!」
目の前に突然現れた者に、相手は当然驚いている。声の通り若い男が、剣を抜いて立ちはだかっていた。赤銅のような色の甲冑で細身の体を覆っている。その見事な甲冑と、剣が跳ね返す白い光が、彼の身分の高さを示していた。
「あなた方は、倭の軍隊ですね。この地に何のご用ですか」
輝日は左手を柄に添えたまま、問いかける。
「そなたこそ、何者だ。女だてらに剣片手にこのようなところへ乗り込んでくるとは、ただの集落の住民ではあるまい。名を名乗れ!」
男はまだ戸惑っているのか、一気にまくし立てた。しかし立ち姿は案外凛々しく、隙もない。輝日と変わらない年頃だろうか。
「私は伊那の衆長の娘、輝日です。ここは我が父が治める地。なぜ倭の軍が断りもなくここにいるのですか」
「伊那の、衆長の娘? 戯れ言を言っていると、切るぞ」
「本当のことなのだから、仕方ありません。あなたはこの軍の総大将ですか」
輝日は右手も、柄に添える。もちろん、すぐに抜くつもりはない。
「私は副将の、橘高市麻呂と申す。我らは帝の命に従わぬ者へ勧告をしに来たのだ。そなたが本当に衆長の娘だというならば、衆長に出頭するように伝えよ」
副将を名乗ったその男は、輝日に剣を突きつける。
「待て待て! 軍の副将と衆長の娘が、いきなり斬り合うもんじゃねえ!」
「長姫様!」
ようやく追いついたらしい陽鷹と刀梓が割って入るが、周りの軍隊から槍を構えられて後ずさる。
「……囲まれてるじゃねえか」
「でしょうね。いきなりこんな風に来れば」
「あんた、無茶苦茶だな」
陽鷹がため息を付いている。輝日はしかし、ここはむやみに抵抗すべきではないと判断する。右手を柄から離し、副将の男を見据える。
「出頭せよとは、少し乱暴なお申し出。衆長と話をなさりに来たのなら、そちらから来られるのが筋ではありませんか」
「なんと言われた?」
副将の男の顔が赤くなる。刀梓は困った様子で輝日を見るが、陽鷹は微笑みさえ浮かべている。
「倭の帝がどれほど偉いかは知りませんが、勝手に乗り込んでおいて呼びつけるのは無礼というもの。そちらから参られるのが筋でしょう」
輝日の立て続けの言葉に、倭軍の兵士たちまでざわめく。
「蛮族の女ごときが、何を偉そうに!」
「我らが踏みつぶしてくれるぞ!」
誰かが叫ぶと、一斉にそれに呼応する。
「やれるものならやってみなさい! 通すべき筋を説いている我々に、狼藉で対抗する倭の軍の底の浅さ!」
輝日は剣の柄に手を掛けたまま、ひときわ大きな声を上げる。兵士たちが槍を、輝日に向ける。
「よさぬか!」
副将の男が、兵士たちを遮る。槍は引っ込められ、副将の男が前に出る。
「やるというならば、私がお相手いたそう。我ら倭の軍は、帝の命を受けやってきた誇りがある」
再び剣を構えた副将の男は、やはり隙がない。輝日もまた、抜く頃合いをうかがう。
「待て高市麻呂。いらぬ騒ぎを起こすのは、我らの本意ではない」
全く別の声が、二人の張りつめた空気を断ち切る。その声に兵士たちが慌てたように二手に分かれ、道を作る。副将の男もすぐに剣を納め、さっと身を翻して声の主を迎える体勢になる。
「なるほど、その権高な様子、確かに伊那の衆長の娘であろうな」
男が一人、まっすぐ輝日に向かいゆったりと歩いてくる。年の頃は三十前後か。黒光りする甲冑、大きな剣を腰に差して、いかにも大将といった風情だ。
「まんまと挑発に乗せられるところであったぞ、高市麻呂。どうやらそなたのかなう相手ではなさそうだ」
大将らしき男に言われ、高市麻呂と呼ばれた副将は恥入るように「はっ」と答える。だが大将は微笑んだままだ。
「伊那の、衆長の娘御と言われたか。無礼をした。私は倭の帝の命により軍を率いてきた、橘志計史麻呂だ」
「橘の、志計史麻呂殿……」
志計史麻呂なる男は、じっと輝日を見据えている。そのあまりの視線の強さに、輝日は思わず目を伏せる。
「先程この高市麻呂が申した通り、我らは倭に従わぬ者がなぜそうなのかを確かめるために参った。そなたが本当に伊那の衆長の娘御であるならば、その旨を父君に伝えてもらいたい。その上で私と話をするというのであれば、私がそちらへ出向いても良い」
「兄上!」
高市麻呂が声を上げる。この二人、兄弟なのかと輝日は妙なところに驚く。
「兄上は、此度の遠征では帝の名代ともいえるお立場。それなのに兄上の方から出向かれるなど……」
「この娘の言葉を、聞いていなかったのか」
志計史麻呂は真顔になり、高市麻呂は黙る。
「確かにあちらからすれば、我らは勝手に乗り込んできた者。無用のもめ事を起こすより、まずはまともに話し合う方が建設的だ。そうは思わぬか、娘御は」
いきなり志計史麻呂に問いかけられ、輝日は不覚にも勢いよく顔を上げてしまう。これでは動揺しているようにしか見えない。
「そうです、もし必要とあれば、私から父に伝えます。それならば私も納得がいきます」
慌てて返したが、どうやら相手の希望にかなったらしい。輝日への視線を外すことなく、軽くうなずいた。
「では、父君に伝えていただこう。我らは倭の帝の命により、伊那が倭の国の一つとなることを承諾していただくよう、参った。我らと話をする気がおありなら、そちらへ出向くとな」
輝日は一言一句、志計史麻呂の言葉を聞く。倭の貴顕なのだろう、言葉遣いにも品があり、物腰は涼やかだ。やや切れ長の目と高い鼻のきりりとした顔立ちだが、その顔に似合わず声は低く、強い。
「……わかりました。そのように、父に伝えます。それから」
輝日はもう一つ、気になっていることがあった。
「あなた方は、軍隊を率いていらっしゃいます。その武力をもって、伊那の民を襲ったりすることはありませんね」
ここでされているのは、あくまでも口約束だ。大勢の兵士がいれば、そのような懸念を持つ方が自然だろう。
「なるほど、確かにそう思うのは無理もない。だが約束しよう。我らはあくまでも平和的に事を進めるために来た。先程も申したが、いらぬ騒ぎを起こすのは本意ではない」
志計史麻呂が、少し微笑みながら答える。それを信じて良いものか。しかし今は一刻も早く父にこの状況を伝えねばならない。
「わかりました。その言葉、信じます。このまま帰ってもよろしいですね」
輝日がそう言うと、志計史麻呂は背後に合図をする。すると軍の者たちが槍などの武器を収める。輝日はすぐに背を向けず、一度見回してから踵を返す。刀梓と、陽鷹までが輝日を守るようにすぐ後ろを付いてくる。
「そなた、名は何と申す」
志計史麻呂の問いかけが自分に向けられていることに、輝日はすぐに気付かなかった。
「……輝日と申しますが、それが何か」
「そうか。なるほど、伊那の輝日か」
なぜか志計史麻呂は、輝日の名を繰り返した。強い声で名前を言われ、輝日は胸がざわめく。
「なにか、ありますか」
輝日が身構えたので、そばの刀梓も志計史麻呂をにらんでいる。陽鷹は面白くない様子で輝日と志計史麻呂を見比べている。
「戻ったら一度、髪を梳いたほうが良いだろう。美しい黒髪がそのようにもつれていてはもったいない」
「なっ……!」
輝日は思わず自分の髪をつかむが、確かに少し髪同士が絡まっている。とっさに駆け出したり、斬り合おうと身構えたりしているせいか。いつもはそんなこと気にも掛けないはずが、今はなぜか顔から火が出そうな思いだ。
「放っておいてください! 私の髪をどうしようと、私の勝手でしょう!」
「それほど美しい髪を見るのは、初めてだ」
志計史麻呂は余裕のある微笑みを浮かべている。輝日は恥ずかしさが我慢できず、駆け出す。刀梓と陽鷹が慌てて付いてくる。
「何なんだよあの気取った野郎は! あんな口説き方ありかよ!」
陽鷹が、やけにいらだっている。その声がやけにうっとうしく、輝日はいっそう早く駆け出す。
だが、髪の事を言われて決して嫌ではなかったことが、輝日は自分でも不思議だった。
三章
倭の軍がすでに駐留していることを輝日から聞いた大歳は、すぐに集落の長を集め話し合いを持った。
「倭の総大将が、話し合いを持ちたいと言って来ているそうだ」
大歳の言葉に、一同はどよめいた。
「それは、本当なのですか」
「軍を率いて来ておいて、そんな悠長なことを言っておるなど信じられぬ。こちらを油断させる策なのでは」
長たちの不安はもっともだ。これまでに伊那の周辺の国は、あっという間に倭の大軍に攻め込まれ、征服されている。
「ここにいる輝日に、直接言ったそうだ」
大歳が隣に座る輝日を指さすと、皆の視線が集中し輝日は少したじろぐ。
「偶然ですが、大将たちに出くわしました。いらぬ騒ぎは起こしたくないと、言っておりました」
「刀梓も、そう申しておりました。長姫様を通じて衆長に話し合いを持ちかけたと」
岸楠が付け加えるように言うと、皆の視線は輝日から外された。
「しかしながら、話し合いなど成立するのでしょうかな。倭は一刻も早くこの伊那を併合したいはず。本当にこちらの意見を聞く耳があるのか、わかりませんぞ」
岸楠が続けた言葉に、ほとんどの長たちがうなずく。大歳は腕組みをし、目を閉じている。輝日は自分の意見を言うか迷っている。今回この場に加われたのは、まさに倭軍の総大将と直接話をしたからである。いつもは居ることすら、許されない。
しかし輝日は、あの橘志計史麻呂なる男の言葉は、信用しても良いのではと思っている。本当に一気に併合するならば、突然飛び込んできた衆長の娘の輝日など、格好の人質であるはずだ。それを捕らえもせず、交渉の仲立ちをさせるという、ある意味悠長なやり方をしているのだから、すぐに戦を始めるつもりでないのだけは確かだ。
「ただ、こうして輝日に伝えさせた。本来なら捕らえられてもおかしくないところをだ。ということは、とりあえず我らの言い分も聞いてみようといったところであろう」
大歳は輝日をちらりと見て言う。危ないところだったのだという念押しだ。輝日は首をすくめ、うなずいた。
「そうではありましょうが、いったいどこでどのように話し合いを持たれるのですか。衆長一人であちらへ行くのも危険、かといって敵の総大将をこちらへ入れるなど……」
「倭の軍が駐留しているのは、ちょうど国の境だ。岸楠よ。そなたの館を借りたい。我らの土地を開放することでこちらも無益な抵抗はせぬとし、向こうにも出向かせるということで、お互い様にはなるまいか」
「なるほど……」
大歳の提案に、一同はうなずいた。
「いずれにしても、軍を率いて乗り込んできたとなると、何らかの形で接触をするしかないであろう。すぐに使者を立てる」
「そのお役目、私がしてもよろしいですか」
輝日が思い切って尋ねると、皆が一斉に視線を集める。
「……何と申した」
「ですから、倭の総大将へのお返事の使者を、私が」
「それはならぬ」
輝日の言葉にかぶせるように、大歳は拒否する。
「どうしてですか。はじめに倭の軍に接触したのは私です。ですから私が」
「それがどれほど危ういことだったか、まだわからんのか。お前は今まで何を聞いておった。捕らえられて人質にされておったかも知れぬのだぞ。もし相手が一気に伊那を併合する気であったならば、命もなかったかも知れぬのだ」
大歳が珍しく気色ばんでいる。そしてその言葉に長たちが強くうなずく。
「……すみませんでした、軽率に過ぎました」
さすがに引き下がるしかない。大歳が言ったことは重々承知だったが、輝日はそれよりもあの倭の総大将・橘志計史麻呂ともう一度話をしてみたいと思い始めていたのだ。有効な人質になり得る輝日をあえて返し、話し合いを持とうとする。いったいそこに何を思っているのか気になる。
使者には、会見の場を提供する岸楠が刀梓を伴って行くことに決まり、ひとまず話し合いは終わった。
輝日は弟の昴の部屋へ行く。もし戦が始まったら、体の弱い弟や年頃の妹はどうなるのか。それはさすがに不安だ。
「姉上」
部屋に入ると、昴が木刀を構えていたので驚く。
「どうしたの、体調は大丈夫なの」
「僕だって、いつも寝てばかりじゃありません。男として、いつだって戦えるようにしておかないと」
確かに今日は顔色も良く、声もしっかりとしている。
「でもまた熱が出たりしたら」
「姉上まで、母上と同じようなことを言わないでください」
昴のめったにない大声に、輝日は弟を傷つけたのだと悟る。母親に体の心配をされるのは仕方なくとも、輝日には一族の男として認められたいのだろう。
「ごめんなさい、気にしすぎね。でも、あまり母上に心配を掛けてはだめよ。それにまだ戦になると決まったわけじゃない。いざという時のために、体力を残しておかないと」
「戦には、ならないのですか」
意外そうに、昴が聞き返す。
「倭の総大将は、話し合いを求めてきた。父上は応じられる。まずはそこからよ」
「そうなのですか。でも、やはり姉上はすごい」
昴の声が、少し弱くなる。
「どうして?」
「真っ先に倭の軍に気づき、総大将と話をされた。姉上はいつも父上のお役に立っている。僕とは違いすぎる」
それが本当に良いのかどうか、輝日にもわからない。女らしくないと批判されることの方が多いのだから。
「あなたはまだ若いもの。父上のお役に立つのは、これからよ」
輝日の言葉に、昴は少し不満げにうなずく。しかしすぐに顔を上げた。
「姉上、倭の軍がどのようなものだったのか、お聞かせください。敵を知らねば、たとえからだが動いても意味がありませんから」
「わかったわ。でも、まだ敵と決めつけなくてもいいかも。戦が起こらないのが一番なのだから」
そうだ、まずは、戦を回避してもらいたい。もしかするとあの倭の大将も、戦を避けるべく伊那へ乗り込んだのではないかと、輝日は都合よく考えることにした。
だが、伊那と倭のとの考えの違いはすぐ明らかになった。大歳と、倭の総大将橘志計史麻呂との間で会談が行われたが、その際に倭から出された条件は、伊那の側では到底承諾できる内容では亡かった。
「伊那での生産物をすべて、一度倭へ納めよとはどういうことか!」
「衆長とその一族は倭の都へ移り、伊那の地を倭の役人が治めるとは、全くもって属国の扱い!」
大歳が持ち帰った話に、集落の長たちが挙げた怒号は、輝日たちが集まる昴の部屋まで聞こえてきた。
「なんだか、大変なことになってるんですね」
あまり事の次第を知らない星は、ただ大声に驚いている。
「大変どころじゃない。戦の可能性が高まっている」
昴はさすがに憂い顔だ。輝日もまた、少し考え込んでいる。
大歳は伊那と倭が対等であることを望んでいる。これまで通りの自治を認めてもらい、いわゆる租税も納めず、しかし倭から要請があれば倭の軍として人数を派遣する、と考えていたが、全く通じなかった。あるいは倭からすれば都合の良すぎる条件だったのかも知れないが、やはり倭は伊那も、これまでの国や集落と同じく支配下に置くのが目的だろう。
「姉上、どうしました? 何か気になることでも」
昴に声を掛けられ、輝日は我に返る。
「父上も、倭の話は受け入れられないでしょうね」
「じゃあ、戦に?」
「それはまだわからない。倭の大将も戦を望んではいないようだし、父上も何か妥協案を考えられるかも知れないわ」
輝日と昴の会話を、星がきょろきょろしながら聞いている。
「姉様もまるで、男の人みたい。そんなお話するなんて」
星の言葉に輝日は、そういうことなのかと納得する。女は戦だの、国の事だのという話をすべきではない、というのが大方の人の考えなのだろう。
「もしものことを考えて、星は今後あまり外に出ないようにした方がいいわ。衆長の娘をさらって人質に、なんてこともあり得るから」
「そんな、私だけですか」
星がふくれっ面になる。
「仕方ないだろう。お前は姉上と違って武芸の心得もないのだから」
「それを言うなら昴だって、いつまた熱が出るかわからないのだから、同じじゃない」
星の言葉に、輝日の方がひやりとする。自分が同じようなことを言って怒らせたばかりだ。
「熱が出ようが出まいが、僕は父上の跡取りとして戦う覚悟はある。いざとなったら一族の男として兄として、お前を助ける役目もあるんだ」
意外にも昴は穏やかに、星に語っている。輝日は黙って二人を見守ることにした。
「……ごめんなさい、私が言い過ぎたわ」
星は昴の言葉に気圧されたように、うなだれている。輝日は星の背後に回り、肩に手を置く。
「私の方が、女としておかしいのよ。それに、武芸の心得なんかなくても女にだっていろんな役目があるはず。母上にそれを教えてもらうのが、今のあなたの役目よ」
輝日はそう妹を慰めるものの、その女の役割が実はよくわかっていない。小さい頃から剣を振り回し、男の真似をしていたからだ。それを悪いと思ったことはないが、今こうして星に教えられることがないのは情けない気もする。
「わかりました。わたしはわたしの役割を学びます。いずれは誰かの妻になって、戦う時になったら送り出さないといけないんだから」
ふくれっ面のままだが、星は納得したようだ。輝日はそのまま弟の部屋を出る。いつの間にか父たちが集まっている部屋が静かになっていたからだ。その部屋をそっとのぞくと、大歳が一人、自らの座に座り込んだままだった。
「父上」
声を掛けると、大歳は少し眉をひそめる。
「お前か。お前が首を突っ込むことではない」
「でも、心配で」
「お前は女だ。たとえ男と同じくらい武芸に長けていても、女の力では限りがある。もうこの話には関わるな」
大歳の言葉から、おそらく倭の要求を呑むことはないのだと輝日は感じる。
「……伊那は、自治を望んでいる。しかしこれまで通りにゆかぬのもまた事実。税は一部納めるとしても、この地は我らが守ることを、認めてもらわねばならぬ」
独り言のように、大歳が言う。
「春まで、答えを待ってもらってはどうでしょうか。冬になればこの地も雪に覆われ、倭の軍だって難儀をします」
「それなら雪が降る前にけりを付けようとするだろう。あの倭の大将ならば、おそらく」
「えっ」
輝日には意外なことだった。倭の大将の橘志計史麻呂は、なるべく戦にならぬようにしているのだとばかり思っていたからだ。
「あの男は女のお前には穏やかな顔を見せていたのかも知れんが、この地を治めるわしに対してはそうではない。国と国のぶつかり合いはすでに始まっている」
それが男の世界なのだろう。輝日は改めて、自分は何もわかっていないのだと痛感する。
「よいな、お前もこれ以上、このことには関わるでない。何か一つ、ことを起こせばそれが引き金なりかねないのだと、肝に命じておけ」
「……はい」
しかしこのまま、ただ成り行きを見守るだけなどできそうもない。本格的な冬を迎えるまで、いつもの見張りは続けようと輝日は考えていた。
「なんですって、けが人が?」
輝日は耳を疑う。国の境にある集落で、冬支度の薪を集めていた伊那の民が、突然何者かに襲われたというのだ。
「十人あまりいて、馬に乗る者もいたとか。この辺りでは見かけない顔とのことです」
刀梓が震える声で報告を続ける。事件が遭ったのは刀梓の父岸楠がまとめている集落だ。
「これで五件……やはり、倭の嫌がらせでしょうか」
確かにこの数日、伊那の民が荷物を奪われたり、収穫が終わり寝かせていた畑を荒らされたりということが続いていた。だがけが人が出たのは初めてだ。
「父は集落の警護を強めるため、衆長に人足の増員をお願いしました」
「それは当然だわ。私は出かけます」
輝日は剣を背負い、歩き出す。
「どちらへ行かれるので」
「見回りよ。けが人が出た以上、黙っていられないわ」
「しかし衆長は、長姫様にはこれ以上関わるなとおっしゃったのでは」
「それでも、黙ってみていられないの。付いてこなくてもいいわ。ちょっとくらいなら私一人でも大丈夫だから」
「そうは参りません! お供いたします」
さすがに刀梓も色をなしている。だが刀梓には別の役目を頼みたかった。
「あなたは昴と星についていて。特に星は最近あまり外に出られなくて、あまり機嫌が良くないの。あなたが相手をしてくれるなら、少しは気持ちも晴れるでしょうから」
「次姫様の……」
刀梓の言葉が急に途切れる。大歳と岸楠が、刀梓を星の婿候補にしていることはまだ内密の話だ。当人同士は話もするし、刀梓は星のお供も時々務めている。だが実際二人がお互いをどう思っているかは、誰も知らない。
「だからといって長姫様お一人で外出させるなど……長姫様!」
さっさと歩き出した輝日の後を、刀梓が慌てて付いてくる。しかし輝日はいきなり走り出して、刀梓を巻いてしまった。
「ごめんなさいね」
普通の女ならともかく、自分は武芸の心得がある。この間だって手助けこそあったものの、盗賊崩れを追い払ったのだ。輝日は自信があった。
「おいっ!」
いきなり大声がして、さすがに驚いて振り返る。
「なんだ、あなたですか」
いつぞやからよく遭遇する、陽鷹とかいう男だった。
「女の身で一人で歩き回るなんて、度胸ありすぎだろ。お供の奴はどうした」
「あなたには関係ありません。何かご用なのですか」
よく遭遇するというより、彼につけねらわれている気もする。
「用っていうか……あんたが一人だったからびっくりしてな。最近この辺、物騒なんだろ。倭の軍もまだ居座ってるみたいだし」
彼ですら、状況はよく知っている。
「そのことでしたら、あなたにご心配いただくことではありません」
「……相変わらずつれない」
陽鷹は大仰にため息を付く。
「ご用がないなら、私、先を急ぎますから」
「あんたに惚れた、って用ならある」
陽鷹の唐突な言葉は、輝日には理解しがたいものだった。
「何言ってるんですか」
「あんたの物怖じしない態度、女とは思えない行動、面白すぎるよ。俺は変わった女が好きだからさ」
「からかうってご用なら、お断りです!」
輝日は思わず怒鳴る。陽鷹は少しひるんだが、変わらず笑顔だ。
「そう怒るなよ」
「無理です。だいたいいきなりそんなこと言うなんて、失礼じゃありませんか」
「だとしても、俺の正直な気持ちだから仕方がない。俺はあんたに惚れた。それだけだ」
「迷惑です! 盗賊崩れの人にそんなこと言われるなんて!」
輝日がそう言った途端、陽鷹の笑顔が消える。かつての仲間と縁を切ったと言っていたことを、輝日は思い出す。
「とにかく、私につきまとわないでください。今度そんなこと言われるなら、容赦しませんから」
陽鷹の、ほんの少し悲しげにも見える表情を、輝日はあえて見ないように背中を向ける。まだ心を許すわけにはいかないのだ。どうやら、彼が追いかけてくる気配はない。困ったことばかり起きると、ふと顔を上げる。
「……あなた方は、十河の」
いつの間にか、数人の男に囲まれていた。十河というのは、伊那に隣接する集落だが、すでに倭に降ったと聞いている。囲んでいるのは、見覚えのある者ばかりだ。
「何の真似ですか」
「伊那の衆長の一族を捕らえれば、褒美が出るんですよ。悪く思わんでください」
脅しというよりは、哀願にさえ聞こえる。輝日は剣に手をやる。男たちは、戦う人間ではない。伊那の民たちと同じく普段は農作業などにいそしんでいたはずの者たちだ。
「それは誰が言ったのですか。倭の総大将ですか。それを真に受けてこんな事をするのですか」
輝日は剣を抜く姿勢を変えず、尋ねる。男たちは答えない。やむなく剣を抜くと、男たちは小さく悲鳴を上げる。輝日はじりじりと彼らに近づいたかと思うと、さっと剣をひらめかせる。男たちがまた声を上げて後ろへのけぞったのと同時に、輝日は彼らの包囲を裂くように駆けだした。男たちは全く反応できず、輝日はどうにか彼らから離れることができた。
それにしても、衆長の一族を捕らえたら褒美が出るとは、いったいどういうことなのか。もし本当に倭がそんなことをしていたら、あまりにも卑怯だ。あの橘志計史麻呂が、そんなことを命じるのだろうか。
「長姫さまぁー!」
呼ぶ声に、いつしか館の近くまで戻っていたのだと気付く。だが呼ぶのはいつもの刀梓ではない。大歳や昴の警護をしている若者だ。
「どうしたの、ずいぶん慌てて」
肩で息をしているだけでなく、顔色が悪い。
「一大事にございます。次姫様が、次姫様が人攫いに遭われて」
「……今、なんて言ったの」
すぐには、飲み込めない事態だった、次姫、つまり星がさらわれた、ということか。
「次姫様が、盗賊のような者たちに連れ去られるのを、山を降りてきた者たちが見て、慌てて館に知らせてきたのです」
「なんですって! どっちへ行ったか、わかっているの?」
輝日は剣を背負い直す。
「郡の境目の……倭の軍が陣を張っている辺りを目指して逃げていったと。折り悪く衆長様は岸楠様のところへ行かれてお留守で」
「そんな……父上がお留守なのをいいことに、星は外へ出てしまったのね。それを……」
足元がぐらぐらするようだ。星は今、命さえも危ない。そして、やはり十河の者たちが言っていた事が本当だったと感じる。星もまた、恩賞狙いでさらわれたのかも知れない。
「ですが若様が、刀梓さん筆頭の手勢を率いて次姫様を救出に向かわれたんです!」
「昴が?」
体の弱い昴は、外で戦いなどしたことがない。武芸の稽古はしているものの、熱が出てしまい中断することの方が多いほどだ。
「私も後を追います! 案内して!」
輝日は若者を先に走らせ、自分も駆け出す。そのうち父も手勢を差し向けるだろうが、間に合うかわからない。不安を押しつぶすように、輝日は走り続けた。
再び国境の峠の近くまで来て、輝日は足を止める。
すでにその場は、乱闘となっていた。伊那の若者たちが剣を抜き、見るからに粗暴な男たちと斬り合っている。しかし相手に押されている。
「待ちなさい!」
輝日が声を張り上げると、皆が振り返る。
「長姫様!」
伊那の若者たちの声がそろう。よく見れば、彼らが対峙しているのは以前輝日が追い払った、あの盗賊たちだった。
「あなたたち……どこまで、私たちの暮らしを脅かしたら気が済むのですか!」
輝日は剣を抜く。相手の側に、星も昴もいない。輝日は伊那の若者たちの前に立ち、剣を構えた。
「どっかで見たことあると思ったら、この前の女か。ちょうどいい、ぶっ殺してやるよ」
盗賊たちはにやにやと輝日を見る。
「長姫様、お下がりください!」
背後からしたのは、刀梓の叫び声だった。左腕に星を抱え、右手に剣を持っている。その横には別の若者がいて、昴の肩を抱え込んでいた。
「あなたたち、無事なのね!」
「長姫様は、若様と次姫様を! そのような輩は我らが」
刀梓の言葉が終わらないうちに、盗賊たちが輝日に斬りかかる。輝日はかろうじてよけ、剣で受け止める。渾身の力でその剣を突き放し、逆に斬りつけようとして、かわされた。
「いいから逃げなさい!」
輝日は二人の盗賊から斬りかかられる。さすがによけるのに精一杯だ。伊那の若者たちも加勢するが、相手は容赦なく襲いかかってくる。
「貴様等っ」
ふいに男の声がしたかと思うと、輝日の後ろに誰かが回り込む。
「あなたは……」
頭一つ大きい彼と背中合わせになり、輝日は少し戸惑う。陽鷹はぴったりと輝日の背に自分の背をくっつけている。しかし何も武器を持っていない。
「あんた本当に無茶な女だな。普通だったら弟と妹連れて逃げるだろうが」
「昴と星は刀梓が守ってくれる方が安全よ」
陽鷹に答えながらも、輝日は盗賊たちとにらみ合う。陽鷹が武器を持っていない以上、結局自分で戦うしかない。
「おい陽鷹、また邪魔すんのかよ」
「お前らこそ、いい加減にしろよ。何の目的で、人さらいなんざやらかした」
「恩賞が出るからに決まってんだろ」
その言葉に、輝日は愕然とする。やはりあの倭の総大将は、卑怯な手を使ってきたのか。
「この、ど腐れ外道が!」
陽鷹が叫ぶのと、盗賊たちが斬りかかってくるのはほぼ同時だった。しかし陽鷹はさっと身をかがめて相手の懐に入り込んだかと思うと、頭で相手の顎を打つ。相手が倒れ込む隙にその剣を奪って斬りつける。輝日は向かってきた相手の剣を受けながら、陽鷹の身のこなしの素早さに感心してしまった。
「危ねえ!」
陽鷹の声に、輝日は剣をいったん引く。盗賊の頭目らしい男が、にやにやと輝日に向かってくる。振り下ろされた剣を渾身の力で振り払い、相手の首元に切っ先を突きつける。
「……てめえ」
「おとなしく去りなさい。命ばかりは見逃してあげます」
賊でもむやみに殺したくはない。切っ先を見ながら盗賊の頭目は、「けっ」と息をついて剣を捨てる。それを見て輝日もまた、剣を収めた。陽鷹が、伊那の若者たちから縄を受け取って頭目を縛り上げる。
「昴、星!」
輝日は取るものも取りあえず、弟と妹の元へ駆け寄る。
「長姫様……何という無茶を……」
「もういいでしょう。星」
刀梓に抱きかかえられている妹に呼びかけるが、星は刀梓にしがみついたまま顔を上げようとしない。自分のしたことを後悔しているのだろう。刀梓も首を横に振るので、輝日はそれ以上話すのをあきらめた。
「昴!」
すぐ横で、従者に抱えられていた昴がその場にくずおれる。
「昴、しっかりして!」
「大丈夫です、姉上……」
額に触れると、やはりかなり熱い。相当な無理をしたせいだ。
「おいっ」
いきなり響いた、陽鷹の声。輝日が振り返ると、盗賊の一人が短剣片手に輝日に斬りかかって来ていた。陽鷹が輝日を抱え込む。しかし男はさらに短剣を振りかざす。
その瞬間、何かが飛んできたかと思うと、男がいきなりどうっと倒れ込む。輝日と陽鷹は同時に起き上がり、あたりを見る。
「……橘の……」
いつしか周りを、黒っぽい軍隊が囲んでいた。その中心には、黒光りの甲冑を身にまとった橘志計史麻呂が馬にまたがっている。横には弟の高市麻呂もいた。
斬りかかってきた男は、その場に倒れていた。左胸に矢が刺さっている。
「その賊どもは、我らが追っていた者たちだ。伊那の者を捕らえると恩賞が出るという風評を、勝手に流していたのでな」
「え……」
輝日は立ち上がり、志計史麻呂を見る。
「それは、どういうことですか。この人たちのみならず、十河の民までもが同じ事を言っていました。やはりあなた方倭の者が、それを指示していたのではないのですか」
こんな盗賊風情が、勝手な風評を流せるわけがないと輝日は思う。だが志計史麻呂は口の端に笑みさえ浮かべている。
「以前、近隣の国を攻めたときにそのような策をとった大将がいたことはいた。それと同じように考えたのであろう」
「そんな馬鹿な……」
志計史麻呂が軍隊に合図をすると、陽鷹が縛り上げた頭目も含め盗賊たち全てが、取り押さえられる。志計史麻呂は馬から下り、引き据えられた頭目の前に立つ。
「おいっ、何すんだ」
陽鷹が気色ばむ。いくら愛想を尽かしたとはいえ、かつては仲間だった者たちだ。黙ってみていられないのは当然だろう。だがそんな陽鷹がまるで見えていないかのように、志計史麻呂は剣を抜いた。
頭目の顔が、苦痛にゆがむ。左胸を、志計史麻呂の剣がひと突きにしていた。剣が抜かれた瞬間、大量の血が吹き出す。輝日は口を覆い、声も出ない。
「なんで殺すんだよ!」
「帝の命を受けた倭の軍に、災いをもたらすからだ」
怒りをあらわにする陽鷹と、表情を変えず剣の血糊を払う志計史麻呂。輝日はどちらも見ていられない。
「後の者は、連行せよ」
冷たく響く声が、輝日の耳を打つ。そばの陽鷹が震えているのがわかる。だが、何もできない。盗賊たちは伊那に対し狼藉を働き、倭の軍がそれを成敗した、という形になってしまっている。
「そなたたちが、無事で何よりだ」
何事もなかったかのように、志計史麻呂が言う。優しささえにじむその声に、皆がかえって怖がっている。
「待ってください。すでに私たちで狼藉者は取り押さえていました。あなた方は、自分たちに対する厄介者を捕らえに来ただけではありませんか」
輝日の言葉に、後ろで皆が動揺しているのが伝わる。志計史麻呂が、少し微笑んだ。
「なるほど、さすがは誇り高き伊那の衆長の姫。意地でも我らに借りを作りたくないということか」
「貸し借りの問題ではありません。ここは伊那の地。あなた方にむやみに人殺しをされたくはないんです」
「そのような甘いことで良いのか。現にあやつらの一人は頭目を許したそなたに再度、斬りかかった。我らが来なければ、死んでいたのはそなたかも知れぬ」
「そんな……」
だが、返す言葉はない。輝日は地面に広がった、賊たちの赤黒い血に気付く。
「いずれにしても、人攫いなどに我らはいっさい関わってはいない。そのことだけは言っておく」
志計史麻呂はさっと身を翻し、馬上の人になる。その横で弟の高市麻呂が、輝日を心配そうに見ている。
「やはり、なかなか面白い女だ。そなた、一度倭へ来る気はないか」
「ええ?」
突然の志計史麻呂の言葉に、輝日は面食らう。
「何を言ってるんですか。私が倭に行くなんて、あり得ません!」
「そなたは己の国しか知らぬであろう。倭には大陸を始め、多くの文化が集まってきている。それを見たくはないか」
「文化……」
意外にも輝日の中で、その言葉が響く。大陸の文化は伊那にも入ってはいるが、おそらくそれは倭から流れてきたほんの一端だ。
「そ、そんなことではだまされません! 第一私が倭に行くなんて、人質か捕虜でしかない。絶対に行くものですか!」
輝日は志計史麻呂に背を向ける。
「そうか。だが、そなたとはまたいずれ会うことになるはず。それまでに、少し考えておくとよい」
志計史麻呂の口調は全く動じている様子もない。振り返ると、すでに彼を乗せた馬はゆっくり歩き出していた。
「……何なんだよ、あの気取り野郎は……」
陽鷹のつぶやきで、輝日は我に返る。何はともかく、最悪の事態は逃れたのだ。皆が、呪縛が解けたかのように武器をしまっている。輝日は、しゃがみ込んでいる陽鷹に近づいた。
「あの……また助太刀していただいて、ありがとうございます」
陽鷹は顔を上げようとしない。袂を分かったとはいえ、かつての仲間が殺されるのを目の当たりにしたからだろう。
「若様、どちらへ」
ふいに聞こえた声に振り返ると、昴がふらつきながら輝日と陽鷹のところへやってくる。
「私は、伊那の衆長の長男で昴と言います。姉への助太刀、ありがとうございます」
思いがけなかったのか、陽鷹が顔を上げ昴を見る。
「昴、もういいから」
「そうはいきません。恩人に、ちゃんとお礼を……」
言い終わらないうちに、昴はその場に倒れ込んでしまう。輝日より先に陽鷹が、その昴を抱え込んだ。
「あんたら姉弟、ほんっと無茶するな。すげえ熱じゃないか、こいつ」
陽鷹が、笑顔を見せる。まるで小さな子供のようなその笑顔が、輝日にはどこか新鮮だ。そして昴の状態や引き上げ支度が気になり、志計史麻呂が言っていたことを振り返る余裕はなかった。
四章
星がさらわれた事件は、伊那中に衝撃を与えた。さすがの大歳も青い顔で三人の子供を出迎え、言いつけを守らなかった星と、無謀に相手に立ち向かった輝日は久しぶりに父に叱り飛ばされた。同じく無謀に飛び出した昴は、高熱を発しているということで説教は免れたが、母の志濃と女たちに看病で囲まれる羽目になった。
昴を送り届けてくれた陽鷹に対し、大歳はもてなしをしたいといってとどめた。
「いや、俺は流れ者だから……」
陽鷹はためらう様子だったが、その時の様子を知りたがっているのもあってか、結局は言われるまま、数日とどまった。大歳もまた、倭の軍に助けられる形になってしまったことを、ひどく気にしているようだ。
輝日もまた、気になっていた。伊那の一族を倭の軍へ連行すれば恩賞が出る、という怪情報が本当なのかどうかが。あの橘志計史麻呂は否定していて、あまつさえ実行犯をその場で斬った。だがあの盗賊崩れたちは星が衆長の娘であると調べた上で、さらったのだ。他にも十河の者たちが同じようなことを言って輝日を捕らえようとした。以前同じようなことがあっただけで、ここまで広まるだろうか。
輝日は陽鷹がもてなされている部屋へ行く。もてなすとはいっても、酒はあまり出さず、男たちが事情を聞くばかりで、陽鷹は少々戸惑い気味に見える。ましてや彼は、かつての仲間を目の前で斬られたのだ。本来ならあまり話したくないかもしれない。
ふと、陽鷹が入り口の方を見る。目が合って、覗き見ているのが気まずく反らしてしまう。もういちどそっと見ると、すでにこちらを見ておらず苦笑している。気恥ずかしくなってその場から離れる。
それにしても、こんな事件が起きた以上、伊那と倭軍との間もただでは済まないだろう。怪情報によって伊那の人間が、倭と一戦交えるべきだと言い出す事もあり得る。大歳がそれをどこまで抑えられるか、あるいは大歳もまた、戦をする方向に傾くかも知れない。
そばに誰もいないことを幸いに、輝日はそっと館を出る。父から、しばらくおとなしくしていろと厳命されたばかりだが、そんなわけにはいかない。
「どこ行くんだ」
呼び止められて慌てて振り返る。
「……あなたこそ、どうして。さっきまであちらに……」
やはり陽鷹は頭一つ大きい。
「どうにか抜けてきた。そしたらあんたが、出て行こうとするのを見て、気になってな」
そうは言うが、逆に輝日が抜け出そうとするのを見抜いて、追ってきたのかも知れない。
「で、どこに行くんだ。あんな事件があった後だ。いくらあんたでも、一人で出歩くのは無謀すぎると思うが」
「あなたには関わりないことです。それに私は武芸のたしなみもあるから、大丈夫です」
振り切ろうとするも、陽鷹は前に回り込み行く手を遮る。彼の体はどちらかといえば細いのに、真正面に立たれると大きく見える。
「邪魔しないでください」
「そういう訳にもいかないなあ。見過ごして、あんたに何かあったら俺も寝覚め悪いし。一宿一飯の恩義もかねて、お供させてもらうよ」
「そんなお気遣いは、無用です」
なぜか以前のように、強めに言えない自分が妙に思う。
「あの総大将の所に行くんだろう。あいつが、本当に妹をさらわれた件に関わっているかいないか、確かめに」
それは輝日に尋ねているというより、自分もそうするのだと言っているようだ。
「……いけませんか。本当のことを知りたいんです。あの人、倭の総大将はいくら何でもあんな姑息なまねをするとは思えない。それに……」
実際に下手人を斬って、と言い掛けて輝日は言葉を切る。その斬られた人間は陽鷹のかつての仲間だ。
「俺は同意できないけど、確かにあいつ等なんぞを使うというのも妙な気はする。前の大将がやっていたことをそのまま受け取って、あんなことやらかしたってことの方がまだ自然かも知れない」
陽鷹は、かつての仲間が薄汚い手先に成り下がり、あげく切り捨てられたなどということを否定したいのかも知れない。
「とにかく、一人で出かけるのはもうやめた方がいい。あんな事があった後だ。どうせ行くなら、俺を連れて行け」
陽鷹が笑顔を見せる。それを見ると、輝日も勝手に口元が緩んでしまう。
「俺の顔、そんなにおかしいか」
「ごめんなさい、違うの。あなたって、まるでちっちゃな子供みたいに笑うから、なんだか……」
しかし、以前はあんな粗暴な男たちと仲間だったのだ。無邪気にも見える笑顔との落差が、輝日には不思議だった。
「わかったわ。ついて来てもらってかまわない。けれど、私があの人と話をするときは、口出しをしないって約束してほしい」
「……その条件は受けたくないけど、仕方ないかな」
陽鷹は笑顔のまま、輝日の要求を呑んだ。
さすがに倭の本陣は、数え切れない兵で取り囲まれている。自分のしていることの無謀さを思い知りながらも、輝日はその兵たちに近づいた。
「女、何の用だ」
輝日に気付いた兵が、にらんでくる。
「私は、伊那の衆長の娘で輝日といいます。総大将の橘志計史麻呂様にそう言って下さればわかります。お取り次ぎをお願いします」
あえて丁寧に言ったのだが、兵士たちはにやにやするばかりだ。
「伊那の衆長の娘? 遊び女の売り込みにしては、ずいぶん大きく出たものだ」
「遊び女? ふざけないで」
さすがにむっとするが、陽鷹が前に立った。
「彼女は本当に衆長の娘なんだ。あまりふざけていると、お前らが痛い目に遭うぞ」
「ほほー、そりゃ驚いた。どんな目に遭うか、知りたいもんだな」
兵士たちは大声で笑い出すが、陽鷹がにらみつけると笑うのをやめ、武器に手を掛ける。輝日が口を開こうとしたときだった。
「あなたは、伊那の衆長の娘御!」
見覚えのある赤銅の甲冑が、輝日を見るなり駆け寄ってくる。兵士が一斉に引いて、道ができた。
「まさか、お一人で来られたのか」
「あなたは、志計史麻呂様の……」
「弟の高市麻呂です」
高市麻呂は陽鷹を押しのけんばかりに、輝日の前に立ちはだかる。
「おいてめえっ、俺は彼女の付き添いだぞ」
陽鷹は高市麻呂をを押し返す。不意を付かれた高市麻呂は足元をぐらつかせた。
「何をする貴様っ」
「お前が先に押したんだろうが」
「無礼な! 私はこの倭の軍の副将だぞ!」
「そんな事知るか。彼女に用があるなら俺に言え」
「何だとっ、貴様はいったい何やつだ!」
「やめて下さいっ」
たまらず輝日が怒鳴ると、二人は一瞬見合ったまま、黙り込んだ。
「高市麻呂様、私は総大将の志計史麻呂様に直接お話をしたくて参りました。どうか、お取り次ぎをお願いします」
「あ、兄上に話を?」
高市麻呂は呆気にとられたように輝日を見る。輝日がうなずくと、自分を落ち着かせるように息を付いた。
「いったい何のつもりで。いくら衆長の娘御でも、女のあなたが何を話されるつもりなのです」
「これから伊那を、どうなさるおつもりなのかとお聞きしたいのです」
高市麻呂は今度はため息を付く。
「ご存じの通り、以前妹が盗賊にさらわれかけました。あのとき志計史麻呂様はじめ、倭の軍に助けていただいたことはお礼を申し上げねばなりませんが、伊那の者を捕らえたら恩賞がでるなどという話が、これほど多くの者に知られ、信じられているということが、どうにも納得いきません。本当に、今の倭の軍はそのようなことを触れ回っていないのでしょうか」
輝日はいつしか、語気を強めていた。この高市麻呂には、志計史麻呂のような底知れなさがないように見えるからだ。
「我らは断じて、そのような触れは出しておらぬ」
「でもあの盗賊たちだけでなく、近隣の十河の民も言っていました。以前の触れだけで、こんなに動くでしょうか。おかしいではありませんか」
「いや、しかし……」
高市麻呂は本当に困惑したように、次の言葉を探している。この様子では彼は本当に、何も知らないのではないか。
「そのことならば調べがついた。別の副将が以前の触れを利用して、盗賊や、十河の民をそそのかしたことがわかった」
強い声が響き、輝日はやけに鼓動が早くなったように感じる。
「やはり来たな、伊那の輝日。そう我が弟をいじめてくれるな」
志計史麻呂は微笑みさえ浮かべている。いずれ会うことになる、と言われたことをようやく思い出した。胸が騒ぐのは、緊張しているからだと思い直す。
「その副将は都へ返し、すでにその触れも反故としている。今後同じようなことは起こらぬはずだ」
志計史麻呂は相変わらずの黒光りの甲冑に、黒の覆いを背になびかせている。強い視線を受けると、なぜか、取り込まれそうな思いに駆られる。
「おい、ちょっと待て」
割って入ったのは、陽鷹だった。志計史麻呂がそのとき初めて、怪訝そうに眉を寄せる。
「だったらあいつらも、その副将とやらにそそのかされただけで、殺されるほどのことはしてねえだろう」
陽鷹の声は震えている。それを聞いて高市麻呂の方が、陽鷹の前に立ちはだかる。
「何を申すか。奴らは実際に人攫いをしようとした外道だ。それを成敗して何が悪い」
「確かにあいつらはもう外道だったかも知れねえが、あんたらの身内が招いたことで斬られる筋合いはねえはずだ。第一倭の奴らは自分らに都合の悪い奴らはそうやって武力で虐げたり、はみ出し者を拷問に掛けて始末する。倭も十分外道だな」
「倭を外道とは、なんと無礼な!」
高市麻呂が目をむく。
「あいつらや俺が従ってた親分も確かに盗賊だったが、狙いはすべて倭の貴族や、己だけが贅沢三昧している輩ばかりだった。その親分を捕らえて拷問にかけ、あげく殺しちまったことを、俺は絶対に忘れないぞ!」
拷問、という言葉が重く、強く響く。陽鷹からあの子供のような表情は消えていた。
「盗賊は都を荒らす不届き者ではないか。それを取り締まるのは当然のこと」
「取り締まるのは結構だが、その後拷問して死なすことに、何の理由がある? ただ単に、自分たちの財宝を取られた腹いせだろうが」
「先程から貴様、無礼にもほどがあるぞ!」
再び陽鷹と高市麻呂がにらみ合う。志計史麻呂は変わらない落ち着いた様子で、陽鷹ではなく輝日を見ている。輝日はどきっとして、顔を伏せてしまう。
「高市麻呂」
志計史麻呂が、冷たい声で弟を呼ぶ。高市麻呂は不服そうに後ろへ下がる。
「伊那の輝日、先日私が申したこと、考えてくれたか」
「え?」
「倭へ、来てみないかと言ったであろう」
忘れていたわけではない。だが、そんなことを考える余裕もなかった。
「近いうちに大歳殿と今一度話し合いを持ち、伊那と倭はひとまず和睦をし、友好の証にそなたを倭へ案内しようと言うつもりだ」
「そんな、勝手なことを!」
「見たくはないか、倭を」
ふいに志計史麻呂の声が和らぐ。それはどこか、包み込むような温かささえ感じられる。
「倭の姿を見れば、伊那がこのままでは良くないということがわかるはずだ。なぜ倭がこれほど大きくなったか、そして何が違うのか。その目で確かめることは、悪くなかろう」
「そ、それは……」
そんな風に言われると、強く反論できない。そして輝日は、倭への興味が少なからずわいてきていることを感じる。
「そなたが倭の都へ来るというのであれば、全ての兵を引いても良い」
「……え」
思ってもいなかった志計史麻呂の言葉に、輝日は驚く。そしてその言葉を聞いた高市麻呂が、慌てて兄の側へ駆け寄った。
「兄上、兵を引くとはいったい? まだ伊那は恭順の意を示しておりませぬ」
「恭順させることは難しい。いらぬ噂が立ち、伊那は我らに不信感を抱いておる」
「ですが……」
「まずは再び大歳殿と話し合いを持ち、伊那からの条件を聞く。それ次第で兵を引くことにする。冬が来れば、我らは不利だ」
やはり冬の雪を懸念していたのだ。しかし輝日が倭へ行くだけで、本当に撤退するのだろうか。
「……私を、人質にするのですか」
それ以外、考えられなかった。自分が行くことで戦を避けられるのは良いが、かえって伊那に不利になるかも知れない。
「その側面は否定はせぬ。だが、同盟を結んだ国の子女を都へむかえ、新たな見聞をさせるというのはよくあることだ。そなたが倭の都へ来るというのも、そういうことになる」
同盟、という言葉が引っかかった。本当に同盟なら対等であるはずだが、どうなのか。
「まずは明日にでも、大歳殿と話し合いを持ちたい。そなたが倭へ来るか否かはひとまず置き、その旨を大歳殿へ、そなたの口から伝えてもらいたい」
志計史麻呂は輝日の前に歩み寄り、告げる。すぐ前に立った彼が、輝日を見つめている。その瞳は鋭さもありながら、優しい。
「……わかりました。父に、確かに伝えます」
どこか飲み込まれたような心地で、輝日は答える。すると志計史麻呂の手が、輝日の肩に触れる。輝日は驚いて、跳ね上がるように離れた。
「やめてください、何のつもりですか!」
「改めて見ると、そなたは美しい。無論、その髪も。このような所に埋もれさせるのは惜しいほどの、美しさだ」
「なっ……ふざけないでください!」
自分の頬が紅くなっていることに気づき顔を背けようとすると、不意に輝日の前に人影が現れる。陽鷹だった。
「てめえ、気に入らねえな。きれい事ときざったらしい事ばっかり言いやがって」
陽鷹は怒っているのだろうか、輝日の手首をつかみ後ろへ引っ張る。
「何するの!」
いきなり手をつかまれたことに驚いて、大きな声になる、陽鷹はすぐに手を離す。
「……悪い」
少しうつむいた陽鷹と対照的に、志計史麻呂は変わらず微笑んでいる。
「私がきれい事ときざなことを言っているというならば、そなたは女人の扱いがいささか乱暴ではないかな」
「何ぃ」
陽鷹が志計史麻呂に詰め寄ろうとすると、すかさず高市麻呂が間に入る。しかし志計史麻呂は「かまわぬ」とだけ弟に告げた。
「これは我らの軍と、伊那との話だ。伊那の輝日、できるだけ早く返答をと、伝えてもらいたい。頼むぞ」
それだけ言って志計史麻呂は踵を返し、歩き出す。高市麻呂が輝日と陽鷹を気にしつつも、慌ててついて行く。輝日は返事もできないまま、志計史麻呂が翻した黒い覆いを眺めるばかりだった。
「……畜生、勝手なことばっかり言いやがって」
我に返らせたのは陽鷹の、歯ぎしりも聞こえそうなつぶやきだった。
「あのきざ野郎、信用できねえぞ。女のお前にはいい顔して、後で手のひら返すことだってあるぞ」
「どうしてそんなことがわかるの? それに私は、あなたにお前呼ばわりされる覚えはありません」
なぜか少し腹が立ち、声が高くなる。陽鷹の、きつく寄せていた眉が少し下がる。
「……ごめんなさい、あなたに当たるつもりはなかっただけど、そんな風に決めつけた言い方をするから……」
「いや、俺のほうこそすまない。だけどああいう奴の事はだいたいわかる。倭の貴族なんかみんなそうだ。俺も、首を切られた親方も、そういうのが気に入らなくて、そいつらの財宝を取って貧しい人間にばらまいてたんだ」
「そうだったの……」
意外な、盗賊の正体だった。
「そんなことより、また親父さんに怒られることが増えたな」
陽鷹が、空気を変えようとしたのかおどけたように言う。確かに、言いつけを破って志計史麻呂と接触したことが明らかになる。
「そうね……父上には、言い訳のしようもないわ」
「まあ、しょうがないだろ。親父さんもあんたの父親だから、案外同じようにしょうがないって思うかも知れないしな」
「そんな気楽な!」
輝日はつい、笑ってしまう。陽鷹がまた、いたずらっ子のように笑っていたからだ。
「でもあんたは、倭になんか行かない方がいい」
「……どうして」
急に陽鷹に断定され、輝日は戸惑う。
「あいつに、飲み込まれる」
「え?」
「いや、倭の都なんてろくなもんじゃねえぞ。そりゃ珍しい物も見られるだろうけど、そんな物はみんなまやかしだ」
陽鷹が貶せば貶すほど、余計に気になってしまう。大陸の文化もあるという倭の都は、どんな所なのだろうか。
「とにかく、戻ります。あなたはどうするの」
「俺か? とりあえず、あんたに付いてくよ。あんた一人より、俺もいたってのがわかる方が、まだ親父さんも安心するだろう」
「ありがとう」
今度は、素直にお礼の言葉が出る。すると陽鷹はまたあの笑顔になった。
知らせを持ち帰った輝日は、また大歳に怒鳴られた。
「あれほど言うておったものを、何を考えておる!」
父がいつも以上に怒っているのは、やはり輝日が倭の都へ行くという話になっているからだ。
「確かに国同士、お互いの子女を招くという事例はこのあたりでもあったが、人質に変わりはない。我らの動き次第では、人質を殺して攻め込む、という事態にもなりかねない」
それは輝日もわかっているつもりだったが、いざ「殺す」などという言葉が父の口から出ると、さすがに肝が冷える。
「でも、総大将はもう一度父上と話し合いを持ちたいそうです。その話し合い次第では、属国ではなく友好国という事になるのでは」
「それほど甘くはないだろう。……ただ、確かに、再度話し合いをせねばならぬとは思っておった。しかしお前が倭へ行くかどうかは別の問題だ」
「兵を引くと言われてもですか」
輝日は食い下がってみる。このことにこだわるのは、それで戦が回避できればという思いからだ。決して、倭の都への好奇心だけではない。
「この地で冬を越すことが難しいゆえ、そのような条件を出して一時停戦とする、そんなところであろう」
「でも、戦を避けられるのであれば、私は何でもします。伊那の平穏を守りたいんです」
「何を言うておる」
にわかに大歳が気色ばむ。
「ことはお前一人の問題ではない。戦を避けられるに越したことはないが、そのためにお前が犠牲になることを、皆が納得するかどうかだ」
倭を憎む風潮が広がっている伊那では、輝日が都へ行くなどとなると、かなりの反発も予想される。
「でも戦になれば、犠牲はもっと多くなります。それに実質は人質だとしても、私は死ぬわけじゃない」
「そうとは限らぬ」
大歳の否定に、輝日は口をつぐむ。確かに、ひとたび倭へ行ってしまえばその身は敵地に置かれてしまい、相手次第となる。
「仮にそのような形で誰かを倭へやるとしても、だいたいは男の役割だ。女のお前がすることではない」
「では、昴を行かせるのですか。今の昴の体調で、そんな役目を負わせると、父上はおっしゃるのですか」
輝日がたたみかけると、大歳は黙ってしまう。先日の騒動で無理をして寝込んだ昴は、やっと床を出たばかりだ。
「……この話は終いだ。わしはできることならば、お前を倭などに行かせたくはない。お前は誰よりもこの伊那を、そして親のわしたちや弟、妹を思ってくれている。それはうれしい。だがうれしいからこそ、お前にこれ以上のことを背負わせたくないのだ。お前にも人並みに、伊那の良い男の妻になってもらいたい。それが父親としての、わしのささやかな願いなのだ」
今度は輝日が黙る番だった。たとえ輝日が男並みに武芸に優れていようが、女であることに変わりはない。そして女である以上、越えられないものがあるのだ。そして父は、ただ娘に幸せになってもらいたいだけなのだ。
「何はともあれ、志計史麻呂殿の要請を受けて話し合いは持つ。あちらもこの地で冬を越すのは願い下げであろうから、こちらにも多少なりとも分はあろう。お前はしばらくの間、おとなしくしておれ」
輝日はただうなずき、父の部屋から去る。自分が何のために今ここにいるのか、それさえもよくわからなくなっていた。
大歳は再び、岸楠の館で橘志計史麻呂と話し合いを持った。どんな話になったのか、同行はもちろん家から出ることすら許されなかった輝日にはわからない。
果たして志計史麻呂は、輝日が倭の都へ来ることを条件の一つに挙げたのだろうか。そしてもしそれを聞いたなら、父はどう答えるのだろうか。
「あらまあ、お珍しい! 長姫さまがご自分で髪を梳いておられるなんて!」
端女頭の寿媛の声に、輝日は慌てて鏡台に櫛を置く。寿媛は目を丸くしている。
「別に、私だってたまには……」
「たま、などとおっしゃらず、毎日なさって下さいまし。どんな風の吹き回しか知りませんが、せっかくのお母上ゆずりの黒髪なのですからね」
「母上の……」
言われてみれば、昴や星はもう少し明るい髪色だ。二人の母親の志濃も同じような髪なので、髪の色は兄弟それぞれの母親から受け継いだらしい。
「ほぉら、あれほど外を駆け回っておられても、日焼けなどしていないように美しい黒髪でいらっしゃいますよ」
寿媛は輝日の後ろに立ち、優しく髪を梳いてくれる。普段なら髪の手入れをされるのはうっとうしいのだが、今は不思議と心地よい。
「男の方は、女の髪は黒くて長い方が好きな方が多いようでございますからねえ。長さまも亡くなられたお方様の髪を、たいそうお気に召していたようですよ」
「そうなの……」
ふと輝日の耳に、志計史麻呂の言葉がよみがえる。美しい髪だと、褒めてくれた。それはただ単に、黒髪が好きなだけなのだろうか。それとも……。
「そんなわけないわっ」
「え、何をおっしゃってるんです?」
寿媛の問いかけに我に返る。思えば髪の事とはいえ、男に美しいなどと言われた覚えは他にない。
「何でもない。やっぱりもういいわ。このまま縛っておく」
「まあー、またそのような雑なことを。たまには娘らしく結い上げなさいませ」
寿媛は輝日の言葉を無視して、髪を結い始める。いつもと違う自分の姿が、少し曇った鏡の中にできあがって行く。もしこれをあの人が見たら、どんな風に思うのだろう。そう思ったところで、なぜこんな事を考えたのかとわずかにいらだった。
寿媛に結われた髪型のまま、輝日は部屋を出る。庭に面した廊下を歩いていると、声が聞こえてくる。それが弟の声と、あの陽鷹の声だというのはすぐにわかった。
「姉上」
輝日の姿を見た昴が、目を見開いている。そこで輝日は、珍しく髪を結ったことを早くも忘れていたことに気付く。
「よくお似合いです、姉上」
弟が意外と口がうまいことに、輝日は恥ずかしくなる。庭の一角で、昴のそばに立っている陽鷹は、じっと輝日を見ている。
「なんですか、私だって、たまにはこれくらい……」
「……きれいだな」
「へっ」
ぼんやり、陽鷹がつぶやいた言葉に輝日は面くらう。
「すっ、昴、そちらはお客様?」
なにやらいたたまれず輝日は話題を逸らそうとする。昴は楽しげな笑顔になる。
「はい。陽鷹殿には倭の話などを聞いていました。もう発ってしまわれたと思っていたから、うれしくて」
昴とすれば、対等な立場の年の近い男というのは、貴重な存在なのだろう。刀梓にしても伊那の男たちは、やはり衆長の若君として接してくるからだ。
「陽鷹殿から聞きました。倭が、姉上を人質にと言ってきていると」
輝日はまた面食らう。陽鷹はあのとき確かに、輝日とともに志計史麻呂の言葉を聞いていたが、それが少々飛躍して昴に伝わっている。
「和睦に当たって、子女を学びの為に都に招くというのは、倭ではよくあることらしいわ。それを倭の大将がおっしゃったのよ」
「そうはいっても、人質であることには間違いありません。女の姉上を行かせるわけには。だから私が行く方がと言っていたんです」
「何ですって」
輝日は思わず、少し後ろに控えている陽鷹を見る。
「陽鷹殿は何も言われていません。私がそう思っているだけです」
昴に間髪入れず言われ、輝日は口をつぐむ。
「でも、あなたが行くなんて、母上が反対なさるわ。私は別に止める人もいないし……」
「そういう問題じゃないだろ」
いきなり陽鷹が口を挟んでくる。
「……あなたには、関わりのない事ですから」
「昴はあんたを心配してるんだ。弟として、次の衆長として伊那を守る者としても」
陽鷹は輝日が立つ廊下まで近づいてくる。彼に言われなくても、昴が人一倍その気持ちが強いのは知っているつもりだ。
「……それともあんた、倭に行きたいのか」
彼の踏み込んだ問いかけに、輝日は答えられない。こうもはっきりと聞かれたのは初めてだ。そしてなぜ答えられないか、自分でもわかっている。
「やめといた方がいい。あの男は口ばっかりうまい奴だ。俺にはわかる。親父さんだってきっとわかるだろうから、あんたを行かせるようなことはしないだろう」
「わかるって、何がわかるというの、偉そうに!」
自分でも、大声になったことに驚く。でも、なぜか腹立たしい。
「よそからきたあなたに、何がわかるっていうの。今、伊那が倭と戦をすれば、多くの犠牲が出るのははっきりしてる。私はそれを裂けたいの。そのためだったら倭だって、大陸だって行ってもかまわない。あなたにとやかく言われるいわれはないわ」
一度堰を切ると、止まらなかった。それになぜ、陽鷹がそんなお節介を言うのかも理解できない。彼に、何の権利があるのかという腹立たしさもあった。
「……そうだな。俺は確かによそ者だ。余計なことだったな」
陽鷹の声は、すっかり低くなっている。その後ろで昴が彼と姉を交互に見ている。
「昴、いつまでもお引き留めするのはかえって迷惑よ」
輝日は二人に背を向けて言う。
「姉上」
「いいよ、長居して悪かったな。近い内に伊那から出るわ」
「陽鷹殿!」
陽鷹が、そこから立ち去る足音が聞こえる。輝日もいつまでもそこにいたくなくて、足早に去る。向かうのは父の居室。やはり、自分が倭へ行くべきだと、言い聞かせていた。
「私を、倭の都へお遣わし下さい」
輝日の言葉に大歳は、大きなため息を付く。
「……あの男の言ったとおりになるとはな」
「え?」
「倭の総大将は、お前から倭へ行くと言うはずだと申していた。お前がどのような娘であるか、見抜かれているようだな」
大歳は再度、ため息を付く。
「……さらにわしが許さぬと言えば、お前は今度はあの男に直接、自分が行くと返事をするのであろう」
輝日は答えに詰まる。まだ、そこまでは考えていなかったが、もし父にだめだと言われたら、そうしていたかも知れない。
「……今、伊那が倭と戦になったとしても、おそらく勝ち目はない。いたずらに犠牲を増やすだけだ。それを止める手だては、そう多くはない。倭の軍は最新の武器もそろえているはず。こちらは兵となる者の数すら、足りぬはずだ」
さらに倭は他の国や集落から徴兵もできる。その時点で全く違う。
「戦を裂けられるのであれば、その方が良いに決まっておる。その上で、我らの自治が保たれれば、それに越したことはない。倭は我らを併合するつもりであろうが、それまでに時間を稼ぎ、倭に対抗できる力をつけることも、できるかも知れぬ」
「父上、それはつまり……」
輝日が顔を上げると、大歳は眉を寄せ、渋い表情になっている。
「どうしても行きたいというのであれば、もうわしは止めぬ。ただ行く限りは、お前自身も覚悟を持って行け。我らの時間を稼ぐということも、お前ならばできるのではないかと思う」
「父上!」
むろん大歳は今でも、輝日を倭の都へ行かせる気などないだろう。だがそれでもその決断をしたのは、すでに覚悟を決めているのだ。
「倭の軍は冬を迎え、慣れぬ土地での滞在を避けたいと思っておる。そして我らもまた、戦いを避けたい。そのことで志計史麻呂とわしの利害は一応の一致を見た。それならば、お前が行くのも仕方がないことなのだろうと思ったのだ。どう見ても、娘を人質に差し出す格好になるがな」
「父上……」
うれしさと、不安が輝日の中で巡っている。自分がようやく役に立てるという思いと、まだ見ぬ倭という国への不安。そして父の思いに背いているという思いもあった。
「父上、私は自分の意志で倭へ参ります。すでに覚悟もあります。そしてもしできるなら、倭の帝という人に、伊那を同盟国として扱ってもらえるように頼んでみるつもりです」
輝日がそういうと、大歳は首を横に振った。
「それは無理にせずとも良い。お前が無茶をすればするほど、皆が心配するのだからな」
大歳は苦く笑う。
「それでなくとも、お前を倭へやるとなれば人質を取られると騒ぐであろう。だがそれだけではないと説得するつもりだ。今はお前を差しだし、従うように見せかけて、頃合いを見て連れ戻すことも考えているとな」
「はい」
それができれば最も良いが、可能かどうかはまだわからない。だがこう言わねば伊那の者たちも納得はしないだろう。
「父上、ありがとうございます。私、伊那の役に立てるのが嬉しいです」
自分の今の気持ちを、輝日は素直に言う。父はどことなく寂しげに、うなずいた。
翌日には倭の要請に応じて輝日を都へ送ることが、皆に伝えられた。案の定、多くの反発の声が聞こえたが、大歳はこれが倭へ対する時間稼ぎであるということ、また輝日を取り返すことも考えていると説得し、納得、というよりは押さえ込んだ。
「志計史麻呂は先に倭へ戻り、お前のことは副将である弟が連れて行くそうだ」
大歳から告げられ、輝日は少し安堵する。なぜか、志計史麻呂と顔を合わせるのが怖い気がしていたからだ。
「姉上、どうしても行かれるのですか」
弟の昴は、不安と言うよりは不満げに尋ねてくる。自分が行くと言っていたくらいだから、仕方ないだろう。だが輝日の方では昴を行かせるわけには行かない。
「これは私が望んだことだから。それに跡取りであるあなたを行かせることはできないわ」
やはり大歳の跡を継ぐのは、男子である昴でなければならない。その跡取りを人質に取られる方が、よほど伊那の怒りは強くなるはずだ。案外志計史麻呂も、それを避けたのかも知れない。
「……わかりました。でも姉上、なるべく早く伊那に戻せるように、私もできることをします」
跡取り、という言葉は昴を納得させたようだ。
「なぜ輝日どのが行かねばならないのですか。他の者を代わりに、というわけにはいかないのですか」
義母の志濃の言葉に、輝日は首を横に振る。
「衆長の身内でなければ、倭も連れて行く意味がありません。私が最も適任なんです」
「でも……」
志濃は傍らの星と、輝日を見比べる。自分の娘が連れて行かれないことは良いが、その分輝日への申し訳なさが募るようだ。
「星は、もうすぐ刀梓と夫婦になるんですもの。私にはそんな人もいないし」
数々の騒動のさなかでも、その話は進んでいた。特に星がさらわれたあの事件以来、二人もお互いを意識し始め、大歳と岸楠も表だって進めるようになったのだ。
「……姉様は、どうしてそんなに自分を後回しにされるんですか」
星の言葉に、輝日は不意をつかれたようになる。
「後回しだなんて、私はそんなつもりは……」
「いいえ。だってどう考えても姉様が先に誰かと一緒になるべきなのに、姉様は昴と私を守るって言って、女なのに剣まで手にして。それで今度は人質になって倭へ行くなんて」
「星」
志濃に言われて星は一度口をつぐむが、目の縁はうっすらと光っている。
「ごめんなさい。でも、昴も私もずっと姉様に申し訳ないって思っているし、姉様が私たちの事を思ってくれればくれるほど、どこか苦しくなる。私たちのために姉様が犠牲になっているんじゃないかって」
「やめなさい星」
志濃が今度はきつく言う。輝日は返す言葉が思いつかず、うつむく星を見つめるばかりだ。父も似たようなことを言っていた。伊那の事を思ってくれるのは嬉しいが、嬉しいからこそ多くを背負わせたくないと。自分のやりたいようにしてきただけだと思っていたが、それこそが皆を悩ませていたのかも知れない。
「……でも、私は行くしかないの。これは伊那のためだから。伊那の役に立ちたいの、本当に。ごめんなさい、そんな風に思っていたことに、気づけなくて……」
「輝日どの……」
志濃が、すまなさそうに輝日に手に自分の手を重ねる。志濃の手は温かく、自分の母が生きていたら同じように温かいのだろうなと、そこで初めて涙が出そうになる。それを止めるように、首を横に振り微笑んで見せる。
「明日の朝早く、倭の副将が迎えに来られるそうです。早いので、お見送りもいりません。名残惜しくなってもいけないし」
「そんな……」
見送られたら、発てなくなりそうだと輝日は思っていた。
柔らかく、だがどこか鋭い光が東の空を照らし始めている。先程までの暗さは遠ざかりつつあり、輝日の立つ回廊もほのかに明るい。
「お供できないこの歳を、私は恨みますよ」
寿媛が、輝日の衣の裾を整えてくれる。いつも男と同じような袴を穿いていた輝日には、真っ白な裳裾が落ち着かない。しかし伊那の衆長の娘であることを示すために、この格好は必要だった。
「倭までの旅は長い。あなたに無理はさせられないわ」
「しかし、長姫様の身の回りの世話はあちらの者にさせるなど……伊那からのお供も途中までなど、あまりにひどい」
人質といえど、元々の側仕えの者を置くことが許される場合もある。だが輝日はあえて、伊那からの使者を時折迎えることにして、伊那の者を倭へ連れて行かないことにしたのだ。
「私がそうしたのだから、仕方ないわ。慣れない土地で暮らさせるのも気の毒だし」
「長姫様がそれをお耐えになるならば、皆従いますよ。私があと十ほど若ければ、何が何でもお供しております」
確かに、寿媛がもう少し若ければ本当に供をさせただろう。だが寿媛は歳を取っているだけでなく、足も弱ってきていた。そんな彼女に長旅はさせられない。
「……来たわ」
向こうから、輿を担いだ男たちがやってくる。輿の前を行く馬上の男は、志計史麻呂の弟の高市麻呂だ。高市麻呂は行列を止めると馬から下り、輝日に一礼した。
「総大将の命により、お迎えに参った。これより私が都へお連れします」
高市麻呂が、まっすぐ輝日を見ている。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
「……本当に、これで良かったのですか」
高市麻呂の問いかけは、輝日にとってかなり意外だった。
「あなたは伊那を守るために倭へ行くという。しかし人の目からすればあなたは人質だ。伊那の姫君であるあなたが、それで本当に良いのですか」
高市麻呂はなお、輝日から視線を外さない。その目の強さは、兄の志計史麻呂と同じかも知れない。
「……もしできるならば、倭の帝にお目通りをして、伊那が決して倭に害をなすことはないから、対等な同盟ということにしてもらえないかと頼みたいのです」
それは父には止められたことだ。だが戦を避けるだけでなく、戦にならぬようにしたい、戦って死人が増えるのはどちらにも無益なはずだと、輝日は思っている。
「なんと、そんなことまでお考えとは。でも、それは難しいと思います。帝には我ら倭の者もそう簡単にはお目通りできぬお方。兄ですら難しいほどですから。……ただ」
高市麻呂が、ふと微笑む。そればかりは兄とまるで違う、少年にも思える笑顔だった。
「あなたなら、どうにかしてしまうかも知れないですね」
高市麻呂の屈託ない様子と笑顔に、同じような少年の笑顔を持つ陽鷹を思い出す。言い争ったあの日以来、姿を見てない。本当にもう、伊那から去ったのだろうか。
「……そろそろ、参りましょう。ぐずぐずしていたら名残惜しくなるばかりだから」
「良いのですか。せめて、お父君に挨拶なり」
「父は、わかってくれていますから」
輝日は父にも、一人で発ちたいと頼んでいた。父は何も言わず、こうして好きにさせてくれる。ただ長年、母か祖母のように世話をしてくれた寿媛の、見送りたいという思いは拒めなかった。
「長姫様、どうかお体にお気をつけて。私が生きている間に、伊那へお帰り下さいませよ」
寿媛が、整えてくれたはずの輝日の裳裾を握りしめている。輝日はその手を、自分の手で包んだ。
「寿媛、あなたも元気でね。皆のことをよろしく」
輝日はゆっくりと寿媛の手を離すと、振り返らずに輿に乗り込む。そっと輿の垂れ幕からのぞくと、馬上の人となっている高市麻呂と目があった。
「兄上も、到着をお待ちです」
高市麻呂はそれだけ言って、出立、と声を上げる。輝日は寿媛が結い上げてくれた髪に手をやる、自分では結えないことに、その時ようやく気付いたのだった。
五章
姉が発ったその日、昴は気付かれないように見送っていた。
自分の中で、覚悟を決めるためだった。ずっと守り続けてくれた強い姉は、遠く倭の国へ行った。伊那を守るために。
もっと丈夫だったらと、昴はいつも自分の体を呪い続けていた。姉が人並みに里の男の妻になることができなかったのはそのせいだと思っていた。
だが姉は、すべて自分が選んだ道だと言っていた。その覚悟はついに、倭という大きな侵略者の懐へ飛び込むまでに至った。それは伊那のため、皆のためだったのだ。
ならば自分も、そんな姉のために何かできることをしなければならない。昴はようやく、そう考えられるようになったのだ。
ひ弱な自分にできることは、頭を使うことだ。それに、体を丈夫にする方法だってあるはずだ。
姉を通じて知り合った、あの陽鷹がこんな事を言っていた。
「外でお天道様に当たる方が、きっと丈夫になるはずだぜ」
目の前のもやが、一気に晴れるような言葉だった。
「大事にされ過ぎたんだな。跡取り息子がしょっちゅう熱出したら、そりゃ風に当てるなむやみに動かすなってなるだろうけど。俺だって昔はよく熱も出したし、鼻水垂らしてた。だけど外で遊んでばっかりいたら、いつの間にか人より丈夫になっちまったよ」
確かに外へ出ることは少なかった。だから昴は最近、自分から進んで表を歩いたり、時には刀梓らを相手に剣術の稽古などもするようになった。不思議なものでそうしていたら、本当に体が軽くなり、熱もあまり出なくなった。両親も妹も驚いているほどだ。姉が戻るその時には、もっと元気な姿を見せることができるかも知れない。
そんなことを考えていたら、館の周りが騒がしいことに気付く。声のする方へ行くと、表の庭で男たちが誰かを囲み、取り押さえている所だった。回廊には父の大歳がそれを見下ろしている。そして押さえつけられているのは。
「陽鷹殿!」
昴が声を上げると、皆の視線が集まった。
「これはいったい、何の騒ぎですか」
陽鷹が、昴の方へ顔を上げる。
「この男が、いきなり衆長に詰め寄ろうと下のです」
取り囲む男の一人が答えながら、さらに陽鷹の体を押さえつけようとする。
「何すんだよっ。俺はただ、輝日が倭へ行ったのは本当かって聞きたいだけだよ!」
陽鷹は押さえる手をふりほどこうと暴れ、また複数に抑えられる。
「貴様ごときが長姫様のことを言うなどと、無礼者が!」
「盗賊崩れが、衆長に談判するだけでなく、長姫様のことまで口出しするとは!」
「うるせえ! 惚れた女の心配して、何が悪いってんだよ!」
陽鷹の叫びに、昴の方が呆気にとられてしまう。やはりそうだったのか。しかしここまではっきり言えるとは。父を見ると、眉を寄せ、声を出すのをこらえているように見える。
「長姫様に岡惚れとは、なんと身の程知らず!」
さすがに皆はさらに激昂し、陽鷹を締め上げようとする。
「よさぬか!」
「やめろ!」
昴は自分でも、これほど大きな声が出せることに驚いた。同時に皆を止めた大歳の方が、今は呆気にとられている。男たちも、そして陽鷹までが唖然と昴を見ている。
「父上、この人は私の友人でもあります。決して私たちに危害を加えるようなことはありません。一度は客分としてお迎えしたのですから、このことは私にお任せいただけませんでしょうか」
これほど一気に話しても、息は切れない。大丈夫だ。
「……お前がそれほどまでに言うならば、わしは何もいわぬ。離してやれ」
さすがに大歳に命じられると、皆もおとなしく従う。自由の身になった陽鷹に、昴は駆け寄った。
「陽鷹殿、お怪我はありませんか」
「あれくらい、どうってことねえよ。それよりお前、結構大きな声出せるんじゃないか」
「僕だって、いつまでもか弱い子供ではないです。もう、姉上もいないから」
姉のことを言うと、陽鷹の表情は曇る。
「陽鷹殿、この話は僕の部屋でしましょう」
そう声を掛けると、陽鷹は黙って立ち上がる。彼だって騒動を起こすのは本意ではないはずだ。
自室に陽鷹を入れ、とりあえず座らせた。
「昴、みんな本気で輝日を倭へ行かせたのか。人質だってわかった上でか。あの総大将が輝日をどう利用するか、わかったものじゃないぞ」
陽鷹はどこまでも、倭の総大将を信じる気はないらしい。それが姉とまるで対照的だと、昴は気付く。
「父上にはきっと、何か考えがあってお許しになったのだと思います。僕はまだ、その考えが何かは聞いてないけれど……」
いずれは倭から奪還するつもりなのかも知れないが、昴が真相を聞くのはもう少し先なのだろう。
「考えか。しかしまさか親父さんが許すとはな。あの野郎に騙されてるんじゃないか」
「僕はお会いしてないからわからないけど、倭の総大将がは気品もあって信用できるのではないかと、父も姉も言ってました」
「それが危ねえんだよ!」
陽鷹の声が大きくなり、思わず昴はのけぞる。いったいなぜ、これほどまで苛立っているのだろう。
「ああいう男は一番信用できない。そもそも倭の奴らは自分たち以外は卑しい蛮族と決めてかかって、何やったってかまわないとさえ思ってるんだ」
「蛮族……」
昴は初めて聞く言葉だった。口にすると、舌の上がざらざらするような言葉だ。それだけで、倭から伊那が見下されているのだと感じてしまう。
「じゃあ、姉上は倭でどのようなことになるのですか。ひどい扱いを受けるのですか」
にわかに不安を覚え尋ねるが、陽鷹は首を横に振る。
「いくら何でも、いきなり辱めを受けるようなことはないだろう。けど、何かにつけ蛮族とか言われるだろうし、あのきざ野郎のことだ、そのうち輝日のことを……」
そこで陽鷹はにわかに口ごもる。そのうち、姉はどんな目に遭わされるのか。続きを聞こうと陽鷹を見るが、さっきまでの勢いが嘘のように何も言わない。
「姉は、倭の誰かの妻にされたりするのでしょうか」
何となく思い当たったことを口にしてみる。陽鷹はそれを恐れているのだろう。もしかすると、倭の総大将なる男が、姉をそうするのではないかと。
「……俺は、倭へ行って輝日を連れ戻す。このままでいいわけがない。おまえの親父さんには何か考えがあるのかも知れないが、倭の奴らはそんなに悠長じゃないはずだ」
「倭へ、行かれるのですか」
伊那から出たことのない昴にとって、倭という国はとても遠い気がする。そんな遠くへ姉を行かせてしまったという思いが、今更ながら押し寄せてくる。
「心配するな。これは俺が勝手にやることだ。もし何かあっても親父さんは俺を責めるだけだ。ただ輝日だけは絶対にここへ連れて帰る。お前だけはそれを覚えていてくれ」
まっすぐ自分を見る陽鷹を見て、もっと早く姉がこの人と出会っていれば、姉は今頃普通の女として暮らしていたのではないかと昴は思う。一人の女性としての姉を託すのに、これほどふさわしい人はいないのではないかと。
「わかりました。それでしたら僕から頼みがあります」
昴は懐から取り出した物を、陽鷹の前に差し出した。手のひらに収まるほどの平たく黒い石で、表面に木の葉のような紋様が彫られている。
「これは僕が生まれたとき、父上がご自分の手で彫って僕にくれた護符です。無事姉上に会えたら、これを渡して下さい」
「お前……」
陽鷹はあくまで、伊那の民ではない。輝日を連れ戻そうなどとは彼の勝手で、誰も何の関わりもない。
だが昴が、自分の大事な物を託した時から、伊那の跡取り息子がその勝手な所行に関わった事になる。昴もとがめを受ける対象となるのだ。
「僕はずっと、姉上に守られてきた。でも僕はまだ姉上を守るだけの力もない。だったらせめて、姉上をそれほど思ってくれる陽鷹殿に託したいのです。今の僕には、それしかできないんです」
精一杯の覚悟のつもりだ。昴が見上げると、陽鷹は昴の手ごと護符を自分の手に包む。
「わかった。確かに預かる。お前のその姉さん思いの気持ちも伝えるよ」
陽鷹は護符を自分の手に収め、微笑む。昴はそれを見てようやく、心が落ち着いたような気がしたのだった。
目覚めて、また驚いてしまう。
そうだ、ここは倭の国の、橘高市麻呂という人の邸だ。来てから何日も経つというのに、眠りから覚めて知らない場所にいることに驚く。
輝日は寝台の上に座り込む。上質の布が敷かれたそれは、驚くほど深い眠りへ誘われる。だがすぐに目覚めて慌てるということを、繰り返している。
「失礼いたします、輝日様、入ってもよろしいかしら」
華やかな声が外から聞こえ、輝日は寝台から転がるように降りる。「どうぞ」と言ったものの、髪が寝乱れたままで、整えようにも腰近くまで長さがあるので思うようにいかない。入り口の扉が開いて、若い娘が侍女を従えて入ってきた。
「ごめんなさい、お目覚めになったばかりだったんですね」
満開の花の模様が織り込まれた裳裾を揺らし、その娘は輝日の側まで来る。
「いいえ咲子様、私こそ失礼を」
輝日は髪を整えるのを諦め、その場に立つ。
「どうかおかけ下さい。今、着替えを持たせましたから」
年の頃は十六、七。妹の星と同じ頃だろう。薄化粧と額につけた花びらのような飾りは、倭の貴族の娘としての装いらしい。彼女は邸の主である高市麻呂の妹・咲子だ。
「輝日様の髪を」
咲子が命じると、侍女が輝日を鏡の前に促す。仕方なしに腰を下ろすと、侍女が手際よく髪をすき始める。
「本日は志計史麻呂様が、輝日様に会いに来られると兄から聞きました」
「志計史麻呂様が」
輝日は思わず振り返り、侍女に髪を引っ張られる格好になる。痛さに元に戻すが、侍女は全く慌てる様子もなく輝日の髪を結い始める。
「お忙しいお方ですから、そうお支度も慌てなくてよいと思いますが……」
といいながらも咲子は、どこか落ち着かない様子だ。
「今度、早咲きの花を愛でる宴を催されるのですけど、そのお衣装が届きましたでしょ」
咲子は言いながら、部屋の隅に置かれた箱に歩み寄る。そういえばそんなこともあったなと、輝日は鏡越しに咲子を見る。
「花を愛でるために、宴をするのですか」
輝日が問いかけると、咲子はその意味がわからないかのように小首を傾げる。
「そうですけど……」
伊那で宴と言えば、何かしらの祝いの宴だけだ。わざわざ花を見るためだけの宴というほうが、輝日にはよほどわからない。
「まだ、ご覧になってなかったんですね」
箱を開けて咲子は、申し訳なさそうに言う。
「ええ。でも、私は山奥から出てきたばかりですから、宴は遠慮するつもりです。だからそれもお返ししようかと」
「まあ、なんてことを」
輝日の言葉に咲子は、なぜか青ざめている。
「せっかくのお品をそんな風におっしゃるものじゃありませんわ。それに、そんなに難しくお考えにならなくとも。輝日様は十分お美しいですし、それに志計史麻呂様が親しいお方だけお招きになっての宴だと思いますよ」
咲子は輝日が気後れしていると思っているようだが、人質でもある自分がそんな所に出るものではないと輝日は思っているし、倭の風習になじみたくないというのもあった。むろん咲子にそこまでは言わない。
「兄上もご出席なさるんです。私はまだ早いって言われましたけど」
そこで咲子はぷっと頬を膨らませる。そういう表情も、伊那の妹と重なる気がする。
「そういえば、志計史麻呂様も咲子様の兄上様ですよね。でも高市麻呂様とだけお暮らしなのですね」
いつの間にか結われた髪を鏡で見ながら、輝日は何気なく疑問を口にする。髪型は咲子と同じで、後ろから二つに分けて輪を作ったものだ。輝日の髪の量が多いせいか、咲子より大振りになっている。
「高市麻呂の兄と私は同じ母親ですけど、志計史麻呂様はお母上が違って、帝のお血筋のお方なんです。だから同じ父の子でも、格が違うんです」
「そうなのですか……」
母親が違うだけで、そんなにも立場が変わるものなのか。自分と弟や妹は全くそんなことはない。伊那では、同じ一族ではみな横並びだ。
「だから志計史麻呂様はお住まいも私たちとは別ですし、高市麻呂の兄は弟というよりは、近しい部下のようなものなのです」
言われてみれば、志計史麻呂の態度は尊大で、高市麻呂は兄に従順だった。
「申し上げます、志計史麻呂様が、お越しになりました。輝日様をお呼びでございます」
部屋の外から侍女が告げる。
「まあ、思っていたよりお早い。輝日様はようやく身支度を終えられたばかりなのに」
咲子が急に焦り出す。あまりに困惑した様子に、彼女が志計史麻呂を苦手としているのではと勘ぐりたくなるほどだ。
「いらしたのなら、参らないといけないですね。私、行って参ります。ご心配なく」
思えば都に来てから数日、まだ輝日は志計史麻呂と会っていない。どのように向き合うべきか正直わからないが、拒むこともできない。ましてや自分は、その志計史麻呂の手の中に入れられているようなものだ。
「そうですか。では、行ってらっしゃいませ」
咲子は少し意外そうに、輝日を送り出す。輝日は呼びに来た侍女の後について行く。そういえばこの館の中で、自分に与えられた居室以外はほとんど行ったことがない。高市麻呂と咲子の二人で暮らしているようだが、いくつもの棟が立ち並び、数え切れないほどの侍女や舎人が立ち働いている。伊那の生まれ育った館でも、衆長の住まいである以上それなりの大きさと人があったが、その比ではない。
「申し上げます、輝日様、お越しにございます」
居室からかなり離れた、最も大きな棟の両開きの扉の前で、侍女が告げる。入れ、という高市麻呂の声が中からして、侍女が扉を押し開く。輝日は恐る恐る、中へ入った。
部屋の最も奥、一段高い所に、敷物の上にゆったり座る志計史麻呂がいた。脇息にもたれているその姿はもちろん甲冑などではなく、白地に波の紋様が描かれた装束をまとっている。見た目は素朴だが、柔らかで艶のある絹の装束であることは輝日にもわかる。辺りには輝日の知らない、良い香りが漂っている。
志計史麻呂の座から一段下がった右横に、高市麻呂が座っている。輝日が入ってくると顔を向け、少し微笑んで志計史麻呂の前を手で指す。輝日はそこへ座り、一度頭を下げた。
「倭の装束が、思いの外似合っているな」
近づくと、香りがいっそう強くなる。志計史麻呂から来ているのだと気付き、輝日は顔を上げられなくなる。
「都の暮らしはどうだ。少しは慣れたか」
以前、伊那の里で対峙した時とはまるで違う、柔らかな声色に輝日はますます戸惑う。どうにか顔を上げると、志計史麻呂は口元に微笑みを浮かべて輝日を見ていた。
「お陰様で、不自由なく過ごしています」
「そうか、それならば良い」
志計史麻呂が軽く身を起こすと、また香りが漂う。何の香りだろう。ほんの少し香ばしく、辺りを澄ませるような心地よさがある。
「聞いているだろうが、私の邸で梅見の宴を催す。そなたも参れるよう装束を送ったが、見たか」
さっき咲子が箱を開けていたが、輝日は中を見ていない。
「私は宴など、気乗りしません。伊那の山奥から出てきたばかりの人間ですし、豪華な装束も似合いません。それに、花を眺めるだけの宴なんて、意味がわかりません」
思った通りをはっきり口にしても、志計史麻呂は微笑んでいる。
「輝日殿、何もそのように気後れなさることもありますまい。宴と言っても、兄上と親しい方々をお呼びするばかり」
「でも、私が行く理由もありませんでしょう」
高市麻呂の取りなすような言葉に、つい強めに言い返してしまう。言ってから、彼はただ輝日の立場が悪くならぬようにしてくれているだけなのだと思い、申し訳なく思うのだ。
「そなたが加わる理由はある。伊那という、知らぬ国からやってきた姫を一目見たいという者は多い」
「それじゃあ、私は見せ物ですか」
気色ばむが、そうとしか思えない。物珍しい異国の女を、皆で酒の肴にしたいだけだ。
「そう怒ることでもない。伊那の姫がどれほど美しいか、皆に見せつけてやれば良いだけのことだ」
「私は、美しくなんかありません」
本気で言っているのだろうか。今だって、あまり似合わない倭の装束を着せられて、居心地が悪い。こんなの、私じゃない。そう思っていると、おもむろに志計史麻呂が腰を上げ、輝日に近づく。そのたびに、あの澄み切った香りが漂う。
「……何ですか」
輝日のすぐ目の前に、片膝を付いた志計史麻呂が向き合っている。こんなに近くでこの人の顔を見たのは初めてだ。切れ長の目が、じっと輝日を見つめている。あまりの決まり悪さに顔を伏せようとすると、志計史麻呂の手が伸びてくる。触れられるのかと思いどきっとすると、その手には何かきらきらと輝く物があり、それが輝日の髪に差し込まれた。
「やはり、こちらの方が似合っておるな」
輝日は差し込まれた物に触れる。小さな石が連なっているようで、ゆらゆら揺れている。髪飾りだった。
「大陸から来た品だ。そなたに似合いそうな物を私が選んだ。それはそなたの物だ」
「え?」
髪飾りは、結われた二つの輪の左の方に飾られている。
「対になっておる。こちらがもう片方だ」
侍女が恭しげに、小さい箱を持ってくる。中には確かに髪飾りが片方だけ入っていた。小さな赤い石と青い石が数え切れないほどつないであって、蝶の形を作っている。揺れているのは蝶のしっぽのような部分で、赤と青の石が交互になっていた。
「こんな豪華なもの、頂けません! 私には不釣り合いです」
輝日が髪飾りを外そうとする手を、志計史麻呂がつかむ。輝日はいきなり触れられたことに驚いて、その手を振り払ってしまった。
「……すみません、無礼なことを」
さすがにまずいと思ったが、志計史麻呂は微笑んだままだ。むしろ側に控える高市麻呂のほうが顔色を変えている。
「かまわぬ、驚かせたな。だが是非受け取ってくれぬか。せっかく用意したものだ。それを付けて、宴に来てもらいたい」
優しい微笑み。伊那に来たときの、どこか恐ろしささえにじませていた様子とはまるで違う。この人はいったい、何なのだろう。
「……わかりました。では、少しだけ参らせていただきます」
これ以上、無礼を続けるわけにもいかないだろう。形ばかり出て、何か理由を付けて下がればいい。
「それはありがたい。高市麻呂、当日はそなたが連れて参れ。よろしく頼むぞ」
「はっ」
高市麻呂が頭を下げるのを見届けてから、志計史麻呂は悠然と部屋を出て行く。見送ることもせず、付けられたままの髪飾りに触れる。こんな豪奢な品が、自分などに似合うはずもない。ふと、その場に残るあの澄んだ香りに気付く。あの人が衣服に焚きしめていたのだと、ようやく思い当たった。
「輝日殿、どうされた。ご気分がお悪いのか」
高市麻呂のはきはきした声に、なぜかほっとする。
「いいえ、志計史麻呂様と対面すると、妙に緊張してしまって……」
「それは確かにそうかも知れませんね。私も実の兄弟でありながら、いつも緊張してしまいますよ」
少しお休みになられよ、と高市麻呂は言う。それに礼を言いながら輝日はようやく、その部屋から出られたのだった。
早春とはいえ、倭の都でも夜は寒い。それでも伊那よりはずっと温暖なのだと、輝日は改めて思う。そうでなければこんな時期の夜に、花見の宴など催さないだろう。
結局、志計史麻呂の邸宅での梅見の宴に加わることになった。そのために贈られた衣装はつやつやした絹織物で、裳裾も華やかな梅の模様が織り込まれている。咲子の案で髪はあえて結い上げず流し、両方の耳の横に輪を作ってそこにあの髪飾りを挿している。それは輝日の黒髪に美しく映えていた。
「まるで帝のお后様のようですね」
支度の指揮を執った咲子の方が楽しげだったが、輝日はどこか窮屈な思いが抜けない。この地へ来てから外へ出ておらず、あちこちを歩き回ったり、武芸の鍛錬もしていない、女とはこんなに退屈な生き物だったのかと、呆然としている。
「兄上もきっと、お見とれになるでしょうね」
咲子は何が楽しいのか、くすくすと笑っている。明るい彼女と気楽な話をすることは、退屈をかなり紛らわせてくれるが、時々かみ合わない所もあるのは、やはり育った土地の違いだろうか。
「……これは、お美しい……」
支度を済ませて高市麻呂の前に出ると、彼は本当にぼうっとしているようで、付き添った咲子はこらえきれず笑い出す。
「何だ咲子、そんな風に笑うなど、はしたないぞ」
「だって兄上ったら、本当にぼんやり見とれておいでだもの」
咲子に見送られ、輝日は輿に乗せられて志計史麻呂の邸に入った。そこは高市麻呂の邸よりさらに広大な敷地にあり、花見の宴をするだけあって庭には、見たこともないような花や立木が植えられていた。
「おお、やはりその飾りはそなたの髪を美しく見せるな」
対面するなり、志計史麻呂は満足そうに言う。
「……ありがとうございます」
「そなたの席は私の近くに用意してある。そこで座っておればよい」
実際に今座っているのは、志計史麻呂が座している所からほど近いが、簾が掛けてあり中の者があまり見えないようになっている。
それでもそこへ着くまでに、回廊を幾つも通って行かねばならず、そのたびに誰かの視線を感じた。すれ違う者は振り返り、遠巻きに見る者は袖を引き合って何かささやいている。異国の女に対する好奇心だろう。
簾の内側に座していても、絶えず誰かに見られているような気がする。それにこの場所は、肝心の梅の花がよく見えないのだ。
「……何のために、いるのかしら」
庭には何人かの男たちが楽器を演奏している。初めて聞く麗しい音色は、輝日の耳を素通りしている。せめて花が見たい。
「いかがなさいましたか」
輝日がその場に立つと、付いていた侍女が怪訝な目を向ける。
「ここではせっかくの梅の花が見えませんから、場所を移ろうかと」
「梅ならよく見えます。御簾越しで眺めるのが、都のやんごとなき女人のたしなみです」
反論する言葉もなくすほど、呆気にとられる。こんな形で見る花など、何の意味もないではないか。
「ではわたくし、少し酔いましたのでどこかで休んで参ります」
本当は酒など口にしていないのだが、とにかくこの場を離れたかった。侍女の答えも待たず、奥へと入って行く。
しかしこの邸は広すぎる。あてどなく歩いて輝日は、回廊に座り込んだ。夜の空気はまだ冷たく、伊那の冬を思い起こさせる。今頃皆はどうしているのだろうか。こんな贅沢な装束を着せられ、宴に引っ張り出されているなどと知ったら、倭に取り込まれたかのように思われるかもしれない。
それにしても、倭の女は皆こんな窮屈な暮らしをしているのだろうか。伊那では、自分ほど野山を駆け回ることはないにしても、外に出て山の木の世話をしたり、平地の畑を耕したりしている。日がな一日室内にこもっているなど、病の時くらいだ。欄干に持たれ、伊那の家族の顔を思い出す。
「……誰っ!」
突然のことだった。両腕を二人がかりで捕まれたかと思うと、足を持ち上げられる。いきなり過ぎて声を上げることもできないほどだった。どこかへ連れ込まれるのだとわかった瞬間、ふりほどこうとするが複数人に抱え上げられた状態で逃れられない。
「やけに暴れるな、蛮族の女は」
若い男の声だった。それに何だ、蛮族というのは。
「おとなしくしろ」
「族長の娘だか何だか知らぬが、蛮族に変わりはないな」
何人いるのだ。声を出そうとすると、顎をつかまれ口を押さえられる。必死に暴れても逃れられず、暗いどこかの部屋へ入ってしまう。そして輝日の体を床へ放り投げた。
「何をするのっ」
ようやく放されて立ち上がろうとするが、落ちたときに打ち付けた痛みが走り、崩れ落ちる。それを待っていたかのように男たちが一斉に、輝日の腕や足を床に押さえつけた。
「どうせならたっぷり楽しませてもらおうじゃないか。蛮族でも女には違いないからな」
「早くしろ、次は俺だ」
何を言っているのだ、この男たちは。一人の男が腹の辺りに跨がってきて、輝日はぞっとする。彼らは自分を陵辱しようとしている。
「やめなさいっ、離せっ、離してっ」
輝日は恐怖と同時に、強い屈辱を覚える。自分が異国の女だから、こんな目に遭うのか。しかも一人の女に対し何人もの男が襲うとは。なんという恥知らずが倭にはいるのか。輝日は渾身の力で、捕まれている足を持ち上げ、跨がる男を蹴る。男は一瞬うめいたが、すぐに体勢を立て直し、輝日の頬を激しく打った。
「蛮族ごときが、この俺に何をする!」
輝日は討たれた衝撃で目眩を覚える。それを見て笑う男の声が聞こえる。反撃もできないほど、ぐらぐらする。そして裳裾を引き裂く音がして、勝手に喉から悲鳴が出る。
「何をしておる!」
室内に声が響いたかと思うと、輝日を押さえる手が全て離される。輝日はふらつきながらも起き上がり、体をねじるようにして破かれた裳裾を引き寄せる。
夢中で前を見てみると、男が四人ほどその場にひれ伏していた。そしてその彼らを見下すようにいたのは。
「……志計史麻呂様……」
輝日は我知らず、うつ伏せるように体を隠していた。志計史麻呂は一見静かに男たちを見下ろしていたが、その目は怒りと、彼らへの蔑みが露わだった。
「そなたは、大納言殿のご子息ではないか。ここをこの、橘志計史麻呂の邸と知ってのお振る舞いか」
名指しされたらしい真ん中の男が、ひえっと声を上げる。
「お父君が是非お連れしたいとのご要望に応じてお招きしたが、どうやら私のもてなしがお気に召さなかった様子」
「い、いえ、そういうわけでは……」
「ならばこの騒ぎを何となさる。その女人が私の大切な客人と知っての狼藉ということか。私に対する不満をそのような形で表すとはな」
「いえ、いえっ、そのような……その、父にはこのことは……」
よく見れば、責め立てられている者たちは皆まだ若い。輝日と同じ二十歳くらいか、まだ十代かも知れない。にもかかわらず輝日を人とも思わぬような乱暴ぶりだった。
「ほう、人の邸で女を襲い、それをなかったことにせよとは、よくよく大納言殿は良いご教育をされたものだ。お主どものような小童は二度とこの邸に近寄るな! 大納言殿にもようよう伝えておこう。ご子息がいかに私のもてなしに不満をもっていたかをな。早々に立ち去れい!」
志計史麻呂の一喝に、男たちは転がるように部屋から出て行く。余りに醜い姿に、輝日はかえって悔しくなる。あんなくだらない人間に、あわや陵辱されそうになったなどと。
「……大事ないか」
ふいに聞こえた声に背中を向けようとして、輝日はまた目眩を起こす。倒れ込むかと思ったところで、体が支えられる。
「しっかりいたせ」
目を開けると、志計史麻呂がのぞき込んでいた。
「だ、大丈夫です」
抱きかかえられていると気付くと急に羞恥を覚え、逃れるように離れる。こんな情けない姿、これ以上見られたくはない。這うように壁の側へ行こうとすると、肩に何かふわりと、柔らかい布地が掛けられる。そのときにあの、澄んだ香りが漂った。
「あの者たちは官吏の子息だが、学問もろくにせず、甘やかした親も今更嘆いているようなくだらぬ者だ。だがまさかそなたに狼藉を働こうとは思わなかった」
まるで詫びるかのように、志計史麻呂がつぶやく。輝日は肩に掛かっているのが、志計史麻呂が先程まで宴で着ていた装束だと気付く。青地に蔓草のような文様が描かれた、絹織物だ。そしてやはり、良い香りがする。
「……私が、蛮族の女だから、侮ってこのようなことを……」
自分で口にすると、さらに口惜しさが増してくる。
「蛮族、とな。あの者たちが申したのだな」
恐る恐る輝日が振り返ると、志計史麻呂は背を向けている。
「伊那が倭から、そのように見られているのがよくわかりました。それに私は所詮人質。客人と言って下さいましたが、誰も本当はそんな風には思っていないんですね」
次にわき上がってきたのは怒りだ。掛けられた衣を前に引き寄せ、自分に浴びせられた屈辱を隠そうとするが、体中が汚されたように感じる。
「本当のことを申せば、都では異国のことをそのように言う者は多い。倭こそ高尚な民族であるという証拠のように。それが文化の違いに過ぎぬと知らぬだけなのだがな」
「そのようなこと、何の慰めにもなりません」
志計史麻呂の言葉を遮るような形になり、輝日はそこで言葉を切る。
「……だからこそ、この国は一つになる必要がある。文化の違いを整え、兵力を一つにせねば、大陸と対等に向き合える国にはなれぬ」
急にそんな話になり、輝日は振り返る。志計史麻呂がいつしかこちらを見ている。
「民族の違いなど、他の国からすればどうでもよいこと。勝手にばらばらに暮らしていれば、大陸などに狙われて終わりだ。だからこそ私はこの国を、倭という国に集約する必要があると思っている」
それが志計史麻呂の、いや倭の本音なのだろう。それだけならば伊那の父とて、協力を惜しまぬだろう。だが支配する側とされる側になることがないと、誰が言えるのだろうか。伊那はそれを恐れているのだ。
「……ともあれ、高市麻呂に言って引き上げさせよう。そなたもこれ以上、ここにはいたくあるまい。今、新しい装束を持たせよう」
一方的に志計史麻呂が話をやめる。
「あの、これは」
輝日が掛けられている衣を見せると、志計史麻呂は少し微笑んだ。
「そのまま持って帰ってかまわぬ。そなたは男の装束も似合いそうだ」
「からかわないで下さい!」
輝日は顔が熱くなる。ただなぜか、この衣がないと無防備に自分をさらしているような心地がする。前にかき合わせると、またあの香りがほのかに漂う。
「あの……先ほどの話ですが」
「装束のことか」
「違います! 国を一つにするという……」
志計史麻呂が、少し意外そうに輝日を見る。
「伊那には、伊那のやり方があります。それを私の口から、倭の帝に申し上げるということは、できませんでしょうか」
ずっと、考えていたことだ。高市麻呂にも伝えたはずだが、彼はおそらく本気にしていなかったのだろう。だが志計史麻呂ならば、もしかすると取り合ってくれるかも知れない。なぜか、そんな気がする。
「どうであろうか。私だけならばいくらでも聞いてやれるが、帝というお立場である限り、たとえ倭の貴族であっても気軽にお目通りする事は叶わぬ」
やはりそうなのか。彼でさえ無理だというならば、どうすればよいのか。
「……ただ、そなたが意見を述べたいということは重要だ。国を一つにするということは、倭以外に者の言葉に耳を傾けることでもある。私の方で、良き策がないか考えておこう」
「本当ですか」
もしかすると、今の惨めな姿に哀れみをかけてくれているだけかも知れない。それでも、輝日は信じたかった。
「ただ、時がかかると思っておいてくれ。それほど、帝にお目通りするのは難しい」
「はい」
仕方がない。どうせしばらくはこの国にいなければならないのだから、待つより他はないだろう。
そうしているうちに、装束を持った侍女が何人も入ってくる。志計史麻呂は彼女らに輝日の着替えを命じ、輝日を少し見てから出て行く。侍女たちは輝日の姿に一瞬不審そうな目を向けたが、すぐに無表情に戻って輝日を取り囲む。やむなくされるがまま、真新しい装束に着替えた。
全ての着付が終わった瞬間、床に落ちていた物に気付く。あの髪飾りだ。侍女が手早く拾い上げ、結い直された髪に挿してくれる。輝日はそっとその髪飾りに触れ、息を付く。
「その衣は、私がいただいたので、持って帰ります」
志計史麻呂の衣を片づけようとしていた侍女に、輝日はそう言っていた。侍女はまた怪訝な様子で輝日を見たが、すぐにそれを渡してくれる。上質の絹の手触りが心地よく、まだあの香りが残っている。
本当に、着てやろうかしら。
そう思う自分を、もう変だとは感じなかった。