幸福のマッサーシ
「ああ、今日も疲れた……」
腕時計の針はすでに日付をまたいでいた。
時間外労働、休日出勤など当たり前。いわばブラック企業と呼ばれる我が社にとことん絞られる毎日。
そんな俺その両肩には、もはや耐えきれないほどの疲労がのしかかっていた。
「くそ……早く良い転職先を見つけて、あんな会社とはおさらばしてやらぁ……」
これまで何度吐いたかわからない愚痴。
結局、俺は入社して数年、なんの進歩もなく都合の良い社畜に成り下がろうとしていたのだ。
錘のような足を引きずって、ようやく駅前に辿り着いた。
……が、そこで見慣れない建物に目がとまった。
平屋根の、コンビニのようにシンプルな佇まい。
店内は見えないが、蛍光灯の光がぼんやりと、建物全体を白く染め上げている。
その側面にはゴシック体で大きく店名であろう文字が刻まれていた。
『幸福の マッサーシ!!』
……まちがいない。
そこにはドドンと、『マッサーシ』……そう書かれていた。
なんだ。
マッサージ店か。
開店早々名前間違えるとは、先が見えてんなぁ。
俺は心の中で嘲笑した……いや、顔にも出ていたかもしれない。
ところで……これまでにこんな建物があっただろうか。
思い出そうとするも、この店の存在どころか、工事をしていたという記憶すら俺の中にはない。
「疲れすぎて、周り見えなくなってんのかなぁ……」
そういえば最近は、通勤路の景色すらちゃんと見れていないかもしれない。
いよいよ身の危険を感じる。
心身ともに、俺は凝り固まってきてるのかもしれない。
大きくため息を吐きつつ、俺の足はごく自然にそのマッサージ店に向かっていた。
「ちょうどいいや。冷やかしついでに、マッサージもしてもらうか」
そうして俺は、薄白い『幸福の マッサーシ!!』の自動ドアをくぐった。
* * *
扉をくぐると、そこにはファストフード店のような光景が広がっていた。
客側から見ても狭く感じるカウンター。その頭上にはメニューがズラリと並ぶ。
整然と並ぶテーブル席に客はいないが、シックな色合いのテーブルと丸椅子が目をひいた。
「まっさぁっせぇぇぃ!」
「「んまぁっしゃぁっせぇぇぃ!!」」
すると、突如耳に響く快活なかけ声。
……まさせ?
いや、きっと「いらっしゃいませ」と言ったのだろう。ラーメン屋などでよく聞く「しゃぁっせい!」と同じノリだ、きっと。
すっかりマッサージをしてもらうつもりだった俺は、どうも狐につままれた気分だった。
が、せっかく入ったんだ。ファストフードならポテトのひとつでも食って帰るか、とカウンターに近づいた。
「まっさぁっしぇー、お客さま。店内でおまさしですか? それともテイクまさしアウトですか?」
「……は?」
若い女の店員が、頼んでもいないスマイルを満面に浮かべて問うてくる。
おまさし? テイクまさしアウト……?
……いや、俺の耳がおかしいのか?
最近あんまり眠れていないせいで、ちょっと聞きまちがえたのかもしれない。
「……えぇっと、こっちで食べます」
「かしこまりました。では、こちらのメニューからお好きなものをお選びくださいっ」
普段行くファストフード店と同様の返しをすると、なんの変哲もなく事は進んだ。どうやら、本当に聞きまちがいらしい……。
そう確信しようとした俺は、メニュー一覧を見たとたんに驚愕した。
Menu (※すべて税込み表示となっています)
・まるまさし……S:100円 M:150円 L:190円
・角まさし ……S:120円 M:170円 L:210円
・ポテまさし……S:150円 M:180円 L:230円
・コカまさし……S:100円 M:150円 L:200円
・ハッシュドまさし……200円
・まさしシェイク(りんご味)……時価
「……な、なんだよ……これ……」
それに、時価ってなんだよ……。ファストフード店で時価なんて、初めて見たぞ……?
その下にも他に、ベーコンレタスまさし、えびまさし、チキンまさしバーカーなど……ファストフードっぽい名前のまさしが並んでいた。てか最後のやつ明かにバカにしてんだろ……。
はからず、メニュー表に乗せた両手が震える。額から冷たい汗が伝うのがわかった。
いよいよわからなくなってきた。
まさしって、一体なんなんだよ……。
「お客さまは、当店のご利用は初めてでいらっしゃいますか?」
「え? は、はい……」
「でしたら、本日は、黒毛まさしのダブルチーズサンドのセットがキャンペーン特価となっておりまして、大変お得ですよ」
呆然とする俺を見かねたのか、店員さんがオススメを教えてくれる。
その慈悲のこもった透き通った声が、俺の混乱する心を不思議なほど落ち着かせてくれた。
……まぁ、一応飲食店らしいし、さすがに変なもんは出てこないだろう。
「じゃあ、そのオススメで」
「かしこまりましたっ。少々お待ちくださいませっ」
そうして番号札を受け取り、二人掛けのテーブルで待つこと一分ほど。
「お待たせいたしましたっ。黒毛まさしのダブルチーズサンドセットですっ」
俺の前に置かれたトレーには、ビーフとチーズ、そしてレタスが折り重なったバーガー、そしてポテト、コーラがのっていた。
ただ……そのバンスが、こっちを見て微笑んでいた。
垂れ目がちの双眸、その目尻をさらに垂れ下げ、にんまりと。
今にも笑い声の漏れそうなその肌色のバンズは、明らかに俺の方を見ていた。
少しずつ、バンズの切れ目が口、ゴマがそばかすに見えてくる。
さらによく見れば、ポテトは人の指のように、コーラは赤い……まるで血のようにも見えた。
――これが……まさし。
なぜか、そう直感が訴えてきた。
畏怖の念さえ湧きそうになるのを懸命に抑え、大声で店員さんを呼んだ。
「ちょ、ちょっと、店員さん……! これって……」
「はい?」
さっきカウンターで接してくれた人だ。
ふと、彼女の胸元にあるネームプレートに目がいく。そこには『一級マッサーシ師』と刻まれていた。
そんな資格は初めて知ったが、今はそれどころではない。
「こ、このバンス……一体なんなんですか……」
「ああ」
すると、店員さんは納得のいったような表情で微笑んだ。
「初めての方はよく、気味が悪いと言われます。でも、大丈夫ですよお客さま。はじめは身構えるかもしれませんが、一口召し上がると、すぐ幸せな気分になれますから」
私個人的にもオススメですよ、と店員さん。
……。
この人は、なんて優しい笑顔を浮かべるのだろうか。
疑心暗鬼を極めそうな俺の心が、一瞬にして彼女の笑顔にほぐされた。
今なら、目の前でにまにま笑うバンズですら可愛いマスコットのように思える。
店員さんが去ったあと、俺はバンズと向き合う。なぜか唇を突き出してくるバンズに顔を近づける。
そして、意を決し――
「せいやっ!!」
――黒毛まさしのチーズサンド、その頭にかぶりついた。
「――っ!!」
そして――感動した。
鼻を突き抜けるジューシーな香り。
新鮮なレタスのしゃっきりした歯ごたえ。
芯まで味が行き届いた肉厚な黒毛まさし(?)は、チーズとの相性もよく、一口目から満足を口いっぱいに与えてくれる。
――すぐ幸せになれますから。
店員さんの優しい声音が脳内で甦る。
この幸福感……。まさに口の中で天国を味わっているような心地だ。
その後、俺は無我夢中で黒毛まさしのチーズサンドを頬張った。
途中、どこからか痛い痛いと泣く声が聞こえたが、俺の咀嚼は止まらなかった。
知らなかった……。
この世には、こんなに幸せになれるものがあったなんて。
最後のポテトをつまみながら、明日もここに来ようと決めた――。
* * *
次の日。俺は居ても立ってもいられず、会社を早退した。
上司に放送禁止ギリギリの罵詈雑言を浴びせられながら、そそくさと駅前の『幸福の マッサーシ!!』に向かう。
昨日から、あの幸福感が忘れられない。
今日は、チキンまさしバーカーにしようか。
あ、そういえば、うちのバカ上司も『まさし』って名前だったよな……。
「チキンまさし……バーカ……ははっ」
自分の言葉でツボにはまってしまい、息苦しくなりながら、今日もマッサーシ店の自動ドアをくぐった。
* * *
今日も俺は『幸福の マッサーシ!!』に足ヲ運ぶ。
会社なんかしらん。
もう何日も行ってない気もするが、どうでモいい。
それより、今日もまさしガ楽しみだ。
今はそれ以外なにもイラナイ……。
店員さんの慈悲の笑み。声。
バンズの愛らしい表情。
そういえば、今まではにまりと笑うだけだったバンズ……最近になってようやく、声をあげて笑ってくれるようになった。
それに、一口囓った時のあの問いかけ。
――まさしく、まさし喰ぅ?
……萌えである。
あんな事言われたら、もうダメだ。
病みつきになっちまう。
……アア、幸福のマッサーシ。
もっと早く、あの店と出会えていれば、もっと早くに幸せを掴めていたのかもしれない。
でも、いい。
贅沢は言うまい。
――俺はこうして、永遠の幸福を味わうことができたのだから。
あの幸福感さえあれば……俺は生キていケルのだ。
* * *
――明け方。
駅付近の路地裏を抜けた先、普段人気などないその空き地の真ん中に、妙な人だかりができていた。
「警部! こっちです!」
「おう、わかってら。……で、今回のホトケもそうかい?」
「ええ……見る限りでは。確認してください」
警部と呼ばれる中年男性は、シートの中で横たわる死体に手を合わせた後、観察をはじめた。
「死後、まだそれほど日は経ってないと思われます。ホトケに目立った外傷はなく、おそらく前例同様、心臓麻痺または脳の……」
部下の説明を軽く流しながら男はシートをめくる。
案の定、だった。
「それに……気味悪いほど、穏やかな顔で……」
「身元は?」
「生前はA企業の社員で……ですが、ここ数週間は無断で欠勤していたそうです」
「なるほどな。ちっ……こりゃまた、幸せそうな顔してやがる」
「はい。どうやらまた、『まっさー死』のようです。今週だけで、もう三件目ですね……」
「しかも、また人気のない空き地で……か。まったく、わけがわかんねぇな」
その若者の遺体は、数人の班員によって運ばれていく。
シートの内その表情はまるで、極上のマッサージを受けた後のような、幸福そうなものだった。
その死に顔を見た間では、密かに『まっさー死』と呼ばれるようになっていた。
「それと、今までの案件では皆が皆、業務起因性が認められていますね……」
「過労死……ってやつか……」
苛立った様子で空き地を見て回る警部。
その脇……空き地に沿った狭い道を、一人の若い女性が通り抜けていった。
彼女が抱える、人一人ほどもあろうかという、大きな看板。
そこにはゴシック体で大きく、
『幸福の マッサーツ!!』
そう刻まれていた。
お読みいただきありがとうございました!