003 Starting preparation
眼を覚ませば、白いカーテンがなびく。
薄っすらと眼を細めて開けば懐かしき母の病室を思い出す。かなり昔の話だが。
「――――――――そろそろ、起きないとね…」
ボーッとただただカーテンを眺めていた優は静かに顔を上げた。 懐かしさに身を浸している場合では無い。グッと体に力を込め起き上る。
彼女の名は幻童優。“サトル”と聞いただけでは男らしい名前なのであるが、体つきは完ぺきな女性……と言うか、背丈も低くそして貧乳の為に小学生に見えるのだ。
しかし、体つきは小さくとも頭はそれなりの物。
現在時刻は午前六時。春先となれば、少しだけ薄暗く感じるが見えない訳では無い。光り慣れしている今でも灯をパッと付けられれば眼を思わず閉じてしまうに違いない。
眼を凝らせば部屋の中に落ちている物が薄っすらと見えて来る…。優の部屋は元々何かある訳では無いのだが、昨日漫画を読み漁ってしまったのだ。その残骸と言うか。漫画の山が何処かで溜まっている。一応、足の届かないと言うかいかない場所に置いたのだが……。
(まさかクローゼットの隣に置いていたとは… 不覚……)
部屋のクローゼットの近くに積み上げられた漫画の山。 それらを倒さない様に扉を開き、中から制服を取る。
優が通う伊吹野高校は何故か人里離れた山奥にあり、住んでいる場所がトーキョーであるのに実に不思議だ。しかし、距離的にはまぁ、近いと言えた。
山の中にある為直線的な距離は短いのだが、実際行くとなるとかなり遠回りしなければならない。その為、あの高校に通う生徒は大体が寮暮らしなのだが、灯が嫌がった為寮生活では無く、家から通う事となったのだ。
伊吹野高校は設備も最新式で、何でも政府が関わっているとかの噂もあるが詳しい事は不明。受験の際、何故か書類…?自分の名前と生年月日を書いた紙と面接と簡単な問題を解かされて受かったと言う始末だ。
因みに落ちた人達も居るらしいのだが、あんな試験で何故落ちたのか見当もつかない。因みに問題は小学校レベルであり、かなり緩い学校の様に思えた。
(お弁当、どうしよう……)
あの高校は確か売店もあったハズだ。パンフレットに書いてあった。お弁当を作って来ると言う手もあるのだがやはり出費は最大限押さえたい。高校生だし、何より優は以外にも本が好きだ。漫画小説ジャンルは―――ファンタジー系が主に好きだろう。
自分で言うのもなんだが、優は魔法系や異世界物、空想世界での冒険の様なファンタジーが好きだ。だからそんな系統の小説をついつい手に取って買ってしまう。
(買いたい本は今月二冊出るけど…その分の出費を引いても―――…)
高校生となればお小遣いは中学よりも多少出る。その中で食費を引くとかなりヤバイ…。
「お弁当、作るか…」
ため息交じりにそう告げた優。めんどくさい訳では無いのだが何というか…ちょっとだけ、学校で買う食事と言うのに憧れてしまう。
「でもまぁ、頑張らないと……」
造ると決めたのならば、美味しい物を造りたい。そして灯に食べさせてあげたい。あの子は非常に無口で無愛想でいっつも殺気を放っている様な子であるがとっても優しい子だと優は知っている。
「灯もそろそろ彼女作らないとね…」
何て独り言、一回言ったら灯が固まった。ボトッと持っていた鞄を落とし、優を驚いた様に凝視した姿が実に面白おかしく脳裏に焼き付いている。思い出せば少しだけ笑ってしまう楽しい事だ。
「私も頑張らないと…」
グッ…と小さな手で拳を作る。彼女の言う頑張るの意味は二つ。一つは自分が高校生と言う事を自覚する事。これはお小遣いの消費を抑えると言うのが主な縛りだ。もう一つは……案外恥ずかしい事なのだが、小学生だと言われない様にする事。
優のコンプレックスに近い物は未だに大きくもならない身長の低さ。弟の灯は優に百八十センチもあると言うのに、自分の身長はまだまだ小さく百五十センチ代も行かず、悔しい事に百四十九センチで止まっているのだ。灯には申し訳ないのだが、慎重を一センチ分けては貰えないかと思ってしまうほどだ。
おかげで近所の人からもたまに、本当に希に小学生と見間違えられる事があるのだ。 試しに小さい時に言われた通り、牛乳を一杯飲んでみたが効果は無し。ってか飲み過ぎると逆に体が脆くなると知った今はあまり飲んではいない。コップ一杯一日一回飲むようにはしているが、それ以外は何かあった時に接種する程度だ。
因みに優は貧乳と言う事は気にしてはいない。彼女の言い分は『胸は確かに女の子として必要かもしれないけど、でもそんな事より私は身長が欲しいの!』との事だ。彼女的に言えば『胸って脂肪の塊でしょ!?そんなのよりも私は身長が欲しいのッ!!』とマジで言えば先輩方に泣きながら『いいのよ、いいのよ。貴方は小さいままで』なんて言われてしまって多少精神的ショックを受けたのは昨日の事の様に覚えている。
「あっ…… ヤバ…!」
昔の事を思い出しながら制服を着ていれば灯を起こす時刻になっていた。と言っても、この時刻は優が勝手に起こしに行く時刻であって、灯は起こさなければ年中無休で寝てそうな人間だ。あっさり言ってしまえば無気力と言えよう。
それに彼はかなり寝起きが悪い…と言うか、中々起きてくれないのだ。この時間に起こさなければ遅刻する可能性だってある。
「自分で起きてくれたらいいのになぁ~」
自主的に起きて欲しいとは思うのだが、何で中々起きてくれないのか。実に不思議だ。前に『何で起きてくれないの?』って聞いた事があるのだが、その時の答えは無言。つまり、優の灯翻訳辞典の中ではその無言は『言いたくない』と言うのを意味する。それ以上先の事は優には分からず、お手上げ状態と言えるのだ。
制服を着終え、白い白いスカーフを付ける。黒のニーハイソックスを履き、準備は完了だ。後は軽く顔を洗ったりして髪を整えたりしなければいけないのだが、そんなのは後回しだ。
パタパタと軽い足取りでスリッパを履き直し、優は隣の灯の部屋を軽くノックしたのち、返事を聞かづに速攻で開ける。毎朝の事であるのだが、ノックして灯が出て来た試しは一度も無い。その為、優はノックした事実だけを自分の中で残し、そのまま問答無用で入ってきているのだ。
部屋の扉を開ければ、見えてくるのは自分の部屋よりも一回り大きな部屋。祖父母が部屋を与えてくれたのだが、頑として灯をこの部屋にする為に頑張っている様に見えた。
しかし、灯は普段から無気力である為部屋にある灯の物と言えば必要最低限な物のみ。机やクローゼット。ベットに本棚。フローリングは下地が剥き出しの状態でそろそろ掃除しなければ埃が溜まっていきそうな感じがした。
因みに部屋に埋め尽くされている本棚などは優が灯に頼んで置いて貰った漫画専用の本棚の数々だ。祖父母に頼めば置いてくれるだろうが、何だか気が引けるのだ。
父と母が他界して、冷たくながらも自分を文句言わずに育ててくれたあの二人。そんな二人に文句を言うのが嫌で、優は灯に頼み込んだのだ。灯が漫画を読むのは本当に気まぐれだ。でも、優の買って来た漫画は面白いかは置いといて、全部眼を通している。不思議な事に。
ゲーム機などもあるのだが、それも部屋の隅っこで使われる時を待っているが全然使われた形跡がない。ベットの近くで光るオレンジ色の光は灯のスマートフォンの充電中のサインであり、一応文明の利器であるスマートフォンを持っている。因みに優は持っている理由など知らないが、優が持ってるし連絡取れるから持ってるだけであり、彼の電話帳の中に優以外の名前は一切書かれていない。
「灯、起きてる―?」
ゆっくりと近づきながらも問いかける。けれども、灯からの返答は何時もと同じく無し。仕方が無く灯の方へ近づき、ぽんぽんっと頬を叩く。
「ほら、灯。朝だから起きて」
カーテンを開くと言う手もあるのだがそれでは逆に灯が布団の中に引きこもってしまう為そんな事はしない。ぺちぺちと頬を叩く優であるが、全く持って警戒心と言う物が無い。灯の骨格は成人男性にかなり近いのだが、優からすればと言うか、優が灯への認識は甘えん坊な弟と言う訳である。
頬を叩けている時、はずみで灯の長い髪が軽く落ちて来る。灯の髪は母譲りの綺麗な銀髪で瞳は先祖返りと言う訳か不気味と言うか、優からしてみれば綺麗な赤色である。
実際小さい時はその姿が怖がられて誰も近寄らなかったのだが、無気力思考な灯にとってはそれが嬉しいのかいっつも優の隣から離れなかったと言う余談がある。でもまぁ、優と一緒に居れば必然的に何かして遊ぶと言う訳で、鬼ごっことかそんな遊びには強制参加と言うか優に『やろ…?』と言われてすぐに頷いたと言うオチだった。
灯の髪は優と違い、かなり長い。優は肩にもつかないショートカットであるが代わりに灯は何時からか忘れたが髪を切ってはおらず、何時の間にかロングヘヤーに近いぐらいに髪が長くなっているのだ。と言っても、長いのは首の後ろの辺りの一部だけでそれ以外は普通に短い。
そんな時、にゅぅっと布団の中から手が出て来る。
「きゃっ」
優の肩を掴んだその手はグイッと布団の方に引っ張り、優を無意識的に布団の中に引きづり混んだ。しかし、これも何時もの事なのだがやはり不意打ちと言うのは非常に困る事であり、優は何時もの事ながらその確信犯と言う奴を頬を膨らませて軽く叱る。
「あ―か―り―。起きてるんなら、放してくれない?」
この時刻、たまに起きている時がある。しかし今回はどうやら無意識だったのか灯からの返答は無い。困った様に息を吐いた優。そんな時、首の下から手が肩に回されてがっちりと捕まれる。何時の間にか腰にも手が当てられ、気が付けば制服の姿ながら灯にがっちりと変な言い方、拘束されてしまった。
一般女子ならばココで赤面、もしくは叫ぶ所であるが不意打ち以外で優の可愛らしい悲鳴?を聞く事は滅多に無い。
体が密着し、ちょっと苦しく優は小さくもがくが意味が無い事は最初から承知しており、本当に意味が無いと諦めれば動くのを止める。
「灯―。そろそろ起きないと… 遅刻するよ……?」
しかし、帰って返って来る物と言えば小さな行動のみ。灯は蹲る様に小さな優を抱きしめ短い髪に頬すりをする様に顔を埋め込む。
困った様に息を吐いた優は仕方なく、最後の手段に出た。
「灯。そろそろ放してくれないと―――ご飯、抜きだよ?」
最終手段。「ご飯抜き攻撃」である。何とも単純なネーミングセンスであるが、実はこれが意外にも灯が変化を見せる言葉の脅しなのだ。
今回の確信犯は優。動きを見せた灯の頬に触れ、静かに微笑んだ。
「おはよう、灯」
「――――――――あぁ、おはよう……優」
まだ眠たいのか、薄っすらと眼を開く灯。 ぼんやりと開かれるのは夕日を模った様に赤い瞳。綺麗な眸だと、優は思っている。
赤い瞳は希に見る物であり、人類人口の零点零零一パーセントだと言われている。大量の色素の欠如による血液の色であり、先天性白皮症がこれに相当すると言われている。言ってしまえば軽い病気だ。
昔から灯は病気を発症すればすぐに衰弱しきってしまうほど弱く、風を引けば祖父母がつきっきりで看病してくれたハズだ。因みにその時、優は灯に会う事は赦されては居ない。
優の髪の色は写真で見る父譲りの漆を塗り潰したかのような艶のある黒、漆黒で瞳は暗い茶色であり、少しだけ変わってはいるが怖がられたりなどはしなかった。
灯と呼ばれた男性、優の弟の目つきは極めて悪い。長い睫毛のおかげで見つめられれば軽く綺麗な女性に見られているような感覚を覚えるが、こんなに高い女性があってたまるかと言うのも現状である。目付きが悪いおかげと長い睫毛、そして一部だけではあるが長い髪。体つき、背丈を抜けば完璧なる女性…。
中学入学時、ついたあだ名は何故か女帝。優がそのあだ名が付けられた理由を自己的に考えれば、思いつくのはやっぱり男の子の癖に珍しく髪が長いせいかと思っていた。
灯は挨拶を交わしたのち、動こうとしない優を見て腰から手を放して首の方へ手を回した。下に回していた元々の手を回し、上からも手を回して優の退路を断ち、引き寄せる。優の細い肩が灯の顎にくっつき、そしてまた短い髪が灯の頬に軽く触れた。長く無いせいか、優の髪は非常にパサパサしていて頬すりしていたはチクチクするが、それでもそれが優だと知っているからか、灯は止めようとはしなかった。
回していた手の一部で優の頭を軽く掴み、髪を撫でる。髪に鼻先を軽く当てれば何時も家で使っておるシャンプーの匂いがさらりとした。
「さとる―……」
猫の様にスリスリと優の頬に頬すりをする灯。そんな甘えん坊な弟に対して優は時間を忘れて静かに笑った。体は大きくなろうが、灯は灯なのだと少しだけ実感させられ、それが酷く安堵をもたらした。
しかしそれでも、困った事は一つだけある。
「ねぇ、灯」
「ん~?なぁに?さとる」
まだ多少寝ぼけているのか。はたまたまだ甘えたいのか分からないが、灯は天国にいる様な穏やかな顔でとてもリラックスしている。そんな彼を見て多少罪悪感を覚えつつも優は話を進める事を選んだ。時間がそろそろヤバイのだ。
「そろそろ、放してくれない…? 灯……」
その言葉を聞いて、灯の頬すりが止まった。かと思えば逃がさない様にでも痛くない様に灯がまた優を抱きしめてベットの上で拘束する。時間も時間だし、と言うか本来の目的を一応果たした優はもうこの部屋に留まる理由は無いのだ。
「―――――――何時もの!」
ちょっと怒った様にムッとした様な顔をして灯は言う。何時ものと言うのは頭を撫でてくれと言っているのだ。子供らしい一面であるが、念の為に言っておく。これが見られるのは優だけであり、優以外に言う事は断じてない。
不機嫌そうな灯であるが、一応撫でて貰えば我慢するらしい。やっぱり子供らしい弟に優は笑い、静かに告げる。
「分かった。分かったから…ね?分かったから、放して」
そう言われてしぶしぶ名残惜しそうに灯は優を放し、優はベットから降り、灯はベットに座りながら立つ優を軽く見上げる。可愛らしい灯に変わらない灯に、優は嬉しそうに笑って頭を撫でた。大人しく撫でられる灯は俯いて眼を瞑る。軽く撫でた所で、優はゆっくりと灯の頭から手を放す。離れていく手に名残惜しそうに見つめる灯が可哀想ではあるのだが、食事の支度をそろそろ始めなければ学校に間に合わない。
優は笑顔で手をひっこめ、背を向ける。
「それじゃあ着替えて来てね。下で待ってるから!」
手短な事を伝えれば優は行ってしまう。二人の部屋は二階にあり、二つとも洋風に近いが一回、祖父母の部屋は和式となっている。趣味の問題らしいが灯的にはどっちでもいい。
荒く階段を下りていく姉のその音を軽く聞いたのち、灯は静かに立ち上がってクローゼットを開く。開けばそこには伊吹野の男子用の制服が入っており、ネクタイもかかっていた。ネクタイの縛り方は知っているのだが、めんどくさい事に変わりはない。どうせなら学ランにしてくれた方がまだマシだ。格好はどうあれ、ボタンを留めるだけで済むと思っている。来た事は無い為何にも言えないが。中学の時はブレザーだったハズだ。ほぼ毎日着ていたハズなのだが、ハッキリ言って記憶にない。
灯は基本的に何でもできる。家事、裁縫、日曜大工、皿洗い、風呂掃除、勉強、バイト、その他もろもろ。何でもできるに近いのだが残念な事に積極性が欠けている。
ゲームだって、漫画だって、灯からすれば暇つぶしの道具でしかない。漫画は優が見ているから見てるだけであって、自分の好みで無い奴もあるが一応見る。優が面白そうと思って買う漫画だ。何処か面白いのか、あっさり言えば灯の楽しみはそれだ。漫画なんて所詮は誰かが書いた空想系の物語でしかない。小説だってそれは同じだ。それでも、そんな書物に引かれる奴等だっている。『面白いに理由なんていら無い』と優は言っていたが実際その通りだろう。
面白いと言うのは自分が面白いと思った奴が面白い訳であって、理由なんてものは存在しない。他人に合わせる必要なんてどこにもないのだ。
しかし、灯でも積極的に行動する時がある。優のお願いだ。例を上げれば部屋の一部で本を置かせてほしい。これはすぐに了承した。別に場所なんて特に狭くなって困らないし、優が困っているなら手を差し伸べて上げたいと言うのが灯の頭の中で一番に在る事だ。優と一緒にいたり、優と何かをする時が一番灯は輝いていると周りの者達は語る。優が何かを頼む事は滅多に無いのだが、あった場合はそれはもう獲物を定めた猫の様に素早く、しかも的確に仕事をこなすと言う優れものだ。残念な事に、優限定であるが。
優が居るから、灯は動くのであり、優が困っているから灯は力を発揮するのであり、結果的に言えば優が居れば灯はもう何もイラナイと思っているかもしれない。それぐらい、灯は優が大好きで…愛していると言っても過言ではないかもしれない。
着替えが終わり、自分の映る姿を勉強机の上に置いてある折り畳み式の鏡で見た。ネクタイも一応縛れているし、問題は無いだろう。後姿の優の姿はコスプレに近かったな~何て考えを頭の中で軽く思い浮かべて消し、宝箱の様な一つの箱から銀色の第一関節ぐらいあるちょっと指輪にしては長いリングを手にとった。
純銀は熱に弱く、すぐに脆くなるのだがこの銀には特殊なコーティングがしてあり、熱により溶ける事は無いらしい。それに灯がこの銀の指輪を付けている場所は残念ながら、指では無い。
前に顔を傾け過ぎた為か、後ろ髪が軽く落ちて来る。それを軽く開いて止める。何故かこのリングは不思議な事に髪止めの様な役割を持っている。と言うより灯が髪止めとして使用している。カチッと軽くイジればリングは割れ、長い髪の部分をそこに通してキュッと絞める。何故かそこでリングが落ちない事に疑問を持ったが分からない為もう気にしない事とした。
こんな銀のリングを付けている事も、女々しいなんて言われた理由であり、もしかしたら女帝と言うあだ名を造り出した根本的原因の一つであるかもしれないが、それでも灯はこの不思議なリング…指輪を外す事は無い。
(優から俺は貰った…物……)
六年前の誕生日の日、プレゼントは何時もケーキだと言っていた優が珍しく小さな木箱を灯に渡した。何かと思ってワクワクして見れば中に入っていたのはこの銀の不思議な形状のリング。何かと聞いても優は『見た通り?』なんてシラを切って答えようとせず、謎に包まれたままなのだ。
でも、銀は小学生のお小遣いで買うとしたら大変だっただろう。必死に選んで悩んでいたハズだ。コツコツとお小遣いを溜めて自分の為に飼ってくれたと言う不思議な指輪に近い髪止め。貰った当時、少し髪が長かったからどうせ優が買ってくれた髪止めは指に付けたら校則違反で没収されるに違いない。灯なりに考えて、髪止めとして使用する方法を選んだのだ。そうすれば多少拘束に引っかかって注意されても一日の猶予期間ぐらいあるだろうから。
あれ以来、誕生日は『優手作りケーキ』しか食べられて貰っていないのが、それでもかなり満足している灯。双子の姉である優も同じ日が誕生日のハズなのに、この優等感と劣等感の差は激しい様な気がする。誕生日はまだ少しだけ先だが、どうせならば何か送ってあげたい……今年こそはいい目星がつくといいな。何て思った灯は静かに一階へ降りる。鞄は一階だ。昔から、時間割は夜の内に終わらせて小学生の様に鞄は玄関に置いておくのが二人だった……。
◇ ◇ ◇
階段に足を乗っければ、ふわりと一階からコーヒーのいい香りがして来た。毎朝コーヒーを飲む灯。自分の為に毎朝入れてくれる優のコーヒー。味はいたってバラバラだがどれも美味しいし、入れてくれるから文句の一つも零さない。因みに店員のコーヒーが美味しくなかったら文句を言うのは灯だ。かなり差別されている気がする。
一階には無論優が居り、灯が大嫌いな祖父母が居るだろうが、多分起きていても部屋から出て来ないハズだ。
呆れる様に息を吐き、灯は手を目元で覆い隠す様に当てる。優はああいう性格だから知らないだろうが、祖父母は自分達が何かを出来る年代だから全て何かを強制的に自分達に押し付けた。それが食事、洗濯、皿洗いなどの雑用等…灯に出は無く、優一人に……だ。この家では優は誰よりも独りだと思っている。優はそうは思っていないだろうが薄々勘付いているハズなのだが、それを気のせい、見えないフリをして自分を護っている。
(優……)
悔しい。何もできない自分がとてつもなく嫌だった。
奴等を殺す力は持っている。けれど、それを使ったら敗けだと思う。殺す事は実に単純で簡単だ。あんな老夫婦、一瞬で外傷も無く殺す事も出来る。
バチリ…ッ
無意識に力を使ってしまったのか、灯は眼を細めた。階段の手すりに軽くコゲた跡がついてしまい、削らないともう駄目だろうと言うぐらい墨色になっている。また、傷を増やした…なんて考えて下に降りて玄関から一番近い場所にあるリビングに顔を出す。
「優…」
静かに名を呼べば、今まで俯いていた影がひょっこりと顔を上げて此方に気付きにぱっと軽く笑う。
「おはよう! 灯ッ!」
本日二度目となる挨拶であるが、何故か優はそう言う。多分、一回目は聞いていないのだろうと思っているのだろうが、灯は優の言葉はちゃんと聞いている。例えどれだけ睡魔に鎮めと言われていようが、優が声をかければ全てが吹き飛んだように眼を覚ましてしまう。
我ながら実に可笑しな事であるのだが、灯にとって優は自然的な目覚ましになっているのだ。ほんの希に起きるのが遅れる時もあるが、それでも優の声を聞き間違える事は無し、自然と視界がハッキリとしてくるのだ。
ニパッと笑う背のかなり低い姉は出来上がった朝食を両手で持ち、セッティングされた机の上に置く。無論そこに祖父母の食事も置いておく。何も言われないが、食べている事だけは知っている優。本当に美味しくないと捨てられてしまう時もあるのだが、今日は自信作だから多分大丈夫だと優は自信を持っている。
実の話を言えば、祖父母はたまに優の物を食べて捨てると言う『美味しい』『美味しくない』問わずに優の食事を捨てているのだ。それを知る灯はやはりその事を黙る自分にも腹が立つし、それ以上に食べずに捨てると言う信じられない行動をする祖父母共に腹が立った。
そんな事も知らない優はナイフとフォークを机の上に置き、灯の席にコーヒーを置いて自分の席に牛乳をコップ一杯置く。
そして、どうしてそんな笑顔が創れるのかと不思議に思うぐらい綺麗な笑顔で告げるのだ。
「さ、食べようか。 灯」
『今日は自信作だよ~』なんて笑って告げる姉。綺麗な狐色に焼かれたフレンチトーストはほんのりとチーズが乗っかっていた。乳製品は好きか嫌いかと言われれば普通だが、優が好きだから自分も食べている。
灯は薄く笑い、手を軽く合わせた。
「頂きます」
元気な声と静かな声。
二つの声が合わさり―――綺麗な音を奏でた。
◆ ◆ ◆
灯は昔から無気力な男の子だった。何をやるにしても、『サトルと』『サトルがやるならやる』なんて言う男の子で、今思えばシスコンだったのかもしれないがそれでも灯はまぁ、何方でも良かった。
優が好きなのは変わらないし、それにシスコンの意味はお姉ちゃん大好き。的な事だったハズだから、ちょっとオーバーなスキンシップをしたって周りからすれば居たって普通と言うか、受け入れやすい物になるだろう。
優からしてみれば、“甘えん坊な弟”であるが断じて違う。灯は優と何かをする為ならその全ての事を持てる頭で計算し、確信犯と言える行動をするのだ。実際確信犯であるが。
母が死んだ時、優はボロボロに泣いたが灯は泣かなかった。周りから何と言われようとも、優が泣くのを見るのは辛かったし、そして自分が泣いた事で優に余計な気を使わす事だけは避けたかった。幼児の頭でよくそんな事を考えたな、と今になってようやく思う。
母が死んでから、優は変わったと思う。祖父母に何と言われようが、どんな眼で見られようが。雑用を押し付けられ、作った物を無残に捨てられ、軽く暴力を振るわれようが。まるでそれが当たり前と言う様にこの十年近くに渡って優の頭の中に刻みつけられていた。
だから優は灯に困った様に笑って告げる。悪いのは自分だから、お婆様やお爺様は悪くないよ。と……。その言葉を聞いて灯は無性に腹が立った。いっその事殺してやろうかと思って夜襲を仕掛けようとした日も何度かあった。しかし、決まってそんな時止めてくれるのが優がくれた灯が髪止めとして使っているリングだ。
優は変わった。前は母に対して甘えていたのに対して誰にも、弱味を見せないようにした。誰にも弱音を吐かない様になった。灯にも、たまにグチを言いに来るのだがそれが本当にグチなのかどうか、分からなくなった。
『今日のご飯、どうだった?』何時もの様に、『美味しかった』と答えても優は困った様に笑う。『灯だけだよ、私のご飯をそう言ってくれるのって』本当にその時は困った様に笑うのだ。決まってそう聞く時は味に自信があったり、上手く作れた時に食事を捨てられていた時の事だ。
こんな事なら、寮に行った方が良かったかもしれないが優に起こして貰えなくなるのも嫌だが、何より優が何処か遠くに行ってしまいそうな気がした。寮に行った方が優の不安要素も減ると思っている。だから、優の為…で納得させようと頑張った。しかし、どうしても今回は頭が、体が、頑なに動こうとしなかった。終いには祖父母の前で言ってしまう。
『寮に行くぐらいならココから通ってやる』三十分程度で行けるだろうと言う目算を立てて灯はそう告げた。通り道には母さんが好きだった桜もあったハズだ。寂しくなるだろうが、それでも桜は綺麗だから…優も好きだと思う。
「あかり……? 灯……? あかり… 灯ッ!!!」
「!!?」
目の前を見れば必死に名を叫ぶ優が居た。何があったと言う眼で見れば、優はほっとした様に息を落した。食事は完食しているのだが、どうも記憶が無い。考え事をしていたせいで優の言葉を聞き逃してしまったのか……。
「悪い、優……」
申し訳ない様に俯く灯に優は困った様に苦笑する。
「うんん、そう言う訳じゃ無くて……」
「?」
今度は優が困る番だ。ポリポリと頬を爪で軽くひっかき、遠目をする。
「灯……何だか何処かに行っちゃいそうだったから……つい………」
『本当にごめんね!』なんて両手を合わせて謝って来る姉を見て灯は愕然とその言葉を聞いていた。何故か頭の中でリピートされる言葉。
『灯、何処かに行っちゃいそうだったから…』俺が優の元を離れるハズが無い。何処かに行くハズも無い。
「灯……?」
不思議そうな眼で此方を見る優。灯は慌てて……。
「なんでも、無い……」
と無理に告げた。『そっか』と言って優は食器を片づける。『ご馳走様~』何て笑って言って食器を洗う為に台所に立つ。
胸ポケットに挟んでおいたヘアピンで落ちて来る髪を軽く止める。スポンジに石鹸を付けて洗おうとした時…。
「優は肌が弱いから俺がする」
と、灯がぐいっと石鹸が付いたまだ泡立ってないスポンジを奪い取る。優はキョトンとするのだが、すぐに笑って『それじゃあお願いね!』と言ってパタパタと薄いタオルを何処からか持ってくる。
灯は無言で優から軽く奪ったスポンジを泡立たせ、自分が持って来た食器も洗う。戻って来た優はタオルを持って食器を待っていたから灯はそのタオルの中に優しく食器を入れる。そうすれば優はそれをせっせと拭き、当然洗う方が早い為、待ち時間が惜しい為、水切り籠の中に入れれば拭き終わった優がその中から一枚適当にとって拭き始める。
洗い終えても優がまだ拭いている。灯はセッティングされたテーブルのランチマットを取り、ぱんぱん。と流し台の上で叩いて片づける。
そんな事をしている間に優は全てを拭き終え、灯は拭き終えた食器を持ってすいすい片づける。
「やっぱり灯は高いね―。身長が」
羨ましそうな眼で見られても、こればかりは灯はどうしようも無い。食べている物は同じなのに何でだろう?と幾度も考えた優であるがどうしても答えが浮かばなかった。
優は洗濯機の中に先程の布を放りこみ、灯はその間に冷蔵庫からお茶を取り出す。水筒に氷とお茶を入れ、蓋をしてカーバーをかけてとやっている間に優が戻って来た。
「出来たよ、灯。 そっちは?」
「此方も終った。 洗濯物はどうした?」
「夜やるよ」
「そうか…」
昼間の方が良く乾くのだろうが、時間が無い。その為優は洗濯物を乾かすのを夜にしており、朝起きてから取り込んで帰って来て畳んでいるのだ。
「優、パンツの下に何か履いた?」
「えっと―――うん。 ちゃんと隠れてると思うんだけど、毎年同じく短パン履いてるよ!」
学校指定の体操着の短パンを毎度毎度優に履かせている灯。理由は単純、スカートが風でめくれたとしても優の下着を見せない為だ。野次馬にも見せて溜まるか!と言う灯のある意味変な所での信念の表れとも言える。
それに学校までは自転車登校だ。ニッポンでは安全装置さえ付けていれば二人乗りが良しとされており、坂になれば優の下着が必ずと言っていいほど下にいる者には見える為、灯は口を酸っぱくして中学からずっと言っているのだ。その事がようやく習慣になったのは一年間であり、念には念を入れる灯だった。
「でも、やっぱり履いていいのかなぁ……?」
「構わないだろ、下着の下に何か履いてはならないと言う校則は無かった」
「それもそうだね!」
と言うか、むしろそんな校則があったのならばその高校は実に可笑しな高校と言えよう。すんなりと納得した優は静かに手を叩き、水筒を持って玄関へ小走りで向かう。
ボフッとソファーの中に体重を預ける灯は静かに息を吐いた。毎度思うのだが、この姉と言う奴は非常に警戒心が無い。そりゃあ見た目が想像以上に悪い人なんかには普通の子供の様に警戒する。だが、爽やかな笑顔を向けて来る奴には普通について行ってしまうと言う最悪な欠点がある。
(何で俺があんな事……)
本来ならば、言いたくなかった事だ。しかし優の下着を見られるのも嫌だ。かなり恥ずかしかったが、言い切ることが出来た灯はある意味勇者だろう。
例え実の姉言えども「下着の下に何か履いているのか」とでも聞けば完璧なセクハラだ。あの姉だからこそセクハラ扱いされないで済んでいるのだが、それでも変体扱いされるのは嫌だ。
灯は自分で言うのも何だが、かなり優が好きだ。従弟と言う立場だったら何年かけても口説き落とす気がある。口説き落として、付き合って、結婚したいぐらいに優が好きだ。兄弟だから恋愛は法律上禁止されているから無理であるが。昔の日本では是非と言うぐらい大丈夫だった兄弟恋愛を今の政府は禁止してしまっている。
理由は子供が障害を負って産まれてくると言う理由からだ。確かに優との子供がそんな子供だと言うのは正直言って嫌だがそれでも結婚したいと言うか、優に触れたいと言う気持ちはある。
背は小さくとも、自慢の姉だった。今でもそうだ。自慢の姉だ。周りから見れば、不気味な関係、接し方だろうが、それでもあの笑顔だけは安心させられる。あの笑顔を向けられれば、警戒心など忘れて背を預けれる。
「灯―。そろそろ行くよ、ほら。お婆様たちに行って来て。私はもう行ったから」
その言葉に灯は無言になる。目から鱗か零れたと言うか、唖然と言うかでもすぐにその顔はとても不機嫌そうなムス…とした顔に変わる。
「あ―。もう、灯って本当にお婆様たち苦手だよね。大丈夫、灯には優しいよ」
だから、嫌いなんだ…。
優は無意識ながらも、言葉でちゃんと伝えて来る。先程の言葉がその証拠とも言えるだろう。“灯には優しい”つまり、優には優しく無いのだろう。言葉の落とし穴と言う奴だろう。今聞き返しても「そんな事無いよ」とでも言って逃げ切られるに決まっている。
「分かった。玄関で待ってろ」
「はーい」
素直に頷く優に灯は軽く笑みを見せる。
水筒を軽く鞄の中に入れているのを横目で軽く確認し、部屋の置くにある襖の近くに立った。
「――――――あかり…」
嫌な声だ。
ずうずうしくて重たい、誰かに束縛されている様な。そんな声。
(俺を縛っていいのは優だけなのに…)
そんな考えも、もはや病んでいるのかもしれない。
「お前は何時、アイツを殺してくれるんだろうな…」
「殺さねーよ。逆にテメーラを殺してやる…」
深い男の声に灯はバジッと軽く力を使ってしまった。しかし、脅す事にいたってはこの能力は非常に役に立つ。
「俺はお前等をすぐに血祭りに上げれる。何故、それを現在しないか…訳は分かってるだろうな……?」
低い声が出された。「ッ…」と軽く息を止める様な音が聞こえ、灯は満足そうに笑みを見せた。
誰の為に殺さないのか、それは優の為だ。優が奴等の命綱を握っている。知らず知らずの内に。
「優がお前等に絶望したら、その時がお前等の最期だ……。精々、虐めすぎて気づかれんなよ、俺はその方が―――都合、いいけど……」
バジジジッと軽く灯の手が光る。この場所は玄関からは死角になっている為優は気づいていないだろう。
「お前等が優を追い詰めるなら、俺は躊躇なくお前等を殺す。例え優に何と思われようがな」
何度も、何度でも彼はそう言って来た。
それでも、まだ彼等を殺せないのは自分が弱いせいか―――それとも、優の為か……。
「灯、アンタは―――」
「黙れ、クソババァ…テメーラの体操って自殺って言うのもまたいいかもな」
自殺―――。
灯にはそれが出来る。
自殺と言うのは本来、自ら命を絶つ事を意味する。つまり、水からの手で自分の生命に終止符を打つのだ。
しかし、部外者の手を借りればそれは自殺とは言わない。灯の場合、相手の体を操っての自殺。つまり、自殺を演出しようとしているのだ。
「憶えておけ、俺はお前等の道具じゃない。どうせ道具になるんなら、優の道具になるほうが心底、嬉しいねぇ!」
軽く襖に脅しの焼跡を残し、灯は舌打ちを打って自転車の鍵を取った。
「胸糞悪ィ…」
アイツ等の声、言葉。仕草、全てが気持ち悪い。吐き気が、襲ってくる。
「優―――――……」
往かなければ―――。
自分を、心底大事に思えってくれて……包んでくれる、あの優しい幻影に―――。
例えそれが幻の影であったとしても、灯は――――。
「お前の中で、死ねれば思い残す事など―――無い」
全ては――――大好きな人の為……。