4 魂を導く
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贄の姫になると思えば、なんてことない。現世に、生きているだけでじゅうぶん。昼のない冥府など、まっぴら。東宮がどんな人だかしらないけれど、明るく生きてゆけるだけで幸せ。似絵は開き直って御所に上がった。少し頭が痛いけれど、我慢できる。
贅沢には慣れているはずなのに、御所のきらびやかさは格別だった。思わず、姫は左右をきょろきょろと見渡す。そのはしたなさに気がつくけれど、見たい気持ちが勝る。
まずは、帝に謁見する予定らしい。帝は東宮の、おじに当たる。固苦しい対面にならないよう、帝はひそかに姫を招いた。近侍している者がとても少ない。恐れ多いことながら、御簾越しにだが直接、ねぎらいのことばをかけてくれるらしい。
「よく来てくれたね。東宮もお待ちかねだよ。入内のお式は追々でいいから、まずは顔を見せておいで。今日は後宮の下見ってことで。おい、姫はご不快につき、お式は延期する」
なんともざっくばらんな帝のことばに、似絵姫ばかりか清涼殿に居並ぶ臣下は皆、驚いた。入内は藤原の家だけでない。国家の一大事業だ。多くの人々が関わっている。それを、追々って……姫は、思わず口を開いた。
「僭越ながら、帝。きちんとお役目を果たしとうございます」
「ああ、お役目ね。冥府のお使いのことか」
御簾の隙間から、帝と思しき人物が滑り出てきた。姫にもすぐに分かった。束帯の黄櫨染を召しているからだ。高貴な黄色を着られるのは、帝しかいない。
それよりも姫が驚いたのは、帝のお顔だった。
「ご、御前っ! 閻魔のごぜ……」
「しいっ。ここでの我は、今上帝だ。昼の顔は帝、夜の顔は閻魔」
「で、で、でも、冥府にずっといらっしゃったはず。御前が現世と冥府を行き来しているところなど、見たことがありません」
「冥府には、夜しかない。現世には昼も夜もある。姫にも分かるように説明すると、冥府は我の夢の中にある世界なのだ。帝というのは、昼も夜も休めないのだ」
ということは、帝の御夢の中で、自分は働いていたのか。納得のいかない姫は考え込んだ。
「さあ、向こうにあなたの到着を待ちわびていた人がいる。早く行ってあげなさい」
「……本来の私は、『御前』に入内するはずでは、なかったの……? それに、入内のお式も済ませないまま、後宮に居座るなんて聞いたことありません」
「宮の強い希望なのでね。魂をもとの形へと完全に再生するには、宮の力を借りたほうがいい。私は現世と冥府で、手一杯だ。今の姫は、姿形こそ普通だが、中身はとても弱っている。百鬼夜行、魑魅魍魎、もののけ軍団の恰好な餌食。すぐに憑かれてしまうよ。供も連れずに、襦袢姿で都大路をほっつき歩いているようなものだ。長時間にわたる入内のお式も、きっとつらいはず。後宮で、あの人物に護ってもらいなさい。熟した姫の魂が美味そうならば、我が奪い返すことだってできるからね。我は、帝だ。ふふっ」
「そんなことはさせない」
耳奥によく残る、声。振り返るまでもなく、姫は黄泉の宮のあたたかい両腕に包まれていた。
「宮……!」
もう逢えない人かと思っていたのに。その声が、腕が、ぬくもりが、姫の手が届く、すぐそばにあった。
「遅かったな」
「三条邸で、方違えをしていたから」
「知っている。直接御所に来られないよう、方角が塞がるように仕向けた。妹姫に会えたか」
「は、はい。でも、まだ倒れている方が」
「あの武士か。もののふのくせに、咒にはからっきし弱いんだな。あとで、術を解いてやろう」
「あとでじゃなくて、今すぐお願いします。紗絵、つらそうだったから」
「お前さんは、さすがに贄として育てられただけあるな。少しは自分のことを心配したらどうだい。魂が欠けているんだ。違和感とか、あるだろう。まずはお前に結界を張ってやる。じゃあな、主上」
黄泉の宮、いや東宮は気軽に帝へ手を振り、その手で姫の指に触れたかと思うと、軽々と一気に姫を抱き上げた。何度もつないできたはずなのに、どきどきするからついつい、強い口調になってしまう。
「降ろして! ど、どこに行くの」
「東宮御所。神聖なる清涼殿で、術を施すわけにはいかないだろう」
「そりゃ、そうだけど。術って、どんな術なの?」
「いろいろあるが、姫さまにも耐えられる術にしておいてやる」
さっさと東宮御所に帰った宮は人払いをし、抱きかかえた姫を連れて部屋の中に籠る。寄ってきた女官たちは再び散った。
「私は、藤原の一の姫。どんな術でも耐えられますわ」
「莫迦言え。私が手のひらに唇をつけただけで、天地がひっくり返ったような騒ぎのくせに。もっとも効果のある術は、術者の気を直接送り込むこと」
「直接、送り、込む」
「ああ。方法は勝手に想像してみるんだな。姫さまには、まだ早いだろう? 幸い、冥府の使いという仕事も与えられたことだし、昼は後宮、夜は冥府と、私の傍らでゆっくりと回復すればいい」
「きゃあっ」
宮は姫の手のひらに素早く口づけて、魂を浮かべた。以前よりも光が小さく、弱っている。
「色だけは若いが、このままでは死ぬだろうな。夭折の相が出ている。術を施そう。姫、目を閉じて」
「恐ろしい術を使うの?」
「咒符を張るだけだ。ただし効力が弱いから、繰り返し張り直す必要がある」
宮は袂から咒符を用意した。一見したところ、ただの白い紙切れにしか見えない、小さな呪符である。
「ふざけているつもりはまったくないからな。終わるまで黙っていなさい」
宮はそれを姫の唇の上にぺたんと張り、印を結ぶと自らのそれを乗せて仕上げを施した。熱をはらんだ宮の唇を受け、姫は大いに動揺した。抵抗したいのに、どう言ったらよいものか。口にするのも恥ずかしいし、けれどされっぱなしも悔しい。
「ねんねのお姫さま」
莫迦にされた。姫は宮に突っかかろうとしたが、御簾越しにこちらの様子を監視している女官たちの手前、それもできない。
「毎日四回。少しずつ、私の気を送ってあげるから、早く魂の形を取り戻しなさい」
「って、四回も、宮に口封じされるの?」
「ええ、そうですよ。私の生気は強過ぎるのでね。一度にたくさん送ったら、姫の体が耐えられない」
冗談でしょ! 姫は池で泳ぐ鯉のように、口をぱくぱくとさせて震えた。
「私は、贄よ? 閻魔の……御前の、贄だったはずよ? あなたに入内したのは形だけで、とりあえず近くで護ってもらうためでしょ」
「お前は、なにを聞いていた。閻魔は手に負えないと、断言した。お前、閻魔の贄は失格だ。捨てられたんだ。いい魂になったら拾い上げるとか言っていたが、あれは方便だ。そんな贄、初だぞ。家のために、なんとか役に立ちたいのなら、私の命令をよく聞き、冥府の使者を頑張って務めること」
「捨て……られていたの、私? 困ります。藤原の家の役に立てないなんて、一の姫の意味がないわ」
「だろ? ならば仕方ない。おとなしく妹姫の代わりに、私へ入内しておくんだ」
「昼は、東宮妃。夜は冥府の使者……?」
「そうそう。もの分かりのよい、お姫さま。姫は、今までのように隠れることもない。藤原の一の姫として堂々と、将来の帝と将来の閻魔にお仕えできるんだ。おとなしく、私の指示を聞いていれば、じきに飼い猫も転生して戻ってくる」
「みゅうが?」
「今、転生への輪廻をたどっている。もうすぐだ。どんな生きものになって帰ってくるかは、私にも分からないが。我々の間にできる御子だったらいいねえ」
「話が飛躍しすぎ、宮さま!」
うまく、してやられた気がする。一日四回の唇と、冥府の仕事が待っている。落ち着いて魂を癒している場合ではなさそうだった。
「さあ、明るいうちに寝ておけ。今夜は閻魔庁ではなく、三条邸へ妹姫の恋人の咒を解きに行く。連れて行きたくないが、止めたって行くんだろう」
魂を削ったせいで体はだるくてつらいけれど、送り込まれた宮の気のせいか、姫は久々に休むことができた。
「いい加減、その偉そうな口調はやめてくださらない?」
閻魔の沓を履いたふたりは、女官や衛士に暗示をかけながら夜の闇に紛れ、御所の外に出た。お忍び歩きだ。
「姫は私のものだ、誰も咎められない。姫は、東宮に入内した。そのうち立后させてやろう」
「お式は、まだ済んでいないもの」
「入内の式など、いつでもできる。不安定な状態の姫を護るためには、入内でもなんでも、とにかく御所に来てもらうしかなかった。それとも、実際的な寵愛が欲しいのかな。私は大歓迎だよ。姫はとにかくおもしろいし、気に入った」
「三条邸、見えてきましたよ、宮さまっ」
ふふんと、宮は鼻で笑った。どうにも、常に優位に立たれていて、姫は悔しがるばかり。
強く踏み込めば、閻魔の沓は上に跳ね上がる便利な道具だ。塀を飛び越え、ふたりはいともたやすく紗絵の部屋に近づいた。
「この邸、下等なもののけが多いな。憑かれるなよ」
「え?」
「ほら、何匹も姫の肩に乗っかっている。重くないか」
「全然」
「……視えないって、幸せだな」
宮の手に払いのけられたらしいもののけは、強い陽気にあてられてさっと逃げたようだった。もののけは『場所』に執着することを好み、浄化されるのをもっとも嫌う。宮は、東宮であると同時に、冥府の役人でもある。取るに足らないもののけを消すことなど、造作もない。
紗絵は、光俊につきっきりだった。人の目につかないよう、わざと灯芯を短く切っているらしく室内はとても薄暗い。そっと忍び込むと、扉がわずかに開かれた塗籠の中にいた。
「紗絵」
予期もしない訪問者ふたりに、紗絵は大きく驚いた。
「姉さま!」
「静かに。こちらは東宮さまよ」
会釈した後は、わざと視線を逸らす宮。未婚の妹姫を憚ってのさりげない配慮だ。
「申し訳ありません。本来ならば、私めが入内すべきなのに」
「いいのよ。それより紗絵、宮が恋人さんを起こしてくれるって」
「起きるかどうかは、この本人次第。その武士の魂は、すでに中有をさまよっている」
「宮が倒した相手じゃない」
「私はきっかけを与えただけに過ぎない。眠っているのは武士の意思だ。それ、行くぞ。咒は破る。目覚めるかどうかまでは、責任取れないからな」
そう宣言すると、宮は襦袢姿で寝かされている武士の額に咒符を張りつけ、自分の胸の前で印を結んで咒を飛ばした。
「開かれし、その咒。もとに戻れ」
似絵姫は、拳を握り締めた宮を凝視していた。自信にあふれている。やがて、光俊の両目が開いた。ぼんやりしているようではあるが、目に宿っている光は力で満ち満ちている。
「光俊さまっ」
紗絵が光俊を支え起こす。光俊の背をさすったり、撫でたり、紗絵は懸命に覚醒を促すものの、光俊の眼は無駄に輝いているだけで何も見ていない。
「どういうことなの、これ」
「……体は起きているが、武士の魂が戻って来ていない。下等なもののけなどに体を乗っ取られないように、自衛本能が働いているのだろうな。たいした器の持ち主だ。憑坐にしたいぐらいだ」
「当然です。光俊さまは、源氏を束ねる頭領になるお方だもの」
「紗絵。この人、こう見えても東宮さまなのよ。さっき、あなたも認めたでしょ、そんな口のきき方ってないわ」
「いいえ。東宮さまでもなんでも、光俊さまを侮るなんて許せません」
宣戦布告。紗絵は宮を強く睨みつけた。
「ほう、いい度胸だね。賊に化け、入内しようとした姫を傷つけ、さらに攫おうとした武士の頭領か」
「私が命じたのです。傷を、つけてくださいと。入内できないような、深い傷を」
「紗絵姫よ、死ぬとは思わなかったのか。似絵姫が魂を削って与えてくれなかったら、そなたの命は危なかった。後先考えずに行動するなんて、短慮過ぎやしないか。今回、結果的にはまるく収まったかもしれないが、死んでしまったら、なにもならない。残された父や母、弟妹たちはどうなる。閻魔庁の浄玻璃の鏡は紗絵姫の罪深い姿を、しかと焼きつけた。冥府では、それなりの報いを受けなければならない。定命が尽きたときは、覚悟なされよ」
賊が着ていた黒い衣が、まだ塗籠の隅に放置されていた。目の前の武士は、社に現れた賊の一味だ。紗絵の恋人かもしれないが、賊は同時にみゅうを蹴り飛ばした輩でもある。恨みは残るけれど、それだけでは前に進めない。
「宮、紗絵は恋する人と一緒になりたかっただけです。私には、それがよく分かります。痛いほどに。見逃してあげて」
あきれたように、目を丸くさせながら宮は似絵に反論する。
「姫の猫は、こいつらの暴挙のせいで死んだのだぞ。許せるのか」
「……それは……悔しい。だけど、みゅうはもう、取り戻せない。でも、紗絵は生きている。紗絵の恋人も、まだ助かる。紗絵の好きな人なら、きっと根はいいはず。私は信じる。みゅうもきっと、紗絵を大切にしてほしいと願うはずだし、そろそろ戻ってきてくれるのでしょ」
「まったく。閻魔庁の使いが、初めからそんな激甘でどうする。紗絵姫は、己の命を粗末にした罪。武士は、紗絵姫の体に傷をつけた罪。それぞれ、罪は同じぐらい重いだろうね」
……同じ、ぐらい……?
「魂のお帰りだ」
宮は一歩下がるように、似絵姫を促す。
妙な輝きを止めた光俊の双眸に、意思が宿った。
「さえひめさま」
「み、光俊さまっ!」
「姫さま、お体は? 私、姫の背中を強く斬りつけてしまいました。なんという、ひどいことを……」
「私のことなら、心配は要らないわ。あなたのほうこそ、少しも目覚めてくださらないから」
「……ひどいことをしたのです。もう、現世に戻る資格はない、と。姫さまに会わせる顔がない、と思う一方で、姫さまから流れた血の量からして、このまま死んでしまえばあの世で姫さまに再会できるのではと、浅はかなことを考えました。なんとも情けない」
光俊は項垂れて泣いていた。
「私は、お前に身動きを封じる咒をかけただけだ。お前が勝手に気を失い、都合のいいように己の魂をさまよわせ、現世から逃げたのだ。なぜ、紗絵姫に強く斬りつけた? 姫を殺したかったのか」
紗絵の頬がひきつった。似絵も、思わず光俊の顔を疑い見た。
「ま、まさか! それだけは断じて違います。姫を、姫を傷つけて、死んだように見せかければ、追っ手を阻めるとの浅知恵ゆえです。潔斎を行っていた場所で、姫の装束が血に濡れていれば、鬼にでも喰われたのかと、藤原家に諦めてもらえるかな、と」
「私のほうからお願い申し上げたのです。潔く斬ってほしいと。中途半端な策では、騙せません。家と、入内を謀るのです。思い切って行動しなければ」
「『怪』が、憑いたんだ。神域に、怪を呼び込むなんて、とんだことをしてくれた。怪に惑わされたせいで、傷は深くなった。人の心には、誰しも小さな怪を飼っている。そいつとどう付き合うかは、本人次第だ。今回は似絵姫のおかげで助かったが、次はない。光俊とやら、随分と大きな怪を内に眠らせているようだ。ついでに封じておこうか、さあ似絵姫。印を結んで」
急に名前を呼ばれた似絵は、動揺した。
「似絵、声を合わせるんだ! 先ほどの眼の光は、こやつの自己防衛などではないわ。怪が放つ威嚇だ。『導魂』」
「ど、『導魂』っ!」
恨みや悲しみは秘めながらも、似絵は印を結び、光俊に憑いた怪を呼び寄せた。やがて、怪が印に引っ張られるようにして、光俊の体から引きずり出された。怪は、魂の弱った姫を襲おうと突進してきたので、素早く宮が姫の盾になった。
「よし、この先は私が引き受ける。弱っている姫の体が、怪に憑かれたら厄介だ」
宮は手早くそれを腕に巻きつけて動きを封じる。光は眩しいが、重さはないようだ。宮の腕さばきは軽い。
「みつとしさま、光俊さまあっ」
光俊は憑き物が落ちたかのように、きょとんとしている。紗絵に何度も名を呼ばれ、ようやくほんとうの心が戻ってきたらしい。
「よし。あとは、私が冥府に運んでおく。似絵、よくやったぞ。なかなか上手いな。確かに、お前は閻魔の贄よりも、実務のほうが向いていそうだ。たとえ魂がもとの形に戻ったとしても、ずっと、私の片腕でいろ。閻魔には返さない」
「宮さま……?」
首を傾げた似絵姫に、宮は素早く答えた。
「このあとも、私は仕事だ。夜明けまで、御所には帰れない。さ、褒美をやろう」
無防備だった似絵はまたしても、宮に唇を奪われた。
「よ、黄泉の宮っ!」
「おっと、治療治療。魂の治療だ。それに、現世での私の名前は、『ハル』だ。春の宮。分かるな。呼んでみてくれ、名を」
東を司る春の宮など、そう軽く口にしてよいものではない。どうやら、本当に東宮さまらしい。
「ほら、どうした『ハル』だ。言ってみろ、似絵」
「……ハ……ルさま」
か細い姫の声。不敵な笑みの宮。
「よし。夜はまだ長い。先に帰って寝ていなさい、未来の妃よ」