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3 贄姫は身代わり姫

 常夜の冥府では、時間がよく分からない。ぐっすり休んだ感覚があったので、姫は枕元に用意してあった浅葱色の水干に着替え、再び閻魔庁の仕事に出ようと思った。

 宮は姫の朝の支度をすっかり用意していた。顔を洗うための角盥もあるし、髪を梳く櫛もある。となると一度、寝室に入ってきたということになる。寝顔を見られたのかと、今さらながら恥ずかしくなってしまう。宮のほうは、もう慣れっこだろうが。

 ため息をついていた姫も、髪をひとつにまとめて結うとなんだか力が漲る。

 歩くのも楽しくなってきた。姫君生活が染みついていた体から、少しずつたくましさが覗けてきたと頷いているのは、自分だけだけろうか。

 しかし、姫の明るさとはうらはらに、閻魔庁は騒然としていた。

「おはよう、ございます……」

 気軽に挨拶をするのも憚られるような、重苦しい雰囲気に包まれている。自然と、声は控えめになった。

 宮と閻魔が難しい顔で、浄玻璃の鏡を見て話し合っている。閻魔の裁きの手が動かないために魂の列は長くなる一方だったが、信じられないほど続いていた。

「あの。どうしたんですか、これ」

 似絵姫が近づいたので、ようやくふたりも姫の存在に気がついた。閻魔が渋い顔を崩さない。

「姫か。大変なことになったぞ、現世が」

「現世? 京の、都が、ですか」

「魂が、冥府へ大量に送られ続けている。都は死であふれているのだ」

「いい。こいつに構うな。私が行ってくる。このままでは冥府と現世の均衡が崩れてしまう。根源は、早く断たねば」

 均衡? 根源? 断つ? 姫は頭の中をぐるぐると回転させた。

「待って、私も行きたい」

「お前が?」

 宮の足は生者の口に至る道を目指し、すでに歩きはじめていた。

「そ、そうよ。私の生きている場所だもの」

「姫の世界は、冥府。お前は贄なんだ。自覚、なさすぎ」

「お願い、宮さま」

 姫は宮の黒袍の袖を引っ張った。まるで駄々っ子。閻魔は笑った。

「連れて行け、宮。めざましい働きで、姫の魂が一気に熟すかもしれない。そうなったら、閻魔庁も大助かりだ。どのみち、この忙しさでは姫を後宮に召しても語らう時間も取れない。姫、宮の言いつけをよく守るんだぞ」

「はい。ありがとうございます、御前っ!」

「……調子のいいやつめ。死んでもしらないぞ」

「自分の身ぐらい、自分で! 咒符、貸してくださいね宮」


 生者の口、嵯峨野。

「いやな雰囲気ね。澱んでいる」

 白昼だというのに、こんな郊外にまで都の不穏な空気が伝わってきていた。

「ほう、姫さまにも分かるのか」

「当然です。悪寒がします」

「寒いなら、帰れ。閻魔のそばにいれば、とりあえず危険はないよ」

「く、喰われる危険が」

「ああ、そうか。熟れていない青い魂のくせに、喰われる心配か」

 悪態を突きながらも宮は、姫の身を護る咒符を渡してくれた。贄に選ばれただけあって、不思議を察知する能力が備わっていたらしい。

 今日ばかりは、姫も閻魔の沓を履いていた。一歩で一町飛べる。軽く足を前に踏み出せば、次の区画にまで跳べる便利な紅い沓。おもしろいように進むが、都が近づくにつれて悪寒はますます強くなる。

「ねえ宮、気配が」

「賀茂の社か。清らかな流れ、なるほど」

 都に向かっていた足を、北に向けてに蹴り直した。姫も続く。

「浄玻璃の鏡に映っていたのは、賀茂なんですか」

「いや。今、ふと思い当たった。あれは、潔斎の様子だった」

「けっさい……?」

「とあるひとりの姫が、潔斎をしていた。おそらく、東宮に入内するために。都で潔斎といえば、賀茂の社。その姫が危険に晒されている。賊が暴れているんだ」

 神の住む聖域とは思えないほどに、賀茂の社は血の匂いに満ち満ちていた。むせ返るような血に思わず、姫は袖で顔を覆った。

「もののけの仕業、ですか」

「いや。本来、もののけは血を好まない。穢れるからな。これはきっと、生きている人間の悪行に違いない。さすが末法、世も末だな」

 白い玉砂利が敷かれた参道を、ふたりは急いだ。意外と深い石道に足を取られてしまい、思うように前へと進めない。

 禊が行われるのは、社を流れている小川だ。年が明けて間もない初春の時期、水はとても冷たいはずだが、清涼なる川の流れの中にも人が倒れていた。女房のものらしき目にも綾な装束、必死で抵抗しただろう従者の弓矢があちこちに投げ出されている。

「姫、見るんじゃない!」

 もう遅い。しっかりと、双眼で視てしまった。清き流れは血に染まり、草木が根ごと薙ぎ倒され、とうてい神域とは認められない荒されようだった。ここで命を落としたものの魂が、冥府へと一気になだれ込んできているらしかった。

「入内の姫は? 無事なの?」

 倒れている女房たちよりも、格段に質のよい装束を身にまとった小柄な少女が川辺で臥せっていた。無残にも、背中を大きく斜めに斬られている。水と血で濡れてしまった上着を脱がせ、宮が抱き起す。

「まだ、息がある」

 姫は懸命に倒れていた少女の手を握り、励まそうとした。宮の腕に力が入り、少女の首ががくっと後ろに傾いた。長い長い黒髪に隠れていた面が露わになる。

「え……っ」

 少女は、似絵姫にうりふたつの顔立ちだった。

「藤原紗絵(さえ)姫。きみの異母妹だ。初対面か」

「妹? 宮、ここで起きていること、すべて知っているの?」

「お荷物同然のお姫さまに、閻魔庁の情報をいちいち教える必要はないだろう」

「そんな。私たちは仲間でしょ」

「誰が仲間だって? 姫は閻魔の贄。私は黄泉の宮」

 信じていたのに。なにも知らない。

「……入内。妹が入内……? なぜ傷ついて、倒れているの? 助けたいのに。私、どうすればいいの」

「話はあとだ。賊に、囲まれた」

「賊?」

「妹を守れ」

 ぐったりしている妹姫を預けると、宮は鎮守の森の中に消えた。すぐに戦いがはじまった。いくつもの光が瞬き、消える。宮は咒を操り、潜んでいる賊を倒してゆく。騒ぎに驚いた馬が、何頭も逃げてゆく。

「姫、姫。紗絵姫」

 ずっしりと、命の重みを感じるものの、いっこうに目覚める様子はない。妹の袿は背中から血の染みがじわじわと広がり続け、止まらない。傷口が開いているらしい。

「私はあなたの姉です、紗絵姫。藤原似絵姫です」

 訴えても訴えても通じないので、姫はそっと紗絵の頬を指で弾いてみた。ぞっとするほど、とても冷たい。このままでは、魂が出て行ってしまう。冥府に飛んでしまう。

 どうすればいい。どうしたら。宮に聞きたいのに、宮もひとりで戦っている。

「……さえ、紗絵」

 涙をこらえながら、姫は己を呪った。なにもできない自分。贄も果たせず、未熟過ぎて妹も救えず。自分の代わりに妹の命が危なくなっているのではないかとさえ思う。

「姫、咒符を。咒符を掲げるんだっ」

 動揺する姫の上に、宮の声が届いた。賊と戦いながら、姫の様子もしっかり見ていてくれたらしい。

 呪符を? 

 姫は、咒符の変化に気がついていなかった。咒符は姫の胸もとで青白く小さな光を宿していた。取り出してみると、たちまち咒符から大きな光が生まれた。突然の出現に驚いたものの、怖くはなかった。

「お願い、守って。妹を。私はどうなってもいいから、紗絵姫を助けて」

 つよく、強く祈った。

 光は姫に答え、紗絵を包んでゆく。汚れた衣はみるみうるちに裂けた部分が塞がって血痕も消え、絹のつややかな輝きを取り戻す。白くなっていた紗絵の顔に、明るさが差してきた。

「似絵姫? どうして、そんな無理を」

 急いで駆け寄った宮だが、息の乱れすらなかった。

「無理なんかしていません。宮こそ、賊はよろしいの?」

「やつらは都の転覆を狙う賊の一味だが、私の手にかかれば全員雑魚同然だ」

 黒づくめの賊たちが向こうで倒れている。

「って、あの人たちを殺したの?」

「まさか。そんなことをしたら、冥府の仕事が増えるだろうが。今でも激務なのに。定まった命が尽きるまで、しっかり生きていてもらうぞ。やつらは、紗絵姫の東宮入内を潰して混乱に陥れようと画策していた。昨日、もののけが都大路で騒いでいたのも、賊の悪の気配に触れたせいだ」

「まあ」

 姫は妹の顔を見た。瞼が小刻みに動いている。意識を回復しそうだ。

「それより姫。あの咒符から出てきた、光。あれ、姫の魂だぞ。自分の魂を、気軽に他人に分け与えやがって」

「そ、そうだったの!」

 どうりで見覚えのある光だった。

「ああ。なにも知らされていないってのも、かえって怖ろしいことになるな。己の命を削ったんだ」

「だって、宮が咒符を使えって叫んだから」

「咒符を掲げろと言っただけだ。使えとは言っていない。咒符で結界を張らせようとしたのに、姫は勝手に魂を削った。確実に寿命が縮まったぞ」

「わ、私は、藤原のための贄だもの。家のために入内する妹姫のためなら、魂を売ってでも果たすべき務めがある。たとえ知っていたとしても、私は同じことをしたはず。私の魂で妹の命が助かるなら」

「魂を無駄遣いした輩は、問答無用で冥府行きだ。閻魔の裁きを受けてもらう。妹姫の身柄は、私が責任を持って邸に届けよう」

 そう言うと、宮は姫が履いている閻魔の沓に咒をかけた。姫が必ず冥府に戻るように、と。姫は歩きたくないのに、勝手に沓が進むから、しかたなく歩調を合わせた。気のせいか、少し息が苦しい。魂を削ったせいだろうか。姫は宮に悟られないように、そっと喉をおさえた。



 妹の紗絵がどこに住んでいるのかも分からない姫は、ひとり俯きながら、死者の口がある六波羅に向かって歩いた。都の中でも争いが起こったようで、倒れている人が何人もいた。沓が足を急がせるから、手を合わせるのがやっと。なにもできない。

 どうして、都に賊が現れたのだろう。それに、藤原家を支える大切な姫が襲われるなんて。東宮に入内すると宮は言っていた。将来の妃、中宮さまになるはずの少女なのに。考えても分からないことばかりだ。

 賀茂から六波羅、閻魔の沓がなければ姫の脚力では歩き通せないはずだが、沓が早く早くと道を急かすので、なんとか無事に迷わず着いた。寺の井戸に入り、冥府への暗い道を下ろうとしたところで、不意に小さな光を見つけた。

 ぼんやりと飛んでいる光は、小さな魂だった。

「あなた、昨日の」

 百鬼夜行からは離れたが冥府に行くことを迷っている、そんなふうに感じた。普通、命を終えて体から出た魂は自分で冥府にやってくるが、現世に強く思いを残していると、冥府行きを渋るらしい。

「おいで。案内してあげる」

 姫は宮の結んだ印を思い出し、魂をやさしくつかまえた。魂から伸びる光と手をつなぐようにして、姫は再び歩きはじめる。魂が怯えたように震えている、というのもなんだか妙だけれども、姫が魂をとらえると弱々しかった光が、少し安定してきた。

「だいじょうぶ。御前は、寛大だから。宮と違って」

 閻魔が閻魔を辞めたら、次期閻魔は黄泉の宮なのだろうか。絶対に、おっかない閻魔が誕生することになる。姫は苦笑した。

 宮が賊を倒したせいか、閻魔の超高速処理能力のおかげか、魂の列は出かける前よりも格段に短くなっていた。この調子なら、失われかけていた均衡が戻るかもしれない。

「姫、ずいぶんと遅かったな」

 目の前に立ち塞がったのは、黄泉の宮だった。

「あれ、妹を届けに……行ったはずでは」

「もちろん。よく寝ていたから、邸の者に暗示をかけてちょっと静かになってもらい、その間に置いてきた。で、賊の残党を根こそぎ始末してきたがね。その、肩にのっかているものは、なんだ?」

「昨日の、百鬼夜行に紛れ込んでいた小さな魂です。死者の口で偶然会って」

「なるほど、お前が仕留め損ねた魂か。子どもかと思ったが、仔猫の魂だな。母猫とはぐれでもしたか。まあいい。契約通り、賊は成敗した。贄をもらっている以上、現世の平安を護るのも、冥府の仕事のひとつだ。冥府に下る魂が多過ぎたら、世界が壊れてしまうし。さあ、姫。列を割り込んで、お前さんへの裁きがはじめよう」

 姫は閻魔の机の前に引きずり出された。閻魔は困った顔をして腕を組んでいる。

「も、戻りました。御前」

「そうだね。戻ったね。しかしねえ」

 視線が痛い。

「冥府では、姫の面倒を見きれない。咄嗟とはいえ、他人の命を助けるために、己の魂を使ってしまうなんて。魂を粗略にする人は、贄失格だよ。体にも、変調を来しているだろう? 苦しくないか」

 すべて、当たっている。返答のしようがない。ぜいぜいと、肩で息をついている。頭も痛い。

「姫は、贄の責務を果たすよりも、現世で果たすべき仕事ができたようだ。魂が熟すどころか、もとに戻るまでは喰うこともできない」

「私の魂、もとに戻るのですか」

「ああ、定命までは。閻魔庁の指示に従うならば、特別に咒を施そう。姫にはまだ、死んでもらっては困る。冥府のために働いてもらおうか。さ、肩に乗っている小さな魂はこちらへ」

 もちろん従うしかない。姫は手をつないだまま、小さな魂と一緒に浄玻璃の鏡を覗き込む。鏡に、魂の生前の姿が映った。愛らしく、しかも懐かしい姿だった。

「みゅう、みゅうだわ。冥府の鏡に映っているってことは、みゅうは」

 みゅうの時間が巻き戻る。似絵姫の邸で生まれて育ってゆくが、大晦日の夜に姫を追いかけて都に出てしまい、姫を探し惑ううちに都大路の側溝にはまり、幼い命を落とした。姫を慕うあまり、百鬼夜行にとり憑かれてしまう。

「なんてこと……みゅうが。ねえ、みゅうが溝に入ってしまったところ。馬に蹴られていたわよね。黒づくめの装束……賊の、馬じゃない!」

 宮も頷いた。

「おまけしてやれ、閻魔。この小さい魂が、姫のもとにもう一度転生できるように」

「仕方がないな。しかし……しばらくは、お別れだ。さあ姫、魂を放してやれ」

 閻魔は曖昧にほほ笑み、みゅうの魂を促した。先に歩きはじめた宮についてゆく。追いかけたいのに、疲労で足が動かない。

「待って、宮まで行ってしまうの」

「黄泉の宮は、冥府の役人。魂を導き、あるべき姿に復する。姫は現世に戻りなさい。休むんだ。沙汰は追って下すが、喰われたほうがよっぽど楽だったかもしれないな。現世では、大変なことがたくさんあるだろう。早く魂を治して、熟れるように」

 別れの挨拶も交わせなかった。宮は振り返りもせず、転生の扉を開けてみゅうの魂をいざなった。



「待って、宮! みゅうっ」

 似絵姫は体にまとわりつくどっしりとした質感に襲われ、思わず背中を丸めた。重い。

「姫、姿勢がよくありませんよ。きちんと、背を伸ばす!」

 乳母の叱咤が走った。着付けを手伝っている女房たちも、いっせいに頷いた。

 見慣れた顔。いつもの部屋。装束だけは新しい。洗いたての髪からはよい香りがした。

「ここは……」

「新年早々、姫の慶事だなんて」

「今年はほんとうに、よい年になりそうですわね」

「楽しみですわ」

 女たちの華やかな笑い声が響く。

 姫は訝しんだ。自分は確かに贄で、冥府の閻魔に喰われる運命にあったはずなのに、なぜ現世に戻っているのだろうか。しかもこの、正装装束の意味は。自分を含め、お姫さまは正装する者ではなく、正装している者を使う身分にある。

「あの、このお支度って……外出か、なにかなの?」

 おそるおそる姫が乳母に問うと、若い女房がいっそう笑った。

「姫さま、照れていらっしゃるのかしら。かわいらしいですわ。これは入内のお支度ですのよ」

「じゅ、入内!」

「間もなく、車に乗りますからね」

 おほほ、と笑顔で躱されて姫は車に乗せられてしまった。同乗している乳母に、聞くしかない。

「私、閻魔の贄だったのに、どうして入内なんて」

「姫の父君の夢に、閻魔が出てきたそうです。姫はお返しするから、入内させるようにと」

 お告げだから、逆らえないというのか。

「確かに、冥府に行っていたわ。死者の魂とも関わったし、相当穢れているのに入内だなんて」

「閻魔には意見できなかったと、ぼやいておられましたわ。閻魔はこうも言ったようです。『入内すれば、藤原の贄として、また閻魔の贄としても、大役を果たすことになる』と」

 双方の贄とは、どういうことか。姫は苛立ちを乳母にぶつける。

「それに最近、入内しようとした姫がいたでしょ。私はその姫の、代わり? 紗絵に会いたいの」

「まあ、妹姫さまのことをご存じなのですか」

「ええ。私にそっくりの姫ね」

「そこまで分かっていらしゃるとは……入内は延期できませんから。たとえ、妹姫さまになにかあったとしても。もともと紗絵さまは『一の姫』と称して、後宮へ上がる手筈でした。なんの不都合もございますまい」

 乳母は扇を開いて口もとを隠した。

「……実はこの車、方角が悪いとかで御所に入る前に、妹姫さまのいらっしゃいます三条邸に一度、上がります」

「じゃあ、紗絵に会えるのね!」

「おそれ多くも、紗絵さまには穢れがありまして、どうしてもとおっしゃるなら席をおつくりしますが、対面はごく短いものになりますよ。よろしいでしょうか」

「もちろんよ。紗絵、けがは治ったの? 背中をざっくり斬られたんだけど……入内絡みの事件だったのかしら」

「姫さま! お声が大きいですわ。それに刃傷沙汰など、ありもしないことを。紗絵さまはただ、駆け落ちを……あっ」

「駆け落ち? どういうこと?」

 姫は乳母に詰め寄った。ぐらりと車体が大きく傾ぐ。狭い車内だ、あと一歩姫が乳母に寄ったら乳母は車から落ちただろう。

「ひー、お許しくださいっ。藤原家の一の姫・似絵さまは贄。となると、家を助けるのは二の姫・紗絵さまということになります。お腹が違うため、血筋では劣るものの、幸い紗絵姫さまもお美しく賢く、東宮さまへの入内の件はすんなり決まりました。ただ、紗絵姫さまには……」

「妹には?」

「恋人がいらしたのです。幼馴染で、遊び相手だった男が。入内する姫だからと、間違いがないように殿さまも深く注意して育てたおつもりでしょうが……紗絵さま、駆け落ちからは戻って来られたのですが、だいぶ憔悴なされていて、入内前の似絵さまにご対面なされるのはちょっと……と、女房どもも考えておりまして」

「今、会わなくては。宮中では、めったに宿下がりもできないでしょ」

 意外だった。妹に秘めたる恋人がいたなんて。いつか東宮に入内することを分かっていても、恋をやめるなんてできなったにちがいない。

 もし、自分自身に好きな人がいたら、その人を忘れて入内なんて、できない。家のためでも、自分を押し殺して……姫は考えがまとまりそうな気がしたが、急に黄泉の宮の顔が浮かんできて、思考が霧散してしまった。姫は慌てて宮の不遜顔を否定する。

「では、ほんの少しだけ、お見舞いをしましょう」

 都をあちこち歩いたせいか、重い装束を着ていても足が動く。体力がついていた。以前のお姫さま生活しか知らなかった似絵ならば、重ね着の装束に耐えられず、卒倒しただろう。けれど、ずきずきと頭が痛い。

 紗絵の母は、もともと似絵の母に仕えていた女房だった。受領の娘で、わりと器量もよく、歌の才があったため、父も惹かれたらしい。だが、帝の血縁である母が正妻として輝かしく存在しているから、紗絵の母は妹弟たちを生んだとはいえ、控えめに控えめに生きている。この、三条の邸を父から与えられたときも、ひどく恐縮していたらしい。

「穢れがうつらないように、陰陽師のつくった人形をお持ちくださいませ、姫さま」

 自分の代わりに、穢れを引き受けてくれるだろう人形を、姫はおとなしく手にした。自分が治したから、妹はもう穢れてなどいないけれど、やかましく騒がれても困る。

 妹姫付きらしい女房が、廂にずらりと並んでいる。乳母は『下がりなさい』と命じると、やわらかな絹の音を立てながらほとんどの女房たちは去った。

「藤原の一の姫、似絵さまにございます」

 静かに、御簾が巻き上がる。

 深く頭を下げ、身構えている姫がひとり、座っていた。

「お忙しいところ、ありがとうございます。お初にお目にかかります、姉上さま」

 顔かたちだけではなく、声までも似ていた。なんとなく分かっていた似絵姫はもちろん、乳母も驚いた。

 紗絵はゆっくりと顔を上げたが、動作に不自然なところはまったくなく、背中の傷も完全に癒えているらしかった。

「こちらこそ、よろしくね。同じ父の血を享けた者どうし、仲よくして。これまで、一回も面会できなかったけど、初めてって感じがしないわ」

「まあ、もったいないおことばを。私は劣り腹の娘です。しかも、このような事件を起こしてしまって……家の名を傷つけてしまいました」

「傷ついてなど、おりませぬ! 似絵姫さまが、紗絵さまの身代わりになって入内されるのですぞ! 本来ならば、似絵姫さまは一生不婚を貫き、藤原の繁栄を祈る身の御方。似絵さまを引きずり出して、ご自分の恋を成就させようだなんて、なんたる不始末。藤原の姫とは思えない軽率さでございますぞ。あなたさまは一生、似絵さまに頭が上がるはずがありません」

 乳母は顔を真っ赤にしてまくしたてた。紗絵姫はさすがに決まりが悪いようで、俯いてしまった。

「ちょっと言い過ぎよ、乳母。ごめんなさいね、紗絵。ねえ、好きな人がいるなんて、羨ましいわ。私、ずっと邸の奥に閉じ込められて生きてきたから、駆け落ちなんて想像もしたことなかった。よかったら、どんな人か教えてくれない?」

 年ごろの姫らしく、紗絵は愛らしく顔を真っ赤に染めた。

「……家司の、息子です。源氏の。武士なんです」

 家司、と聞いて乳母は眉をひそめた。身分が低いから。入内を目された姫なのに、秘めたる恋人が武士だったとは、という軽蔑のまなざしだった。この時代、武士はまだまだ地位が低い。貴族に飼われている使用人、いや都合のいい盾、そんな扱いだった。いくらでも替えはあるし、発言力は皆無に等しく、世間的にも軽い存在だった。

「それで、どうするの? せっかく、入内を口実に外に出たのに三条邸に逆戻りだなんて」

「私は、間違っていたのです。申し訳ありませんでした。父の監視をかいくぐり、遠くへ……男が管理する、河内の荘園へ逃げようとしました。でも、芝居で斬ってもらったはずの傷が意外に深く、私は死に線をさまよっていたんです。でも、あたたかい声に助けられて、いつの間にか三条に戻り、回復していたのです」

 紗絵を助けたのは、魂を授けた似絵だ。閻魔にはあきれられてしまったが、後悔はしていない。紗絵を三条まで届けたのは、黄泉の宮だ。しかしこうも思い悩んでいる妹姫を目の当たりにすると、助けてよかったのか悪かったのか、思い悩んでしまう。

「それで、武士の彼は、無事なのよね? 私が東宮に入内すれば、紗絵は恋人と一緒になれるのよね?」

 紗絵は曖昧に笑う。頷いたようでもあり、首を横に振って否定したようでもあった。

「私が、父に談判するわ。東宮さまのところには、とりあえず私が行く。私、閻魔御前の贄にされそうになったのよ。それを思えば、現世で入内なんて、軽いわ。紗絵は必ず、恋人としあわせになるのよ、いいわね」

 どうにでもなれる。常夜の冥府で贄になる運命だったのだ、入内だってなんだってできる。

「塗籠に……隠しています。姉さま、ごめんなさい。私の愛する、光俊(みつとし)と言います」

 押入れのような空間である塗籠の中に、寝具が敷かれていて、その中には男がひとり、寝かされていた。

「潔斎の場を混乱させたあと、賀茂の社から一緒に逃げるはずだったのですが、光俊は眠ったままなのです。傷もありませんし、息もしっかりしているのに、起きてくれないんです。駆け落ちの報いでしょうか。あんなに血を流してしまって。たくさんの命が落ちたと聞いています。私だけが幸せになるなんて、できないことですね。ただ、誰かが三条邸へ運んでくれたことには、感謝しているんです。こうやって、いつも眺めていられますもの」

 紗絵と恋人を運び入れ、今なお光俊に強い咒をかけているのは、宮の仕業に違いない。みゅうの命を奪った一味の者として考えれば憎いけれど、妹の恋人なのだ。改心させて、できれば助けたい。

 口を引き結んだ似絵姫は、深く頷いた。

「任せて」

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