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君がいる奇跡  作者: トウリン
探し、求めた、その先に
9/74

縮まる距離

 藤野――『(ひびき)』。

 彼女自身の声で告げられたその名前が、(りょう)の胸の中に深々と根を下ろす。


 名前を、知った。

 ただそれだけのことが、やけに大きなことのように感じられる。


『藤野響』など、たいして珍しくもない、どこにでもありそうな名前だ。

 だが、何の変哲もない名前にもかかわらず、それが耳から離れない。


 女に名乗られたことなど腐るほどあるのに、何故、その名前だけがこんなにも『特別』な気がしてならないのだろう。

 不可解な思いを抱きつつ、眉をしかめて黙々と足を動かしていた凌だったが、ふと立ち止まる。

 唐突に立ち止まった凌を他の通行人が迷惑そうに睨み付けながら避けていくが、眉間にしわを寄せている彼の表情を目にした途端、さっと視線を逸らして速度を上げて離れて行った。

 自分が無意識のうちに周囲を威嚇しているということにはまったく気づかず、凌は顔を上げてぐるりと辺りを見回した。


 不意に、何かが頭の片隅に引っかかったのだ。

 見るともなしに視界に入れていた、何かが。


(何だ?)


 考えて、そして、気付く。

 少し前にすれ違った、少年三人組。

 そのうちの一人に、見覚えがあった。


(あれは、響に突っかかっていた奴だ)

 レジで彼女を恫喝していた姿と、去り際の、あの目付き。

 たかが酒を売る売らないというだけのこと――だが、あの時の少年の眼差しは、凌自身、これまで散々身に覚えがあるものだ。

 彼が今まで叩きのめしてきた連中は、捨て台詞と共に、だいたいあんな目をして逃げていった。そして、すぐに仲間を引き連れて戻ってくるのだ。


(単なる偶然か?)

 ――そうは思えなかった。

(だが、俺が戻る必要があるのか?)


 響とは、何の関係もないのだ。

 そんな何の関係もない相手のために、ちょっと気になったからと言ってわざわざ戻るなど、する必要がないし、するべきでもないだろう。

 そう自分に言い聞かせながらも、凌の脳裏にはあの三人に詰め寄られている彼女の姿が浮かんでしまう。


「――クソ」

 小さな罵りが勝手に口から洩れていた。

 このまま帰るなど、できそうにない。

 もう一度店を覗いてみて、あの子どもが彼女を煩わしていない事を確認できたら帰ろう。

 しばしの逡巡の後そう決めて、凌は踵を返して来た道を戻り始める。


 戻る足は早く、往路の半分の時間でコンビニの前まで戻っていた。彼はウィンドウ越しに煌々とした店内へチラリと目を走らせる。


 ――いない?


 カウンターにはあの時いなかった金髪男が陣取っていて、彼女の姿はない。店の前の通りは何事もなく人が行き交っており、店内も平和そのもので、揉めた気配は微塵もなかった。

 どうやら、凌の取り越し苦労だったらしい。

 きっと交代で、今度は彼女が休憩に入っているのだろうと思った凌の視界に、放置されたごみ袋が入り込む。明らかに、店の入り口に置かれたごみ箱から出されたものだ。


 凌は眉をひそめる。

 普通、こんなふうに置き去りにはしないだろう。しかし、店内の金髪男はボーッと店の中を眺めており、忙しさのあまりに忘れている、という感じでもない。

 ごみ袋を見つめて眉間に皺を刻んだ凌の耳に、その時、くぐもった怒声が入り込んだ。

 顔を上げて周りを見渡しても、ケンカをしている輩はいない。

 嫌な予感が胸の中を満たし始めた凌は、暗い路地に目を留めた。奥の方へ行ってしまえば、人目は届かない――何が起きていても、誰も気付かないだろう。


 彼の足が、そちらへと動く。

 少し進むと、見えてきたのは三人の男達の背中だ。路地裏で何か薬でもやっているのかと引き返そうとした凌だったが、壁を作るように並んだ彼らの隙間から見えたものに、全身の血が逆流したような感覚に襲われる。


「響……?」

 知ったばかりのその名を口にした。と、男達が振り返り、その向こうにいる彼女が目に飛び込んでくる。壁に背中を押し付けるようにしているその姿はどうしようもなく頼りなげで、凌は何か考えるよりも先に身体が動いていた。手を伸ばし、手前の男の襟首を掴んで力任せに放り投げる。数歩で距離を詰め、響の前に立った。


「リョウ……?」

「リョウ、だ……何で……」


 ジリ、と後ずさった男達が呟くのが耳に届いたが、凌はそれらには全く意識を向けず、目の前の響を頭のてっぺんからつま先まで隈なく目を走らせた。

「何もされてないか? 怪我はないな? 大丈夫なんだな?」

 そう問いかけながら覗き込んだ彼女の目は、どこかぼんやりしている。それは、脅され怯えているというのとは、少し違っているように思われた。

 何か――薄い布を隔てて相対しているような、近くにいるのに距離があるような、違和感。あるいは、響の姿をしているのに彼女ではないような……

 だが、それは、響が一つ二つ瞬きをすると同時に消え失せた。頭から被っていた何かをパッと取り除いたように、彼女の何かがガラリと変わる。


「え……あ、はい、だいじょうぶ、です」

 響が、いつものように真っ直ぐに凌を見つめて、そう言った。まるで遠くに行っていた彼女が戻ってきたように感じられて、彼はホッとする。

 だが、それもわずかな間のことだった。

 直後、彼女の丸い頬を転がり落ちて行った透明な珠に、凌は首を絞められたかのような息苦しさに襲われる。


 ――ガラス玉のような、大粒の、涙。

 それは、大きく見開かれた彼女の両目から、次から次へと溢れだしていく。


 凌は思わず両手を伸ばして彼女の肩を引き寄せそうになった。自分の腕の中で、その涙を止めてやりたい衝動に駆られたのだ。


 だが、彼は、そうはしなかった。


 代わりにクルリと身を翻し、一番近くにいた男の横っ面を固めた拳で殴り飛ばす。何の前触れもないその攻撃に、相手はいとも簡単に吹き飛んだ。

「うわッ!? ちょ……ッ!」

 慌てふためいて逃げ出そうとする彼らに手を伸ばし、一人を捕まえる。それはあの時カウンターでごねていた少年だった。その頬はすでに派手に腫れている。大方、目当ての物を持ち帰れなかったことで、この兄だか兄貴分だか判らない奴らのどちらかに殴られたのだろう。


 だが、知ったことか。

 二度と彼女に近寄らないように、思い知らせてやらなければ。

 少年のひきつった顔にも、同情心は微塵も湧き出してはこなかった。


 凌は再び拳を上げ、それを振り下ろす――が。


「ダメ! 止めて!」

 殆ど悲鳴のような声を上げながら彼の腰にしがみついてきた温もりに、振り上げた腕が固まる。

「ダメです、殴っちゃ。止めてください」

 まるで少年から凌を引き離そうとするかのように彼女は踏ん張っているが、当然、彼はびくともしない。


「お前を泣かせた奴らだろ」

「違います、この人たちに泣かされたんじゃないです――多分」

「じゃ、何で泣いてんだよ」

「それは……えぇと……うまく言えません。でも、とにかく放してあげてください」

 口ごもりながらそう言った響の頬は、やはりまだ濡れている。手は下ろしたものの少年の胸倉は掴んだままの凌に、彼女は繰り返した。


「もう、止めてください。助けてくれたのはとてもうれしいけれど、あなたが人を殴るところを、もう見たくないです。……暴力は、怖い」

 そう言った響の身体は、小刻みに震えている。ピタリと全身がくっついているから、それははっきりと彼に伝わってきた。彼の頭が一気に冷える。


 ――今、彼女を怯えさせているのは、俺か。

 そう思ったとたん、ふっと凌の手から力が抜ける。


 解放された少年は、あたふたと駆け出していった。年長者二人の姿は、とうにない。

 その場にいるのが二人だけになっても、響の手は緩まなかった。彼のシャツを握り締めて強張ったその指を一本一本そっと外し、凌は彼女と向かい合う。

 響が幾度か瞬きをすると、睫毛の先にとどまっていた水滴が光を弾いた。

 彼の方から触れることにわずかに躊躇いも覚えたが、結局凌は手を上げて、掌で彼女の頬を拭ってやる。それはあまりに柔らかく、武骨な彼の皮膚では傷付けてしまいそうだった。

 怯んで一瞬手を止めた凌に、響がまた瞬きをする。わずかに首をかしげて彼を見上げ――そして、微笑んだ。


 ずっと昔、まだ母親と妹が傍にいた頃、凌は一度だけ綿菓子を食べたことがある。確か、近所の神社の縁日で、彼の中に残っている数少ない良い記憶の一つだった。

 響の笑顔は、あれに似ている。口の中に入れた途端にふわりと溶け、甘さが広がり、胸を満たす、あれに。手に取り、口を付けたら同じように甘いのではなかろうかと思わせた。


 そんなふうに埒もないことを考えて彼女から目を逸らせずにいた凌に、響がペコリと頭を下げる。

 その途端に呪縛を解かれ、彼はホッと息をついた。

「あの、一度ならず二度までも、助けてくださってありがとうございました。……って、三度、か。ホントに、ありがとうございます」

「別に……」

「わたしにとったら、『たいしたこと』です」

 先回りして、彼女が言う。見上げてくる彼女のその目に浮かぶ感謝の色に、凌はわずかに顎を引いた。純然たる善意でしたことではないからだ。同じ目に遭っていたのが他の人間なら、きっと、気にも留めなかった。


 応えられずにいる凌に、彼女は一瞬息を呑み、そして意を決したようにまた口を開く。

「あの、お名前教えていただけますか?」

「名前? 俺の?」

 唐突な申し出に思わず訊き返した凌に、響の目が揺れる。

「ダメ、ですか……?」

 心許なげなその声に、凌は反射的に答えていた。

「いや――凌、だ。笹本凌」

「笹本さん?」

「凌でいい」

「リョウ、さん」

 小さな声でおずおずとそう口にした響に、凌は頷いてみせる。彼女の声で呼ばれたその名は、まるで違う言葉のようだった。


 響がパッと顔をほころばせる――この上なく、嬉しそうに。


 いつも硬く引き結ばれた自分の口元が緩んでいることに、凌は気付いていなかった。


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