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君がいる奇跡  作者: トウリン
探し、求めた、その先に
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ままならない思い

「何か元気ないじゃん。オレが休憩入ってる間に何かあった?」

 半分覗き込まれるようにして金島(かなしま)にそう問われ、(ひびき)はハッと顔を上げる。意識しないうちに、目線が下がっていた。

「いいえぇ、なんにもないですよ。平和でした」

「そ? ならいいけど」

 笑顔で答えた響に金島は少し窺うような眼差しを向けたけれど、それ以上突っ込むことはせず、クルリと向き直って煙草の棚を整理し始めた。


 響は店内に目を向けて、こっそり胸の中でため息をつく。


 ――彼に名前を教えてもらえなかった。

 そのことが、何となくショックだったのだ。

 自分の名前を告げれば、もしかしたら彼の方も教えてくれるかもしれない――そんなふうにも思っていたのだけれど、彼はあっさりと店を出て行ってしまった。


(絶対、怒らせちゃったんだ)

 穴があったら入りたい。

 響は今まさにそんな気分だった。できることなら、今すぐ家に帰って頭から布団をひっかぶってしまいたいところだ。

 せっかく助けてくれたのに嫌な態度を取ってしまって、絶対に彼のことを怒らせたのだと、響は思う。お礼を言って、「たいしたことじゃない」と言ってもらえて、一瞬、許してくれたのだとホッとしたのだけれど。


 結局、彼は何だかどうでもいいようなことをおざなりに訊いて、行ってしまった。

 優しい人だから、きっと、何も言わずに立ち去ることはできなかったのだろう。けれど、ニコリともしなかった彼の表情からしても、水に流してくれたのだと考えるのは虫がよすぎるに違いない。


「もしかしたら、もう来てくれないかもなぁ……」

「え?」

 思わずポツリと呟いた響に、金島が振り返った。そこで初めて、彼女は自分が言葉をこぼしていたことに気付く。

「何でもないです。あ、わたし、ごみ捨ててきますね」

 響はそう彼に告げるとあたふたとカウンターを回ってその場を離れ、バックヤードの棚からごみ袋を引っ掴んで出入り口に向かった。


 出てすぐのところに置いてあるごみ箱からごみの詰まった袋を引っ張り出して、新しいものをセットする。

 そうやって手を動かしながら、響の頭はまた彼のことを考えていた。ろくに言葉も交わしていないような相手だというのに、どうしても気になって仕方がない。


「男の人が傍にいなかったせいかなぁ」

 響は中学、高校と女子校育ちだ。しかもカトリック系の学校だったので、教師も皆女性だった。伯母の(なぎ)は独身だから、家の中にも男性はいない。

 けれども、単に慣れていないからというだけではないような気がする。


(なんていうのかな……)

 響は眉間にしわを寄せて考える。

 彼の大きな身体と、時折見せてくれる優しさ。

 それに触れる度に、響の頭の中の何かが揺れるのだ。手を伸ばして掴もうとしても、するんと指の間を抜けていってしまう、何かが。


 ふと手を止めてしまっている自分に気付いて、響は眉をしかめた。

「ああ、もう! 今はなし! 仕事仕事!」

 三つ目のごみ箱に取り掛かりながら、小さく声に出して自分を叱咤する。

 空のペットボトルがぶつかり合う音を立てさせながら、彼女は「そう言えば」と、先ほどの少年のことを思い出した。

 あの子は結局、望みの物をよそで買ったのだろうか、と。


 もしかしたら、何も言わずに買わせるのが『オトナ』の対応だったのかもしれない。あんなふうに拒んでしまったのは、傍から見れば子どもじみていただろう。きっと普通は、あれ程ムキになったりはしないのだ。

 響はふとしたことで、自分のことを「できていない」と感じてしまう。何をしても、自分の行動は『ちゃんと』しているのだろうかという不安が、常に彼女には付きまとっていた。

 独り暮らしをして、バイトをして、立派にやれているところを凪に見せたいのに。

 おおらかな伯母は響のことになると心配性で、家を出ることにもバイトをすることにも反対していた。実は、昼のバイトの許可は取ったけれど、このコンビニバイトのことは話していない。多分、ばれたら即座に連れ戻されるだろう。


(全部、わたしが頼りないからなんだよね)

 先日の脚立の事件といい、今日のことといい、事あるごとにそれを実感し、ギュッと袋の口を縛りながら彼女は小さくため息をつく。

 これでも十九歳になるのに。


 と、その時。


 突然響の二の腕が掴まれ、強い力で引っ張られる。


 腕を掴んだ何者かは声をあげる暇も与えず彼女の口を押えると、有無を言わせず暗い路地裏へと引きずり込んだ。

 ようやく解放されて息をついた響の前にいるのは、三人の男だ。そのうちの一人は先ほどの少年で――その頬は、弱い灯りでもはっきりと見て取れるほど、腫れ上がっている。彼は明らかに『子ども』だが、他の二人も、二十歳を超えているようには見えない。


 年長者の――多分、響を引っ張ってきた方の男が彼女の前に立つ。

「なあ、おねえさん。今度あいつが酒を買いに行ったら、『ありがとうございます』と素直に売ってやってくれよ」

「え……」

「お客様は神サマだろ? 余計なことは言わずに、売りゃいいんだよ、な? あんたが売ってくんねぇと、あいつがあちこち駆けずり回る羽目になんだよな。可哀想じゃね? 今まで何も言われなかったんだから、今さら別にいいじゃねぇか」

 猫なで声で、男はそう言う。


 男の顔は、陰になっていて見えない。詰め寄ってくるその大きな身体に、クラリと、響は一瞬酩酊するような感覚に襲われた。そんなことはない筈なのに、以前にこんなふうな光景があったような気がする。

 ――怖がっているから、錯覚しているだけだ、きっと。

 自分自身にそう言い聞かせ、からからに乾いた口の中のわずかな唾を何とか呑み込み、響は一歩後ずさる。

 壁に背中をピタリと押し当てて、なけなしの気力を振り絞って男を睨み上げた。


「でも、未成年者にお酒を売るのは違法です」

「ああ?」

「それに、こんな時間にあんな子どもをお使いにやるのも、どうかと思います」

「あんだと!?」


 鼓膜を震わす怒声。

 覆い被さってくる身体。

 彼は響の頭の上に両手をついて、上から彼女を見下ろしてくる――のしかかるようにして。


 その瞬間、何かが響の脳裏で閃いた。


 今は、目の前の男は、怒気を全身から発散させてはいるけれど、ただ立っているだけだ。口も開いていない。

 けれども、耳、いや、響の頭の中で鳴り響いている大声と激しく物の壊れる音。それらは、まるで警報さながらだった。


 響がかすむ目でグルリと見回してみても、何も壊されてはいないし、今は誰も怒鳴ってはいない。三人とも、訝しげに響を見つめている。


(何で? 誰が……?)


 今も続いている怒鳴り声の主を探そうと首を巡らせようとしても、うまく動かせない。その代わりに、ゆっくりと曇りガラスの引き戸が閉められていくかのように、彼女の意識が閉ざされていく。

 シェルターの隔壁さながらに。


 ――多分、もう安全……

 そう判断できる根拠は何一つない。けれども、響は何故かそう感じた。身体を包み込む安堵感に、口元が緩みすらした。


「おい……?」

 この状況で薄く微笑んだ彼女に、戸惑った声と共に男が手を伸ばしてくる。けれど、今起きていることの全てがまるでテレビの画面を通して見ているように感じられて、響はぼんやりとそれに目をやるだけだった。

 男の手が近づくにつれて、響の中のガラス戸も閉ざされていく。

 彼女に安らぎをもたらしてくれるその扉が、もう少しで完全に閉じられようとしていた時だった。


「響?」

 突然、低く鋭い声で呼ばれた名前に、彼女はハッと我に返る。うたた寝から急に起こされた時のように、一瞬頭がクラリとした。

 その名前が自分のものだということに気付くのに、少し時間がかかる。

 目の前にいた男が急に退き――いや、退かされ、代わりに視界に飛び込んできたのは、『彼』だった。壁のように立ちはだかっていた少年たちの間に割り込むようにして響の元に歩み寄りながら、彼は険しい声を彼女に飛ばしてくる。


「大丈夫か?」

「え?」

 何をそんなに危惧しているのか判らず、間近に立った彼をぼんやりと見上げながら、響は訊き返す。

 彼は少し声を和らげて、もう一度彼女に問いかけてきた。

「何もされてないか? 怪我は? 大丈夫なんだな?」

「え……あ、はい、だいじょうぶ、です」

 彼の声の端々から響を案じる気持ちがにじみ出ていて、彼女の方が戸惑ってしまう。響の返事に、彼が微かに笑ったような気配がした。


 不意に、響の目からコロリと涙が零れ落ちる。泣くつもりなんてなくて、思わず瞬きをすると、更に滴がいくつか頬を伝っていった。


 安堵の涙だろうかと思ったけれど、響はすぐに違うと気付いた。


 ――名前を、呼んでくれた。


 彼のその声で『響』と呼ばれたことが、自分でも戸惑うほどに、けれど無性に、嬉しかったのだ。


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