温モリとネガイ
「それでね、ナナさんも作ったんです。美味しくできてましたよ。ナナさんって、ホントに何でもこなしますよね。何かしたいと思ったら、いくらでもできそうです」
「へえ……」
楽しそうな響の台詞に、凌は気のない唸りを返す。
食事を終えていつになくサッサとナナが帰っていって、珍しくゆっくりと二人きりで過ごせているというのに、響の口からこぼれ続けるのはナナのことばかりだった。
凌は当然面白くない。
姿はないのに、響との間に割り込まれているような気がする。
彼はむっつりと黙り込んだまま、目の前にあるチョコレートを摘まんで口の中に放り込んだ。響の手作りだというそれは、甘さを抑えてあって、うまい。
だが、口から入ってくるチョコは美味いが耳から入ってくる話は全くうまくなく、響の話の内容は聞き流し、彼女の声だけに意識を向けて凌は黙々とそれを食べ続けた。
と、彼はふと視線を感じて手を止める。
横を向くと、ジッと響が見つめていた。
「リョウさん、怒ってます……?」
何だか前にもこんなセリフを聞いたことがあるような気がすると思いながら、凌は肩をすくめる。
毎回原因は同じだというのに、何故響は気付かないのだろうかと思いながら。
「俺が? なんで」
「何か、ムスッとしてませんか?」
「別に。で、この中にはあいつが作ったのも入っているのか?」
また一つ、緑色の――抹茶か何かがまぶされているものを口の中に放り込みながら、凌はそう訊いた。どれも同じように美味しい。もしもナナが作ったものが紛れ込んでいるとしても、違いは全然判らなかった。
「それは、全部わたしが作りました」
「そうか。……美味いよ」
凌は短くそう返す。
と。
「――ナナさんのも、食べたかったんですか?」
響のその声に、凌は手を止めた。何となく、何かが彼の心に引っかかったのだ。
彼女を見ると、珍しく眉間に皺が寄っている。
「お前なら、『ナナさんが頑張って作ったんですから』とか言いながら食べさせるかと思った」
「まさか! 他の女の人が作ったチョコを食べて欲しいだなんて、ぜったい言いません」
彼女らしくない、少し強い口調。怒っているように聞こえなくもないその声に、凌は眉をひそめた。別に変なことは何も言っていない筈だ。
少し前までは、不機嫌な凌を響が宥めている構図だった気がする。
それがいつの間に逆転したのだろう。
いましがたの会話を振り返ってみて――凌はハタと手を止めた。
(――俺に、ナナが作ったチョコは食べさせたくない……?)
今日はヴァレンタインで、ヴァレンタインというのは好きな相手にチョコを贈るという風習なわけで。
「……何笑ってるんです?」
「別に」
ジトッと睨んでくる響に緩んでしまう口元を引き締めつつ、凌は彼女の腕を捉えて引き寄せる。
「あ、ちょっと、リョウさん」
凌の胸の中に転がり込んできた響は腕を突っ張って身体を離そうとするけれど、彼は難なくその抵抗を封じた。
「リョウさん、きつい、ちょっと、きついです」
「悪い」
くぐもった声での抗議に少し力を弱めると、ホッとしたような小さな吐息で胸元が温もった。
「チョコ、美味かった」
「……あんまり、そんなふうに見えなかったです」
「美味かったよ、本当に」
もう一度凌が繰り返すと、響がもぞもぞと動いて、小さな手が彼のシャツの両脇を握り締めてくるのが感じられた。二人は体格が違い過ぎるから、なかなか『抱き締め合う』という形にはなれない。だが、彼としては響がそうやって応えようとしてくれることそのものが嬉しかった。
彼女の背中を撫で下ろしてもう少しだけ引き寄せる。
腕の中を見下ろせば、微かな笑みを浮かべた頬が彼の目に入った。
響の全てが心地良い。
――一つだけ気に入らないことがあるとすれば、彼女が明らかに寛ぎきっていることだろうか。
これだけ密着していてあまりに安心されるのも、何となく納得がいかない。
果たして響は、自分を抱き締めているのが『男』なのだと解かっているのだろうか。
女の身体に凌は散々触れてきたから、何をどうすればいいのか、熟知している。なし崩しに響をその気にさせて全てを奪ってしまうことは、きっと簡単だろう。
しかしそれはまさに『奪う』という行為なわけで。
凌は響との間で一方的に事を為してしまうようなことはしたくなかった。
それには響の方にも何らかの自覚というものが必要なわけだが。
(全然、危機感ないよな……)
ピタリと凌の胸に頬を寄せているその様子は、父親に抱かれる幼子そのものではなかろうか。
事を焦るつもりはさらさらないが、時には少し脅かしてやることも必要だろう。
凌はさり気なく響が着ているセーターの下に指先を潜らせ――更にその下の薄手のシャツを探る。
触れたのは、布ではない、滑らかな温もり。
と同時に、響の肩がピクリと跳ねた。
「あ、の……リョウさん……?」
「何だ?」
彼女が何を言いたいのかはよく解かっていたけれど、凌は空惚けて尋ね返す。
「その、手が……」
「手?」
響が言うその手は、今や両方とも完全に彼女のシャツの下に入り込んでいた。凌はそれを大きく広げる。彼の手は大きく、彼女の背中は小さいから、両手でほぼ覆いきれてしまうのだ。
響の身体はどこもかしこも小さくて、柔らかくて、そして温かい。ギュッと握り締めたいような気持になるのを押しやり、彼は触れるだけにとどめておく。
彼女に触れる度に凌の中に生じる気持ちは、未だに分類不能だ。
かつて凌に言い寄ってきた女たちの中には、響と同じような体格の者もいた。けれど、その中の誰一人として同じような――あるいは少しでも似通ったところのある感情を彼から引き出すことはなかった。
感情を伴わずに抱いた女たちは、ただの『女』に過ぎなかった。ただの『男』である凌を求めた、『女』たち。そこにあるのは、身体のつながりだけだった。
そういう点からいえば、凌の中で響は『女』ではないのかもしれない。
凌は彼女の身体だけを求めているわけではなく、多分響は彼と身体をつなぐことなど想像すらしたことがないに違いないから。
響はもうじき二十歳になる。だが、その生い立ち故に、内面的な発達はまだ小学生並みなのかもしれない。
凌には今のままの彼女も愛おしいのだが、早く彼と同じところまで上がってきて欲しくもあった。せめて、素肌に触れても悪いことをしているような気分にならない程度には、育って欲しいかもしれない。
彼は親指で背骨の脇をスッと撫でた。
「ぅひゃっ」
ビクンと身体を震わせ、響は何とも色気のない声をあげる。
凌は彼に寄りかかるような形になっていた彼女を引っ張り上げて、完全に膝の上に座らせた。そうすると、身長差がマシになる。
少し視線を下げれば、細い首筋でトクトクと脈打つ拍動が見て取れた。だいぶ速そうなそれに触れてみたいが、両手は塞がっている。なので彼は、頭を落としてそっと唇をそこに押し当てた。
「え、や、リョウ、さん……」
慌てふためく響の声は聞こえないふりをして、彼は少しずつ触れる場所を下げていく。
鎖骨のすぐ上まで来たところで、さてどうしようかなと動きを止めた。響の脈はもう仔猫のように速まって、元々白い肌は薄紅色に染まっている。
もう止めてやっても良いのだが。
はっきりとした抵抗があればいつでも解放してやるつもりだったが、響からのアクションは声だけだ。
凌は一瞬考え、決めた。
鎖骨のすぐ上、柔らかな皮膚にしっかりと唇を押し当てる。彼が何をしたところで、どうせ響は恥ずかしがるかくすぐったがるか、そのくらいのところだろうと高をくくって。
が、しかし。
「ぁっ」
響の肌に紅い痕を残した瞬間、彼女の口から漏れたあえかな声に、凌は意表を突かれる。それは明らかに、彼が予期した反応とは違うものだった。わずかに彼の腕の力が緩んだ隙をついて、響はパッと立ち上がる。彼女のその目にも、微かな戸惑いのようなものが見て取れた。
「えっと、そう、食器! 食器を、洗わないと!」
つい先ほどまで凌の唇が触れていた場所を手で覆い、もう片方の手で服のめくれを引っ張って直しながら、響はジリジリと後ずさる。その顔は真っ赤だ。
「あと、お茶。お茶も淹れてきますから」
そのまま後退していった彼女は冷蔵庫にぶつかったところでクルリと方向転換をして、あたふたと流しに向き直った。続いて、水が流れる音が聞こえてくる。
響のその一連の動作を無言で見守り、彼女の視線が逸れたところで凌はホッと小さく息をついた。
「まいったな」
呟き、テーブルの上に目を走らせ、残っていたチョコレートを口の中に放り込む。
半分からかい、半分試すような気持ちで始めた戯れだった筈だ。
いつものように、ワタワタと慌てる響を見て楽しむつもりで。
それが、あんな声を聞くことになろうとは。
響が抱える諸々の問題の片がつくまで先に進まないでおこうと決めていた凌だったが、若干その覚悟が揺らいでしまう。
やきもちといい、あの声といい、全然変わりがないと思っていた響も、ゆっくりとだが着実に何かが変わりつつあるらしい。
保護者ぶって余裕をかました態度を取るのも、ほどほどにした方が良さそうだった。
凌は、まだ紅いままの響の横顔を見つめながらふと思う。
昨日と同じ今日はない。
今日と同じ明日もない。
毎日、必ず何かが変わっているのだろう、と。
かつての凌の世界は、凍り付いていた。
何も見ず、何も聞かず、何も感じず、ただ時間の流れに身を任せ、やがて来る終わりの瞬間を待つだけだった。
世界に凌は存在しないも同然だったのだ。
だが、今は違う。
凌という一人の人間は、社会という鎖の中の一つの輪として組み込まれている。
別に、いなくなったら社会が立ち行かなくなるような重要人物ではない。けれど、もしもいなくなったら誰かが気付き、そしてその誰かを悲しませるだろう。
その誰かがたった一人でもいる限り、凌は『取るに足らない存在』ではなくなる――『かけがえのない存在』になるのだ。
凌は静かに立ち上がり、キッチンに向かう。
近付く彼に気付いて、響の手が止まった。見上げてくる彼女を、背中からそっと包み込む。
「リョウ、さん?」
顎の下から彼女の声が響いてきて、凌は黙ったまま腕の力を増した。
響は、小さい。抱き締めれば凌の中にすっぽりと納まってしまう。
けれど、彼にとって彼女の存在は何よりも大きい。
凌は少し頭を下げて腕の中の響に囁く。
「俺は、お前が――好きだ」
一瞬言葉を探したけれど、他に見つけられなくて結局単純なものになる。彼にとって、響は『好き』という言葉では全然足りないほど、愛おしくて大事で失い難い。
艶やかな髪に頬を寄せると、クスリ、と小さな笑い声が聞こえてきた。
「知ってます。わたしも、リョウさんが大好きです」
はっきりと返されてきた言葉。そして微かに胸にかかってきた重み。触れ合う場所から伝わる温もりは確かなもので、不意に凌の目頭が熱くなった。
同じ『好き』という単語でも、彼女の声で告げられると何故こんなにも心を揺さぶられるのだろう。
何度でも聴きたい。何度でも言って欲しい。
――彼女が言葉を発することがなくなる、その瞬間まで。
響の両親の前で、彼は彼女と約束をした。
いつか彼女を喪うことがあっても、彼は生きていく、と。
約束は、必ず守る。だが、こうやって彼女を感じていると、その自信が揺らぎそうになる。
――俺は強く在りたい。
今、そして未来に響が彼に委ねてくれる全てを守り切れるように。
凌は彼女の顎に手を添えて、仰向けさせる。
目蓋を下ろした響に、彼はそっと口付けた。




