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君がいる奇跡  作者: トウリン
サイドストーリー:キミと歩く明日

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キズナと温モリ

 いつもなら、夕食が終わってもしばらくダラダラとヒビキの家で寛ぐのだけれども、今日のナナは早々に退散した。

 作ったチョコレートを凌に渡すのは二人きりになってからにしたいと響が思っているのが、判ったからだ。

 別に響が口に出してそう言ったわけじゃない。でも、何となく、彼女がそわそわしてモジモジしていたから。

 ちょっと意地悪して響が困る顔を見たくもあったけど。

(まあ、たまにはね)

 シンプルに凌を喜ばせてやってもいいかと思ったのだ。

 街灯で照らされた夜道を歩きながら、ナナはバッグの中から可愛らしくラッピングされた包みを取り出す。

「どうしよっかな」

 満月の隣にそれを掲げて、ナナは呟く。

 響から「世話になった人にでも」と言われて、ポンと頭に浮かんだ人はいる。でも彼は、ナナからこんなものをもらっても戸惑うだけかもしれない。

「んん……まあ、だいたい、この時間じゃもういないかもしれないしね」

 ナナは自分自身を納得させるように、そうこぼす。

 普通の人は、この時間はもう家に帰っている。けれどナナは、彼の家は知らない。職場に行くしかないのだ。

 ある意味一種の賭けで、もしも彼が職場にいれば渡すし、いなければ自分で食べてしまえばいい――ナナはそう自分に言い聞かせた。

 心が決まれば足取りは軽く、電車に乗ったナナは彼のもとを目指す。

 駅から出て、歩くことしばし。

 そこ――新宿署には当然のことながら煌々と灯りがともされていた。

 通常の窓口業務は、当然終了している。入っていくのも躊躇われてナナがしばらく玄関付近をウロウロしていると、中から制服を着た若い警官が出てきた。

「何か用ですか?」

 真面目そうな警官は、真面目そうな口調でそう訊いてくる。

「あ……っと、福井サン、いるかな」

「福井さん? どの? フルネームはわかりますか?」

「生活安全課の福井銀次ふくい ぎんじっていう、おじさん」

「ああ――ちょっと確認してきますから、お待ちください」

 そう言ってニコリと笑うと、警官は小走りでまた署内に戻っていく。

 彼の背中を見送って、ナナは一瞬、引き帰してしまいたくなった。

(――ああ、もう、なんなんだろ、この感じ)

 何とも、落ち着かない。

 福井のことがナナの心に引っかかるようになったのは、響が虎徹こてつに拉致された時からだった。

 あの時、凌に言われて福井に助けを求めにいったナナだったけれど、いざ彼を前にしたらパニックになってしまってうまく言葉が出なかったのだ。

 ボロボロと涙が出て、しゃくりあげて。

 そんなナナの身体に腕を回して、福井は彼女を抱き締めてくれた。

 それまで、彼は頑ななまでにナナに触れようとはしなかったのに。

 男に抱かれたことは、何度もある。けれど、その時の福井の腕の力強さは、他の誰とも違っていた。

 温かくて、硬くて――響にギュッとされた時とは、全然違う。なのに、感じるものはどこかあれと似ていた。

 福井がナナを包み込んでくれていたのは、彼のしっかりとした鼓動を数回聞くほどの間だけだった。でも、そのほんのわずかな間に、ナナは不思議なほどスッと落ち着いてしまったのだ。

 ナナが少し言葉を発しただけで福井はすぐに事情を察してくれて、彼がいくつか指示を出しただけであっという間に人が集まった。

 そうして、すぐに凌の元に向かって――

「でも、あの後会っても、全然、普通なんだよね……」

 ナナは呟く。

 街中で会ったら気さくに声をかけてくるけれど、以前と同様、触れてはこない。

 きっと、福井としては、ただ彼女を落ち着かせたかっただけなのだ。

 きっと、それ以外の意味なんかなかった。

 なのに、あれ以来、彼のことを考えるとナナの胸は妙にざわついてしまう。彼との間の、何かが変わった。

 ――そう思っているのは、ナナの方だけなのだろうけれども。

 制服警官が姿を消して三分ほどもすると、やっぱりやめておけば……という気持ちが次第に大きくなってきた。

「帰っちゃおうっかな……」

 何だか、自分が見当違いな事をしようとしているとしか思えない。

 そして、また三分。

「やっぱ、帰ろう」

 踵を返して、ナナは警察署の玄関に背を向ける。と、まさにその時だった。

「ナナ? どうしたんだ?」

 低い声に、ナナの足が止まる。一つ深呼吸をしてからゆっくり振り向くと、そこには目当ての人物――福井銀次が立っていた。ジッとナナに注いでくる鋭い眼差しは、刑事のものだ。

「何があった?」

 ナナが彼に個人的な用で会いに来るとは、これっぽっちも思っていないようだった。

(まあ、当たり前だよね……)

 少し前までは、福井に声をかけられるたびに素っ気ない態度を取っていたのだから。

「なんにもないよ」

 彼の反応は当然だと判っていつつも、ナナは何となく面白くない。

「これ、あげる」

 ムスッとそう言って、包みを福井に差し出した。

「これは……?」

「チョコレート。ヒビキと作ったの」

「ああ、今日は……」

 拍子抜けしたような声で、福井が呟く。今日がヴァレンタインだということに彼が気付いたことで急に照れくさくなって、ナナはクルリと彼に背中を向けた。

「じゃあね!」

 それだけ残して立ち去ろうとした彼女だったけれど、歩き出す前に手首を掴まれる。

 反射的に振り返ったナナは、福井ともろに目が合ってパッと顔が熱くなった。経験したことのない火照りにドギマギして、とっさに目を泳がせてしまう。

 そんな彼女を見返した彼の目が一瞬大きくなり、そしてわずかに狭められた。

 福井はすぐに手を放してくれたけれども、彼が触れていたところがやけにジンジンと疼く。まだ温もりが残っている手首を、ナナはもう片方の手で包み込んだ。

 何となく、そわそわ、モジモジしてしまう。

 さっきまで一緒にいた、響みたいに。

(うわ、なんか、アタシばかみたい)

 いたたまれない気持ちでうつむくと、つむじの辺りに視線を感じた。

 沈黙の中に、吐く息が白く漂う。

 やがて先に口を開いたのは、福井の方だった。

「……義理チョコってやつかな。でも、ありがとう」

 チラリと目を上げると、彼は嬉しそうな笑みを浮かべていた。その顔に、ナナの胸はキュッと締め付けられて、同時にほんわりと温かくなる。

 ただ、こうやって向かい合って立っているだけでは物足りない。

 ――触れて欲しい……抱き締めて欲しい。

 そんなふうに思って、ナナの背中がうずうずする。

 それは、男とのセックスを望んでいる時とは、何かが違った。

 ナナにとってセックスは、いわば代償だ。アイされる為に、彼女が差し出すモノ。

 彼女が差し出せる、唯一のモノ。

(おっさんは、触ろうともしてくれないけどね)

 胸の中でそう呟いて、ナナは小さく嗤う。

 福井が自分を欲しがってくれればいいのに、とナナは思った。

 切実に。

 自分をアイして欲しいからではなくて、ただ、彼を喜ばせたくて。

 それなのに、どうしたらいいのかがわからない。

 ナナが知ってる男を喜ばせる方法はセックスしかないのに、今、喜ばせたいと思っている唯一の相手は、それを望んでくれないから。

 気付けば、ナナは声に出して呟いていた。

「おっさんは、アタシに触らないよね」

「え?」

「アタシに、全然触ろうとしないじゃない? 触りたく、ない?」

 ハイヒールを履いたナナは、福井と殆ど同じ身長になる。ツンと顔を上げれば、真っ直ぐに目が合った。

 ジッとナナが見つめると、彼は手を握り締めた――ついさっき、彼女に触れた手を。

 そして、言う。

「勘違いして欲しくないからな」

 低い声での彼の言葉に、ズキン、とナナの胸に何かが突き刺さる。

(勘違い……?)

 何故そんなにも痛むのか、わからなかった。

 けれど、痛い。

 ナナは無理やり笑顔を作ってかぶりを振る。

「おっさんがアタシを好きだって? ないない、それはないよ、安心して?」

 軽い口調を装って、そう告げた。

 が、彼女のその台詞は、即座に打ち消される。

「違うよ」

 短く答えた福井の顔に浮かんでいるのは、苦みを含んだ笑みだった。

(なんで、そんな顔するの?)

 ナナは眉をひそめる。

 そんな彼女に、福井は苦みを消し去った、いつも通りの笑顔を向ける――いつも通りだけれども、それはどこか硬くて、作りものめいていた。

「最近は夜遊びしないんだろう? もう遅いから早く帰りなさい。……チョコ、ありがとう」

 そう言って、今度は福井の方が背を向けた。玄関に向かって歩き出そうとした彼の腕を、思わずナナは掴んでしまう。とっさに引き止めてしまったけれど、その後どうするかは何も考えていなかった。

 振り向いた福井が、彼を捉えているナナの手を見つめ、そして目を見つめる。

 彼が何かを言う前に、ナナの口から言葉が突いて出ていた。

「アタシ、おっさん――福井さんに触って欲しい。ねえ、ダメ?」

 彼女の懇願に、福井の手が上がりかける。が、結局それは下ろされて、代わりに穏やかな微笑みが返された。

「もう少し、かな」

「え?」

 包み込むような彼の笑みに胸の中をふわりと温められながら、ナナは首をかしげた。いぶかしげな彼女に、福井が言葉を重ねる。

「人と触れ合う、ということはどういうことなのか、君がもう少し理解したら……」

 力の緩んだナナの手から、福井がそっと腕を引き抜いた。

(――人と触れ合うということが、どういうことなのか……?)

 彼が言おうとしていることが理解できなくて、ナナはもどかしくなる。

 顔をしかめた彼女に、福井は小さく笑って言った。

「さあ、本当に、もう帰りなさい。凌と響ちゃんによろしく言ってくれ」

 彼はひらひらと片手を振って、去って行く。

 その背を見送りながら、ナナは困惑する。

 ナナは、福井に触れられたい。彼の温もりを感じたい。

 それは、今まで数多の男たちに人肌を求めていた気持ちとは、明らかに違う。

(だけど、どう違うんだろう……?)

 何かが、解かりかけている気がする。

 あと少しで、答えに手が届きそうな気がする。

 ナナは両手を見下ろした。

 ついさっき、福井に触れた手のひらを。

「アタシは、何であの人に触って欲しいんだろう……?」

 男とのセックスを求める気持ちは、響と出逢ってから、めっきりなくなった。

 だけど、福井には触れたい――触れて欲しい。ただ、触れるだけでいいから。

 それは、何故なのだろうか。

 歩き出したナナは、これまでの福井との関わりを思い返す。

 最初に声をかけられたのは、十七歳の時。

 彼女を補導した福井は、あの男のことを訊いてきた。母の彼氏であり、今のナナを作った、あの男のことを。

 それから色々と世話を焼いてきて、顔を見れば声をかけてきた。うんざりするほど、しつこく。

 だけど。

 ――何の見返りも求めずナナに何かをしてくれたのは、福井と、そして響だけだった。

 響のことは、好きだ。響を喜ばせたいと思う。その為にできることがあるなら、してあげたいと思う。

 なら、福井のことは……?

 ピタリとナナの足が止まる。

 そして、パッと振り向いた。

 福井が入っていった建物を、見上げる。

 何か温かなものが胸の中に満ちたような心持ちがして、ポツリと呟く。

「そっか……そうなんだ……」

 次いで彼女の顔に浮かんだのは、晴れやかな笑みだった。


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