深みに、嵌まる
一週間、凌はあのコンビニに足を運ばずにいた。
帰る途中の通り道でもそこには寄らず、遠回りしてでも別の店を使った。
どうしてそんな面倒なことをしていたかと言えば、自分のことがよく解からなくなったからだ。
終始、頭の片隅からあの小柄な店員のことが離れない、自分のことが。
何故、こんなに彼女のことが気になるのか。
この間は、彼女が独りで店にいると聞いて、必要もないのにダラダラと時間を潰してしまった。
――彼女が独りで店番をしていようが、そうすることで何が起きようが、自分には何の関係もないではないか。
あの店に足が向きそうになる度、凌は自分にそう言い聞かせた。
だが、どうしても彼女のことが頭の中に浮かんできてしまう。
彼女は小さくて頼りなげで、きっとそれがかつて彼の傍にいた『あの子』を思い出させるのだ。だから、あの子を護らなければと思ったように、彼女のこともそう思ってしまうのだろう。それは錯覚のようなものだ。
きっと、そうだ。彼女の姿を目にしないでいれば、そのうち忘れられる。
そう思っていたのに、見ないでいたらいたで、落ち着かない気分になる。それは日に日に強くなり、今日も虎徹からは「何苛ついてんだ?」と呆れた声で言われたのだ。
「くそ……」
そのコンビニが見えてきて、凌は小さく毒づく。入ろうかどうしようか一瞬迷い、結局、自動ドアを通り抜けた。
店に入り、カウンターに彼女の姿を認め――凌は温もりと和らぎのいつもの感覚が胸を満たすのを感じた。が、次いで、彼女の表情を見て眉をひそめる。
カウンターの中には、あの時のように彼女一人しかいない。その彼女は客の相手をしているのだが、明らかに困惑していた。
凌は二人の遣り取りが聞こえる所まで近寄る。客はどう見ても中学生かそこらくらいの少年だ。
夜中の零時を回ってはいるが、別段珍しいことではない。補導員も、新宿中をカバーできるほどの人数はいないのだ。
「だからぁ、いつもここで買ってんだよ」
「ダメです。お酒もたばこも、未成年者には売れません」
「細けぇこと言ってんなよ。金髪の兄ちゃんは? あの兄ちゃん呼んで来いよ」
「誰でも一緒です。ダメなものはダメなんです」
そう言って、彼女がキッパリと首を振った。
カウンターの上には酒瓶がいくつか。
どうやら、それを売ってくれ、売れない、の押し問答をしているらしい。
気にせず売ってしまえば話が早いだろうに、『藤野』は融通が利かないのだろう。
「ダメってなんだよオレぁ客だぞこらぁ!」
少年の声が大きくなる。店内には他にも客がいるが、全く気にした様子が無い。
規制が厳しくなった昨今、子どもは酒もたばこも買いにくくなった。多分、この店は彼がいわゆる『禁止物』を手に入れることができる数少ない店舗の一つなのだろう――レジにいるのがいつもの『金髪の兄ちゃん』であれば。
「いいからさっさと売れよ!」
恫喝するその声に、『藤野』は顎を上げてきっぱりと繰り返す。
「できません」
その返事に、少年が身を乗り出してカウンター越しに彼女の胸倉を掴もうとする。
凌は咄嗟に足を進め、その手が彼女に届くより先に彼の腕を捉えた。『藤野』と少年が、同時に彼を見る。
彼女は「あ」と口を丸くし、少年は妨害者に向けて罵声を浴びせようと振り返った。
「あんだよ、この――」
凌を見たとたん、少年の威勢は音を立ててしぼんでいく。
「リョウ、さん……」
畏怖の念を含んだ声で、少年が彼の名を口にした。
凌は別に何か目立つ行動をしているわけではない。少なくとも、彼自身はそう思っている。だが、それなりにこの界隈で顔の知られた存在だった。
「何の騒ぎだ?」
「この女が――」
凌は目を細めて、少年を見る。いや、ほんの少し、彼の腕を掴んだ手に力を込めたかもしれない。
とにかく、即座に少年はその口を噤んだ。
「行け」
手を放して顎をしゃくると、彼は顔を歪めて掴まれていた場所をさすりながら数歩後ずさり、凌に向かって小さく頭を下げた。
「失礼します」
そう残し、彼の脇を抜けてあたふたと店を出て行く。去り際に、忌々しげに『藤野』を睨み付けて。
その目付きが気になったが、今できることは何もない。凌は少年が店を出て行くまで見送って、彼女に向き直った。
「ああいうヤツには、おとなしく言われたとおりにしておけよ」
そうしなければ、余計な恨みを買ってしまう。ひ弱な彼女は身を守るすべを持たないのだから、危険は極力避けるべきだ。
だが、親切心でそう忠告した凌を、彼女は不服そうに見上げてきた。
「ゴネ勝ちなんて……そんなの、良くないです」
「ああいうヤツに筋を通そうとしたって通るもんじゃねぇんだよ」
「だからって、誰もダメだと言わなかったら、それでいいんだって思ってしまうでしょう? あの子にとっても、それは良いことじゃありません。ダメなことはダメなんだって、言ってあげないと」
「他のヤツにやらせろよ。あんたがする必要はない」
「気付いた大人がするべきです」
「……オトナ?」
思わずそう呟いてしまった凌を、彼女が睨み付けてくる。
「何ですか?」
「いや、別に」
凌は頭を振ったが、彼女はその裏にあるものを敏感に感じ取ったらしい。ムッと口を尖らせる。
「わたしはもうじき十九になるんですから、充分大人なんです」
それ以上は何も言わない方が良さそうだと判断し、凌は肩を竦めるだけにとどめた。そうして黙って踵を返し、カウンターを離れる。
凌がしたのは、余計な事だったのだろう。
多分、彼が何もしなくても彼女は自分で何とかできたのだ。彼が手を貸す必要はなかった。
むっつりと、凌は自分に言い聞かせる。
(もう、知るか)
彼女のことは頭からスッパリ消し去って、以前の生活に戻ればいいのだ。その方が凌の心は穏やかでいられた。彼女のことさえなければ、心穏やかで――何も感じない彼でいられる。
微かに胸が疼いたが、凌はそれを無視した。苛々と、それとはまた違うモヤモヤした気分を残したまま、機械的に買い物を済ませていく。
ぐるりと回って戻ってきても、レジの前にはまだ彼女しかいなかった。たまたまそういうタイミングに当たっているだけなのかもしれないが、いくらなんでも相方の休憩時間が多すぎではなかろうか。
そんなふうに思ってしまい、また彼女の保護者じみたことを考えているのに気が付き、凌は眉をしかめる。
苛々はだいぶ鳴りを潜めていたが、モヤモヤの方はまだ残したまま、凌は品物をカウンターに置いた。
「いらっしゃいませ」
応じた彼女の声はいつもよりもやや硬く、視線も落としたままだ。しかし、いつものように会計し、いつものように弁当を温めてくれる。
彼女が笑顔を向けてこないことに自分でも予想外なほどのダメージを受けつつレジ袋を受け取り、その場を離れようとした時だった。
「あの!」
振り返ると、彼女はカウンターに両手をついて、身を乗り出すようにして凌を見ていた。微かに目を細めた彼に、『藤野』は一瞬口ごもって目を落とすが、意を決したように再び顔を上げる。
「わたし、藤野響っていいます。さっきはありがとうございました! ホントは、少し怖かったんです」
彼女――響の声は、最初は威勢よく、次第にバツが悪そうに尻すぼみになっていく。けれど、その眼差しは真っ直ぐに彼に向けられていた。
あまりに真っ直ぐすぎて、むしろ、凌の方が目を逸らしそうになる。
「別に……たいしたことじゃない」
ボソリと彼は答える。と、途端、パッと彼女が笑った。それはまさに満面の笑み、というヤツで。
その瞬間、凌はまるで全身を何かに鷲掴みにされたような感覚に襲われる。
――あるいは、突然パックリと足元に開いた深い竪穴に、頭のてっぺんまですっぽりと嵌まり込んだような感覚に。
思考能力は吹き飛び、自分が何を言っているのか自覚しないままに、彼は響に向けて問いを投げかけていた。
「何時から何時なんだ?」
「え?」
怪訝そうに、彼女が首をかしげる。
「仕事、何時から何時何だよ?」
「零時から五時、ですけど……」
「そうか」
頷き、キョトンとしている響を放置して凌は店を後にする。
――彼の頭からは、二度と彼女に関わるまいと心に決めたことなど、きれいさっぱり消え失せていた。