エピローグ
両親の墓前に花を置き、響が立ち上がる。彼女の後ろに立ち、凌はその背中を見つめていた。
あの後病院に運ばれて検査を受けたら、結局、頬骨とアバラ四本にひびが入り、左手の指が三本と左の前腕の骨が二本とも完全に折れていることが判明した。
頭を打っているからということで一泊入院となったのだが、駆け付けた市川には脳天を拳骨で殴られた。彼のその拳はガツンと脳に響き――初めて、凌は殴られて痛いと感じたのだ。
あれから一週間が経って仕事にも復帰したが、片腕が使えないのだからということで、工場では事務仕事を押し付けられている。目下、パソコンの扱いを叩き込まれている真っ最中だ。
テレビのリモコンすら最後に触ったのは何年前だろう、という生活をしている凌にとってはかなりハードルの高い仕打ちだった。
あるいは、もしかしたら、これも『罰』なのかもしれないと、凌は思っている。未だに市川からは、事あるごとに独りで危険なことに突っ込んでいったとチクチクやられているのだから。
――そんな他者との関係が、今の彼にはこそばくそして心地良い。
人の出会いとは不思議なものだと、凌は響と共に墓を見つめながらつくづく思う。
脚立の上から落ちてきた少女を受け止めた、ただそれだけで、凌の全てはガラリと変わってしまったのだから。
「わたし、お父さんのことが大好きでした」
目を閉じ、手を合わせていた響が、不意に、呟くようにそう言った。肩越しに振り返った笑顔は、少し寂しげだ。
響のどんな表情も凌は好きだったが、そういう顔は、目にすると胸が苦しくなる。
抱き締めてやったら、その寂しさを拭えるのだろうか。
そう思って凌の腕が疼いたが、彼は自分を押しとどめる。
響が全てを思い出してから、彼女が過去のことに触れるのは初めてのことだった。全てを語り終えるまでは、きっと響は彼の手を望まないだろう。
凌は黙って響が次の言葉を紡ぐのを待つ。
彼女はまた父と母が眠る場所へと目を戻し、絞るように両手を握り締めた。
しばらく沈黙が続き、さや、と吹いた風が彼女の髪を揺らす。それが背中を押したかのように、響が再び口を開いた。
「わたし、お父さんのことが大好きだったんです。だから、お母さんが亡くなってからお父さんが『わたし』を見なくなっていくのが悲しかった」
か細い声は、今にも消え入りそうだ。全てを吐露する為に、懸命に自分を奮い立たせているのが伝わってくる。
話したくないなら、話さなければいい。
いつものように、凌はそう言いそうになる。
けれど、きっと、全てを吐き出すことが彼女には必要なのだろう。
響は微かに肩を震わせながら、続ける。ポツリ、ポツリと、飛び石を確かめながら踏むように。
「お祖父さんとお祖母さんは、わたしをお母さんにしたかった。突然大事な娘を喪ってしまった悲しみをごまかすために。だって、急に姿を消してしまった大事なひとがそのまま死んでしまったら、そんなの受け入れられる筈がないでしょう?」
一息に響はそう言って、そして小さな苦笑を漏らした。
「今なら、そう理解できるんです。……あの頃も理解できていたら、良かったのに。けど、その頃のわたしは戸惑いました。二人が無意識のうちにしていることは、わたしを否定することだったから。あのひとたちに否定されて――多分、段々、わたし自身もそう思うようになったんです……わたしが『奏』なら良かったのにって。きっと、それが小さな始まり。その頃のわたしはまだちゃんと『響』だったけれど、どこか……罪悪感みたいなものが付きまとってました」
「響」
名を呼び続けようとした凌を、響は先回りして封じる。
「二人を責めないで。もう、過去のことなんです。過去のことは変えられないんですから」
「お前はそれでいいのか」
「あのひとたちに会わずにいたら、責めていたかもしれない。だけど、会ってしまったら、無理です。だって、わたしが大好きなお母さんのことを同じように大好きなだけだったんだって、判ってしまったんですもの」
響が振り返り、手を伸ばしてくる。凌はそれを取り、握り締めた。
「こう思えるようになったのは、否定されたわたしをもう一度拾い上げてくれたひとがいるからです。凪さん――そして、リョウさん。凪さんがわたしを『響』に戻してくれて、リョウさんがわたしに過去を見つける強さをくれました」
ふわりと花がほころぶように笑った響に、凌はかぶりを振る。
「お前は、元々強い」
「ううん、昔のわたしは弱かった――だから、逃げたんです」
「逃げた?」
響には似つかわしくない言葉に、凌は眉をひそめる。
出逢ってからの彼女は、常に前に進もうとしていたからだ。打ちのめされそうになっても、結局自分で立ち上がり、進む道を見つけたではないか。
――そんな響が、『逃げた』?
凌のそんな疑問には気付いていない様子で、響はまた墓に目を戻して続ける。
「お父さんが迎えに来てくれた時、わたしはすごく嬉しかったんです。お祖父さんたちと暮らすのは何だかつらかったし、何より単純にお父さんが大好きだったから。だけど、わたしと暮らし始めて、お父さんはどんどん変わっていってしまって。何かわたしにいけないところがあるんじゃないかって、そう思えてしまって。わたしは、お父さんの負担にならないようにって、必死になって頑張りました」
「お前は、今でもそうだ」
ボソリとこぼした凌に、響が顔をうつむける。
「わたしは、多分、怖いんです」
「怖い?」
彼女のその囁きを、凌は繰り返した。
響は、小さな子どもがするように、こくりとうなずく。
「はい――わたしがちゃんとしないと、悪いことが起きるような気がして」
「そんな馬鹿な」
即座に返した凌に、響は笑った。微かな自嘲を含んで。
「ですよね。でも、あの時――お父さんがわたしの上で死んでいこうとした、あの時、わたしがちゃんとお母さんになれていたら、もしかしたらお父さんは死ななかったんじゃないかって、思ってしまったんです」
「だが、お前はお前だ。それは変えられない」
凌はキッパリと言い切る。自分以外の誰かになるなど、彼は想像したこともなかった。そんなふうに考えてしまった響の気持ちが全く理解できない
「わたしも、あの時まではそう思っていました。そして、多分、お父さんもそう思ってた。だから、わたしを『助ける』為に、死ぬことを選んだんです。お母さんのことを求めすぎてしまって、無意識のうちに『響』であるわたしを否定してしまう自分を、止められなかったから」
早口に、そう言い切った響の手が、ギュッと握り締められた。
そして、緩む。
「……でも、そんなの、ズルいですよね」
そう言って微笑んだ響に、どんな言葉をかければいいというのだろう。
凌はそれを見つけられず、代わりに彼女の手を握る手に力を込める。彼の気遣いが伝わったのか、響はホッと小さく息をついた。わずかにその肩が下がる。
「お父さんの血がどんどん流れ出していこうとしている時、わたしは悲しくて……そして同時に怒っていました。お父さんが死のうとしているのに、わたしは怒っていたんです。お父さんはお母さんが死んでしまったことに囚われて、生きているわたしを見ようとしてくれなかった。お母さんが死んでしまった過去だけしか見えていなくて、わたしと生きる未来を選んでくれなかったから」
「それは怒ってもいい事だろう? お前を……捨てたようなものだ。普通は怒る」
凌と響との間に子どもがいれば、もしも、万が一響が死んでしまったとしても自分は子どもを護るだろう。響が喪われたなら、彼女の分まで想いを注ぐ。決して投げ出したりはしない。
「お前が父親に腹を立てたのは、当然の事だ」
凌の言葉に、響の手に力がこもった。
「だけど、お父さんは、最期の最期に、わたしに謝ったんです。『すまない』って。その瞬間、お父さんに対して怒っていることが、すごく悪いことに思えたんです。お父さんはわたしのことを想ってくれていた。それなのに、わたしはお父さんに腹を立てて」
響は一瞬言葉を詰まらせた。そうして、苦い塊を飲み込むようにフルリと身体を震わせ、続ける。
「冷たくて重いお父さんの下で、その重さと冷たさを感じているうちに、全部わたしのせいなんだって思えてきて……わたしが生まれたからお母さんはお父さんと家を出て、だから事故に遭うことになって、わたしがお母さんに――『奏』になれなかったからお祖父さんとお祖母さんはわたしを愛せなくって、お父さんもおかしくなっちゃったんだって」
「それは違うだろう!」
思わず声を荒らげてしまった凌に、響がパッと顔を上げた。そして、彼に劣らぬ勢いで、返す。
「解かってます! だけど、あの時はそう思ってしまった。だから、わたしは『響』であることから逃げて、『奏』になったんです。『響』はいらない、『響』がみんなを不幸にするからって!」
彼女の小さな拳は、指の節が白くなるほどにきつく握り締められている。
凌は、響を抱き締めたかった。
抱き締めて、俺にはお前が必要だ、と、言葉でも身体でも伝えたくてたまらなかった。
けれど、想いが溢れ過ぎた凌は動けない。
そんな彼の前で、響はうつむき、続ける。
「わたしが『奏』になったのは、お祖父さんたちのせいじゃない。お父さんのせいでもない。わたし自身のせいです。わたしがわたしを否定した……わたしは、『自分』であることから逃げたんです」
凌は、もう己を抑えられなかった。握った手を振りほどき、響の背中に腕を回して引き寄せる。両手で、彼の全てで、彼女を包み込みたいのに、片腕しか使えないのがもどかしかった。
「俺は、お前がお前で良かった。『響』であるお前が好きだ。他のお前はいらない」
自分の声をどれほど彼女に染み透らせることができるのか、凌には判らない。だが、言わずにはいられなかった。凌にとって、響は響でしか有り得ない。彼女の母親がどんなに素晴らしい人物だったとしても、凌は今自分の腕の中にいる響が良かった。
凌の腕の中で響は一瞬逡巡し、そうして彼の身体に腕を回してくる。そのためらいがちな儚い力が、自分でも途方に暮れるほど愛おしい。
抱き締める彼の胸に頬を摺り寄せ、響が囁くような細い声で言う。
「今なら、判ります。お父さんは弱い人だった。そして、孤独で。……リョウさんは違いますよね? もしもわたしがいなくなっても、リョウさんは壊れたりしない。リョウさんは弱くないし、助けてくれる人もいる」
腕の中の響は震えている。
凌は、彼女の望む返事はどんなものだろうと考えて、やめた。おもねりは見破られるだろう。彼の中にある、彼自身の言葉を告げなければ。
「……そうだな。俺には以前にはなかったつながりができた。社長もそうだし、福井さんもだ。それに母さんや千穂ともまた会った。お前のお陰だ。お前は俺を強いと言うが、それもお前という存在の為だ。以前の俺は、いつ死んでも別に構わなかった。だが、今は死ぬのが怖い。多分、お前と会う前は生きるということに何も感じていなかったんだ――生きるのも死ぬのもどうでもいいほどに。前の俺は中身のない人間だった。今の俺には、様々なことが感じられる」
凌は腕にさらに力を込める。
「お前が、俺の中を満たしてくれたんだ」
凌がいなければ今の響がいないと言うならば、凌こそ、響がいなければ今の彼はいなかっただろう。
「もしも……もしもお前が明日いなくなったとしても、俺はやっぱり生きていく。多分、死んだ方がマシだと思うくらい辛いだろう。だが、俺は、お前が作ってくれた俺を投げ出したくはない。この俺はお前に創られたようなものだから、俺はお前の一部のようなものなんだ。だから、絶対に投げ出したりはしない」
「……それは……何だか……言い過ぎです」
響は凌の胸元に顔を埋めたまま、そう言った。サラサラした髪から覗く小さな耳は真っ赤だ。それを見ているとどんな顔をしているのかも確かめてみたいという衝動に駆られる。
凌は腕を解いて彼女の頬に手を添えた。
熱い。
少し力を入れて顔を上げさせようとしても、いつものようにはいかなかった。
「響?」
「ちょっと、今は……あと三分、待ってください」
仕方がないので、凌はもう一度彼女の頭に手を置いて、自分の胸元へ引き寄せた。そのままゆっくりと数を数え始める。
「……三分、経ったぞ」
「え、その、あと一分――」
「待てない」
響の悪あがきを一言で却下して、凌は身構える隙を与えず彼女の顎に手をかけてヒョイと持ち上げる。まだ赤みの残る顔のまま、意表を突かれてキョトンと見上げてくる響に、彼はただ見るだけでは物足りなくなった。頭を下げ、触れるだけのキスをそっと落とす。
一拍遅れ、引きかけていた響の頬の紅潮が見る見るうちに戻ってきた。
「リョウさん、ここ、お墓……」
真っ赤な顔で目を泳がせる響に凌の中には堪えようのない愛おしさが込み上げてくる。
もっと、もっともっと彼女が欲しい。
彼女の一分一秒も、髪の一筋も、全部。
狂おしいほどのその想いにめまいを覚えるほどで、響の華奢な身体を渾身の力で抱きすくめたくなる。
そんな自分をグッと律して抱き締め直すだけにとどめておくのは至難の業だった。
凌は顎を彼女の頭にのせて、可能な限り触れている場所を増やす。
しばらく響は身じろぎひとつせずにいたけれど、やがておずおずと彼の背に手を伸ばしてきた。
凌にピタリと寄り添った響は、彼の胸元でくぐもった声を漏らす。
「あの時、わたしを受け止めてくれたのがリョウさんで、良かった。リョウさんに会えたから、わたしは本当のわたしを取り戻せたんです」
彼女の言う『あの時』がいつの事か、凌にはすぐに判った。彼の方こそ、日々強くそう思っているのだから。
「俺もだ」
短く答え、凌は響の艶やかな髪に頬を寄せる。
彼女の匂い、彼女の温もり、彼女の柔らかさ、彼女の甘い声。
それらを知らなかった自分には、もう戻れない――戻りたくもない。
響の中の不安の種は、全て回収できたわけではないだろう。何年もかけて培われてきたものが、たった数ヶ月で霧消する筈がない。
いつかまた、彼女はつまずきうずくまることがあるかもしれない。
その時は、凌も立ち止まり、傍でしゃがんで待つのだ。そうして、彼女がまた歩き出す時に隣にいるのが自分でありたい。
こんなふうに想える相手に出会えたのは、とても幸運なことだ。
しみじみと、凌はそう思う。
ひとはみな、きっと何かを探しながら、求めながら生きている。
それは本当の自分であったり、大事に想う相手であったり、あるいはまた他の何かであったりするのだろう。
求めるものは人それぞれで、そして、必ずしもそれらを手に入れられるとは限らない。もしかしたら、自分が求めているものが何なのかということすら自覚できずにいるかも知れない。
だから、もしも自分が求めるものが何かを知ることができ、それを手に入れることができた時には、決して手放してはいけないのだ。
――そう、決して。
それは、ほとんど奇跡のようなことなのだから。
凌は彼が手に入れることができた得難い宝物を抱き締め、そうすることができる喜びを噛み締めた。




