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君がいる奇跡  作者: トウリン
探し、求めた、その先に

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64/74

過去への扉

(――全然、見覚えがない)

 閑静な住宅街を歩きながら、(ひびき)は胸の中で呟いた。

 凪に教えてもらった祖父母宅の住所はもう間近だから、この辺り一帯くらいは歩き回っていた筈だ。

 確かに響が祖父母の家から離れて十年以上経ってしまっているけれど、どの家もしっかりとした造りでそこそこの年代を感じさせるものばかり。きっと、十年や二十年では、それほど情景に変化は無いに違いない。


 響きは時折立ち止まって、何か記憶を掻き立てるようなものがないかと垣根や路地、家々の庭木を覗き込んでみる。けれど、彼女の胸には何も込み上げてこない。

 幼い頃に住んでいた場所を目にしたら、一気に記憶がよみがえるかも。

 微かに抱いていたそんな期待は、空振りに終わってしまったようだ。


「住所でいったら、この辺なんだけどな……」

 呟いて、響は電信柱に書かれた番地を手元のメモと照らし合わせた。後は最後の一桁が合えばいい所まで来ている。

 一軒一軒の表札を確かめながら進んでいた響は、視界に飛び込んできたその名前に足を止めた。


 遠山。


 それは(なぎ)と同じ苗字だ。


 念の為にもう少し進んで他にその名を刻んだ表札がないことを確認して、響はまたその家に戻ってくる。

 祖父母に、響が今日訪問することは連絡していない。

 凪から祖父は定年退職していることを聞いていたから、突然の訪問でも大丈夫だと思ったからだ。

 インターホンに伸ばしかけた手が、ふと止まる。腰ほどの高さまで上がり、そこから、響はピクリとも動けなくなった。


 中に、祖父と祖母がいる――それを実感した途端、彼女の頭の中が真っ白になる。


 二人に会うと覚悟を決めた筈なのに、頭に反して身体はそれを拒んでいるようだった。

 もしかしたら、予告しておかなければ二人は留守で、会わずに帰ることになる――そんなふうに思っていたのかもしれない。家を出た時には何が何でも会うのだと思っていた筈だけれど、今、こうやって直面するとその覚悟が本物だったのか、自分でも判らなくなってきてしまった。


(やっぱり、怖い)

 けれど、帰るわけにはいかない。

 絶対に、決着をつけなければ。

 自分を鼓舞しても、響の手はそれ以上動かなかった。まるで全身にずしりとした鎖が何重にも絡み付いているような気がする。


(ここに来たのは、何の為?)

 深呼吸をして、心の中で自らに問いかける。


 それは、前に進む為。

 だから、ここで凍り付いているわけにはいかない。


 響は更に何度か深呼吸を繰り返して自分に活を入れる。

 自分を叱咤して、もう一度ボタンに手を伸ばした。

 扉の向こうで響く、電子音。


 続いて。


「はい?」

 間近のインターホンから聞こえてきたのは、優しそうな女性の声。

 色々前置きの言葉も考えていたのに、その瞬間、響の頭の中からは全て吹き飛んでしまった。


「あの、響、です」

 思わず咳き込むようにそう言ってしまったけれど、もう遅い。案の定、インターホンからは訝しむ声が返ってくる。


「……え?」

「藤野響、です」


 沈黙。

 ――もしかして、違うお宅だったのかも。


 無言のインターホンに、そんな不安が胸にこみ上げてきた。


 が。


 唐突にガチャリと勢いよく開かれた扉。その開け方は、中から姿を現した人物にはそぐわない荒っぽさだった。

「響……? 本当に……?」

 その声、その姿に、一瞬、響の頭の芯が疼く。

(お祖母さん、だ)

 一目見た瞬間、むくりと胸の底から記憶が立ち上がった。忘れていたのがウソのようで、はっきりとそれが間違いではないことを確信する。


 目元に涙をにじませた女性は、六十路半ばか後半かというところだろうか。記憶の中の彼女よりは、ずいぶんと年を重ねている。銀色になった髪をきれいにシニヨンに結って、とても上品で優しそうで――そしてどことなく、響に似ている。

 温かそうな老婦人だというのに、彼女を前にして、何故か響の全身は氷水をかけられたように竦んでしまう。


 無意識のうちに両手を握り締めていた響に、彼女の呟きが届いた。

「まあ、まあ……本当に……あの子にそっくりになって……」

 よくある台詞に、響の背筋にゾクリと悪寒が走った。

 ――今からでも回れ右して帰ってしまいたい。

 ただ黙って立っているだけではその欲求に負けてしまいそうで、響は目的もなく口を開く。


「あの、わたし――」

 言葉もない、という風情で響を見つめていた祖母が、その声にハッと我を取り戻した。

「あ、ごめんなさいね、入って。あなたのお祖父さんもいるのよ」

 身元の確認もろくにせずに、祖母は響を招き入れる。

「おじゃまします……」

 今更逃げるわけにもいかない。

 強張った身体でぎくしゃくと玄関の中に足を踏み入れた響は、そこにもう一人の姿を認めた。祖母よりも十近くは年上だろう男性は背筋をまっすぐに伸ばし、響を見下ろしている。


 ――彼は、凪とよく似ていた。


 祖母と同じように、見た瞬間、響にはそれが祖父だと判った。

 思わず、響はヒュッと息を呑む。頭の疼きはもう拍動する明らかな痛みになっていて、それはまるで頭の中から何かが跳び出そうとしているかのようだった。


「響、上がって?」

 立ち竦む彼女に、祖母はスリッパを揃えて差し出しながら、おずおずと声をかけてくる。

「あ……はい……」

 辛うじてそう答えて、響はスリッパに足を入れる。一歩を踏み出そうとしたけれど、それはまるで鉛が仕込まれているかのように、重く感じられた。


 のろのろと廊下を進む響の脳裏には、ポッポッと、幻のように様々な絵が閃いては消えていく。

 虎徹(こてつ)が寄越したものに目を通してから、響の記憶を封じた網は綻び始めていた。この家に足を踏み入れた瞬間から、それが加速している。

 この場が『今』なのか『過去』なのか、頭の中ではどちらもが入り乱れて、響は眩暈を覚える。

 祖父も祖母も、十五年前もその声で響の名を呼んだ。『響』そして、時折――『(かなで)』と。


(そう、『奏』って……)

 今まさにその声が鼓膜の中によみがえって、響はギュッと目を閉じた。

 二人とも、故意にそうしたわけではないはずだ。多分、つい、間違えてしまっただけ。けれど、そうされるたび、響は自分が縮んでいくような気持ちがしたことを、思い出す。


「響?」

 襲ってくる過去に気を取られて立ちすくんでいた響に、振り返った祖母が声をかけてきた。

「あ、はい」

「先に、あなたの部屋に行く? あなたがあの人に連れて行か――」

 彼女は言いかけ、ハッと口を閉じる。そして響を窺うように見て、続けた。

「あなたがお父さんと出て行ってから、ずっとそのままにしているのよ」

 響は一瞬ためらい、頷きを返す。

「はい、見たいです」

 祖母は薄く微笑んで、二階へと続く階段へと響を導いた。数段あけてついてくる祖父の足音を耳に感じつつ、彼女は祖母に続く。


 何の変哲もない、普通の階段。

 それを一段上がるたび、響は幼い頃に戻っていく。

 上がりきったところで、祖母は立ち止った。そうしてわきによける。

 祖父母の視線を背中に感じながら響はそのまま廊下を進み、一枚のドアの前で立ち止まった。そこが目的の部屋だということは、案内が無くても判った。


 一呼吸おいてから、響はノブに手をかける。

 それを押し開いて見えてきた中の光景に、響は思わず目を見開いた。そして、一瞬、部屋の真ん中に佇む幼い少女の姿が見えたような気がして、咄嗟にギュッと目を閉じる。


 そのまま大きく深呼吸をして、響は恐る恐る目蓋を上げた。


(――この部屋を、覚えてる)

 この部屋はかつて響のもので、そしてその前は母の奏のものだった。

 この家で、響は奏のものだった部屋に住み、奏のものだった物を使い、奏のものだった服を着て、奏と同じ習い事をしていた。


 この家に住んでいた頃、響の全ては奏の足跡を正確に辿らされていたのだ。

 この家の中で晋司の存在は徹底的に無視され、響は奏の娘ではあったかもしれないけれど、晋司の子どもとしての響はいなかった。

 さっき少女が見えた場所に立って、響はぼんやりと部屋の中を見回す。そうして、タガが弾け飛んだように次から次へと溢れてくる記憶の数々を、さながら映画を観ているかのように受け止める。


 この家の中で、この部屋がどこよりも濃厚な記憶を残していた。


 あの頃、祖父母か彼女のことを『奏』と呼ぶたびに、『奏』と同じ道を辿らされるたびに、自分が『響』なのか『奏』なのかあやふやになっていった。

 そうなることで母の存在が消えてしまうような気がして、怖かった。

 いっそ、自分が消えてしまう方がいい。

 そう思いながら、ベッドの上にうずくまり、毎日毎日、父が迎えに来てくれることを祈っていた。

 父と母、二人が笑っていた頃を思い返しながら。

 良く笑う母がいた頃、父は穏やかで傍にいると何も怖いことはないと思わせてくれた。

 けれど、母を喪い、父の視線は時折宙をさまようようになって。


 今思えば、彼と引き離されたのは当然の成り行きだったのかもしれない。

 だからと言って、ここに連れてこられた響が安寧を手に入れられたわけではなった。


 孤独。

 失望。

 自分の存在が揺らぐ恐怖。


 それらを吸収する度に――いいや、彼女の中に押し込められていた記憶の数々を解放するにつれ、響の頭痛は治まっていく。


「響?」

 立ち竦んでいた響の背中に、そっと声がかけられた。彼女は最後にもう一度部屋の中をグルリと見渡し、小さく息をついた。

 ここで過ごした日々のことを思い出したのに、響には、何となく、それが他人事のように感じられる。その日々でどんなことを考え、どんなことを感じていたのかはさっぱりよみがえってこなくて、ここで生活していたという実感は得られなかった。

 記憶が戻れば、自分の中の何かがもっと大きく変わる筈だと思っていた。それなのに、全然何も変わらない。


 もう一度ため息をついて、響は祖母に向き直った。

「下でお茶でもいかが?」

 目が合うと、おずおずと、ためらいがちに祖母が問いかけてきた。響はそれにニッコリと笑って頷きを返す。何の問題もない笑みになっていればいいなと思いながら。

「いただきます」

 連れだって階下に行くと、響は居間に招かれた。彼女をソファに座らせておいて、祖母は一度出て行く。多分、言葉の通りにお茶を淹れに行ったのだろう。少し遅れて祖父が入ってきて、響の前に腰を下ろした。


 響はうつむき加減で目だけを上げて祖父を見る。彼は伏し目がちに響から目を逸らしていて、彼女の訪問をどんなふうに感じているのかを窺い知ることはできなかった。


(――何だか、小さく感じる)

 響は、ふとそんなふうに思った。

 昔の祖父は、もっと高圧的で怖いくらいの迫力を持っていた。今は、その『強さ』が影をひそめている。


「あの……お元気でしたか?」

 場つなぎにそう声をかけると、彼はハッと顔を上げた。

「あ、ああ、年は取ったが健康だ」

 祖父の台詞に響は彼の正確な年齢を思い出そうとしたのに、できなかった。確か七十をいくつか過ぎていたと思うのだけれど。


「お前は?」

「え?」

 ボソリと訊かれて、響は何のことかとキョトンと彼を見返す。


「お前は元気でいたのか?」

 硬い表情のままの祖父の台詞が単なるお愛想なのか本心から彼女の身を気遣ってのことなのか、響には判断が付かなかった。


「元気、でした。凪さんが――伯母さんが、ずっと一緒にいてくれたんです」

「……そうか」

 また、会話が途切れる。

(昔、この人とこんなふうに向き合った時は、どんなふうに感じていたっけ)

 響の頭の中に、ここで過ごしていた頃のことはずいぶんよみがえっていた。けれど、まだところどころ油性ペンで黒く塗り潰されているように、欠けている。


(――わたしはこの人を好きだった? 嫌っていた? 怖かった? 恨んでた?)

 初めて祖父母と顔を合わせたのは、この居間だった。そして、父親から引き離され、見知らぬ大人――多分役所の人間――に連れられ、この家に引き取られた時も。

 その光景は思い出したのに、その時自分がどんな気持ちだったのかは、出てこない。

 響はうつむいて、ジッとテーブルの一点を見つめた。

 何だか、モヤモヤする。

 どちらも黙りこくって気詰まりな空気が流れるリビングに、お盆にカップとティーポット、それにお茶請けを載せた祖母が戻ってきた。

 祖母はお茶請けを真ん中に置き、紅茶を注ぎ、それぞれに配る。その動きは一つ一つ何かを確認しているかのようにゆっくりで、まるで時間稼ぎをしているようにも感じられた。


 やがてテーブルの上の準備はすっかり整い、祖母も背筋を伸ばして祖父の隣に腰を下ろす。

 三人のうち、誰も口を開かず、しばらくの間、みんな揃ってテーブルの上に視線を注いでいた。


 口火を切ったのは祖母で、小さく咳払いをした後、口元を引きつらせるような笑みを浮かべながら響に問い掛けてくる。

「それで、今はどうしているの? 凪の家は出たって、人づてに耳にしたけれど……独り暮らしをしているの?」

「はい、今はバイト三昧で、お金を貯めておいて来年度から専門学校に通おうと思ってるんです」

「まあ……そんなの、私達が出してあげるのに」

 パッと顔を輝かせてそう言った祖母に、響は首を振る。

「いいえ、自分の力でやりたいので、お気持ちだけ受け取っておきます」

 目の前の二人が祖父母だということは思い出しても、肉親だという実感は湧いてこないのだ。まるで、赤の他人にお金を無心しているような気になってしまう。

 けれど、響の他人行儀な物言いが突き放したように感じられたのか、祖母は肩を縮め、祖父もグッと奥歯を噛み締めた。


「あ、いえ、凪さ――伯母さんもお金を出してくれるって言ってくれたんですけど、同じように断ったんです」

 響が慌てて両手を振ってそう言うと、二人の身体からは少し力が抜けたようだったけれど、それでもまだ、ぎこちない雰囲気が残ってしまう。


 何か言ってあげないと。

 そう思っても、響には取り掛かりが見つからなかった。


 落ち着きなく身じろぎをした響の前で、祖母が膝の上の両手をキュッと握り締める。と、不意に顔を上げて、響を真っ直ぐに見つめてきた。

「私達を赦して欲しいとは言わないわ。でも、あなたに何かできることがあるなら、してあげたいのよ」

「赦すって……」

「私達がいけなかったのよ。この十年であなた達のことを何度も振り返って、それはもうよく解かっているの。奏と――晋司さんのことはもうどうにもできないから、せめてあなたには何かしてあげたくて……」

「ちょっと待ってください、わたしはお祖母さんたちを責める気持ちなんてないです」

 そんな感情は、全然湧き上ってこない。好きでも嫌いでもないし、慕っても恨んでもいなかった。


「わたしは、ただ、お母さんとお父さんのことを思い出したいんです。ここに来て、ずいぶんいろんなことを思い出せました。それだけで、充分です」

「でも――」

 響の台詞に、祖母が顔を歪ませる。その隣で祖父も苦しげな色をその強張った口元に浮かべていた。


「悪かった」

 ポツリと、祖父の口から一言零れ落ちる。


「え?」

 眉をひそめた響の前で、堰を切ったように祖父が話し出す。


「儂らは奏を手放したくなかったんだ。あの子が『自分達の子ども』というだけではなくなるということを、受け入れられなかった。あの子はもうちゃんと自分自身で考えて結論を出していたというのに、儂らはそれを認めなかった。まだまだこの手の内にとどまっていてくれる子どもでいて欲しかった……実際、まだ十五だったんだ。十五年しか、一緒にいられなかったんだ」

 喉の奥から絞り出すような祖父の声が、祖母がこらえきれずに漏らした嗚咽が、響に突き刺さる。

 奏が、母がこの家を出たのは、自分が彼女の胎内に宿ったからだ。響が選んだことではないけれど、それでも、この目の前に打ちひしがれた老人二人が大事な娘を喪ったのは、響のせいなのだ。


「ごめんなさい……」

 込み上げてくる罪悪感に、身体がすり潰されてしまいそうに軋む。それは、今生まれた感情ではなかった。ずっと昔に心の奥底に封じ込めたものだった。

 それが、首をもたげてきただけだ。

 が、顔を伏せた響のその謝罪の言葉に、祖父が大きな声を上げる。


「お前が謝ることじゃない! 違う、お前は何一つ悪くないんだ。儂らが弱かった、それだけなんだ」

 また、彼の声が低くなる。ぐったりとソファの背にもたれた祖父は、一気に十歳もに十歳も年を取ってしまったように見えた。

「お前が見つかって、『響』ではなくなってしまったと聞かされた時……儂らの所為だと思った。晋司君からお前を引き離してここに引き取った時、儂らはお前を奏の代わりにしてしまったんだ。喪ってしまった奏の代わりにして、お前自身を見ていなかった。儂らの目には、お前が奏に見えていたんだ」


 彼は深く息をつく。


「儂らはお前に『奏』であることを押し付けた。お前があの頃『響』でなくなってしまったのは、きっとその所為なんだ」

 苦い、声。

 それを耳の中に入れながら、響はぼんやりと、その時の自分はそのことをどんなふうに受け止めていたのだろうと思った。


 祖父からの告白もどこか他人事で、怒りも悲しみも感じない。

 だから、響は微笑んだ。


「いいんです。気にしていませんから。十五っていったら、まだ高校生ですよね。そんな早くにお母さんを失ってしまったんですもの、当たり前です」

「しかし……」

「ホントに、もう気にしないでください」

 もっと適切な言葉で、二人の罪悪感を和らげてあげられたらいいのにと思う。けれど、響の頭は疲れ切っていて、それ以上彼らと言葉を交わすことはできそうになかった。

「わたし、今、幸せなんです。だから、昔のことで後戻りしたくないんです」

 そう言って、チラリと――けれどこれ見よがしに、時計に目を走らせる。

「わたし、そろそろ帰らないと……」

「また、来てくれる?」

 ためらいがちに祖母がそう訊いてくるのへ、響は頷いた。その声が、ちゃんと本心からのものに聞こえればいいなと思いつつ。

「はい、また来させてください」

 立ち上がった響についてくる二人を見ることをせず、彼女は玄関に向かう。靴を履いて、扉のノブに手をかけたところで、振り向いた。


「じゃあ、さようなら」

「またね」

 祖母のすがるような眼差しに曖昧に微笑み返して、響は外に出る。そうすることを拒む彼女の空気を悟ったのか、二人は外まで見送りに来ることはなかった。

 カチャリと、ドアが閉まる音が響の耳に届く。その瞬間、ドッと身体の重みが増したような気がした。


 数歩進んで門扉を出て、幼い頃に数ヶ月間だけ過ごした家を見上げる。

 通りにも、家の形にも見覚えがなかったのは、当然だ。

 その数ヶ月間の殆どを、響は家の中だけで過ごしていたのだから。

 車でここに連れてこられ、すぐに家の中に入れられた。それからこっそりと忍び込んできた父に連れ出された時まで、この門をくぐった覚えがない。


 指の先まで疲労が染み込んだ身体を何とか動かし、響は歩き出す。

 遠山の家を出た途端に飽和状態だった頭の中がパンクしてしまったのか、それからどうやってアパートまで帰ってきたのか、響は覚えていなかった。

 何も考えずに、ただただ、足を動かして。

 大事なひとのその声を耳にするまで、彼女の中からは何かが抜け出してしまっていたかのようだった。


「響?」


 外階段を上りきったところで、低いけれども心によく通る声が彼女の名前を呼ぶ。

 響はハッと顔を上げ、その姿を目にした途端、走り出していた。殆どタックルする勢いで、大きな身体にしがみ付く。

 硬い胸に顔を押し付けたまま何も言わない彼女を、彼は――凌は黙って受け止めてくれた。響の身体は彼の腕の中にすっぽりと包まれる。頬に感じるその温もり、硬い胸から響いてくるその鼓動に、彼女はようやく「帰ってきた」と実感できた。


 彼の胸に渾身の力ですがり付きながら、くぐもった声で彼女は言う。

「思い出しました」

「そうか」

「お祖父さんとお祖母さん、いい人で……苦しんでました」

「そうか」

「でも、わたし、二人に何も言ってあげられませんでした」

「そうか」

 繰り返される彼の短い一言は、慰めでも何でもない。けれども、響の心は、同じ口調で同じように返されるその一言に和らいでいく。


 凌の胸にしがみついたまま顔だけをのけ反らせて、響は彼を見上げた。

「わたし、お父さんの顔もお母さんの顔も、声も、何をしてくれたかも、全部思い出したんです。思い出したのに、まだ何かが足りません」

 まるで、パズルのピースが欠けているように。多分、それが埋まらないと本当の自分は取り戻せない。

 けれど、記憶が戻ってもダメなのに、後は何をすればいいというのだろう。

 きつく噛み締められた響の唇に、そっと凌の指先が触れる――絡まった糸のもつれを解くように。


「それもまた探していくんだろう?」

 当然のことのように凌にそう言われ、響は大きく瞬きをした。彼の眼差しは穏やかで揺らぎなく、たとえ彼女が不安の海に溺れそうになっても、しっかりと引き上げ受け止めてくれると信じさせてくれる。


「はい、そうですね。絶対に見つけます」

 きっぱりと言い切った彼女に、凌の口元が緩んだ。

 声のない静かな笑みが、どんな言葉よりも確かに、響を励ましてくれる。


 ――リョウさんがいれば、わたしは何でもできる。


 きっと、全部取り戻せる。

 最後まで、やり遂げられる。


 響はもう一度彼の胸に頬を埋め、彼の身体に回した腕に力を込めた。


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