過去への一歩
「本当に、会いに行きたいの?」
遠山家のリビングで、凪は手元のコーヒーカップに目を落としながらそう言った。響がここに来て彼女の望みを口にしてから、同じ台詞は三度目になる。
昨日の晩、凌が帰るとすぐに響は凪と連絡を取った。日にちを置いたらまた決心が鈍ってしまうかもしれないと思ったからだ。
ここに来たのは、仕事を早引けしてくれた凪が帰宅した後。
本来の用件を話し始めたのは、早めの夕飯を終えた後だった。二時間近く話を続け、もう夜の八時を回っている。
「わたし、全部ちゃんと思い出したいの」
響は持参した虎徹から受け取った物に手を重ね、凪の説得を続けた。
「ここに書かれていることや……ネットで読んだことが本当のことだなんて、思えないの」
「確かにね。ネットのことははなから信じるに値しないけど、カルテのことは――先生は、身体には何の痕もないって言っていたわ。私に嘘をつく理由なんてないもの。こんな……虐待だなんて、有り得ない」
「わたしも、そう信じてる。だけど、本当のことを知ってるのはわたしだけで、わたしはそれを忘れちゃってる。お父さんの為にも、わたしの為にも、それを思い出したいの」
「でも、忘れていた方がいいのかもしれないわ」
組み合わせた手を落ち着きなく揉み合わせながら、凪は呟く。響は赤くなったその手を自分のそれで包み込みながら、笑顔を浮かべた。
「思い出したら後悔するかもしれないけど……でも、それでもいいの。思い出せるかもしれないのにそうしなかったら、やっぱりずっと後悔し続けるもの」
「――私は、あんたにあの家に近付いて欲しくないわ」
苦々しく吐き捨てるようにそう言った凪は、まるでその家に住む人たちを憎んでいるようだった。
響は、それが悲しい。彼等は凪の両親なのだから。
凪の手を取る自分の手に力を込めて、響は真っ直ぐに彼女を覗き込んだ。
「でも、凪さん。わたしは凪さんのことが好きです。お母さんのことも……思い出せないけど、『お母さん』を想像した時、凄く温かい気持ちになるんです。おじいさんとおばあさんは、その二人を育てた人たちでしょう? ホントにひどい人の筈はないと思うんです。そういう意味でも、二人に会いたいの」
「だけど、あなたがこんなことになったのはあの二人の所為でもあるのよ。父さんと母さんが奏と晋司君のことを認めていれば、全部うまくいってたのに」
そう言った凪の言葉には怒りが満ちている。けれども、その目にあるのは、もっと痛みを含んだものだった。
自分以外のものに対して怒りを抱いているだけなら、痛くはない筈だ。痛みを覚えているのなら、それは――
「ねえ、凪さん? 確かに、お祖父さんとお祖母さんがお母さんたちのことを認めてくれてたらって、思う。だけど、お母さんがお父さんに出会ったのも、二人が結ばれてわたしが生まれたのも、お母さんが事故に遭ったのも、お父さんが死んじゃったのも、どれも誰かに責任を負わせられるものじゃないと思うの。少なくとも、わたしはそう思う」
祖父母も、そして凪も、責められるべきではない。自分に向けられた凪の視線を捉えて、響は続ける。
「誰が悪いのかを決める為に過去を知りたいわけじゃないんだよ。それに、知ったからって言って、過去を変えられるわけじゃないのも解かってる。でも、過去はわたしの一部だし、知らないままで放っておいちゃいけないって思うの」
きっぱりと迷いなくそう言った響を、凪はどこか嬉しげで、それでいて少し寂しさも含んだ眼差しで見つめてきた。
「あんた、強くなったわね。あの人――笹本君のお陰かしら」
「リョウさんにも助けてもらったけど、凪さんのお陰でもあるんだよ。だって、ゼロからわたしを育ててくれたのは凪さんだもん」
笑い返しながら響は母ともいえる人の手を握り締めたけれど、凪はふいと目を伏せた。
「凪さん?」
「でも、あんたは私を信頼してくれてはいないでしょ」
唐突に呟かれたその台詞。予想外のそれに、響は目を見開いた。
「え? 何で、そんなことを……」
「あんた、私のことは頼ってくれないもの。笹本君と会わなければ、きっとこんなふうに言ってくることもなかったわ」
「違うよ、そうじゃない」
拗ねたような凪の反応に、響は唇を噛む。そうして、思い当たった。
凪の言葉は、昨日凌が言っていたことと同じだ。
独りよがり。
響も、良かれと思って独りで頑張ろうと思っていた。それが凪を傷付けているなんて、思っていなかった。
響は誰のお荷物にもなりたくなかっただけだったのに、そうすることで凪を拒んでいるように思わせてしまったのかもしれない。
「ごめんなさい、凪さん……わたし、そんなつもりじゃなかったの」
「別に、あんたは謝るようなことじゃないでしょ」
「ううん、わたし、凪さんのことを信じてるし、すごく頼りにしてる。でも、凪さんの負担にはなりたくなかっただけなの」
「負担? あんたがすることが私の負担になんかなるわけないじゃない」
「うん……ごめんなさい」
うなだれた響の手を、凪が握り返してきた。そうして彼女は、剥がれてしまった仮面を取り繕うように苦笑を浮かべる。
「謝ることじゃないわよ。あんたがそう思っちゃったのなら、仕方がないんだもの」
凪は小さくため息をつくと響の手を放して立ち上がり、電話の脇に置かれているメモ帳を手に戻ってきた。そこに何かを書き付け、響の前に差し出す。
「これ……?」
「あの人たちの住所と電話番号」
「いいの?」
そっと問いかけた響に、凪は肩を竦めて返した。
「私はやっぱり反対だけどね」
今、そう言いながらも凪は響の意志を尊重してくれた。
彼女はこれまでずっと、響が思うようにさせてくれてきたのだ。多分、今までもずっと、もっと手を出してしまいたいのをこらえながらそうしてきたのに違いない。
傍から見れば、凪は放任主義の保護者だった。
けれども、響は彼女の愛情を疑ったことはない。手出しはしてこなかったけれど、凪が響のことをずっと見守ってくれているのは判っていたからだ。
「ありがとう」
その言葉は祖父母の住所を教えてもらったことに対してだけではない。響はこれまでの全てに対して、そう言いたかった。けれども、多分、どんなに言葉を尽くしてみても表現しきれやしない。
「……お祖父さんたちのところに行ったら、また来るね」
「当たり前でしょう」
眉を上げた凪と顔を合わせて、響は微笑んだ。そうして立ち上がる。
「じゃあ、明日はバイトだし、もう行くね」
凪から受け取った紙片を小さくたたんで財布にしまい、響は玄関に向かう。見送りに来た凪は靴を履いて振り返った響の頭に手を伸ばし、昔彼女が子どもだった頃によくしたように、くしゃくしゃと髪をかき混ぜた。
「気を付けて帰ってよ、もう遅いから」
「うん。着いたら電話する」
笑ってそう言い、響は凪の家を後にした。
道すがら、彼女は凪とのやり取りを思い返す。
凪とは互いに理解し合っていると思っていた。それなのに、全然違っていたなんて。
響はとにかく誰にも迷惑はかけまいとしてきた。迷惑をかけてはいけない、役に立たなければいけないと、自分に言い聞かせてきたのだ。そうしないと、全てを壊してしまうような気がして。何かに追われるような心持ちで、そうしなければいけないと思ってきた。
けれどそれは、凪を悲しませていただけで。
「難しいよね」
電車の窓から外を見つめながら、響はポツリと呟く。そこからは無数の家々の灯かりが見えるけれど、そこに住む人々は、みんな難なく理解し合えているのだろうか。
もしもそうなら、どうやってそうしているのかを知りたいと思う。
やがて電車は停まり、ため息をつきつつ響が駅を出ると、はしゃいだ声が彼女を出迎えた。
「ヒビキぃ、お帰り! あ、ヤダ、痩せてる!」
「ナナさん? 何で、こんな時間にこんな所に?」
抱き付かれ、響は目を白黒させて反射的に抱き締め返す。と、ナナはパッと身体を離してニッコリと笑った。
「このくらいの時間に帰ってくるってリョウに聞いたからさ。ヒビキってばヒキコモリになってずっと会えなかったんだもん」
そう言うと、彼女はまたギュウと抱き締めてくる。小さな子どもがするように。
このナナも、少し前まではさっぱり解からない相手だった。少し怖い、まるで剥き出しの刃物のように、辺り構わず傷付けようとするような女性だと思っていた。
けれど、言葉を交わすうちに彼女の中にポカリと空いた穴が見えてきて、何を求めているのかが判ってきて、今のようになれた。
ナナのあまりの近しさに時々戸惑うことはあるけれど、それでもやっぱり、敵意剥き出しよりもはるかに嬉しい。話をしていなければ、彼女とはきっといつまでもあのままだった。
ポンポンとナナの背中を叩いて、響は彼女を促す。
「帰りましょうか」
まだ夜の十時の手前で、駅前は人も多い。女同士で抱き合う二人に行き交う人々がチラチラと目を寄越してくるのが、痛いほどに感じられた。
ナナはそんな他人の視線など全く気にすることなく、腕を組んでくる。
「今日、泊まっていい?」
ねだるようにそう言われれば、ダメとは言えない。
「明日は午前中からバイトだから朝早いですけど、それで良ければいいですよ」
「全然いいよ」
「じゃあ、行きましょうか」
連れだって歩き出し、響とナナは家路を急ぐ。
響のアパートの近くまで来た時だった。外階段のすぐ下に停まっている見覚えのある車に、ギクリと脚が止まる。ナナも、ほぼ同時に気付いたらしい。
「ヤダ、あれ……」
身構えて息を詰めた響に、暗がりから人影が近付いてくる。
「やっぱ、コテツだ」
ナナが呟くのが聞こえたけれど、響は返事をすることもできない。無言で見つめるだけの彼女に、虎徹は真っ直ぐに歩み寄ってきた。
「よう、久し振りだな」
「何でアンタがここにいるのよ? まさかずっといたわけじゃないでしょうね」
「ずっといたのは俺の手下。ようやく穴倉から出てきたって聞いてな。チョイとあいさつに来たのさ」
「ヒビキはアンタに用なんかないもん。さっさと帰ってよ」
「何だよ、随分仲が良くなったもんだな。凌のことはもういいのか、ナナ?」
言いながら、虎徹が響の隣のナナに視線を流す。その眼差しは嫌な色を帯びているような気がして、響は一歩を踏み出してナナの前に立った。彼女はそれを押し退けるようにして虎徹を睨み付ける。
「今はリョウよりヒビキの方が好きなの。ヒビキに構わないでよ」
「へえ? えらく変わったもんだな。だけどお前は男なしじゃいられねぇだろ?」
「もう違うし」
「そりゃスゲェ。男と見りゃ股開いてた女がなぁ」
虎徹の声に含まれているのは、明らかな侮蔑の響きだった。ヒュッとナナが息を呑む音が聞こえ、響の腕がきつく掴まれる。
その力に、彼女の胸の中には怒りと同時にナナを守ってやらなければという気持ちが湧き起こってきた。
響はお腹の底に力を入れて、小ばかにしたように腕を組んで二人を眺めてくる虎徹に低い声で告げる。
「ナナさんをバカにしないで。もう帰るんだから、そこをどいてください」
「ふうん……アレでダメージ受けてねぇの? 意外に図太いんだな」
虎徹が言うのは、カルテや諸々のモノのことだろう。響はキュッと唇を引き結んだ。
「確かに、ダメージは、受けました。でも、負けません」
「へえ」
暗がりで、虎徹が目を眇めるのが判った。彼から軽さが払しょくされ、どこか危険な雰囲気を帯びる。その空気を感じ取った響の背筋がゾクリと震えたけれど、それを無視して彼女は虎徹を睨み返した。
「もうあなたには会いたくありません。さようなら」
はっきりと言い切って、響は打ちひしがれたナナを連れてアパートに向かう。が、虎徹の脇をすり抜けようとしたところで腕を取られ、引き止められた。
「待てよ」
「放してください」
二の腕をきつく掴んでくるその手を振り払おうとしたけれど、ビクともしない。怯みそうになる心を奮い立たせて、響は声を荒らげる。
「放して!」
しかし。
「やだね。オレはお前が欲しいんだ」
唐突な『告白』。
「――え?」
思わず響は虎徹の顔を見上げていた。しかしそこにあるのは暗い眼差しで、好意を告げられているとは到底思えなかった。
虎徹の言葉の真意が解からず絶句する響に、彼はニヤリと嗤う。それは肉食獣が瀕死の獲物をいたぶるような、愛情の欠片もない嗤い方だった。
「正確に言うと、お前じゃないお前だがな。もう思い出したのか? それともまだ『カルテで読んだ』範囲内か?」
彼の台詞に響はハッと息を呑む。
「あなたが言うのは、『奏』のこと……?」
震える声でそう問いかけた響に、虎徹は笑みを深くした。
「『藤野響』には、これっぽっちもそそられねぇな。だが、『奏』はイイ」
「『奏』はもういません」
「そんなことはないだろう? オレは何度も会ってるぜ」
「もう、これからはいなくなるんです」
響は断言したけれども、虎徹は全く信じていないようだった。せせら嗤って彼は肩を竦める。
「お前が全てを思い出したら、そうは言ってられねぇんじゃねぇのか?」
「いいえ、たとえわたしが全部思い出したとしても、なりません。確かに、今のわたしを作ったのは過去の積み重ねだけど、その上にこれからのわたしを作るのは、今のわたしの意志だもの。どんなふうに生きていくのかは、今のわたしが決めることなんです。それが解かったから、もう自分以外の自分にはなりません」
真っ直ぐに虎徹を見上げ、響は説く。腕を捉える力が増して、指先が冷えてジンジンと痺れてきた。
しばしの間、無言の睨み合いが続く。
と、不意に、ほとんど投げ出すようにして虎徹が響の腕を放した。
「お前を壊したらいいんだろう?」
「え?」
「『藤野響』を壊してやるよ。そうすれば、その下にいる『奏』が出てくる」
返されたのは、また、嘲笑。響は怯むことなくそれを見返す。少し前の彼女なら、多分負けていた。
「……なりません、絶対に」
響は短く、しかしはっきりと繰り返す。
虎徹はなおも響を見つめ続け、そして唐突に背を向けた。何か捨て台詞を残すこともせず、彼は車に乗り込む。
「ヒビキ?」
囁きと共にナナが響の手を握る。力を込めてそれを握り返しながら、排気ガスの臭いを残して走り去っていく車を見送った。




