もどかしい気持ち
(あ、来た)
たった今、客を送り出したばかりでレジの前に立っていた響は、胸の中で呟いた。店内は珍しく客がひけていて、もう一人のバイトの金島は休憩に入っている。
その人は大きいから、店の中に入ってくるとすぐに判った。
買うのはいつもビールとおつまみ一品くらい。それを目にする度に、これまで何を食べていてあんなに大きくなったのか、響は少し羨ましくなる。そして、余計なお世話だよな、と思いつつも、彼がレジにそれを置くたび、ついついその食生活に口を挟んでしまうのだ。
そんな彼のメニューが、少し前まではやっぱりビールと『何か』だけだったのが、最近はその『何か』に弁当を選ぶようになってきた。
自分の言葉で彼が変わったわけではないと思うけれど、そのことが、何となく嬉しい。
「いらっしゃいませ」
彼と目が合って、響が殆ど反射のようにそう声をかけると、小さく頷きを返してくれる。意識しないままに自分が笑顔になっているのは判っていた。
もっと違うことを言いたいのに、響にはその言葉が見つからない。
(違うことって、何を? 名前を教えて欲しいとか?)
それは、知りたい。是非知りたい。
けれど、ただのコンビニの店員からそんなことを訊かれたら、きっと彼は面食らうだろう。
この間、彼のお友達は彼のことを『りょう』と呼んでいた。それがあだ名なのか、ちゃんとした名前なのか、響には判らない。彼の方も、多分響の名前を『藤野』としか知らない筈だ。
常連のお客さんは多いし、挨拶を交わす人も結構増えた。けれども、名前を知りたいなと思ったのは、彼だけだった。
他のお客さんと彼との違いは、いったい何なのだろう。
響は首をかしげる。
確かに、彼には初っ端っから助けてもらった。脚立から落ちたあの時、たまたま彼があそこにいてくれなければ、そして落ちた彼女を躊躇わずに受け止めてくれなければ、きっと響は大怪我をしていただろう。
彼は彼女の恩人だ。
それに加えて、彼のあの腕の怪我。
あれほどざっくりと切れていたのに、少しも痛そうな素振りも見せずに平気な顔で。
感謝と、好奇心。
その二つの所為だろうか――彼が気になってしまうのは。彼を見た時に胸がそわそわするのは、もしかしたら、頭が勝手に条件反射であの時のことを思い出しているからなのかもしれない。
(それとも、やっぱり、少し寂しいのかな)
響は小さく苦笑する。寂しくて、誰でもいいから、言葉を交わした人に懐きたくなってしまうのだろうか。
高校を卒業して、それまで世話になっていた伯母の家を出て独り暮らしを始めてから、まだ二月と経っていない。
まだ小さい頃に両親を失った響にとっては、伯母の遠山凪は母親のような人だ。電話ではしばしば遣り取りしているけれど、バイトに追われる響は伯母の家に帰省する余裕がなかなかなかった。
今の響が毎日毎日帰るのは、狭くて古いワンルームのアパートだ。家賃に関する響の主張と安全に対する凪の主張の両方が辛うじて折り合った、まずまずのお得物件だ。古い割には作りも悪くない。
けれども、にぎやかで明るい伯母の迎えがない、灯りの消えた部屋のドアを開けるのが、響には少し気鬱になりつつあった。
(もっと、しっかりしなくちゃ、だよね)
響ももうすぐ十九歳になるのだから、いつまでも人に甘えているわけにはいかない。少なくとも、身体の年は、それだけ取っている筈なのだから。
そう自分自身に言い聞かせ、気合を入れる。
その時、無言で視界に差し出された品々に、響はハッと我に返った。
「あ、いらっしゃいませ……?」
品物を見て、視線を上げて、思わず、語尾が疑問調になってしまった。
思わずキョトンと見上げた響に、怪訝そうな眼差しが返ってくる。
お客様は、彼だった。
けれども、カウンターに置かれた品は、いつもとは違う。幕の内弁当に野菜ジュース。そう、ビールの代わりに野菜ジュース。
「何だ?」
「あ、いえ……」
思わず緩みそうになった口元を何とか引き締めて、響は慌ててバーコードリーダーを手にした。それがピッピッと小さな電子音を響かせている中、彼女は何となく視線を感じる。いや、たいていの客は、響がそうしている間、見るともなしに彼女を見ている筈だから、別に特別なことではないのだ。
それなのに、響は妙に意識してしまう。
(やだな、もう……)
妙に自分が自意識過剰な気がして、ジンワリと頬が熱くなる。顔が赤くなっていないことを祈りつつ、お決まりの言葉を口にした。
「お弁当、温めますか?」
「ああ」
短い返事にそそくさと彼へ背中を向けて、響は弁当をレンジに入れる。何となく振り返りづらくて、ゆっくりと動くタイマーを睨み続けた。その間も、何だか背中がチクチクするようで。
「独りなのか?」
唐突にそう訊かれ、響はレンジから取り出した弁当を危うく落としそうになった。
「はい?」
何のことか判らず、振り返った響は思わず問い返す。と、彼は妙に不機嫌そうな顔で、今度はもう少し言葉を足して繰り返した。
「他のバイトはどうしたんだ? 独りなわけはないだろう?」
「ああ……休憩に入ってるんです。お店が空いているので」
響の返事に、何故か彼はもっと不機嫌そうになる。
自分が何か間違ったことを言ったりしたりしたかしら、と恐る恐る見上げると、彼は響のその視線に気付いたのか、眉間の皺を浅くした。
そして、響が差し出した品物を入れたレジ袋を、彼は小さく頷いて受け取る。それはいつもと変わらない様子で、彼女はホッとした。
が。
「すげぇ顔変わってた」
いつもは振り返ることなくさっさと店を出て行く彼が、カウンターを離れ際にチラリと響に目を走らせて、そう一言こぼす。
「え……」
パッと彼を見た響の目に映ったのは、横顔だけだ。しかも、ほんの一瞬だけ。一歩が大きな彼は、あっという間に行ってしまう。
その短い間で見えたものに、響は瞬きした。
(今……笑った?)
横顔で、良くは見えなかった。けれども、いつも固く引き結ばれている彼の唇が、響にはほんの少し柔らかく緩んでいたように見えたのだ。
彼はすぐには出て行かず、ふらりと雑誌コーナーの方へと向かう。そうして、雑誌を一冊手に取ると、その場で読み始めた。
立ち読みなんて珍しいなと思いながらその背を見つめ、彼がこぼしていった一言を振り返る。
そんなに、変な顔をしていたのだろうか。
いつから、見られていたのだろうか。
彼について色々思案していた時の顔を見られていたかと思うと、響の顔は火が出そうになった。
それなのに、さっきの彼を思い出すと、ドキドキと胸の内側を打つ心臓がやけに意識される。その所為か、何だかそこが熱いような気がした。
「もう……何なんだろ」
鳩尾をさすりながら呟いた響の前に、次の客が出したサンドウィッチとコーヒーが現れる。気付けば店内には客が増えていて、それに気付いたかのように、金島がスタッフルームから姿を現す。
「サンキュー、後であんたも休んできなよ」
「あ、はい、ありがとうございます」
金島に答えながら、埒もないことから頭を切り替えて、さっさと仕事をしなければと自分に命じた。
響はカウンターの向こうに向けて、ニッコリと笑顔を浮かべる。
「いらっしゃいませ」
そうして、やるべきことに向き直る。
ほっこりと温かいものを胸の辺りに残したままで。
ふと雑誌コーナーに目をやると、いつの間にか彼の姿は消えていた。
ようやく、文体が恋愛向けになってきた気がします。