陽だまりのような日常
仕事を終えた凌は、響が深夜のバイトに出るまでのひと時を共に過ごす為、彼女の部屋のドアチャイムを鳴らす。帰りに迎えに行くのはやめたが、送っていくのは続けていた。響もそれなら拒まない。
ほどなくして、外にいるのが誰なのかを確かめる声掛けもなく、ガチャリとドアが開け放たれた。いつもの響ならまず確認するのに……と思った凌は、現れた人物に眉をしかめる。
内側から身を乗り出すようにしてドアノブを握っているのは、響ではない。
外に立つ彼を見つめているのは、猫のようなアーモンド形をした大きな目だ。その目の持ち主は、パチリと大きく瞬きをしてから、言った。
「あ、ホントだ、リョウだ」
そうして、彼女は、ニッと笑う。
(またか)
凌は内心でため息をつきつつ、そう呟いた。
部屋の主である響の代わりに彼を出迎えたのは、ナナである。いったいどういう心境の変化なのか、最近、しばしばこの部屋で彼女の姿を見るようになっていた。多分、彼が訪れる三回に一回は居るだろう。
「ヒビキぃ、リョウだったぁ」
凌がドアに手をかけるとナナは手を放し、ヒラリと身を翻して、部屋の奥へと声をかけながらリビングに戻っていく。
ドアを閉め、ナナの後に続いてリビングに足を踏み入れると、ようやく響の笑顔が凌を出迎えた。部屋の中には良い香りが充満し、鍋つかみに包まれた彼女の手には大きめな両手鍋がある。
「今日は、おでんを作ってみたんです」
言いながら、彼女はテーブルに置かれているカセットコンロの上にそれを下ろした。さっさと座に着いたナナが、鍋の蓋を持ち上げて中を覗き込みながら響の台詞を補う。
「アタシのリクエスト」
「コンビニのおでん以外、食べたことが無いって言うから……」
「なんか、イイ匂いじゃん」
今にも舌なめずりをしそうな風情でそう言ったナナに、響が嬉しそうな顔になる。
少し前まで、ナナは響に対してほとんど憎しみのような気持ちを抱いていた筈だ。それがこんな事態になろうとは。
(えらい変わりようだな)
すっかり打ち解けた様子の二人に、凌は半ば呆れつつ腰を下ろした。そしてふと、響はちゃんと仮眠をとったのだろうかと眉をひそめる。
ナナが何時からここにいるのかは知らないが、響はその所為で落ち着いて休めなかったのではないだろうか。もしもそうなら、彼女は体調を崩してしまう。少し控えるか、せめて来る曜日を考えるように言った方がいいのかもしれない。
そんなふうに彼女のことを案じていることに気付いて、凌は思わず顔をしかめた。
今、凌が思っていることは、以前に響が彼に対して口を酸っぱくして言っていたこととまるきり同じだ。
凌は響とナナに目を戻した。
渋面の彼には気付かず、二人は楽しそうにしている。
特に響は、やけに生き生きとしているように見えた。それは凌だけといる時には見せたことのない顔で、彼は何となく面白くない気分になる。
「リョウさん、どうかしましたか?」
不意に響に顔を覗き込まれ、凌はハッと我に返った。
「いや、何も」
言葉少なくそう答えた彼に、響は小さく首をかしげる。そうすると、肩よりも少し上で揃えられた真っ直ぐな髪がサラリと揺れて頬にかかった。無意識のうちにそれを払ってやろうと手を伸ばしかけ、ナナの視線に気付いて止める。
「気にしなくていいのにぃ」
「え?」
響の目は、またナナに向いてしまった。
にんまりと笑うナナをジロリと横目で睨み付け、凌は響を促す。
「お前、時間があるんだろう?」
「あ、はい」
凌の台詞に彼女はサッと立ち上がると、手際よく夕飯の準備を進めていく。じきに三人揃って食卓に着いた。
「あ、オイシイ。コンビニのと全然違う」
大根を頬張りながら声を上げたナナに、響が目を細める。
「明日まで置いておくと、もっと味が染みるんですけど……」
「ええ? じゃ、明日も食べたい」
無邪気な眼差しでナナが響にそうねだった。ここに泊まる気なのかと凌は口を挟もうとしたが、それに先んじて響が頷いてしまう。
「いいですよ」
凌はそんなにナナを甘やかすなと言おうとして――言えなかった。あまりに響が嬉しそうだったからだ。
鍋に箸を伸ばしながら彼女たちを窺う凌の目には、彼と二人きりでいる時よりも響の笑顔が多いように映る。
響が幸せなら、凌も嬉しい。だが、他の誰かの方が自分よりも彼女を幸せにしていると考えると、何だか複雑な心境になる。いつでも彼女には笑顔でいて欲しいが、それを為すのは彼自身でありたいのだ。
「リョウさん?」
箸が止まっている凌に、再び響の目が戻ってくる。その顔からは笑みが消えていて、代わりに凌を案じる色が浮かんでいた。
「やっぱり、何だかちょっと変ですよ? 具合でも悪いんですか? どこか痛いとか? あ、お仕事で何かあったとか?」
響は矢継ぎ早に質問を並べ立ててくる。
――俺が思い悩むとしたら、お前に関する事についてだけだ。
そう言ってやりたいのをこらえて、凌はかぶりを振る。
「いいや、何もない。お前も早く食べろよ。ナナに食い尽くされるぞ」
凌の返事に響が眉を曇らせたが、彼にはそれ以上説明する気はなかった。
――少なくとも、ナナがいる場では。
彼女が更に何か言いたそうにしているのを見て見ぬふりして、凌はせっせと手と口を動かした。そうやって、彼のことで頭の中を満たしておけばいいと、そんなふうにすら思いながら。
口を閉ざした凌に、響は諦めたように自分の食事に戻った。
やがて夕食の時間も終わり、響が片付けを始める。ナナは満足そうにベッドに寄りかかり、半分居眠りをしているような様子だ。
「お腹いっぱぁい」
「ふふ、満足していただけましたか?」
「満足満足。また作ってね」
「いいですよ、いつでも言ってください」
そんなやり取りに、凌はそいつを甘やかすのもほどほどにしておけよと思ったが、それを口に出すのは止めておいた。
まとめた食器を持って響がキッチンに向かう。一瞬考え、凌も鍋を手に彼女を追った。
「置いておいて良かったのに……でも、ありがとうございます。お茶淹れますね?」
にっこりと笑う彼女を少し奥へ押しやるようにして、凌は鍋をカウンターに置いた。そうして、屈託のない笑みを口元に刻んだまま彼を見上げている響を見つめ返す。
「リョウ、さん?」
響が軽く首をかしげたその傾きを利用して、凌はサッと身を屈めて彼女の唇を奪った。それはほんの一瞬、ただ触れるくらいのものだ。だが、凌が身体を起こして再び響を見る頃には、彼女は耳まで真っ赤に染まっていた。彼の唐突な行動に、信じられないとばかりに大きく目を見開いている。
「ナナさん、いるのに……」
そのナナは、今のことに気付いている様子はさっぱりない。チラリと肩越しに見た限りでは、うとうとと微睡み始めているようだ。
「俺のしたいことをしていいと、言っただろう?」
「言いました、けど……」
いつぞやの響の台詞を持ち出すと、彼女は口ごもった。目を伏せ、モゾモゾとしている。
実行すれば彼女がこんな反応を見せるのは判っていた。けれど、響があまりに無頓着なので、敢えてやりたくなってしまったのだ。困ればいい、とすら思ってしまったかもしれない。
それは、いつも彼女を見ていると湧き上がってくる『守ってやりたい』という想いとは正反対の感情だ。
だが。
――こんな彼女もいいかもしれない。
困惑して戸惑って恥らっている響を見下ろし、ふと凌はそんなふうに思った。
もちろん、彼女をしょっちゅうそんなふうにさせたいわけではない。しかし、笑顔は誰にでも引き出せるかもしれないが、多分、こんな顔は凌にしか見せないに違いないのだ。
(もう一度やったら、今度こそ怒るだろうな)
胸の内で苦笑して、凌は真面目な顔を取り繕った。そうして、二度目の口づけの代わりに片手を伸ばし、響の頭をクシャリと撫でる。
「食器洗うから、お前は茶を淹れろよ」
「う……はい……」
まだ赤いままの頬を隠すようにうつむいた彼女が、無性に愛おしくてたまらなくなる。ナナがいなければ即座に抱き締めていただろう。手が疼いて仕方がない。
凌は水栓のレバーを上げて水を出す。冷たい水をしばらく使っていると、指先だけでなく頭も次第に冷えていった。




