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君がいる奇跡  作者: トウリン
探し、求めた、その先に

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52/74

触れ合うということ

 (ひびき)の部屋を飛び出したナナは、無意識のうちに慣れた古巣へ――新宿の街へと戻っていた。

 道行く人の殆どは誰かと一緒で、陽気に連れと笑いさざめいている。


 その中を独りあてどなく歩きながら、彼女は唇を噛んだ。


 あんなふうに、逃げるように響の部屋を飛び出してしまった自分が、ナナには理解できなかった。

(あいつから、逃げ出したみたいじゃない)

 ナナはきつく唇を噛んだ。

 鉄臭い、嫌な味が舌に滲んで、なんとなくホッとする。

 日付が変わって随分経っているにも拘らず、不夜城には相変わらず人が溢れていた。

 ――男も、女も。


 たくさんいるのに、誰もナナには目もくれない。


 不意にナナは寒気を覚えて立ち止まり、両腕を身体に回して自分自身を抱き締めた。

 そうしても、全然、温かくない。


 自分の腕の冷たさに、少し前に彼女を包んだ温もりを思い出す。

 温かくて、柔らかくて――あんなのは、今まで感じたことが無かった。


 ナナがヒトと触れ合うのは、セックスの時くらいだ。

 それだって、やることが終わってしまえば男は煙草をふかせるかさっさとベッドを下りてしまうか、そのどちらかだ。

 思い出せる限りの過去にさかのぼってみても、誰かと手をつないだり、誰かに抱き締められたりしたことはない。


 自分よりも子どもっぽくて、チビで、貧相な、女。


 あんな女に、セックスじゃないのに、ただ抱き締められただけなのに、あんなに心地良いなんて。

 そう思うのに、ナナはもう一度あれを感じたくて、たまらない。

 それは、今まで感じたことのない、強烈な渇望だった。


 ナナの父親は彼女が生まれる前に姿をくらました。というより、彼女の母親自身も付き合っていた男達の誰が父親なのか、判らないのだろう。その母親は彼女と一緒にはいたものの次から次へと『彼氏』を連れ込み、男に触れる時間の十分の一も、ナナに割くことはなかった。

 取り敢えず、ナナが自分自身で身の回りのことができるようになる年までは育てたわけだから一応母親の自覚はあったのだろうが、物心ついて以来、彼女に触れられた記憶はない。ナナにとって人肌の記憶は、全て男のものだった。

 だから、ナナは、響の行動に戸惑った。戸惑うを通り越して、狼狽した。


 響は、今まで身体を重ねてきた男達とは、全く違ったから。


 柔らかくて……甘い匂いで。

 振り払って逃げ出したのは、同性に抱き締められて気持ちが悪かったからではない。


 むしろ、その逆で――


「ナナ」

 不意に名を呼ばれ、ナナはハッと我に返った。声がした方に振り向いた彼女は、目にした人物に鼻の頭に皺を寄せる。

「……なんか用?」

「相変わらず、愛想がないな」

 苦笑したのは、新宿署の刑事の福井銀次(ふくいぎんじ)だ。さる事件で知り合ったのだが、以来、何かと声をかけてくる。声はかけてくるのだが、決してナナに触れはしない。


 出会った頃はナナも彼に愛想を振っていたのだが、男としての反応は全然示してくれないので、今はもう無駄なことはやめている。

 ナナが銀次と初めて会ったのは、彼女が十八歳になる少し前のことだった。その二年ほど前に母親は『彼氏』とどこかに行ってしまって、住む所を失ったナナは街で出会う男達の間を渡り歩いていた。彼女が唯一持っているものをチラリと見せてやりさえすれば、彼らは二つ返事で受け入れてくれたものだ。


 銀次と初めて会った時も、そうだった。夜の新宿の街で次の寝床を提供してくれる男を求めてうろついていた彼女は、銀次に補導されたのだ。

 ナナに説教を始めようとした彼は彼女の顔を見てふとその口を閉ざし、そうして姿を消したかと思うと、一枚の写真を手に戻ってきた。


「この男を知っているか?」

 銀次はその写真をナナに見せ、そう訊いてきた。

 それをおざなりに見て、彼女は頷いたものだ。

 そこに写っているのが誰なのか、すぐに判った。

 彼はナナが八歳かそこらの頃に母親が連れてきた『彼氏』で、どうやったら人を――男を悦ばせることができるのかを教えてくれた、初めての男だった。

 その彼が数年前に近所の小学生の女児に手を出して、押収された彼のパソコンの中に大量の児童ポルノ画像が見つかったのだと、銀次はかいつまんでナナに説明した。

 見せてはもらえなかったが、その中の何枚かに、彼女の写真があったらしい。


 ナナからの話を聞き終えた銀次は、幼い彼女に対してその男が行ったことに対して、まだ、告訴できると言った。

 本来なら保護者を通して話をするべきなのだが、と。

 保護者である彼女の母親は行方知れずだった。

 銀次にそう提案された時、ナナは目を丸くしたものだった。

 今でも、彼女の中にあの男を恨む気持ちは全くない。逆に、感謝しているくらいだ。


「え、なんで? あのおじさん、すっごく優しかったよ?」

 そう返した彼女に、その時銀次は奇妙な顔をした。

 ――あの時の彼の顔は、少し、今日の藤野響が見せた顔に、似ていたかもしれない。


 全く接点のない二人が同じような顔をしているというのは、奇妙なことかもしれないけれど。


 あの顔をした時彼が何を考えていたのか、ナナには判らなかったが、その後銀次は彼女の保証人になって住む場所を与え、仕事も与えた。

 そして、ナナの姿を見かける度に、何かと声をかけてくるのだ。


 そう言えば、この男はどうして自分に触れてこないのだろうと、ナナはぼんやりと銀次を見返した。

 出会った当初は未成年だったからともかく、今はナナも成人している。


 刑事だから、だろうか。

 事件の関係者であるナナと関係を持ったら、上司から叱られるに違いない。

 それが一番ありがちな理由だと思うけれど、銀次はそんなことには左右されないような気がする。

 ジッと銀次を見つめたまま押し黙っているナナに、彼は眉をひそめた。


「どうした?」

 銀次は折りあらばナナと言葉を交わそうとする。ナナの言うことを聴き、ナナに彼の言うことを聴かせようとする――そんなことを望むのは、彼くらいだ。もっとも、彼女はいつも銀次をうっとうしがってさっさと離れてしまうのだが。

 銀次なら、自分の中にある不可解な感覚の正体を教えてくれるのではないだろうか。

 彼の目を見つめるナナの頭に、ふとそんな考えが思い浮かぶ。


「あのさ」

 切り出したナナに、銀次が「おや」という顔をする。彼女の方から会話を続けようとすることは滅多になかったからだろう。

「何だ?」

 軽く首をかしげた彼に、ナナは問う。

「男って、セックス好きだよね」

「ああ……まあ、大半の男はそうかもな」

「それって、気持ちイイからでしょ?」

 実際のところ、ナナはセックスで肉体的な快感を覚えたことはない。彼女が男達と寝るのは、彼らに求められるからだ。

「まあ、そうだな」

 妙な方向に進んでいる会話に明らかに戸惑いながらも、銀次は律儀に答えてくれる。


 ナナは少し考え、別の問いを口にした。

「じゃあ、セックスと、ただギュッとされるのって、どっちが気持ちイイ?」

「え?」

「ギュッてされただけでも気持ち良かったりする?」

 ナナの台詞に銀次は一瞬奇妙な顔付きになる。が、すぐにまた微かな笑みを浮かべて頷いた。

「まあ、相手によるな」

「でも、全然知らない相手だし。会ったのは二回だけだもん」

「へえ? ……多分、その人が君のことを大事に想っていたからだろう」

「まさか。何で」

 銀次のバカげた台詞を、ナナは口元を強張らせて言下に一蹴した。

 藤野響は『敵』だ。ナナの大事なモノを盗っていってしまったのだから。


 むっつりと言ったナナに、銀次は肩を竦めて返す。

「それは、僕には判らない。その人は君といて、何かを感じたんじゃないかな。その時、君はどんなふうに感じたんだい? 嫌だと思った? さっさと放しやがれ、と?」


 ――どんなふうに?

 問われてナナは、記憶を手繰る。


 ――温かくて心地良くて、寂しくて……しがみ付きたいと、思った。

 そんな考えが頭に浮かんで、彼女は即座にそれを振り払う。嫌いな相手に、そんなふうに感じる筈がない。


 答えずにいるナナをジッと見つめながら、銀次が続ける。

「ひととひとは、距離が近いと感触だけじゃなくて気持ちも伝染することがあるよ」

「何それ、よく解かんない」

 唇を尖らせてそう呟いたナナに、銀次は柔らかな微笑みを浮かべた。

「その人と、もう少し話してみたらどうだ?」

「イヤよ」

 ナナは即座にそう答えていた。凌を奪った女に、またあんなふうな気持ちを掻き立てられたくない。あんな……ナナの方から何かを求めるような気持ちを。


 ナナは求めるのではなく、求められたかった。

 自分から何かを求めるのは――怖い。求めて応じてもらえないのは、怖い。


 唇を噛んだナナは俯いていたから、その時彼女に注がれていた銀次の眼差しに気付いていなかった。彼が一瞬彼女に向けて手を伸ばしそうになったことも。

 往来の真ん中に佇むナナと銀次を、通行人が邪魔そうに避けてすれ違っていく。皆、二人のことなど気にも留めていない。これだけたくさんの人間がいても、ただ立っているだけのナナは、誰の気を引くこともないのだ。


(でも、アタシはアイされる方法を、ちゃんと知ってるもの。どうすればみんながアタシのことをアイしてくれるか、知ってるもの)

 他の誰にでもなく自分自身に言い聞かせるように、ナナは胸の中で繰り返した。


 喧騒が、ひどく遠く感じる。


 どちらも口を閉ざしたままで時が過ぎ、やがて銀次が小さく息をついて、ナナに向けて呟いた。まるで、彼女の心の中の声が聞こえたように。

「……ひととひととのつながりの形は、色々ある。セックスだけが愛情の示し方じゃぁないんだよ」

 地面を見つめたまま、ナナは胸の中で彼のその言葉を拒絶する。

 ナナは他の方法など知らなかった。ソレだけが――セックスだけが、彼女が教えてもらった唯一の愛情の確かめ方だった。

 それを否定されてしまったら、どうやって自分が愛されていることを知ったらいいのだろう。


 唐突に、ナナはプイと踵を返した。そうして、さっさと歩き出す。


「ナナ」

 呼びかけた銀次の声に、彼女を引き止めようとするだけの強さはない。ただ、名を口にした――それだけ。


 その声を背中で弾き返しながら、ナナはもっとちゃんと呼んでくれればいいのにと、ぼんやりと思っていた。


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