響とナナ-1
「何だか嬉しそうだねぇ」
カウンターに並んだ小暮が、隣に立つ響を横目で見ながらそう言った。
「え、そうですか?」
「うん、イイことあったの?」
「良いこと――ええ、そうですね」
「ふうん」
へにゃりと頬を緩ませた響に、小暮が相槌を打つ。彼は常日頃からプライベートと仕事を明確に線引きするタイプで、今もそれ以上突っ込んでくることはなかったけれど、彼女に釣られたように嬉しそうに目を輝かせた。
もっとも、小暮に響が喜んでいる理由を話したところで、もしかしたら――いや、多分、理解してもらえないだろう。
なにしろ、彼女が一番嬉しく思っているのは、凌が迎えに来なかったことなのだから。
夕方に彼からの電話を切った時は、何だかんだ言いつつ、結局時間通りに迎えに来てしまうのだろうな、と思っていたのだ。彼が、響の『安全』よりも彼女の『意志』を優先してくれることはないだろうと。
だけど、彼は来なかった。
もちろん凌と逢えないのは寂しいけれど、それ以上に、響が『できる』ということを彼が信じてくれたことが嬉しい。
それに。
(リョウさん、今頃、どんなふうにしてるのかな)
元々、凌は食事もろくにしないでビールばかり呑んでいたくらいだから、きっとお酒が好きな筈だ。飲めない響の前では、我慢していたに違いない。
凌が彼自身の生活を楽しんでくれることも、嬉しい。
今日の彼からの電話は、ここしばらく響の心の中に垂れ込めていた黒くて分厚い雲を、少し薄くしてくれた。
凌の世界が拡がったら、もしかしたら響のことなど二の次、三の次になっていってしまうのかもしれない。それでも、義務感からではないかと勘繰ってしまうような盲目的な献身よりも、ずっといい。他にも目を向けるものを持っていて、それでも響に意識を裂いてくれるということだから。
そうなれば、今よりも彼と『対等』だと思えるようになるに違いない。
ちゃんと、『響』自身を見てくれていると実感できる気がする――他の誰かの代わりではなくて。
ふう、と響は小さく息をつく。
と、そんな彼女の隣で、小暮が声を漏らした。
「あ……」
そちらを見ると、彼の目は店の外に向けられている。
「どうか――」
しましたか、と訊きながら彼の視線の先へと振り返った響の声も、途中で途切れた。
目をやったその先には、楽しそうに行き来する人の流れを邪魔する、一組の男女の姿。
男性は女性の腕を掴み、女性はその腕を振り払おうとしている。抗う彼女を男が引きずるようにして、二人は視界から姿を消した。
この時間、確かに酔っ払いは多いし、痴話げんかを始めるカップルも多いけれど、響の目には、あの二人がそんな可愛らしいもので争っているようには見えなかった。
彼女よりも経験豊富な者にも、同じように感じられたらしい。
「あれって、あんまりいい雰囲気じゃなかったよね」
小暮は呟いたけれど、カウンターから出ようとする気配はない。
「わたし、ちょっと見てきます」
「ええ? 男女の揉め事は手を出さない方がいいよ? それに危ないし」
「危ないのは彼女の方です」
サッとカウンターを跳ね上げ、響は店を飛び出した。二人が行った方へ目を向けても、姿がない。手近な曲がり角と言えば、店の裏手へと続く路地だけだ。
ふとそこでの嫌な記憶がよみがえって、一瞬、彼女の足が止まった。あの時は凌が助けてくれたけれども、今はそれは望めない。
(でも、もしもさっきの女の人があの時のわたしと同じような目に遭ってたら……)
放っておけない。
意を決してその路地裏に足を踏み込んだ響の鼓膜に、パンという高い音が突き刺さる。続いて、男の怒鳴り声。
「ヤらせねぇお前なんかは何の役にも立たねぇんだよ!」
明らかな暴力の音と男性の罵声に響の全身が竦んだけれど、続いた女性の悲鳴のような声に金縛りが解ける。
「何よ、いつもアタシのこと好きだって言うじゃない!」
「ああ? そう言や、お前はホイホイ股開くだろ。マジなやつなんていねぇよ。他の奴らもみんな同じ、ヤりてぇだけ」
あざ笑うような男の声。
響は大きく息を吸ってから角を曲がって、そこに誰がいるのかを確認するより先に声を張り上げる。
「何やってるんですか!」
ハッと振り返ったのは男で、その向こうに壁に背中を押し付けた女性の姿がある。彼女の姿は、暗がりでよく見えなかった。
男が響の方へ向き直り、小柄でひ弱な彼女の姿を見て取るに足らない存在と判断したのか、恫喝の声を上げる。
「あんた誰だよ、関係ねぇだろ。引っ込んでろよ」
「警察、呼びますよ? 交番はすぐ近くですから、十分もしないうちにおまわりさんは来てくれますが?」
声が震えないようにお腹の底に力を込めて、響は両足を踏ん張った。
しばしの睨み合い。
響の脅しが効いたわけではないだろうけれど、揉め事をそれ以上大きくするほどの価値があるとも思えなかったようだ。やがて男はチラリと後ろの女性に目を走らせ、チッと舌を鳴らした。
「バカらし」
吐き捨てるようにそう言って、響の横を通り抜ける。
その後ろ姿が完全に消えるのを待って、彼女は詰めていた息を吐き出した。それと同時に、全身が震え始める。何度か深呼吸すると、それもだんだんマシになってきた。
固く握り締めていた両手を緩ませ、響はまだ立ち竦んでいる女性の方へと向かう。
「大丈夫ですか? 怪我は?」
自分よりも頭半分ほど高い所にある彼女の顔を覗き込みながらそう訊いて――ハッと息を呑んだ。
いつぞやの、女性だった。
忘れることなんてできやしない、凌と付き合っているのだと言っていた、女性。
けれど、あの時の勝気な眼差しは今は影も形もなく、釣り上がり気味の目は焦点が定まらないまま大きく見開かれている。暗い中でも綺麗な面から血の気が失われているのが見て取れた。蒼白な顔の中で左頬だけが赤く腫れて、唇が少し切れている。
微動だにしない彼女に、響はそっとその名を口にした。
「……ナナ、さん?」
響の声に反応したのか、地面に落ちていた彼女の目がゆるりと上がる。が、焦点が合っていないその視界に自分が入っているとは思えなかった。
たった独りで見知らぬ場所に放り出された幼い子どもの様なその眼差しに、響は胸に鋭い痛みを覚える。そのまま放っておくことなど、とうていできなかった。
「ナナさん、中に入りましょう?」
右手にあるコンビニのバックヤードへと続く裏口を示して、ナナの背中に手を添える。彼女は黙り込んだまま、人形のように響に従った。
暗い路地から屋内に入ると蛍光灯の灯かりで目がくらむ。何度か瞬きをして目を慣らし、響は隣に立つ女性に目を向けた。明るいところで見たナナはまるで抜け殻のようで、今にも潰れてしまいそうだ。
(どうしよう)
唇を噛んで響の逡巡はわずかな間のもので、すぐに考えを定める。
店舗内へと続くドアをくぐり、小暮のいるカウンターへ向かった。
「あ、どうだった?」
能天気な口調でそう訊いてくる彼に、響は手短に事情を説明する。
「――で、彼女を休ませたいんですけど……」
時刻はまだ零時を過ぎたところで、彼女のシフトは始まったばかりだ。
「んん、そうだねぇ……じゃ、店長呼ぼうか」
流石に、響は少し迷う。けれど、背に腹は代えられなかった。
「別の日に来ますので、店長さんに代わってもらいます」
「じゃあ、電話しとくから、藤野さんはもういいよ。帰る支度したら?」
すでに受話器を手にした小暮が、もう片方の手で上の階で眠る店長の部屋の番号を押し始める。
「ありがとうございます」
ペコリと頭を下げて、響は即座にスタッフルームへと戻った。ナナは彼女が出て行った時のままの恰好で、ほんのわずかも動いた気配がない。
響はナナを横目で見ながら手早く着替え、バッグを取る。まだ先ほどの男がいるかもしれないから、中に入れておいた唐辛子スプレーを取り出し易い場所に動かしておいた。
「行きましょう」
そっとナナの腕を取り、立ち上がらせる。
握った細い手は冷たく、微かな震えを帯びていた。
その震えが、そのまま響の胸を震わせる。
――何が、彼女をこんなにも打ちのめしてしまったのだろう。
さっきは響も緊張で頭がいっぱいになっていて、彼らのやり取りは耳にしていたけれど、その内容はあまり覚えていない。ただ、男性がひどい台詞を口にしたと思った『感覚』は残っているが。
この前同じ場所に座ったナナは、キラキラとしていた。とても強気で、自信に満ちている様子だった。
けれど、今振り返ってみると、どこか張りつめたような雰囲気も漂わせていたような気がする。それは綺麗で硬いのに壊れやすい、薄いガラスのようなイメージだった。
男性の言葉が、彼女のその弱い部分を打ち砕いてしまったのだろうか。
ナナが響にもたらした『痛み』は、確かにまだ彼女の内にある。ナナによって響の心の奥に打ち込まれてしまった何かは、あれ以来、彼女の平和で穏やかだった心を揺るがせている。
だけど。
響は隣を歩く長身の女性に目を走らせる。そうして、彼女の指先を包む手に力を込めた。




