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君がいる奇跡  作者: トウリン
探し、求めた、その先に

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48/74

彼女の意外な一面、彼の迷い

 社長の市川(いちかわ)からその誘いをかけられた時、(りょう)は一瞬訝しげに眉をひそめてしまった。


「はい?」

 問い返した彼に、市川が笑顔で繰り返す。

「だから、お前の歓迎会がまだだっただろう? ほら、三週間前に横田のところに娘が産まれた祝いも併せて、呑みに行こうって話になってな」

「今日、ですか?」

「ああ、都合が悪いか? お前、いつ声をかけても断るけど、たまにはいいだろう。横田のところ、里帰り分娩で実家に帰ってた奥さんが来週には戻ってきてしまうから、今が一番いいタイミングなんだよ」

 市川はいつも笑みを浮かべていて物腰は穏やかなのだが、意外に押しが強い。確かに凌は仕事が終わった後の付き合いの誘いは、いつも断っていた。だが、何となく、今の市川の雰囲気には「今日こそは」というものが感じられる。


「何時くらいに終わりますか?」

 凌のその問いに、市川が微かに苦笑する。

「なんだよ、始まる前から終わる話か? 本当に、隠し妻でもいるんじゃないだろうな――と、可愛い彼女は似たようなもんか。まあ、いつも日付が変わる前には切り上げてるよ」

 ずいぶん曖昧だ。

 今日は(ひびき)のコンビニバイトだから、できたら二十二時には彼女のアパートに行っていたい。


「今日は――」

 凌は断りの言葉を口にしようとする。が、彼の顔をよぎった表情を素早く読んだ市川が機先を制して言う。

「おいおい、お前はここに来てから他の奴らとろくに言葉を交わしていないだろう? いくら仕事だけの関係だとは言っても、うまくやっていくには多少のコミュニケーションってものは必要だぞ? もっと付き合いを広げろ。第一、大事な彼女が可愛くて仕方がないのは解かるが、あんまりべったりだと嫌がられるぞ?」

 最後の一文が、ぐさりと痛いところを突いた。

 その台詞に、凌が言おうとしたことが喉の奥に戻っていく。

 実際に響からうっとうしがられたことはない。しかし、もっと自分自身の付き合いを大事にしろと事あるごとにせっつかれるのもまた、事実だ。


 眉をしかめた凌の脳裏に、数日前の(なぎ)の台詞もよみがえった。


 ――響と距離を取って欲しい。他の人間にも目を向けて欲しい。


 サラリとした口調だったが、あの時の彼女の眼差しは切実だった。紛れもなく、凌に対して不安を抱いている。

 響と付き合っていくには、凪は決して切り離せない。そして、誰よりも長く深く響のことを見てきた彼女の言葉には、無視してはならない重みがあった。

 凌の迷いを敏感に察し、市川がにっこりと笑みを深くする。

「な? 彼女には電話しろって、今日は行けないよってな」

 彼に促された凌は時計に目を走らせる。もうじき十六時――彼女が仮眠を始める時間だ。

「――電話、してきます」

「おう、そうしろ」

 満足そうな顔で頷く市川に見送られ、凌は電話のある事務所へと向かった。中には、誰もいい。


 凌は机に歩み寄り、その上に置かれた小さな機械を見つめる。

 見つめたままで、なかなか手を伸ばせない。響に用があれば直接逢いに行ってしまうから、これまで彼女に電話をかけたことなどなかったのだ。

 当然、電話の使い方は知っているし、響の携帯の番号も覚えているのだが。

 もしや、自分は緊張しているのだろうか。

 凌はふと眉をしかめる。

 それは、馴染みのない感覚だった。どんなに悪条件の試合でも、どんなに大勢の観客がいる時でも、彼は常に平常心だったのに。


 凌は息を一つつき、受話器を取り上げる。そうして意を決して、番号を押した。

 呼び出し音が、六回。

 七回目を数えたところで、凌は受話器を戻したくなった。


 が。


「はい、藤野です」

 唐突に耳元で聞こえたその声に、思わず彼は固まる。

「もしもし、どちら様ですか?」

 いつもと同じイントネーションで、機械を通している為か、いつもよりも少し甘く聞こえる、声。

「あの……?」

 そこに滲んだ不審そうな響きに、凌はようやく口を開いた。

「俺だ」

 今度は、受話器の向こうが黙り込む。

「おい?」

 切られてしまったのかともう一度声をかけると、回線を通して小さく息を呑む気配が伝わってきた。

「――リョウ、さん?」

「ああ」

 半信半疑な様子で確認されて、凌はそう言えばと、名乗るのを忘れていたことを思い出した。

 やっぱり、どうも勝手が違う。すぐ傍に居れば何も言葉を発しなくてもいいのに、電話だと全てを声に出さないといけないのだ。


 互いに沈黙すること数十秒。

 無言の中に、微かな彼女の息遣いだけが伝わってくる。

 凌は響の表情を確認できないもどかしさと、彼女の存在を確かに感じる心地良さとを同時に覚えながら、取り敢えず自分の用件を思い出す。


 だが、彼が口を開く前に、響の弾んだ声が先回りした。

「電話、初めてですね。お仕事、もう終わったんですか?」

 何がそんなに嬉しいのかと思うほど、嬉しそうな声だ。時計を振り返ったのか、衣擦れの音が続く。鼓膜を直接くすぐるような甘い声に気を取られ、凌は彼女への返事が遅れた。

「まだ、早いですね……」

 響は呟き、唐突に、その声の調子が変わる。打って変わって、切羽詰まったものになる。

「もしかして、怪我ですか? 怪我したんですか? だから、早く終わったんですか? すぐ、迎えに――」

「いや、違う。怪我はしていない」

 畳み掛けてくる響を遮るようにきっぱりと言った彼に、大きなため息が応えた。


 電話でなければ、彼が無事なことなど一目瞭然だというのに。彼女に余計な心配を負わせてしまったことに、凌は渋面になる。

 やはり、電話は好かない。

 早いところ終わらせてしまおうと、彼は本題を口にする。


「今日、職場の人間と呑みに行くことになったんだ」


 一瞬の、間。


「呑みに? お酒を?」

 呆気に取られたように繰り返した響に、凌は急いで続ける。

「別に行かなくてもいいんだ。お前のバイトもあるし――」

「ぜひ、行ってきてください」

「え?」

「わたしの送り迎えなんていいから、絶対、参加してください」

「けどな、お前の深夜バイトの日だろ、今日は」

「大丈夫です」

 あまりにきっぱりと言われ、凌は何となく面白くない気分になる。

「お前を送ってから合流するのも――」

「ダメです、最初からそっちに行ってください」

 まるで、凌などいらないと言われているようだ。

 黙り込んだ彼に、響が少し声を和らげて、言う。


「あのね、リョウさんに出会うまでは、独りで往復してたんですよ? ちゃんと、備えもあります。防犯ブザーに唐辛子スプレー、いつも持ってるんですから」

「そうなのか?」

 響の鞄の中など漁ったことがないから、そんなものが入っているとは全く知らなかった。絶句している凌に、彼女が続ける。多分、少し困ったように微笑んでいるのだろうな、と彼は何となく思った。

「何も考えずに大丈夫って言っているわけじゃないですよ。夜中に出歩くことが危ないことは、ちゃんと承知しています。凪さんにだってしょっちゅう言われてるんですから」

「……そうか」

「はい、ぜんぜん大丈夫です」

 きっぱりそう言った響に、安堵を覚えるはずだった。安堵を覚えるべきだった。

 だが、彼女のその言葉で凌の胸にわだかまったのは、不満か失望、いずれにしてもあまりプラスの感情ではない。


(俺は、別に必要ないのか)

 凌はそんなふうに思ってしまう。やけに、ショックだった。

 と、まるでそれが声として聞こえたかのように、響が続ける。

「あのね、リョウさん?」

「……なんだ」

 まだ頭の中が切り替わらなくてボソリ返した凌の耳に押し当てた受話器からは、どこか柔らかな雰囲気が伝わってくる。

 もしかしたら、電話の向こうで、時折彼女が見せる困ったような微笑みを浮かべているのかもしれない。


「わたしは、わたしのことを護ってくれるからリョウさんにいて欲しいと思ってるんじゃ、ないんですよ?」

 耳元で囁かれるように告げられた、響のその言葉。それは、ジワリと凌の中に染み込んだ。

(なら、他にどんな理由があると言うんだ?)

 身体を使って護ること以外に、自分が彼女にしてやれることはない。

 凌の頭に浮かんだその問いは、しかし、事務所のドアが唐突に開け放たれたことでかき消された。

「あれ、凌、電話中?」

 エンジニアの一人が、彼に目を留めて意外そうに声を上げる。それは受話器を通して響に届くのに充分な大きさで、彼女は小さく息をついて繰り返した。


「じゃあ、お仕事戻ってくださいね。いいですか、お迎えは要りませんからね? みなさんと、楽しんできてください」

 それを最後に、響の声は平坦に繰り返される電子音に取って代わる。

 もう一度かけ直して彼女に問い返したかったが、事務所の中に入ってきた同僚たちの目が受話器を握ったままの凌に集中していて、とてもそんなことができる雰囲気ではなかった。

「仕事に、戻ります」

 受話器を戻して頭を下げながら、凌は事務所のドアをくぐる。


 ――自分にとって彼女はもう無くてはならない存在だ。だが……彼女にとって、自分は『必要』なのだろうか。


 数ヶ月を共に過ごして、初めて胸の中に芽生えたその小さな疑問を心のうちで呟きながら。


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