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君がいる奇跡  作者: トウリン
探し、求めた、その先に

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誰を想う……?

「おい、もうやめろ」

 虎徹(こてつ)はノートパソコンの画面に開かれたファイルを読みながら、彼の脚の間にうずくまったナナの頭を無造作に押しやった。


「何よう」

 虎徹をその気にさせようと、先ほどからあの手この手を尽くしていたナナは、不意を突かれて尻餅をつく。唇を濡らし、上目遣いで見上げてくる彼女に、いつもなら速攻でソファに押し倒すところだ。

 だが、今の彼には、ナナと寝るよりも面白いことがある。


「オレぁ忙しいんだよ。他のヤツんとこ行け」

 画面をスクロールさせながら、虎徹は彼女の方を見もせずにジーンズのファスナーを上げた。ポカンと彼を見つめたナナだったが、次の瞬間、殆ど飛び跳ねる勢いで立ち上がる。

「もう、何なのよ! リョウもコテツも!」

 ヒステリックに叫びながら、彼女は手近にあったビールの缶を虎徹に向かって投げ付けた。

 咄嗟にパソコンを持って身体を捻ると、それが置かれていた場所に叩き付けられた缶から泡を吹いてビールが溢れ出る。ファイルのバックアップはまだ取っていない。危うく、データがおじゃんになるところだった。


「今はお前に用はないんだよ。出てけ」

 冷やかな目付きで言い放った虎徹に、ナナは一瞬口を捻じ曲げ、顔を歪ませる。が、すぐにキッと眉を吊り上げてバッグを引ったくった。

「コテツのバカ! 後でヤりたいって言ったって、相手してやんないんだから!」

 かんしゃくを起こした子どものような捨て台詞と共に音を立ててドアを閉めるナナに、もう虎徹の関心はない。彼の興味は専らパソコンの中の情報に向けられていた。


 読んでいるのは、先日から続けざまに例の配下から送られてきている、藤野響(ふじのひびき)についての報告だ。

 いったいどうやって探り出したのか、普通なら手を出せない筈の医療記録まである。


「ホント、有能だよな……」

 呟きながら、虎徹は専門用語をネットで調べながら読み進めていく。

 内容は詳細で、響の両親――特に父親のことから始まり、母親の死、その後の父娘の失踪、そして発見された時の状態などもある。


 『母・藤野奏(ふじの かなで)、二十一歳で事故死(響五歳時)』

 『父・藤野晋司(ふじの しんじ)、二十八歳で自殺(響九歳時)』


 そして、父親を喪ってからの、一年間。


「へえ……母親になりきってたのか……マジかよ」

 十歳の誕生日を迎えるまで『藤野奏』として存在していたというのは、本当だろうか。彼女が通院していた精神科のカルテによれば、そうらしいが。

 虎徹も色々な人間を見てきたが、本物の多重人格者というものには流石にお目にかかったことが無かった。


 普通なら、そんなものはフィクションの中だけの話だろうと笑い飛ばすところだ。

 だが、確かにあの車の中での彼女の変化は、尋常ではなかった。別人になったのだと言われれば、むしろその方が頷ける。あの時彼女が口にしていた『シンちゃん』とやらは、父親――いやあの時の彼女にとっては夫であった晋司のことなのだろう。


 不意に、晋司のことを想いながらの『奏』の眼差しが、虎徹の脳裏によみがえる。

 それは彼の古い記憶を揺さぶり、胸の奥を疼かせた。


(『あのひと』も、ああいう目をしていた)

 かつて、あれと同じような輝きを含む微笑みを、虎徹は毎日目にしていたのだ。それを見るたび、彼は憧憬の念を掻き立てられた。


 あの頃、自分が何を求めていたのかは、今でも判らない。

 けれど、虎徹に向けられたものではなかった彼女のその笑みは、彼に正体不明の渇望を抱かせたのだ。


 虎徹は目を閉じ、その目蓋の裏に一人の女性の姿を浮かび上がらせる。

 不実な男をひたすら慕い、息を引き取るその瞬間までその男に一途な想いを注ぎ続けた女性――義母の涼子(りょうこ)の微笑みを。


 そう、『藤野奏』はどこか彼女を思い出させる。


 外見はまったく似ていない。

 涼子は清楚で線の細い美しい人だった。

 藤野響は丸顔で年齢よりも幼く見える平凡な見てくれだ。

 何故、その二人が重なるのか、虎徹にも判らない。だが、あれ以来、胸の奥に押し込めておいた面影が絶えずチラついている。


 カチカチと無造作にファイルをクリックしていく彼の手が、一枚の画像で止まった。

「これって、サツに潜り込んだわけじゃねぇよな……」

 どうやって手に入れたのか、父親の自殺現場の写真まで添付されている。検死報告では内外頸静脈損傷による静脈性空気塞栓症とあった。


「へえ……もうチョイ深く斬っときゃ、頸動脈まで行けたのにな」

 それなら、急速な失血であっという間に逝けただろう。


 虎徹は『その状況』に思いを馳せた。

 響は、この父親の下敷きになった形で見つかったと書かれている。実際のところ、父親が死ぬまで――意識を失うまで、どれくらいかかったのか。その間、ずっと言葉を交わしていたのだろうか。


「こりゃ、確かに頭もおかしくなるだろうよ」

 突けば突くほど、興味が湧いてきた。


 『響』が『奏』になったのは、この時からだろうか。

 父親を目の前で失おうとしている絶望感から、逃避しようとしたのかもしれない。

 あるいは、父親との逃亡生活の中で、ジワジワとおかしくなっていったのかもしれない。

 大手掲示板サイトでも実の娘を拉致監禁したこの事件は取り上げられていて、事実か憶測か判別付かない意見が飛び交っている。そこに書かれていることがほんの一部でも真実を含んでいるならば、確かに響は正気を失っても不思議ではないだろう。

 いずれにしても、かつて彼女の中に生まれた『奏』は、きっと今でもまだ消えていない。あの夜虎徹が会ったのは、多分、いや間違いなく『奏』だ。


「『何か』のきっかけで、変わるのか……」

 不意に、背筋がゾクリと震えた。


 『響』を消し去れば、完全に『奏』になるのかもしれない。


「面白ぇ、な」

 ふと虎徹の右の頬が疼いた。そこは、あの夜『奏』が触れた場所だ。


 『響』に噛まれた傷は、とうに癒えている。だが、『奏』の指先がかすめていった頬には、未だ温もりが残っているような気がした。

 『響』を失えば、間違いなく凌には大きな打撃になる。それは、勝手に虎徹から離れていった彼への、格好の罰になるだろう。

 そうして、『奏』になった彼女は傍に置いておく。凌に代わる、新しい玩具として。


 あの女を、心の底から欲しい、と思った。


 虎徹が何かを欲するのは、ずいぶん久しぶりの事だった。

 常に何かが足りない気はしていても、その何かが判らないから欲することもできずにいた。

 彼女を手に入れれば、いつの頃からか生じていた彼の中のその空洞が、満たされるような気がする。

 だが、それには『響』のままでは駄目だ。虎徹が欲しいのは、『藤野響』ではない。あくまでも『藤野奏』である彼女だ。


「どうしたら、壊せる……?」

 深くソファに身を沈ませ、虎徹は考えを巡らせる。


 壊すことは、彼が得意とすることだった。


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