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君がいる奇跡  作者: トウリン
探し、求めた、その先に

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響の過去-5

 (ひびき)の頭のどこかに隠れてしまった『藤野響』。


 それはいったいいつ頃からのことだったのか。

 どうしてそんなことになってしまったのか。


 (りょう)が抱いた疑問は、その当時響に関わった者全てが共有したものだったのだろう。

 (なぎ)は片手を軽く上げてカウンターの奥のマスターに合図すると、凌にホットコーヒー、自分には、それで頭の中をクールダウンしようと思ったのか、アイスコーヒーを注文する。


 頼んだ品がテーブルに置かれると、凪は再び話し出した。

「あの時、響は九歳だった――奏と晋司君が出会った頃ね。だけど、何だか大人びた喋り方でね。でも、やっぱりどこか子どもっぽくて。すごく、奇妙、だったわ。すごく、歪んだ感じ」

 彼女はその時のことを思い出したのか、ほんの一瞬、身体を震わせた。

「あの子を担当した精神科の先生は、強いストレスを受けたことによる解離性同一性障害――いわゆる多重人格ってやつだってね。でも、その『強いストレス』というのが何なのかは、判らなかった。晋司君があんなことをしでかしたからかもしれないし、それよりももっと前からなのかもしれない。何しろ、響は何も語れなかったから、事実は何も判らなかったわ」

 凪がそう言って肩を竦める。


 彼女のそんな仕草を見ながら、ふと、凌は嫌なことに思い当たった。


 『強いストレス』。


「まさか、父親に何か――」

 言いかけた彼を、凪は強い口調で遮る。

「されてない。少なくとも、身体的には。言ったでしょう、身体には、何もなかったって。晋司君が響を完全に奏だと思い込んでいたのかもしれないっていうのは、すぐに思い当ったわ。だから、もしかして……って思った。だけど、痕跡は何もなかったのよ。暴力はもちろん――性的なものも。精神科の先生も、それはないだろう、と言っていたわ」

「そう、ですか」

 安堵のため息を漏らした凌に、凪は強い口調で断言する。


「確かに、晋司君は響と(かなで)を混同していた。彼はおかしくなってしまうほどに奏を愛していたけれど、やっぱり同じくらい強く、響のことも愛してた。だから、たとえ響を奏だと思い込んでいたとしても最後の一線は越えなかったのだろうし――自分がそうしてしまう前に、私に連絡をしてきたのだと思うわ。それが多分、『響を助けてくれ』ということだったんだと思うの」

「……あいつも、自分は親に愛されていた筈だ、と言っていました」

 響も、それを確信していた。


 だが。


(本当に、何もなかったのか……?)

 凌の疑念を感じ取り、凪がかぶりを振る。

 それは、否定の為だったのか、それとも、彼女自身の中にくすぶる暗いものを振り払おうとする為だったのか。


「私は、晋司君を信じていた。けれど、あの時、彼がどれほど常軌を逸してしまっていたかが、判らなかった」

 彼女は苦しそうにうつむいた。

「だから……だから、完全には疑いを拭いきれなかったわ。もしかしたら、痕跡は残さないような『何か』があったのかもしれないって。確信がなかったから――あの子の記憶を、積極的に取り戻そうとはしなかった。必要がある記憶ならいずれそのうち戻るだろうしって、ごまかした」

 それは、響の考えを無視した、独りよがりなやり方なのかもしれない。だが、苦しげに顔を歪める凪を責めることは、凌にはできなかった。


「親権奪われた父親が子どもを攫って連れ回し、数年間に渡って学校にも行かせず監禁。挙句の果てに首を掻っ(さば)いて自殺でしょう? 捜索願を出していたこともあって、警察も介入したわ。ワイドショーでも取り上げられて」

 凪の口元が苦い笑みで歪む。

「まあ、次から次へと新しいネタは出てくるから、一週間もすれば消えたけど」


 警察――ふと、凌は響と引き合わせた時の銀次の様子を思い出す。所轄は違っても子どもが絡んだ事件は目に付くだろう。きっと、彼女のことを知っていたに違いない。

 だから、何となく奇妙な眼差しだったのだ。


 ふっと凪が顔を上げ、銀次のことに思いを馳せていた凌を見る。その眼差しは、暗かった。

「あの子にはね、父親の名前を『晋介』って教えてあるの」

「晋介?」

「そう。今は、ネットで何でもかんでも調べられちゃうでしょう? ……正しい事なら、まだいいのよ。でもね、この件がニュースに流れた時、ネットでも結構なネタになったわ。みんな、あることないこと書き殴ってね。大半は憶測。でも、いつの間にかそれが『真実』になっていくのよね」

 殆ど吐き捨てるように凪が言う。凌はパソコンには触ったこともないのでインターネットのこともよく知らない。そこでどんな世界が展開されているのか、気にしたこともなかった。


「何が、書かれていたんですか?」

「口にしたくもない事よ」

 強い口調でそう言って、凪は小さく息をついた――胸の中の嫌なものを追い出すように。

 そうして、顎を上げ、話を切り替える。


「響を見つけて、今度は私が引き取ったわ。精神科の主治医を味方につけてね、ウチの親には、口出しさせなかった」

 凪の目の中にあるのは、両親に対する敵意だ。十年経っても彼らを赦していないことが、ありありと伝わってくる。

「あの子は『藤野響』としての自分を消し去ってたわ。ううん、消し去ろうとしてた、の方が正しいのかもしれない。『響』という名前を、耳にすら入れていないようだった。そんな響を、あの両親の元には置いておく気にはなれなかった」

「でも、今のあいつは『響』だ。どうやって――」

「戻ってきたかって? それはわからないわ。ただ毎日、くどいほどに『響』って呼び続けたの。反応無くてもね」


 凪のその言葉に、凌は、名前を呼んだ時に響が見せる安堵したような顔を、ふと思い出す。

 彼女にとって、名前はただの記号ではない。

 存在を確定するための、特別な呪文にも似た何かなのだ。


「そうしたら――あの子の十歳の誕生日のことよ。ケーキを前にして、突然ボロボロ泣き出したの。一緒に暮らし始めてから、あの子の涙を見たのはあれが初めてだったわ。どうしたの、響って訊いたら、あの子、私を見たのよ。『響』って呼びかけたのに」

 その時のことを思い出したのか、凪の顔がクシャリと歪んだ。今にも泣き出しそうに。

「あの子は涙をこぼしながら私を見て、不思議そうな顔で『誰?』って訊いたわ。まるきり初対面の人間に接するように。すぐに主治医のところに連れて行って、それまでの自分についての記憶が全部抜けていることが判ったの」

「記憶が?」

 確かに響は、自分には十歳の誕生日以前の記憶がないと言っていた。


(こういうこと、だったのか)


 凌は、理解した。

 ただ記憶が薄れたわけではない。

 本当に、消えてしまったのだ。


「ええ、全生活史健忘っていうんですって。多重人格から、今度は記憶喪失よ。できの悪いドラマみたいだったわ――でも、その日を境に、響は『普通の子』になったのよ」

「普通の子?」

「そう。普通の十歳の子――まあ、学校に行っていなかったから、勉強面ではさっぱりだったけどね。自分が『藤野響』だっていうこともすんなり受け入れて、いかにも『十歳の女の子』そのものになったわ。それから必死で勉強して、一般常識も覚えて、中学校からは他の子と一緒にやれるほどになったの」

「一般常識もって、それも忘れていたのか?」

「違うわ、そもそも『知らなかった』のよ。言ったでしょう、監禁されていたって。大袈裟に言ったわけじゃないのよ。近所の人は、誰も晋司君が子ども連れだなんて知らなかった。響はずっと家の中に閉じ込められていたの。テレビも置いてない部屋にね」

「そんなことは不可能だろう」

「でも、そうだったのよ。多分、引っ越す時くらいしか外に出されなかったんじゃないかな。あの子、お金のことも知らなかった」

 凌は絶句する。自分の生い立ちも『普通』ではないと思っていたが、響のそれは更に上手だ。今の彼女からは想像もできない。


「そんなで、よく彼女を手元から出せましたね」

 微かに非難めいた響きが、凌の声ににじんでしまう。自分だったら、外になど出さず、彼女をしっかりと護り続けてやるだろう。そうするべきだ。

 だが、凪から彼に返されたのはひんやりとした眼差しだった。


「そうね、その方が簡単よね。でも、あの子は頑張ったのよ。ちゃんと生きて行こうとして」

「生きて……?」

「ええ。つらい目に遭わせたくないからって閉じ込めたら、結局、晋司君がしていたのと同じことになるでしょう?」

 凪の言葉に、凌はムッとする。

「全然違う。俺はあいつの為に――」

「していることは同じよ。あの子の為って言いながら、やっていることは晋司君がしていたことと同じ。あの子の意志を無視してるわ」

 凌は反論しようとして――できなかった。


 唇を引き結んだ彼に、凪は容赦なく続ける。

「響が引きこもりたいというなら、そうさせたわ。その方が簡単だもの。でも、あの子は外に出て、ヒトの中で生きることを望んだのよ」

「だが、護ってやらないと、あいつが傷付く。それこそ、何かの拍子に昔のことを知ってしまったりするかもしれない」

「そうね、怖いわ。『その時』が来て欲しくない。でも、あの子が望まない以上、いつまでも真綿に包んでおくわけにはいかないのよ」

 凪が手を伸ばし、テーブルの上で固く握り締められた凌の拳にそっと触れる。


「あのね、あなたにここまでの話をしたのは、あなたを見ていると不安になるからなのよ」

「え?」

「あなたが響を大事に想ってくれているのは、すごく伝わってくる。でも、あなた、他のことが見えてないでしょう? 響しか、見えてない。それも、自分が見たいようにしか」


 それのどこが悪いのか。

 凌には凪の言わんとしていることが理解できず、眉間の皺を深くした。彼女は苦笑混じりで続ける。


「大事に想うということ自体は、とても良い事よ。でも、あの子しか見えていないのは、良くない。それじゃ、晋司君と同じになってしまう」

「そうはならない」

 ムッツリと答えた凌に、凪は宥めるように微笑んだ。

「かもね。でも、傍で見てると不安だわ。不安だから――響から離れて欲しいと思う」

 凪の口から唐突に出てきたその台詞に、凌は愕然とした。絶句している彼に、彼女はしっかりと言い聞かせるような口調で説く。


「別れろって言うんじゃないの。あの子があなたを選んだのだから、そこに私は口出ししない。だけど、もう少し、距離を置いてあの子を見て欲しいのよ。そして、あなたにはもう少し他のものにも目を向けて欲しい」

 そこまで言って、彼女は少し声音を緩めた。

「晋司君がああなったのは、彼が奏しか見ていなかったからだわ。あなたと響には、同じてつを踏んで欲しくない。あなたの周りには、響の他にもたくさん人がいるのよ? 響と生きていくなら、他の人にも目を向けて」


 ポンポンと、凪は凌の拳を軽く叩く。そうしてニッコリと笑顔になった。

「これで、私の話はおしまい。ずいぶん長いこと話したけれど、私が言いたかったのは、最後のところなの」

 それまでの深刻な話がウソだったようにカラリとした声で彼女は言うと、パッと椅子を引いて立ち上がる。そうして、にこやかな表情の中で、凌に向けられる眼差しは鋭い。


「これはね、響と――あなたにとって、とても大切な事よ。だから、良く考えてみて。じゃ、私は行くわ。またね」

 そう告げて、凪は凌が引き止める間もなく会計を済ませると、颯爽と店を出て行ってしまった。


 独り残され、彼は凪の話を反芻する。


 響しか見えていない。


 それは、確かに事実だった。


 彼女の父親と同じことをしている?


 それは、違う。そんなつもりはない。凌はただ、響を守りたいだけだ。


(――だが……俺は本当にあいつを守れているのか?)

 自問すると、きっぱりと頷けない自分がいる。

 凪といる時の響と、凌といる時の響は、明らかに違う。

 大事なものは、護ればいいのだと思っていた――か弱いものを容赦なく襲う『力』から。

 けれど、今、彼のその信念が揺らいでいた。


 ――響の為に――響と自分の関係の為に必要なことは、どうすることなのだろう?


 何か、底なし沼にでも捕らわれてしまったように感じる。


 冷え切った二杯目のコーヒーは、一口も付けられないまま残されていた。


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