響の過去-4
「弁解は、しないわ。父と母――それに私も、響たちにひどいことをしたのは事実だもの」
凪の台詞は、『私』に力が込められている。
咎を自分自身にも負わせた凪に、凌は眉をひそめた。
「あなたは、あいつを救った」
彼のその言葉を、凪は嗤い飛ばす。
「ずいぶん後になってからね。聞いているでしょう? その後の事を」
「――父親の、自殺……?」
「と、そこに至るまで。もっとも、あの子は私が話したことしか『覚えて』いないものね」
自らの行動を嘲るような凪の声。響がこの伯母をとても慕っていることは、誰の目から見ても明らかだろう。それなのに、彼女のこの罪の意識の強さは何故なのか。
「他に、何が?」
問い掛けの形で先を促す凌に、凪はそれでもしばらく口をつぐんでいた。
そして、ポソリと言う。
「仔猫を食べちゃう母猫」
「え?」
脈絡のない話に眉間に皺を寄せた凌には構わず、彼女が続けた。
「ほら、仔猫を産んだばかりの母猫が、ストレスかかると仔猫を食べちゃうことがあるでしょう? あんな感じ。晋司君には、周り中が敵のように思われたのかもね。それから響を護ろうとするあまり、壊れちゃったのかもしれない」
「自殺したこと?」
「いいえ、それだけじゃない」
凌の問いに、凪は首を振った。
「彼は響を連れて、逃げ出したのよ」
「逃げた?」
「そう、完璧に行方をくらましたわ。うちの両親から響を助け出そうとしたのかもしれない。あるいは、単に自分の元に取り戻そうとしただけなのかもしれない。いずれにしても、きれいに姿を消したの。響が小学校に上がる直前に」
姿を消す。
この日本で、そんなに簡単に他人の目から逃れることができるのだろうか。
凌はそう考え、ふと思う。
彼が十四歳で家を飛び出した時、いったいどれほどの人がその消息を気にしていただろう。多分、誰もいない。きっとそのままどこかに消えてしまっても、誰も気にしなかったに違いなかった。
人は、自分と関係のない者のことなど、気に留めない。
自分自身に影響が及ばなければ、すぐ隣で何が起きていようが、関係ないのだ。
そうでなければ、晋司にも凌にも、幼い頃に何者かの手が差し伸べられていた筈だから。
真冬の夜中にベランダに座り込んだ子どもの姿や、薄い壁が震えるほどの怒鳴り声、激しい物音。
目や耳に入っても、自分に『縁』のないことであれば、それを脳に入れて、その事態を疑問に思うことをしない。
凌も晋司も、『孤独』だった――凌は響に、晋司は奏に逢うまでは。
出逢って彼女たちとつながることができて、独りではなくなった彼らはただの種としての『ヒト』から『人間』になれた。
――だが、ある意味、その出逢いはもう遅過ぎたのかもしれない。
凌には自分がヒトとして何かが歪んでいるという認識はあっても、それをどう直したらいいのかが判らない。今さら、直しようがない。
出会った頃の響と、今の響。
明らかに、その目の中の陰が濃くなっている。
何かが彼女を不安にさせているのは、判っていた。多分、その原因に、凌自身が含まれていることも。
もしも自分がもっと『真っ当』な人間なら、もっと正しく響を支えてやれる筈なのだ。
先週、凪といる響を見て痛切にそう感じた。あの日の帰り道、凪の家から一歩離れるごとに彼女がまた沈んでいくのが感じられて、凌はどうにもできない自分がもどかしくて悔しくてたまらなかった。
テーブルの下、膝の上で両の拳をきつく握り、表情は穏やかに、凌はともすれば泥沼のような物思いに沈み込んでいく凪に水を向ける。
「あいつのこと、捜したんですね?」
彼女は深く頷く。
「もちろん。警察には捜索願を出して、民間の調査会社にも依頼したわ。でも、見つからなかった――二年経っても、三年経っても。警察は全然駄目でね、調査会社からも良い報告が無くて。彼らは優秀で頑張ってくれていたのだけれど、晋司君は同じところに三ヶ月といなかったから、調査会社の人が付き止める頃にはまた次の場所に行ってしまっていたのよ」
その当時のことを思い出しているのか、凪は少し疲れたような声でそう言って、肩をすくめる。
「少なくとも生きているっていうことだけは判っていたから余計に諦められなくて、月日だけが経っていったわ」
「でも、見つかった」
でなければ、凌は響と出会えていない。
彼の言葉に、凪が苦笑する。
「見つかった、というのとは少し違うわね。彼から――晋司君から電話があったの」
「父親から?」
「ええ……取り乱して――というより、錯乱して、といった方がいいくらい、支離滅裂だったわ。響を奏と呼んだり、響を助けてくれと言ったり、自分のことを化け物呼ばわりしたりね。ホントに、もう、滅茶苦茶で……怖かった」
それを思い出したのか、凪が自分自身を抱き締めるようにその身体に両腕を回す。
「居場所は彼の方から?」
「いいえ、そんなまともなことは言えなかった。公衆電話だったから番号はわからなかったけど、携帯に録音しておいたその電話を、捜索を依頼していた調査会社に持っていったのよ。そうしたら音声を解析してくれてね」
「解析?」
「ええ。ほら、背景の音を拾ってそれだけ取り出したりとか、ドラマとかでやってるでしょう?」
「テレビは観ないから」
「そっか……まあ、とにかく、元々IT関連企業の一部門だったから、そういうのが得意だったみたい。バックの音から駅名を拾ってくれて、あとは虱潰し。電話から三日後に、ようやく響たちが住んでいるアパートを見つけ出せたわ」
ふと見ると、凪の顔は真っ青だった。
凌が気遣う台詞を口にしようとしたその時、彼女が大きく息を吸う。一度息を止めて、ゆっくりと吐き出した。
彼はその様子を黙って見守る。
「三日間、ね……私たちがその部屋のドアを開けた時、中は薄暗かった。遮光カーテンが閉め切られていて。あと、異臭。響の誕生日を何日か過ぎたくらいの頃だったから、もう気温も高くて。臭いが、していたわ」
臭い。
つまり、それは――
眉根を寄せた凌に気付かず、凪はむしろ淡々とした口調で続ける。
「部屋の中に入って、最初に気付いたのは、部屋の真ん中に倒れていた晋司君。うつ伏せで、首から流れた血が、床に大きく染みを作ってた。しばらく、響には気付かなかったの。あの子はまだ小さかったから、見えなかった」
「――どこに、いたんだ……?」
凌は答えを聞きたくないと思った。何か、とてもイヤな予感がしたから。
だが、これは響のことだった。彼女を理解する為に、聞くべきことだと思った。
凪は硬い表情で、ほとんど囁くような声で凌に告げる。
「晋司君の、下」
その瞬間、凌は腹を鷲掴みにされたような感覚に襲われた。十年以上も昔のことでも、まだ記憶は鮮明なのだろう。顔を歪めた彼と同じくらい、凪の顔も引きつっている。
「仰向けになって寝転んだ響に、晋司君は覆い被さるようにして、亡くなってたわ。響の目は、開いてた。真っ直ぐ上を見つめて、私が覗き込んでも、ほんの少しも反応しなかったけれど」
その姿がまざまざと脳裏に浮かんでしまい、凌は氷が溶けきったグラスの水をゴクリと一口飲んだ。凪は、ピクリとも動かず肩を強張らせている。
「生きていないのかと、思ったの。晋司君が一緒に連れていってしまったに違いないって。でも、あの子が瞬きして……」
凪の声が、微かに震える。
「慌てて彼の下から引っ張り出して、身体中血塗れだったけれど、響には傷一つなかったわ。後で医者にも連れて行ってちゃんと調べてもらったけど、身体には、何一つ問題はなかった」
「身体には?」
何か引っかかる凪の言い方に、凌はその言葉を繰り返す。彼女はジッと彼を見返して頷いたが、それ以上は何も付け加えることはなかった。凌の疑念を無視するように、凪は言葉を継ぐ。
「響は私が何度『響』と呼んでも、全然反応しなかった。少なくとも行方をくらますまでは、耳はちゃんと聞こえていた筈なのに。大声で、揺さぶって、何度読んでも、ダメだった」
暗い目が、凌に向けられる。
「まさかと思って、呼んでみたの――『奏』って」
「返事を、した?」
「ええ、そうよ。満面の笑みでね。それから一年、『藤野響』は存在しなかったわ。代わりに、『藤野奏』がいたの」
そう言って、凪は細く深く、ため息を吐き出した。




