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君がいる奇跡  作者: トウリン
探し、求めた、その先に

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響の過去-3

 (なぎ)は固まったように身じろぎ一つしない。

 彼女からひしひしと押し寄せてくる感情は、いったい何に基づくものなのだろうと(りょう)は考える。


 妹を失ったことへの悲しみだろうか。

 だが、肩を落とす凪からは、もっと重く苦しいものが感じられた。


 やがて彼女は細く長く息を吐き、口を開く。

(かなで)が事故に遭ったのは、それから一年と少ししてからの事だったわ。晋司(しんじ)君と(ひびき)を家に置いて、ちょっと近くのスーパーに買い物に出て……歩道に乗り上げてきた車にはねられたの。頭を強く打って、殆ど即死だったって、聞いてるわ。苦しんだことはなかっただろうって」


 凪はそこで声を詰まらせ、冷めたコーヒーを一気に飲み干した。そして空になったカップの中にその時の光景が見えるかのように、ジッとそこを見つめる。

 十年以上が経っても未だ少しも色褪せていない悲しみが、伝わってきた。響の前で明るく笑っていた快活な伯母の姿はそこにない。


 身体の中に溜まった澱を吐き出す如く、凪は言葉を振り絞る。

「流石に父と母もやって来て、悲しんで――そして晋司君を(なじ)ったわ。お前が奏を連れて行かなければって」

 彼女の目が、強い光を帯びた。

「でも、奏は意志のないお人形さんじゃない。あの子は見た目は頼りなさげだったけれど、自分の考えを持っている子だった。晋司君が『連れて行った』訳じゃない。奏自身の意志で彼と一緒に行くことを決めたのよ」

 早口でそこまで言って、一転、苦々しげな声。

「でも、うちの親は全てを晋司君に押し付けた。彼は黙ってそれを受け止めていたわ。一言も反論せずに」


 そこで凪が顔を上げ、フッと微笑んだ――悲しげに。

「私は、何も言えなかった。両親の言葉を理不尽だと思ったけれど、黙って聞いていただけだったの。私自身にも罪悪感があったし――もしかしたら、やっぱり、私も心のどこかで彼を責めていたのかもしれない。彼と出会ってさえいなければ、奏が死ぬことはなかったのかもしれないって」

 そう言った彼女の目の中にあるのは、自嘲の色だ。

「彼は、多分、私のそんな気持ちも感じ取ったんだと思う。他人の感情の機微にとても敏感な人だったから。その場に、彼の味方はいなかった――響以外は。晋司君はあの子を、まるで命綱みたいに抱き締めていたわ」

「あいつは――響は、その時、五歳……?」

「ええ、そうね。五歳の誕生日を迎えてすぐの頃だったわ」

 凌の脳裏には、皆から責めを受ける父親に縋り付く幼い頃の響の姿がまざまざと浮かんだ。


 どんなにか、心細かっただろう。


 凌は、無性に響に逢いたくなった。逢って、彼女を抱き締めたい。きっと、その時の晋司は彼女を護る為ではなく、彼女を支えにする為に抱き締めていたのだろう。

 凌は彼の代わりに、響を包み込んでやりたかった。全ての嵐から守ってやる為に。

 しかし今はそうできなくて、彼は両手を強く握り込む。


「それで?」

 いつしか二人して黙り込んでいて、凌は沈黙を破って凪にそう声をかける。促した彼に、彼女はハッと物思いから醒めるようにいくつか瞬きをした。

「でね、晋司君と響は、うちの両親の家の近くで暮らすことになったわ。その頃私は働き出したばかりで、家を出ててね。何となく何かが不安だったけれど、両親が付いているなら大丈夫だろうって、思ってた――思おうとした」

「実際は……違った?」

 囁くような声で凌は訊く。彼女は一瞬唇を噛み締め、そして頷いた。


「最初は気付かなかったんだけどね、晋司君が響の事を時々『奏』と呼ぶようになったの」

「それは、母親の名前だ……」

「ええ、そう。彼自身、そう呼んでからハッと気が付いてって感じで。無意識にそうしているみたいだったわ。うっかり間違えたっていうには、ちょっと――怖かった。うちの両親は相変わらずで、顔を見れば彼を責めているような状態だったから、多分気付いていなかったんだろうと思う」


 ふと見ると、テーブルの上に置かれた凪の両手が、関節が白くなるほどにきつく握り締められていた。


 彼女から溢れる、一際強い感情。


 その正体を見極める前に、凪が続ける。

「私はそれが不安で、相談したの。児童相談員をやっていた知り合いに」

「児童相談員?」

「ええ、あなたなら知ってるでしょ? 児童相談所。あそこで働いている人なら色々な家庭や難しい状況の家族なんかを見ているだろうから、何かアドバイスがもらえるかと思って」

 凪が、大きく息を吸う。


「……でも、私は間違えた」


 今、彼女の目の中にあるものは、明らかな自責の念だ。


「ただ知人に相談しただけだろう……?」

「ええ、私はそのつもりだった。けれど、彼女はそれを彼の地域の児童相談所に報告し、そこからうちの両親の元に話が行ってしまったの」

 そこで凪は深く息をつく。

「父と母の動きは早かった。すぐに晋司君から親権を取り上げて、響を自分達のところに引き取ったわ」

「親権って……そんな簡単に奪えるものなのか?」

「一番大きかったのは、晋司君の生い立ちね。虐待されて育って、教育もろくに受けていなくて、若い。そんな人が独りで子どもを育てられる筈がない。働いてはいるけれど、そんなにいいお給料をもらえているわけではなかったし」

 彼女の口から洩れる、乾いた嗤い。

「しかも『精神的に不安定』ときたらね」


 棒読みで口にしたその台詞は、きっと、決定打として響の父親に何度もぶつけられたのだろう。

 本当に、どれほど異常をきたしていたのかは、別として。


「それにうちの両親はそこそこ裕福で、地域の信頼もあって、まだ充分に子育てができるくらいに若かったから……」

「響を、奪われた」

 呟いた凌に、凪が顔を歪ませる。泣きそうなのを堪えるように。

「そう。私の所為でね。それまでは、彼は私の事は信頼していてくれた。たとえ、奏のことで多少の溝はできてしまっていても、それでも、まだ彼にとっては『味方』だった。でも、この一件で、彼には本当に一人も味方がいなくなってしまったのよ。私のしたことが、彼を追い詰めた」

「しかし、それは仕方がなかったのでは?」

「晋司君に対しては、そう言えないわ。彼はそれ以来ふっつりと連絡が取れなくなって、職場にも姿を見せなくなったの。私は不安で……せめて響の事は、と思ってマメに実家に立ち寄ったわ。だけど、響も会う度毎にどんどん目の輝きが失せていって――」


 ギュッと、凪の手に力がこもった。


「あなたや晋司君みたいに、露骨に何かをされていたっていうわけじゃないわ。でも……両親にとって、あの子は『可愛い娘の子ども』である以上に『可愛い娘を奪った男の子ども』だったのね、きっと。公平な人たちだと思っていたけれど、そうじゃなかったんだわ」


 凌には、理解できなかった。

 いたいけな存在に、どうしたら、慈しむ以外の想いを抱けるのか。

 見たことすらない響の祖父母に、これまで抱いたことのないような感情――怒りか、嫌悪か、侮蔑か、その全てか――とにかく、胸の中が焼けるような感覚に襲われる。

 それを堪える為に奥歯を噛み締めた凌の耳に、もう何度目か判らなくなったため息が届く。


「そういう歪みに気付いた時には、もう遅かった。もう、どうにもできなかったの」

「あなたが引き取ることは――」

 視線を落としたまま、彼女がかぶりを振る。

「できなかった。私は独身だったし、仕事を始めて間もなかったしね。子どもを引き取る『資格』がなかった」

 凪の口からこぼれたのは、深い溜息だ――とても濃い、後悔の念を含んだ。

「父と母も、響自身が憎かったわけじゃないの。だから、手放す気はなかった。二人とも、あの子にとって良いことをしているつもりだったのよ。でも、言葉の端々、仕草の一つ一つであの子の父親を責めて、あの子の生まれを責めたんだわ。そうして、響自身は、奏の代わりにされたのよ」


 自らの親でもある二人の事を、凪は吐き捨てるように言う。

 だが、振り返ってみれば、響から凪の事はよく聞かされたが、祖父母の事は一度も耳にしたことがなかった。十歳以前の記憶がないとしても、存命なことは知っている筈だ。


 だが、響は祖父母の事には一切触れない。


 それが、彼らに対する彼女の意識を何よりも如実に表しているように思える。


「それも、虐待の一つだ」

 凌がこぼした一言に、凪は頷いた。

「ええ、そうね。でも、目には見えないから始末が悪いわ。身体的な虐待なら、それを盾にとって二人から響を引き離せたのに。あるいは、せめて、私がもう少し年を食っていたらね」

 そこで、ほんの少し、彼女の声の力が弱くなる。肩も、心なしか落ちて。

「……父と母は、奏を愛し過ぎていたのよ。だから、あの子が自分達を『裏切った』ことを許せなかったし、多分――あの子を死なせてしまったことで自分達を責めていたんだわ。その気持ちが変なふうに裏返ってしまったのかもしれない」

「だからといって、響にそれを向けるのは間違いだ」

 凌の胸に、会ったことも無い者への怒りが湧き上る。それは、彼自身に暴力を振るっていた父親に対してですら、抱いたことのない感情だった。


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