響の過去-2
凪の言葉に、凌の動きが一瞬止まった。
そんな彼をチラリと見て、凪が続ける。
「出会った頃はね、気付かなかったわ。私が知ったのは何年も後になってから。ずっと、ただ『貧乏そう』って思っただけだったのよ。サイズの合っていない服を着ていたりしてね。怪我は、見えるところには、なかった」
凌は無意識のうちに腹の辺りを撫でる。服の下に残る無数の傷跡を。
彼の父親も、多少の理性が残っている時は、服で隠れる場所を狙った。怒りや酔いでそんな事を考える頭が吹き飛んでいる時は、どこだろうとお構いなしだったが。
「妹は、初めて彼の傷に気付いた時、泣いたわ。もっと早く知っていればって」
「響も、俺の傷を見る度に同じようなことを言います」
「あはは。そうだろうね。その場面が目に見えるようだわ。二人が初めて会ったのは、妹が八歳、晋司君が十一歳の時だったかしら。うちで飼ってた猫がいなくなってね、それを捜してて出会ったんですって。あの子の事だから半泣きでウロウロしてたんだわ。きっと晋司君は放っておけなかったんでしょうね」
凪が笑いを含んだ目を凌に向けた。同じ立場なら、あなたもそうするでしょう? と言わんばかりに。
――確かに、多分同じことをするだろう。
「それからも時々二人は逢うようになって、私もたまに一緒に過ごしたわ。同じ学校の筈だったけれど、校内で見かけたことはなかったの。妹と三人でいた時に何かの拍子で学校の話が出て、そこで初めて同じ小学校だって知ったわ。でも、その時はあまり気にしなかった。不登校の子は他にもいたし。――親が登校させないようにしていただなんて、思ってもみなかった」
「登校すれば、その間は親の支配が弱まるから」
「ええ、そうね。外で自分たちがしていることを話されるのを恐れたんでしょうね。でも、不思議だったのは晋司君の方よ。外に出られるのに、助けを求めはしなかった。何か言ってくれれば、何かできたかもしれなかったでしょう?」
悔しそうに凪が言う。けれど、凌には晋司の気持ちが何となく解かった。
ヒトは環境に慣れるのだ。どんなに苦しい状況でも、長くそこに浸かっていれば、次第に何も感じなくなる。
凌もそうだった。自分自身に対する痛みは克服し、殺されない程度にかわす術を身に付けた。
ふと、凌は思った。
もしも、妹の千穂がいなければ、凌も父親に逆らうことはしなかったかもしれない。だが、彼女の怯える姿が彼を奮い立たせた。多分、幼い妹を護ることで、凌も自分自身を支えていたのだろう。
きっと自分は、『誰か』がいないと生きていけないのだ。
自分一人では、生きる意味も理由も見い出せない。
今の彼にとってのその『誰か』は響だ。彼女に出逢ってから、凌は『生きる』ことをし始めた。日々の生活も、未来を見つめることも。
響を守っているつもりで、実は彼女にすがっているのかもしれない。
(――情けない)
凌は小さく自嘲の笑みを漏らす。それに気付いて小さく首をかしげた凪へ肩を竦めて返し、先を促した。
「……晋司君は身体が大きくてね、妹はチビだったから、何ていうか……ドーベルマンにまとわりつくヒヨコ? そんな感じだった。でも、彼は全然邪険になんかしなくてね」
言葉を切った凪が、微笑む。その頃の光景を思い出して懐かしむように。
「まだどちらも子どもだったのに、妹を見る晋司君の目は――『慈しむ』……『愛おしむ』……そういう表現がぴったりな眼差しだった。何だかね、彼の中の温かい気持ちが、全部あの子に注がれてたっていう感じでね」
「彼女も、懐いていた?」
「そうね。晋司君のように『周りが見えない』っていうほどじゃなかったけど、やっぱり、とても慕っていたわ。彼といる時が、一番幸せそうな笑顔だった」
そこで、小さなため息。
「だから、当然の成り行きだったんだわ」
「……何が?」
「響が、できたの」
「ああ……」
凪がカップを握り締める。もうすっかり冷めているそれは、まだ半分ほど残っていた。その表面にさざ波が立っている。
「妹が十五歳、晋司君が十八歳でね。その何年か前、ちょうど中学校を卒業する年になってようやく彼の両親の虐待がばれて、二人は逮捕されたわ。晋司君は高校にも行かずに働き始めてて――あの子は、産みたいって、言い出したの。当然、うちの親は激怒よ。まあ、当たり前か。もう、揉めに揉めてね。絶対産みたい、イヤ駄目だ、中絶しろ――って」
「中、絶――?」
「そう。あの子はまだ高校生だったしね」
もしかしたら、響はこの世に存在していなかったかもしれないのだ。
そう思った瞬間、凌は音を立てて足の先から血が流れ出していくような感覚に襲われる。
「でも、しなかった。響を産んでくれた」
「ええ。駆け落ちしたのよ」
苦笑と共にサラリと言った凪に、思わず凌が声を上げる。
「駆け落ち!?」
「うちの親は『誘拐だ!』って、怒ってたけどね。警察にも訴えたけど、綿々と気持ちをつづった手紙をあの子が残してったから、『家出なんでしょ?』って感じで」
その駆け落ちを言い出したのはどちらからだったのだろうと、ふと凌は疑問に思った。何となく、響の母親の方な気がしてその考えを凪に言うと、彼女は肩を竦めて頷く。
「その通り。二人の関係は、だいたいの場合、晋司君が受け止める側だった。うちの父は彼の方から手を出したに決まってるって言ってたけど、そうじゃないと思うのよね――確認したわけじゃないけど。晋司君は、あの子にただ触れるだけのことでさえ、どこかためらいがちだったから……。何ていうかね、ただ、傍に居られればそれでいいっていう感じ。十八歳の男が枯れてるわよね……奏の方から痺れを切らして攻めたって聞いても、全然不思議じゃないわ」
「かなで?」
唐突に出てきたその名前を、凌は聞き止める。
「そう、あれ、妹の名前、言ってなかったっけ? 演奏の奏で『かなで』って読むの」
「かなで……」
その名を、凌は一度だけ耳にしたことがあった。
割と最近――だが、凪の家を訪問する前のことだ。
――「わたしは『かなで』よ」
眠りの淵から、響は確かにそう言った。声の調子まで、はっきりと覚えている。
(どういうことだ?)
何故か、背中がゾクリとした。
「どうかした?」
ハッと顔を上げると、怪訝そうな顔つきをした凪が眉をひそめている。
「いや……何でも、ないです」
「そう? 具合が悪いんじゃないの?」
「大丈夫です」
かぶりを振りながら、凌の胸の中はざわついていた。
きっと、ただ寝惚けていただけだ。彼はそんなふうに自分に言い聞かせ、納得させようとする。
凪はしばらく窺うような眼差しを凌に向けていたが、やがてまた口を開いた。
「私はあの子が家を飛び出して行ってからも親には内緒でメールや電話で連絡を取っていてね、いつもとても幸せそうだったわ。だけど響が生まれてもうちの親は会おうとしなくて、奏が二十歳になるのを待って、二人は籍を入れたの。その時、久し振りに逢いに行ったのよ。奏は全然変わってなくて、晋司君はすごく落ち着いていて、響は四歳で最高に可愛かったわ。もう、完璧な家族で」
柔らかな微笑みが凪の顔に満ち、そしてふいに消えた。
「――それが一年で壊れるだなんて、夢にも思っていなかった」
凪が両手に顔を埋める。見たくない現実から目を背けるように。
母親の死、だ。
凌は響から聞かされていたことを思い出す。
確か彼女が五歳の時に、母親が亡くなったと言っていた。
自分だったら、響を失ったらどうなるだろう。ある日突然、響がいなくなったら。
想像すら、したくなかった――できなかった。
凌は窓の外に視線を流す。住宅街にあるこの喫茶店の窓から見えるのは、立ち並ぶ家々だ。そのすべてに人が暮らしている。
響を失ったとして、『代わり』を見つけられるだろうかと彼は自問した。
答えは、『否』だ。
理由など解からない。けれど、響の他に、彼を『生きさせる』ことができる者などいないと思えた。
これほど多くの人間がいるのに、何故、『失えないただ一人の存在』などというものができてしまうのだろう。
凌は再び店の中に――凪に目を戻す。そうして、彼女が再び語り出すのを待った。




