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君がいる奇跡  作者: トウリン
探し、求めた、その先に

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出逢い

 店の中は、それなりに賑わっている。

 時刻はすでに深夜の零時を回っているが、日本有数の歓楽街であるここ新宿なら、当然の光景だ。むしろ、真昼間よりも客数は多いかもしれない。


「オレ、あっちな」

 雑誌コーナーを指差しながら、虎徹こてつが彼から離れていく。

 りょうも目当ての酒類売り場の方へと向かった。と、通路の真ん中に置かれた脚立が、デンと立ちはだかる。

 邪魔くさいと思いつつ、凌はその横を擦り抜けて目当ての品を目指す。

 ビールの銘柄は決まっていた。特にそれが好き、というわけではないが、いちいち考えるのも面倒くさいのだ。それを四缶ほど取り、戸を閉める。


 ああ、そうだ、つまみも買っていこうかと向き直り――凌は何気なく脚立の上に立つ者に目を向けた。

 この店舗は、凌も三日に一回は利用する。この時間、いつもなら無愛想な茶髪の若い男と眼鏡をかけた小太りの中年男が店の中にいる筈だった。中年男は、レジにいる。だからてっきり、茶髪男が脚立の上にいるのだと思っていた。


 が。


 そこにいるのは女だった――いや、少女、か。


 こちらに背を向けているので容姿は判らないが、ユニフォームがだぶつく華奢な背中はだいぶ若そうだ。

 彼女は、中途半端な高さの脚立のステップに立ち、危険なほどに身を乗り出して天井の電球を換えている。彼女が身動きするたびに、肩まで程の艶やかな黒髪がサラサラと揺れた。


(危ねぇな)

 ふと眉を潜めて、凌は内心でそう呟く。

 明らかに、脚立を置いた場所が悪かった。もう少しずらせば、あれほど不自然な体勢にならずに済んだと思われるのだが。


 凌はその場に留まり、何となく見守ってしまう。

 彼女は取り敢えず古い電球を外し終え、小さな手が新しい物をソケットに捻じ込んでいく。


 ――もう終わりそうだ。


 そう、凌が思った時だった。


 手が滑ったのか、彼女が左手に持っていた古い電球を取り落しそうになる。辛くもそれは捕まえたが、その瞬間、バランスを崩した彼女の身体が大きく揺れた。


「うひゃッ!?」

 色気のない、多分悲鳴と思しき声が上がり、体勢を立て直そうと起き上がった上半身が勢い余ってそっくり返る。それを支えようと手が泳いだが、当然掴めるものは何もない。

 考えるより先に、凌は前に踏み出していた。

 缶ビールが床を打つ音が続けざまに響く。

 直後、凌の肩口に加わった重み。

 後ろ向きに倒れてきた彼女を、彼は肩に担ぐような形で受け止めた。そのままずり落ちそうになるのを、腹に腕を回して支える。


 細い。


 必要以上に腕に力を入れそうになって、凌はハッとそれを緩めた。だぶついたコンビニの制服では気付かなかったが、その身体は戸惑うほどに華奢で――そのくせ、柔らかい。

 その心許ない感触に古い記憶が疼いて、凌は不安にも似た胸騒ぎを覚える。

 次いで鼻先に漂った甘い匂い。よく彼にまとわりついてくる女たちが身にまとっているむかつくような香水の臭いではない、淡く優しい香りだ。


「あの……」

 耳朶をくすぐる小さな声に、彼は我に返って瞬きを一つする。

 気付けば、凌の腕は店員をガッツリ抱え込んでいた。身動きの取れない彼女は、首を捻って彼の顔を見上げてくる。


「ありがとうございました」

 そう言って、ニコリと笑った。途端、ズクリと彼の胸が疼いた。

 今まで経験したことのないその感覚に、凌は戸惑いを覚える。思わず、彼女の同に回している腕に力を込めてしまう。


「あの……?」

 固まった彼に困惑したように、店員が遠慮がちに小さな声を出した。

「あ……ああ」

 凌は曖昧に唸り、そのまま彼女を持ち上げてそっと床に下ろす。あまりに軽くて、『持ち上げた』とも思えなかったが。


 脚立から下りた彼女は、凌の胸ほどまでしかなかった。彼が大柄な所為もあるかもしれないが、彼女自身も小柄なのだ。たぶん、百五十センチそこそこだろう。

 小さくて弱々しげで――凌は、彼女がこんな時間にこんな地域にいることに苛立ちを覚えた。

 ここ新宿は、お世辞にも治安がいいとは言えない。暴力沙汰も、しばしばある。

 そんな場所に彼女のような者がいるのは、何か間違っている気がする。


「あんたは――」

 つい、声が出た。

 声が出て、自分がそんなふうに考えていることに気付いて、凌は憮然とする。

(いや、別に俺には何の関係もないだろう?)

 胸の中に湧き上った奇妙な疼きをそんなふうに打ち消して、凌は眉をしかめた。


 そんな彼に、彼女はもう一度礼の言葉を口にする。

「ありがとうございました。助かりました。まさか落っこちるとは思わなくて」

 ペコリと頭を下げた拍子に、ふわりと髪が跳ねた。

 再び起き上がった彼女の胸の名札には、『藤野』とだけある。

 こんな時間に高校生がバイトに入れるわけがない。少なくとも十八歳は超えている筈だが、そうは見えない。童顔だから、と言われればそうなのだが、外見だけの問題ではないような気がする。

 頭が鈍そうだとか、そういうわけでもないのだが。


 彼女――『藤野』を黙ったまま見下ろす凌の視線には気付いていないように、彼女は床に散らばるビールの缶を見回した。

「うわぁ……すみません。ビール、落っことしちゃったんですね。あわあわになっちゃいましたね、きっと。うう……ちょっとへこんでるし……」

 屈んでそれらを拾い集めた『藤野』は、小さな声で呟く。と思ったら、パッと缶から顔を上げて、また、笑った。


 思わず、凌は小さく顎を引く。

 女の笑顔など、今までにも散々向けられてきた。それらはどれも凌の気をそそろうとする意図に満ちていたが、にも拘らず、彼女たちの作り笑いで彼の心が動いたことはない。

 だが、目の前のこの子どものようなあけすけな笑顔は、何故か凌の目を奪った。そこから目を逸らすことが、できない。


 傍から見たら明らかに挙動不審な彼の凝視だが、それを気にも留めたふうもなく『藤野』は言う。

「他のをお取りになってくださいね。これは下げちゃいますので」

 そう言って身を翻した彼女の腕を、凌は思わず掴んでいた。

「お客様?」

 怪訝そうな顔で振り返る彼女に、笑みは無い。凌はもう一度笑って欲しいと思った。そして、そんなふうに思った自分自身に、また、戸惑う。


「いや……それでいいから。少し置いておいたら飲めるだろ」

「でも、ほら、ここ。へこんでますよ?」

「中身は変わらないだろう?」

 言いながら、手を差し出して『藤野』の腕の中のビールを受け取ろうとする。彼女はやや納得がいかなそうな顔をしつつも、それを渡そうとした――が、途中でハッと息を呑む。

 固まった彼女の視線を追うと、彼自身の左腕に辿り着いた。そこには血がにじんだ布が巻き付けられている。赤い汚れは先ほどよりも少し広がっていたが、床に滴る程ではない。


 凌が「お前のせいじゃない」と言うより先に、彼女から続けざまに畳みかけてきた。

「それ、わたしのせいですか? どこかにぶつけちゃいましたか?」

 大雑把とは言えすでに手当はしてあるのだから、冷静に考えれば今の事とは何の関係もないと思えただろう。だが、動転した彼女は半泣きだった。と思ったら、クルリと踵を返してレジ台にビールを置いて彼の元に戻ってくる。

「こっちに来てください」

 言うなり、傷が無い方の彼の右手を掴むと、『関係者以外立ち入り禁止』と書かれたドアを押し開け入っていく。


「そこに座ってください」

 きっぱりと凌にそう告げて、自分は彼に背を向けて戸棚の中を漁り始めた。

 言われるままに粗末な丸椅子に腰を下ろした凌が見守る中で、やがて彼女が取り出したのは、救急箱だ。

「それ、取りますね?」

 ようやく彼女の意図が読め、凌は立ち上がる。

「いい。たいした怪我じゃない」

 そのままスタッフルームを出て行こうとした彼を、予想外に鋭い声が引き止めた。そして、彼の上着の背を掴む小さな手も。


「ダメですよ、そんなに血が出てるじゃないですか。ちゃんとキレイにしておかないと。それにその布、なんか汚いです」

 凌は振り返ってもう一度「いらない」と言おうとしたが、目にしてしまった彼女の様子に口を閉じる。声はしっかりしているのに、顔は泣きそうだ。それ以上拒めば本当にその大きな目から涙が零れ落ちそうで、凌は屈服する。


 子どもが泣くのは、嫌いなのだ。


 厳密に言うと目の前の店員は子どもではないが、どこか幼い雰囲気が、彼が心の奥底に沈めた大事な面影を浮かび上がらせる。


 諦めたように再び椅子に腰を下ろした凌に、『藤野』はわずかに頬を緩めた。

「じゃあ、取ります」

 硬い声で宣言すると、そんなに慎重にやらなくても、と思うほどの手付きで、彼女は布を取る。出てきたのは、水平に十センチほど切り裂かれた上着の袖だ。その下の肉がどれほど切れているのかは、凌自身もまだ確認していない。


「これ、何かで切られたんですか?」

 息を呑んだ『藤野』が、そう訊いてくる。

 普通の頭を持っていれば、それは当然出てくる結論だった。どう見ても、自然に切れたものではない。

 肩を竦めただけの凌を『藤野』は物問いたげにジッと見つめてきたが、何も言おうとしない彼に小さなため息をこぼした。


「上着を脱ぎましょう。右腕から先に脱いだら、あんまり痛くないかな……」

 自信無さそうに言いながら、彼女は凌の上着に手を伸ばす。恐る恐るな『藤野』に先んじて、凌はさっさとそれを脱いでしまう。

 上着の下は半袖で、脱がなくても、傷は見えた。周囲に血が付いている為、程度は今一つ判然としない。生々しい傷口を目の当たりにして、『藤野』は自分の方が余程痛そうな顔になった。


「痛く、ないんですか?」

「別に……傷を見て気が済んだだろう? 後は家に帰って自分でやるから」

「でもこれ、縫った方がいいんじゃないかと思うんですけど」

「いらねぇよ」

「でも……――じゃ、包帯だけ巻きますから。その前に、ちゃんと洗いましょう?」

 凌はそれも「いらない」と言いかけたが、気を変えた。どうせ、家に帰ったらしようと思っていたことだ。ここでごねても時間の無駄なだけだろう。


 さっさと立って流しに向かった凌に、『藤野』がついてくる。

 傷の手当など、凌には慣れたものだった。たいていのことは対処できる――流石に脚の骨折はうまく治せなかったが。幼い頃に曲がったままでくっついてしまった右脚は、今でもわずかに動きがぎこちない。

 凌は水を出して勢いよく傷口を流す。血を洗ってしまうと、上着と同じように、彼の二の腕の外側に五センチほどの水平な傷があった。水を止めてそこにティッシュを当てると、鮮やかな赤い色が付く。


「まだ止まってないですよ。やっぱり、病院に……」

「いらない」

 皆まで言わさず遮った凌を、『藤野』は唇を引き結んで睨み付けてくる。彼はそれを無視して救急箱から包帯を取り出すと、彼女に向けて突き出した。


「やってくれるんだろう?」

 そう言ってやると、『藤野』は諦めたようにため息をついて、それを受け取った。


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