忍び寄る悪夢
目を覚ますと、凌はもういなかった。
響は身体を起こすとそのままベッドの上に座り込む。頭がやけに重く感じられて、両手を突いて深くうなだれた。
――自分の中で、何かが起きている。
それは判っていた。
奇妙なことが始まったのは、ここ何週間のうちの事だ。
時々、使った記憶もないお皿が洗われて食器受けに並んでいることがあった。
ちゃんとパジャマに着替えて布団に入った筈なのに、起きたら違う服を着ていたことがあった。
知らないうちにバイトを無断でサボっていた――これは、つい三日前の事だ、。
お皿や服は、寝て起きたらそうになっていたから、寝ぼけただけだと自分をごまかせた。
(でも、ふと気付いたらバイト先とも自宅とも遠く離れた場所にいて、帰る道すらわからないというのは、どう理由を付けようとしてもできるものじゃないよね……)
響は、乾いた笑いを漏らした。
携帯電話を見たらバイト先のファミレスから着信が入っていて、慌てて電話を掛け直して体調不良で休ませて欲しいと連絡して。「大丈夫? ゆっくり休んで」と言ってくれている店長の声を、うわの空で聞き流した。
タクシーを捕まえて最寄りの駅に行ってもらったけれど、それまで一度も使ったことのない駅名に、響は愕然とした。
それからは、夜眠りに就くのも、朝目覚めるのも怖くなっている。
「こんなこと、リョウさんには言えないよ……」
今でも彼は響の事を心配してばかりなのだ。この話をしたら、仕事にも行かずに彼女につきっきりになるに違いない。
せっかく平穏な日常を歩き出そうとしている彼に、そんなことはさせられなかった。
「どうしよう」
記憶――飛んでしまう記憶――失われた記憶。
この頭は、いったいどうなっているのだろう。
ぼんやりと時計を見やると、まだ夜の十時を回ったくらいの時間だった。
少し迷って携帯電話を手に取り、短縮に入れてある番号にかける。
数コールで応答があった。
「響」
「凪さん……」
着信で判っていたのだろうけれど、名乗る前に名前を呼んでくれた伯母の声に、響の涙腺が緩む。
「泣いてる? どうしたの?」
「何でもないよ、何か嬉しかったから……」
「まあ、確かに、声を聞けたら嬉し泣きするほど久し振りかもね。元気にやってるの?」
さばさばした凪の口調が、響には妙に懐かしく感じられた。
「うん……元気。ダイエットしてちょっと痩せたかも」
「ダイエット? あんたそんな必要ないでしょうに。風で飛ばされるようになっちゃうよ? まったくもう、バイト忙しいのは判ってるけど、もう少し連絡ちょうだい。五分だけでもいいから」
「あはは」
小言も何だか妙に嬉しい。適当に笑ってごまかして、響は他愛のない会話を続けた後、意を決して本題に入る。できるだけさりげない口調を心がけて切り出した。
「あのね、お父さんとお母さんの話、聞きたいな。わたしの子どもの頃の事とかも」
「え? 何で」
「ん、何となく。ほら、今……親しくしている人がいるって、話したでしょう? あの人に訊かれて……」
心の中で凌に謝りながら、響は凪にそう説明する。当然、彼は響の過去を根掘り葉掘り追究したりはしない。
凌の事は、彼が響の家に出入りするようになった頃に、一度凪に話してあった。付き合っている、とまでは言っていないが。
響の台詞に、電話の向こうが沈黙する。再び凪の声が聞こえてくるまでに、数秒、間があった。その間に何を考えたのか、唐突に彼女はとんでもないことを口にする。
「一度、その人ウチに連れてきなさいよ」
「え?」
「要は付き合ってんでしょ?」
ズバリと訊かれて、響は返事に詰まった。今の彼との関係を、本当に『付き合っている』という言葉で表現してもいいものなのだろうか。
「響?」
とっさに何も言えずにいた響の耳に、いぶかしげな凪の声が入ってくる。唇を尖らせている彼女の顔も、瞼の裏に浮かんだ。
「何よ、違うの? 知り合ってから、もう何ヶ月? 三、四ヶ月にはなるんじゃないの?」
「う……うん……」
「あんたの部屋には呼んでるんでしょ? キスはした?」
「え、や、それは――」
口ごもった響に、一拍置いて凪が地を這う様な声で問うてくる。
「……まさか、もう最後までシちゃったんじゃないでしょうね?」
「ない、してない! してないよ!?」
とんでもない伯母の発言に、響の声は裏返った。
「そう、ならいいけど……どっちにしても、一回会わせなさい」
一歩も譲らぬ口調で要求してくる凪に、響は電話を切ってしまいたくなる。
「でも、そんなお付き合いじゃないし……」
「はあ? 四ヶ月一緒にいて、部屋にも呼んで、キスもしたんでしょ? 今、紹介しなくていつするっていうのよ」
響としては、凌を凪に会わせるにやぶさかではない。けれど、凌の方はどうだろう。急に親代わりの人物に会って欲しいなんて言って、嫌がられないだろうか。
言い淀む響に、電話の向こうで凪がぴしゃりと宣言する。
「とにかく、決定。保護者に会いに来たくないってんなら、これっきり、あんたにも会わせないわよ」
「凪さん!」
「じゃね、待ってるわよ。来られる日が決まったら教えてちょうだい」
「あ……」
響が引き止める間もなく、それきり、プツリと電話は切れた。思わず耳から離した携帯電話をマジマジと見つめてしまう。
どうしよう。凌に、凪に会いに行ってくれと頼むだなんて。
ふと、電話をかけた本来の目的を達成できていなかったことに響は気付く。忘れた過去を紐解いて、今の異常の原因を見つける手掛かりにしようと思ったのに。
何だか、体よく凪にごまかされてしまったような気すらした。
いつも、そうなのだ。
響が昔の話を聞こうとしても、凪にははぐらかされてしまう。話してくれることといえば、「お母さんは優しかった」や「響の事を愛してた」など、抽象的な事ばかりだ。
まるで、響に過去を取り戻して欲しくないのだろうかと勘繰ってしまうほど、凪は十年より前の事は何も語ろうとしない。特に父親についてとなると、貝のようになる。
父が、自殺だったからだろうか。
もしかしたら、凪は響を置いて死んでしまった父に怒っているのかもしれない。
それが一番筋の通った説明のような気がする。
いずれにせよ、肝心なことは聞けず、余計なことを命じられてしまったのは確かなことだ。
響はばたりとベッドに倒れ込み、天井を見上げた。そうして、大きく息を吸って、吐く。
吐きながら、呟いた。
「どうしよ……」




