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君がいる奇跡  作者: トウリン
探し、求めた、その先に

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37/74

変貌と眩惑

 バンの後部座席に窓は無く、昼でも薄暗い。今はカーステレオを消しており、鼓膜を震わせるのはチューンナップしたエンジンが発する重低音のみだ。

 虎徹(こてつ)は尻ポケットに入れたスマートフォンが無音で振動するのを感じ、それを取り出した。唸りは短く数秒のみで切れ、確認せずとも電話ではなくメールを受信したのだということが知れた。

 送り主の名前を見て、虎徹は薄く笑う。と、隣に座っていたナナが身体を起こした。


「何? メール?」

「おい」

 彼女は虎徹が止める間もなく彼の手の中を覗き込む。そして、ムッと唇を曲げた。元々キツイ目付きが、いっそう険悪な光を帯びる。

『藤野響(ふじのひびき)』って、コンビニのあの女じゃない。あいつの事、調べさせたの?」

「ああ、まあな」

 虎徹は生返事でナナをいなしておいて、メールの続きに目を走らせる。


 要点を絞った簡潔な文体にも拘らず、それは、やけに長かった。画面をスクロールするにつれ、彼の笑みが深くなる。

「ねえ、これって、どういうこと?」

 途中まで彼と共に文面を追いかけていたナナが顔を上げ、戸惑ったように首をかしげた。それには構わず、全てを読み終えた虎徹はメールを閉じる。

「あ、ちょっと待って、最後まで読ませてよ!」

「オレは用ができた。お前は帰れ」

「え、何で――」

「おい、停めろ」

 車が完全に止まる前にスライドドアを開け、ナナの腕を掴んで外へと押し出した。

「もう、コテツってば!」

 彼女の抗議の声を無視してさっさとドアを閉め、虎徹は車を発進させる。


 手下が調べ上げた藤野響の情報は、予想外のものだった。何の陰もない、平和ボケした小娘だとばかり思っていたが、とんでもない。


 このネタを、どんなふうに使ったら一番効果的か。

 いや、そもそも、彼女自身はどの程度知っている――覚えているのだろう。メールにあったような過去を全て覚えていて、それでもあんなふうに屈託なくいられるものだろうか。


 虎徹は伸ばした指でこめかみを叩きながら考える。そうして、決めた。


「おい」

 運転席に声をかけ、行き先を伝える。

 車は進路を変え、彼が指示した目的地へと向かった。


 (りょう)は彼女のこの過去をどの程度知っているのだろう。まだ知らないとして、虎徹の口から教えたら藤野響と距離を置くだろうか。

 ――いや、多分そうはならない。

 これまで数多くの女が凌の傍にいたことがあったが、誰一人として彼を変えた者はいなかった――地味で冴えないあのコンビニ店員以外は。きっと、そう簡単には見切りをつけないだろう。


 あの地味な響の何が他の女と違うのか。

 そんな疑問と入れ替わりに、いつかの夜に言葉を交わした彼女の姿が虎徹の頭によみがえった。その途端、彼の鳩尾がきつく締め付けられて、思わず眉をしかめる。

 尋常ならざる過去に、あの奇妙な言動。

 確かに、藤野響には他の女にはない何かがある。


「オレにはどうでもいいけどな」

 自分自身に言い聞かせるような低いその呟きを、運転席の男が聞き止めた。

「何すか?」

「何でもねぇよ。黙って運転してろ」

「すんません……けど、ぼちぼち言われた住所ッすよ」

 男のその台詞を後押しするように、カーナビが入力された住所間近であることを告げる。

 データによれば今日の藤野響のバイトは昼にペットショップ、夕からファミレスのウェイトレスとなっている。虎徹がいるのは、そのペットショップの前だった。折よく、そろそろ藤野響が勤務を終えて出てくる頃でもある。この時間、凌には仕事とやらがあるからこの場にはいない。彼に邪魔されることもないだろう。


「ちょっとここで待ってろ」

 虎徹は運転手に声をかけ、車から降りた。そうして腕を組んで車体に寄りかかり、獲物が出てくるのを待つ。


 小一時間ほど経った頃だろうか。

 ようやく藤野響が姿を現した。

 やっぱり、取り立てて気を引くところのないその容姿に、何となく虎徹は安堵に似た気持ちを抱く。


(どこから見ても、ガキ臭いただの小娘だ)

 そんなふうに胸中で呟いて、藤野響の方から近づいてくるのをジッと待った。彼女は虎徹の視線にも全く気付いていないようで、真っ直ぐに彼の方へとやってくる。


「よう、響ちゃん」

 今まさに目の前を通り過ぎようとしたその時に、彼は声をかけた。響がビクリと肩を震わせて立ち止まる。

 怪訝そうに振り返った彼女に、虎徹は愛想よく笑いかける。

「オレオレ、虎徹。凌のトモダチ。覚えてない?」

 彼女は明らかに戸惑っていたが、すぐに思い出したようだ。


「あ……こんにちは」

「何、バイト帰り? 送ってってやろうか?」

 コンコンと指の節で車を叩きながら言うと、響は少し顎を引いてかぶりを振った。その目には警戒する光がある。どうやら、見た目ほどうぶではないらしい。

「次のバイトもあるので……この近くなんです」

「近くても乗っけてってやるよ?」

「いえ、結構です。もう行かないと」

 そう言うとペコリと頭を下げて立ち去ろうとする。

 虎徹はその腕を捉えて引き止めた。

「あの、放してください」

 高くなった響の声が更に大きくなる間を与えず、彼はバンの戸を引き開けその中に引きずり込んだ。


「――!」

 息を呑んで外に出ようとする彼女を押しとどめ、虎徹は運転席に声をかける。

「出せ」

 即座に車は走り出し、響がキッと虎徹を睨み付けた。その眼差しの強さに、彼は意外さを覚える。てっきりめそめそと泣き出すかと思っていたのだ。


「悪いな、ちょっと話があってさ」

「……わたしはないです。すぐに降ろしてください。次のバイトがあるんです」

「ダメ」

 にっこりと笑ってみせると、彼女は後ずさり反対側のドアに手をかけ開けようとした。が、当然開くわけがない。運転席でロックさせてあるのだから。

「走ってる車のドアを開けたら危ないだろ? 子どもの頃に教わんなかった?」

 言いながら響の隣の席に移り、彼女を閉じ込めるように前の座席のヘッドレストに手をついた。身を竦ませる様には妙に嗜虐心をそそられるが、今日の用件はそれを楽しむことではない。


「なあ、あんた凌と付き合ってんだろ?」

「……はい」

 話の展開は何となく解かるだろうに、蒼い顔で、だがきっぱりと、響は頷いた。その『強さ』に面白くない気分を抱きつつ、虎徹は続ける。

「別れてくんない? 最近のアイツ、付き合い悪いんだよな。あんたも知ってるかもしれないけど、オレとアイツはちょっとした商売してて――」

「イヤです」

「――何?」

 虎徹の台詞を遮るように放たれた響の拒絶の言葉に、彼はひたりと彼女を見据えた。が、大きな目は真っ直ぐに彼を見返してくる。内心ではびくついているのかもしれないが、外観からは全くそれは窺い知れなかった。


 眉をひそめた虎徹を睨み返しながら、響が続ける。

「リョウさんがどんなふうにお金を稼いでいたのかは知ってます。でも、もうさせたくありません。リョウさんと別れるつもりもありません。早く車を停めてください」

 口早に、一気にまくしたてるように彼女は言い切った。その間中、一瞬たりとも彼から目を逸らすことなく。

 虎徹は一瞬奥歯を噛み締め、次いで、片手を伸ばして響の顎を掴んだ。


「アイツとあんたは住んでる世界が違うんだよ。今は真っ当にやりたがってるかもしれねぇが、またすぐにこっち側に戻ってくるさ」

「いいえ、そうはなりません。今の方が、リョウさんらしいリョウさんなんです」

「はあ? アイツらしいって、どんなだよ?」

「人を傷付けないリョウさんです」

 おキレイな響の台詞を、虎徹は鼻で笑い飛ばす。

「アイツの強さを知らないわけ? もう、負け知らず。どんな相手もボコボコにするぜ?」

「そうできるからって、好きでやってるわけじゃ、ないでしょう?」


 迷いのない、響の声。

 彼女の顎を捉えている虎徹の手に、思わず力がこもる。その力は痛みを覚えるほどだろうに、響の表情はピクリとも動かなかった。それが余計に癇に障る。


「アイツとオレとは古い付き合いなんだよ。ダチの仲を裂くわけ? 心が狭いな」

 なぶるような虎徹の台詞に、束の間、彼女は唇を噛んだ。が、またすぐに斬り返す。

「リョウさんが好きでケンカをしていると思っている限り、あなたにリョウさんは返しません」

 響の揺らぎのなさに、虎徹は苛立った。何故そんなにも腹立たしいのかは判らなかったが、自信に満ちた声を憐れな泣き声に変えさせたかった。

 頭よりも身体が先に動き、虎徹は響の顎をグイと引き寄せる。


「何を――ッ!」

 彼女の口からまた言葉が漏れる前に唇で封じた。引き結ばれた唇をこじ開け、有無を言わさず奥深くまで奪う。


 直後。


「!」


 舌に走った鋭い痛みに、虎徹はバッと身を引いた。口の中にはジワリと金臭い味が溢れる。口元を拭った親指には、赤いものが付着した。

 解放された響は彼からできる限り身体を離し、シートに縮こまるようにしているが、その頬は乾いていた。目を大きく見開き、虎徹を見据えている。

 凌もこの響も、勝手に二人で幸せになろうとしているのだ。

 無性に彼らをどん底まで突き落としてやりたくてたまらなくなる。


 虎徹は蛇のような素早さで響の腰を掻っ攫うと、最後部の座席へと放り投げた。一続きのシートになっているそこに、彼女を組み伏せる。

「やっ! 放して――!」

 身をよじって逃れようとした響の両手を片手で掴み、頭の上で押さえ付ける。のしかかるようにして見下ろすと、初めて彼女の目に恐怖の色が浮かんだ。その全身がガチガチに強張っている。

 それこそが、虎徹が望んでいた彼女の姿だった。目論み通りの反応を引き出せたことに、ようやく彼の溜飲が下がる。


 このまま奪ってしまえば、響の方から凌から離れていくだろう。他の男のものになっても素知らぬ顔で凌の傍に居る――そんな強さはないに違いない。


 虎徹はほくそ笑み、わざと覆い被さるようにして、響の細い首筋に舌を這わせた。彼女がびくりと身体を震わせ、声も出せずにいるのを、さながら猫が獲物を弄ぶようにいたぶっていく。

 そうしながら、虎徹は手下が調べ上げてきたことを思い出していた。響には過去の記憶がないということと、その失われた過去にあったかもしれないとされている、もう一つのことを。

 もしもあれが事実なら、この純真無垢の権化のような女はすでに男を知っている可能性が高い。


「あんたの皮を剥いだら、何が出てくるんだろうな」

 そう彼女の耳元に囁いて、虎徹はふとその変化に気付いた。

 ついさっきまで鋼のように硬くなっていた身体から、いつの間にか力が抜けている。

 恐怖のあまりに気を失ったのだろうか。

 ――それでは、つまらない。


 虎徹は身体を起こし、響の顔を見る。

 彼女の目は開いていた。が、それはポカリと開いた黒い空洞のようで怯えも何も見い出せない。まるで空っぽだった。


「おい……?」

 虎徹のその呼びかけに反応したように、彼女が瞬きを一つ二つする。と、ヒュッと音がせんばかりにその眼差しのピントが合った。そうして、また瞬きを一つし――唐突に微笑んだ。

 この場にそぐわぬその表情に、思わず虎徹の手は緩み、彼女の身体を離してしまう。

 響は戸惑う彼の前で何事もなかったかのように起き上がると、不思議そうに車内を見回して首をかしげた。


「どこに行くところだったかしら……?」

 彼女はにっこりと笑いながら、虎徹に問い掛けてくる。その様子は、ついさっきまでの響とは全く違っていた。

 空とぼけているわけではない。彼女の中では、ほんの数秒前の事が、完全になかったことになっている――虎徹はそう確信する。


 響の顔に浮かぶ、落ち着いて、穏やかで、包み込むような微笑み。


 強烈な違和感。外見は何一つ変わっていないのに、何かが違う。

 それは明らかに、響ではない響、だった。

 この雰囲気には、覚えがある。


(あの時の彼女だ)

 夜中に『夫』を捜して街を歩いていた、女。たった今、虎徹の目の前でそれに変貌したのだ。


 固唾を呑んで彼女を見つめる虎徹に、『響』は屈託ない目を向ける。

「今何時? もうすぐシンちゃんが帰ってくる頃じゃないかしら? 帰ってきてわたしがいなかったら、シンちゃん驚いちゃうわ」

「『シン』って……誰だ?」

 目の前にその名の持ち主がいたら、ぶん殴ってしまうかもしれない。頭の片隅でそんなふうに思いながら問い返すと、彼女はふわりと微笑んだ。夢見るようなその笑みに、虎徹の鼓動がまたドクリと胸郭を打つ。

「シンちゃんはシンちゃんよ。……あら? あなたはどちら様かしら?」

 彼女は不思議そうに虎徹を眺める。まるで初対面だというふうに。そうして、ハッと微かに目を見開いた。


「まあ、そこ、血が付いてるわ」

 言うなりポケットを探ってハンカチを取り出すと、スイと手を伸ばして虎徹の口元にあてがった。ハンカチを持たない方の手は、そっと彼の頬に添えられる。

 女に頬を撫でられたことなど腐るほどある。だが、今触れているその指先の柔らかさと温かさは、まるで強烈な平手をくらわされたかのような衝撃を彼に与えた。


「大丈夫? 怪我をしたの?」

 心配そうに顔を寄せてきた『響』に、虎徹は咄嗟に身を引いてしまう。もう何年も向けられたことのない、ただひたすら彼を案じている眼差しを注がれて、思わず目を逸らした。

「何でも、ない」

 ムッツリと、答える。さっきまでの響には何も感じなかったのに、今の『響』に近寄られると、虎徹はやけに息苦しさを覚えた。


(何なんだよ、これは?)

 戸惑いは、この間と同じだった。自分でも訳が判らない感覚に、彼は混乱する。

 言葉のない虎徹を不思議そうに見つめていた『響』が、不意に声を上げた。

 ハタと思い出した、というように。


「ああ、そうだわ、わたしは早く帰らないと……車を停めてもらえる?」

 笑顔で請われ、虎徹は殆ど反射のように停車を指示していた。車はスッと流れから外れ、路肩に停まる。

「ありがとう」

 『響』はそう言い、ごく自然な態度で車を降りた。虎徹はそれを引き止めることもできずに、ただ見送ってしまう。彼女が完全に見えなくなって初めて、ようやく彼は全身を動かした。


「あの……?」

 声がする方に視線を向ければ、運転席の男が目を丸くして彼を見つめている。

「何見てんだよ」

「いえ、別に……」

 どすの利いた虎徹の声に、彼はあたふたとまた前に向き直った。

「出せ」

「ええと……どこに?」

「どこでもいいから、出せ!」

「はい!」

 尻を叩かれたように男は運転席で跳び上がると、ウィンカーを出して流れに戻る。


(――クソ)

 虎徹は声に出さずに毒づく。訳が判らないのは、彼自身も同様だった。


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