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君がいる奇跡  作者: トウリン
探し、求めた、その先に

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36/74

彼女の不安

 冷んやりとした秋の早朝の空気の中で、彼女のその身体は心地良い温かさを発していた。

 寒いのか、あるいはまた別の理由からか、(ひびき)の身体は微かな震えを帯びている。その細い背中を撫でながら、(りょう)はいったいどうしてやったらいいのだろうかと考えた。


 誰かと重ねているという響の訴えは、まったく的外れなものだ。

 何故、彼女がそんなふうに思い込んでいるのかも解からない。

 解かってやれないことが、つらい。


(お前には、いつでも笑っていて欲しいのに)


 その為になら、凌はどんなことでもするだろう。

 だが、如何せん、彼には対人関係の経験値があまりにも少な過ぎた。


(昔も、俺にできたのは、せいぜい涙を止めるくらいのことだったな)

 かつて凌にとって大事な存在であったのは、母と妹だった。だから、彼は二人を守った――父の暴力から。

 それは無事に成し遂げられ、彼女らはもう凌の手を離れている。


 彼にとって『大事にする』というのは即ち『守る』ということだ。それしか知らない。大事な者は傷付けないこと――誰にも傷付けさせないこと、それが一番重要なことだった。

 だから、響を大事に想っているから、せめて守るくらいのことはしたいと思うのに。

 だが、そうすることで彼女の不安を掻き立ててしまうというのなら、凌は二進も三進もいかなくなってしまう。


 シャツの胸元が引っ張られ、響がそこを握り締めているのが判った。それは仔猫が爪を立ててしがみ付いてくるのに似て、その感触が醸し出す言いようのない儚さに凌の胸が締め付けられる。

 響の丸くて小さな頭は、凌の手の中にすっぽりと包めそうなほどだ。背中だって片手で半分以上覆える。

 そのか弱い身体は彼の指一本で壊せてしまいそうで、だからこそ、絶対に傷つけたくないと思わせた。

 凌が一層深く抱き込むと、響は完全に彼の懐に入ってしまって、それがまた凌を胸苦しくさせる。


 こんなふうにもろそうだから、庇護欲を掻き立てられるのだろうか。


(いいや、違う)

 凌は自問を打ち消した。

 ただ華奢で弱々しげだからといって、凌は誰もに対してこんなふうに想うわけではない。


 こんなふうに感じるのは、響だからだ。

 響が大事で愛おしくてならないから、自分の中にくるみ込んで守ってやりたくなる。

 ――けれども、当の本人にはそれがきちんと伝わっていない。

 どうやったら伝わるのかも、わからない。


 元々、働こうと思ったそもそもの理由は、響に出逢ったからだった。彼の傷を目にする度に顔を曇らせる彼女を安心させる為だった。


 けれど、蓋を開けてみたらどうだろう。


 虎徹(こてつ)と決別したことで彼との軋轢を生み、心配の種が増えてしまった。その件からも響を案じる気持ちはいや増して、何度彼女に止めろと言われてもこうやって送り迎えをしてしまう。

 そうされることで、響が不満を募らせていくのだとしても、止められない。

 不満――いや、訴えているのは一見『不満』のようだが、多分、その正体は『不安』なのだろう。唇を尖らせ、言葉で彼を責めたとしても、彼女の目は心許なげに揺らいでいる。

 結局、巡り巡って凌自身が響を不安にさせているということなのか。


 ――本当に、どうしてやったらいいのだろう。


 気付かぬうちに力がこもりかけていた腕を緩ませて、凌は身を屈めると彼女の頭の上に顎を載せた。

「響」

 低い声で名を呼ぶと、彼女の肩がピクリと震える。

「俺はお前を誰かに重ねて見たりはしていない。お前はお前だ……そうだろう?」

 さっき口にしたものと同じ台詞を繰り返した。

 それは、凌の心からの台詞だった。

 かつて彼が守ろうとした存在は――彼の妹は、ちゃんと守られ、今は幸せに暮らしている。彼はそれを知っているから、彼女の身代わりなど必要なかった。

 響は誰かの身代わりになることはないし、そうする必要もないのだ。


 口のうまくない凌には、その明瞭な事実をうまく言葉にすることができない。だから、単純なことを繰り返し伝えるしかできることはないのだろう。

 小さな頷きが返されたのは、彼の問いかけから少ししてからのことだった。

 凌は胸の中で響の頭が上下したのを確かに感じ取ったが、同時に、彼女の中にくすぶる迷いもまた感じていた。


 時折彼女が見せるこのもろさは、何に由来するものなのか。


 響は何か問題があったとしても人に頼らず解決しようとする。

 時に凌が手を出してしまうこともあるが、多分そうしなくても彼女自身で何とかできるのだろう。彼女は正しくないと思ったら敢然とそう主張するし、彼を叱り飛ばす時もある。

 見た目は幼く頼りないかもしれないが、基本的には『しっかり』している――たとえそれが、響が懸命に作り上げた虚像なのだとしても、ほとんどの人間が、彼女はそういう人だと思うだろう。


 けれど、それでも、もろさが時折垣間見える。


 そんなふうに彼女が見せる様々な面全てが、凌には愛おしい。


(それを伝えられれば、響は安心するのだろうか)

 そう思っても彼はその想いをうまく表現できなくて、結局、口から出たのはまったく違う言葉になった。

「……お前に何もないことがはっきりしていないと、俺が落ち着かないんだ。だから、俺の好きにさせて欲しい」

「でも――」

「お前の為じゃない。俺の為にしてるんだ。お前が想像しているように『誰かの身代わりにしているから』でもなく」

 今度は意識的に腕に力を入れて有無を言わせず響を自分の懐に引き寄せると、凌は彼女の頭の上で自嘲の笑みを浮かべた。


(この気持ちのどこが、妹や母親に向けたものと同じだというんだ?)

 どちらも、守りたいという思いを掻き立てられるのは同じだ。だが、響に対しては、それだけでは物足りない。

 母と妹は、自分から遠く離れた場所に行ってしまっても、彼女たちが幸せになってくれているなら凌はそれで満足だった。


 けれど、響は。


 一度抱き締めると、放したくなくなる。だれにも渡したくなくて、いっそのこと、自分の中に閉じ込められたらいいのにと、思ってしまう。

 ――こんな我欲に満ちた想いのどこを取って「妹と重ねている」と思えるのか。妹にも母にも、こんな気持ちを抱いたことなどない。


「ぃたッ……」

 腕の中から小さな声が上がり、凌はハッと腕を緩めた。だが、解放はしない。

「悪い」

「ううん。だいじょうぶです。ごめんなさい」

 よほどきつかったのだろう。言葉と共に、小さな息を漏らしたのが感じられる。


「響」

 彼女の頭の上で、彼女のその名を囁いた。

 響は抱き締められるよりも、多くの言葉を重ねられるよりも、ただ名前を呼ばれることを好む。それがどんなことよりも彼女の気持ちを和らげさせるということが、凌にはもう判っていた。


「響」


 もう一度、名前を呼んだ。

 凌の腕の中で、彼女が小さく鼻をすする。強張っていた細いその肩が微かに下がったのが、感じられた。


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