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君がいる奇跡  作者: トウリン
探し、求めた、その先に

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33/74

決意

 けじめを、付けよう。


 その日目覚めた時、(りょう)は真っ先にそう心に決めた。

 それはここ数日、いや、数週間の間、彼の心の中で渦巻いていたことだった。

 ――あるいは、もしかすると、何ヶ月も前から始まっていたのかもしれない。落ちてきた(ひびき)を受け止めた、あの瞬間から。


 凌は寝台代わりにしているマットレスの上で半身を起こし、自分の『部屋』をグルリと見渡した。


 何もない、空間。居心地のいい響の部屋とは、大違いだ。


 部屋がその人の心の内を表すというのなら、凌の中にはこの部屋と同じように何もないのだろう。

 今までは、この状態に何も感じなかった。ここはただの寝起きする空間で、それ以上でもそれ以下でもない。

 だが、今の彼はこの部屋に対して思っている――響には見せたくない、と。

 自分の中が空洞であることを、何故か凌は彼女にだけは知られたくなかった。


 響といる時にどうしても彼女を腕の中に入れておきたくて仕方がなくなるのは、自分の中のその空洞を、彼女で満たしたいからなのかもしれない。あの柔らかな温もりを抱き締めていると、彼は何かを手に入れられた気分になれるのだ。


 時々――いや、しばしば、それだけでは満足できなくなる時がある。

 だが、今はまだ、それ以上を望むわけにはいかないのだ。凌が今の世界から抜け出さなければ、それ以上彼女に踏み込むわけにはいかない。


 響はごくごく真っ当だ。正直言って、自分とは住む世界が違うと思う。彼女のことを想うなら、今のうちにその手を放すべきなのかもしれないが、凌にはそれもできない。


 出逢って間もない頃は、彼女が無事な姿を見られたらそれで良かった。

 だが、やがて彼女の声を聴き、彼女の視界に入れて欲しくなった。

 ――今は、彼女の全てが欲しい。

 これまでどんな相手にも抱いたことのない様々な欲求は、響と過ごす時間が増えるほどにどんどん膨らんでいき、今では何をしても満足できないのではないだろうかとすら思うほど、彼女の何もかもが欲しくなってしまった。


 離れることもできないし、かといって、ただ彼女を見守るだけでもいられない。

 色気などまったくないというのに、響のあの大きな目で見つめられると凌は強い衝動に駆られるのだ――力の限りに抱きすくめ、全てを奪い尽くしてしまいたい、という衝動に。


(だが、今は、まだ駄目だ)

 彼女の傍に居る時、意思に反して動きそうになる腕を押さえる為に何度拳を握り締めたことか。

 多分、響が彼に求めている気持ちは、もっと穏やかなものだ。この間、思わず押し倒してしまった時に彼女の様子がおかしかったのは、きっと混乱したからだったのだろう。


 それも当然だ。

 多分、響にとって、自分は兄か何かのようなものなのだろうから。そんな相手に押し倒されたら、怯えても当然だ。

 今はまだ、彼女に対してこんな気持ちを抱いていることを知られたくない。今の関係を壊したくなかったし、そうするべきではないと思った。

 真っ当な世界に住んでいる響を、混沌として先も定かではないような凌の世界に引きずり込むことはできない。


 ならば、どうするべきか。

 答えは簡単だった――彼の方が、住む世界を変えればいいのだ。


 だから、彼は決意した。

 未来に目を向けることを――少なくとも、その努力をすることを。


 凌は深く息を吸って立ち上がると、シャワーに向かう。熱い湯を浴びて頭をすっきりさせ、牛乳を半パック飲み干して家を出た。

 向かった先は、警察署だ。

 カウンターで目当ての人物を呼び出してもらうと、早い時間に訪れたことが功を奏してうまく彼と会うことができた。


「よう、凌じゃないか。どうした?」

 軽い口調でそう声をかけてきたのは、銀次(ぎんじ)だ。凌がわざわざここまで訪ねてきたことに、細い目を微かに丸くしている。


「頼みたいことがあるんだ」

「お前がか? 何だ? 言っておくが、悪事の見逃しはしないぞ? お前たちの賭け試合も、いつか尻尾を掴んでやるからな?」

 半分冗談――だが、半分は明らかに本気な銀次の台詞は、聞き流す。

「俺に仕事を紹介して欲しい」

「そうか!」

 単刀直入な凌の言葉。それはあまりに唐突だったが、しかし、銀次は聞いた途端に破顔した。そこに、念押しも確認も付け足されなかった。

 逆に面食らう凌に、銀次が満面の笑みを向けながら言う。


「よし、じゃあ、さっそく行くか」

 その展開に、むしろ凌の方が眉をひそめた。

「あんたの仕事は?」

「ああ? これこそ僕たち生活安全課の仕事だろうさ。ほら、来いよ」

 銀次は意気揚々と顎をしゃくって凌を促すと、さっさと先に立って歩き出す。拍子抜けしつつも、彼はそれに従った。


「それにしても、よく思い立ったなぁ。やっぱり、あの子の為かい?」

 並んで歩く凌に、銀次がニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべながらそう訊いてくる。それは真実だったので、彼は頷いた。

「ああ」

「……そうか、忘れてた。お前は素直と言えば素直なんだよな」

「どういう意味だ?」

「いや、僕はお前がむきになって『そんなことないよぅ!』とか悪足掻きするのを期待したんだけどな」

「何故」

「……忘れてくれ。ほれ、電車に乗って、それからバスだ」

 肩を竦めた銀次は、クイと持ち上げた親指でいつの間にか辿り着いていた駅を指した。

 そこから電車とバスを乗り継いで三十分強。

 二人は『有限会社市川自動車』と看板のある一棟の工場の前に立っていた。そこそこの広さがあり、見える範囲では修理中の七台の車と、その周りで立ち働く十数名の従業員が確認できる。


 銀次達の姿に気付いたのか、手前の事務所から一人の男が姿を現した。

「福井さん、ご無沙汰です」

 銀次よりもだいぶ年上――恐らく五十歳ほどだろうその男は、そう言うと彼に向かって丁寧に頭を下げる。

「市川さん、お久しぶりです。今日はほら――前に話してた奴を連れてきたんですよ。こいつ、笹本凌です。凌、こちらは市川太一郎(いちかわ たいちろう)さんだ。この市川自動車の社長さん」

「やあ、君が例の子か」

 にこやかに微笑まれながら『例の』と言われても、凌には何のことやら判らない。取り敢えず、頭を下げた。


「初めまして、笹本凌です」

「やあ、こんにちは。君のことはずいぶん前から福井さんから聞いてたよ。君がやる気になったら、ここで働かせたいって。自動車整備士三級は持ってるんだよね。……うちに来るなら、いずれ少なくとも二級は取ってもらうよ?」

 それには最低限一年半は必要だ。つまり、少なくともそれだけの間は続けろということか。


 正直言って、そんな『未来』のことなど考えたことも無いから、その時にどうなっているかなど、凌にはさっぱり判らない。だが、一年後も、五年後も、十年後も、響の傍に居たいと思う気持ちは変わっていないに違いないとは思った。多分、その気持ちがある限りは、自分は何ものからも逃げ出すことはないだろう。


「はい」

 きっぱりと答えた凌に、市川は満足そうに頷いた。そうして、まるで遊びの誘いでもかけているような気軽な口調で訊いてくる。

「よし、じゃあ、いつから来られる?」

「……そんなに簡単に決めるのか……?」

 あまりにあっさりしすぎている採用に、思わず凌は呟く。

 彼は、少年院に入っていたことがあるのだ。未成年だったとは言え、犯罪者であることには変わりない。そんな人間を、ろくに調べもせずに雇うことに不安はないのだろうか。


 そんな疑問が凌の目にはありありと浮かんでいたと見えて、市川と銀次が顔を見合わせた。

「まあ、君のことは前々から聞いていたからね。もう充分すぎるほどに知ってるんだ。それに、目を見たらだいたいどんな気持ちでいるのかは判るよ」

 そう言った市川の後を、ふと人の悪い笑みを浮かべた銀次が引き取る。

「第一、『女の為に変わるんだ!』と決めた奴を無視するわけにはいかないですよね」

「そうですよね」


 いったい、銀次は市川にどんな話をしていたというのか。

 年長の男二人に生温いしたり顔で微笑まれて、凌はムッと唇を引き結ぶ。そんな彼に、市川が破顔した。


「ああ、ごめんごめん、からかうことじゃないな。冗談抜きで、君は採用だよ。で、いつから来る?」

 笑みを残したままで、再度訊いてくる。

 凌は少し考えた。自分だけの事なら、今日からでも働ける。だが、響と――もう一人、話をしておかなければならない相手がいた。

 多分、虎徹(こてつ)は凌の行動など気にもしていないに違いない。随分長いこと会っていない事に気付いてすらいないかもしれない。だが、これまで彼と組んでそれなりの金を稼いでいたのは事実だ。それを辞めるのだから、キッチリ話をしておくべきだろう。


「一週間、時間をもらえますか」

 そう答えた凌に、市川は快く頷いた。


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