忘れ得ぬ人
数人の仲間達と、ブラブラ深夜の街を流している時だった。
虎徹は雑踏の中に見え隠れした人影に目を細める。日付も変わったこの時刻、殆どが酔っ払ったサラリーマンで、そこにキャバ嬢やら何やらけばけばしい服装が混じる。
そんな中で、彼女の姿は浮いていた。
(何て言ったっけかな……)
とっさには思い出せず、頭の中で名前を拾いながら、彼は皆に振り返って声をかけた。
「悪ぃな、用事ができた。先に行っててくれよ」
そう言って、今にも人混みに紛れてしまいそうな小柄な姿を追い掛ける。
「ちょっと待った」
声と同時に無遠慮に腕を掴んで引き止めた。
「あんた……えぇっと……そう、フジノちゃん、だよな?」
にっこり笑い掛けると、彼女はキョトンと虎徹を見上げてくる。間違いない、確かに、凌が執心しているあのコンビニの店員だ。
この女のことを情報収集能力に長けた下の者に調べさせているが、まだたいしたことは判っていない。フルネームは聞いたが、興味がないから下の名前は忘れてしまった。確か、漢字一文字だったのは何となく覚えているのだが。
虎徹が彼女の調査の指示を出してから、もう三日経つ。
いつもなら、もう何がしかの情報が上がってきている頃合いなのだが、翌日にフルネームと年齢、住所、電話番号、バイト先、バイトのシフトという、少し探ればすぐに判るようなことがメールで送られてきただけで、その後は滞っていた。
余程何もないか、余程調べにくい厄介な事情があるかのどちらかだろうが――こんな何の変哲もないガキ臭い女では、前者に決まっている。
心の中でそう断言して、虎徹は口元には笑みを刻んだまま、冷ややかな眼差しで目の前の女を見下ろした。
つくづく、ガキ臭い。顔も身体も。
だが、身を投げ出してくる女はいくらでもいるというのに、凌が選んだのはこの女なのだ。虎徹には、彼が何故こんなつまらない女に拘るのか理解不能だった。
内心の不満と嘲りを押し隠しつつ、虎徹は自分を指差しつつ笑顔を浮かべる。
「オレオレ、覚えてない? ほら、前に店で会ったじゃない」
「あら、そうでした? すみません、どちら様でしたかしら……?」
本気で覚えていないのか、困惑したように彼女は首をかしげる。が、不意にパッと顔を輝かせて虎徹を見上げてきた。
「あ、もしかしてシンちゃんのお友達ですか?」
「は?」
(――シンちゃん……?)
今度は、虎徹が戸惑う番だった。眉間に皺を寄せた彼に、彼女は満面の笑みを浮かべる。
「これから、お仕事先にお夜食を届けるところなんです」
「へえ……」
手にした包みを持ち上げながら笑顔でそう言われても、どう返したらいいものなのか、判らない。こんな夜中にわざわざ夜食を持っていこうというのは少しおかしい気がするが、『普通の家庭』というものを知らない彼には何とも言いようがない。
妙な話運びに戸惑い、聞き手に徹せざるを得ない虎徹に、彼女はフウとため息をつきながら続けた。
「シンちゃんはお友達のことを全然話してくれないんです。わたしのことばかりじゃなくて、もっと自分の好きなことをやって欲しいんですけど……あ、今度、お酒とか誘ってあげてもらえませんか? 何なら、うちに来てもらっても構いませんから」
まるで、母親か姉のような口振りだ。
「あ、ああ……」
頷きながらも、虎徹の頭の中には疑問符が並ぶ。
(『シン』って、誰だ? 凌のことはどうしたんだ?)
こんな無害そうな顔して、実は二股をかけているのだろうか。
さっぱり読めない会話に、虎徹は口をつぐんで考えを巡らせた。
(それとも凌は、全てを知っていてこの女と付き合っているのか?)
彼のこれからの対人関係を顧みると、それも充分有り得そうだった。
凌は、相手には何も求めない。想いを注いだ相手に同じだけ返して欲しいと思うほど、人とつながることに熱心ではない。
もしかしたら、自分が考えているほど、深い付き合いではないのかもしれない。少し待っていたら、また凌は彼の元に戻ってくるのかも。
そうやって考え込んでいた虎徹は、続いた彼女の台詞をうっかり聞き逃しそうになる。
「わたしは妻としてまだまだ未熟ですから、シンちゃんにしてあげられることなんて、殆どないんですけど……」
「――は?」
思わず作り笑いも消し去って、眉間に皺を寄せて虎徹は間の抜けた声を出してしまう。
(今、『妻』と言ったか?)
それでは、二股どころか不倫になるではないか。
不倫――虎徹は胸中で吐き捨てるようにその単語を呟いた。その言葉には、虫唾が走る。もしも目の前の純真、無垢そのものと言った風情のこの女がそれをしているのならば、唾棄すべき存在になる。
片手間の付き合いなのか、それとも凌は何も知らずにこの女と付き合っているのか。
もしも後者なら、凌はいずれ手痛い目に遭うだろう。誰かを信じたのがバカだった、と思い知るに違いない。
(それはそれで、楽しいな)
むしろその展開を期待したいくらいだ。
だが、その一方で、虎徹にはどうしても違和感が拭えない。
この女が不貞を働いている、ということにではない。どんなにキレイに見える人間も、裏では何をしているか判りはしない。内も外も変わらぬ者など、滅多にいない。
奇妙に感じるのは、全体的に、だ。
会話が今一つ噛み合わないし、何かがおかしい気がしてならない。
外見は確かにあのコンビニの店員なのに、歌うような声と言葉を交わすほど、どこか虎徹を見ていないような気分にさせるその目を覗き込むほど、何かが違う気がしてくる。
元々、たいして話をしたことも無いから、しかとは言えない。
けれど、時折店で見る様は、もっとガキ臭くて頼りなげだ。凌のような奴なら保護欲をそそられるのだろうが、虎徹は何も感じない。
今目の前に立っている女は、もっと落ち着いた雰囲気があった。十九歳という年齢よりも、いくつか年上にすら見える。
(もしかして、よく似た姉だとか?)
そんな可能性に思い当たって、そう尋ねようとした時だった。それよりも先に、彼女が続ける。少しうつむき、考え込むように。
「シンちゃんって、いつも一生懸命なんですよね。わたしがいないとダメなくせに強がって、つらいことをわたしには話してくれないんです。だから、お友達がいるって判って、嬉しくて……」
おいおい、今度は惚気かよ、勝手に知りもしない奴の『お友達』にするなよ――と薄ら笑いを浮かべながら胸中でツッコむ虎徹の前で、バッと彼女が顔を上げる。そうして、真っ直ぐに虎徹を見つめてきた。
「シンちゃんはいつも無理してわたしを大事にしてくれるから、わたしにできることは、どんなに小さなことでもできる限りやってあげたいんです」
そう言って微笑んだ、その顔、その眼差し。
それを目にした瞬間、彼女のことをせせら笑っていた虎徹の息が止まる。
表情がわずかに変わっただけで、目の前の女の印象がガラリと変わった。
全てを包み込むような、幸福そうで満ち足りた彼女の笑顔――それが、彼の中の何かを突き刺す。
かつて、そんな顔を虎徹は毎日のように目にしていた。唐突に、その面影が脳裏を覆う。
ろくでもない夫と、明日をも知れない身体と、虎徹という裏切りの証。
そんなモノしか持っていなかったというのに、『あの女』はいつも微笑んでいた。その笑みは、あの男――虎徹の父、虎刀の事を口にする時が、一番深まった。あれほどひどい扱いをされていたというのに、あの男を想う時にこそ、『あの女』は完全な微笑みを浮かべたのだ。今、目の前に立っている女とそっくりな色を浮かべた眼差しで。
(こんな女が、どうして、『あの女』と重なるんだ……?)
似ても似つかない、目の前の女と『あの女』。それをほんのわずかでも被らせた自分が、腹立たしい。
そんなことは有り得ない事だった。
『あの女』のような存在は、そうそういない。
それなのに。
過去を振り返り歯ぎしりをした虎徹の耳に、朗らかな声が入り込む。
「あ、わたし、そろそろ行かないと。失礼します。じゃあ、シンちゃんのこと、今後ともよろしくお願いします」
「ちょっと待て――」
会釈と共に身を翻して人の間に入っていくのを虎徹はとっさに呼び止めてしまったけれど、その小さな背中はあっという間に消えていった。完全に見えなくなってしまうと、彼女が本当にこの場にいたのかどうかもあやふやになる。
「今のは、何だったんだ……?」
虎徹は呟く。
凌が付き合っている筈の女の不可解な態度。
そして、彼自身の中に残っている奇妙な疼き。
意識しないままに虎徹の手が上がり、胸元を掴む。
――やけに、息苦しく感じられた。




