微妙な距離感
いつものように凌の胸に寄りかかってテレビの洋画を観ながら、響は欠伸を噛み殺した。まだ夜は浅く、映画も始まったばかりだ。
けれど、眠い。
「眠いのか?」
気付かれないように口も開けなかった筈なのに、凌は彼女を覗き込んで目ざとくそう訊いてきた。一瞬ごまかそうかとしたけれど、きっと無駄な足掻きだろうと思い返して響は素直に頷くことにする。
「はい……少し」
そう答えた彼女に、凌は眉をしかめた。
「バイトを入れ過ぎなんじゃないか?」
「や……そうでもないと思うんですけど」
「土日もやっているだろう」
「だいたい半日くらいで終わりますから」
そう言って笑って見せたが、凌は渋い顔をしている。実際、土日のバイトはそれほどきついものは入れていない。
身体が資本なことは響も判っているから、それなりに気を遣ってはいた。栄養はちゃんと摂っているし、睡眠時間だって確保している。
実際、四月から伯母の凪の家を出て働き始めて、半年近く、別に何ともなかったのだ。こんなふうに眠気が残るようになったのは、割と最近のことだ。
「ちゃんと寝てるんですけど、何となく眠いんです」
「夜中に目が覚めたりするのか?」
「そんなことはないと思います。朝までぐっすりですよ」
まさに『泥のように』眠っている。眠り自体は、むしろ昔よりも深くなったような気がするくらいに。
ケロリと答えた響を見つめながら、凌が唸るように言う。
「やっぱり疲れが溜まってるんじゃないのか? ……伯母さんは援助してくれると言ってくれているんだろう? 頼ったらいいだろうが」
「ダメですよ。自分の力試しでもあるんですから」
「もっと違う形で試せよ」
「取り敢えず、思い付いたのがこれなんです。一年間はやりますよ」
きっぱりと言い切った響に返されたのは、呆れたようなため息だ。
まだ何か言ってくるかと構えた彼女の頭に、重みが加わった。凌はそこに顎を載せて何やら考え込んでいるようだけれども、彼の表情が見えないから、何を考えているのかは判らなかった。
しばらくは、点けっ放しのテレビでやっている映画の台詞だけが流れる。背後の凌が気になって、画面も音声も全然頭に入ってこない。
やがて、彼がポツリと言った。
「深夜のバイトだけでも辞められないか?」
「え?」
「多分、俺は送り迎えができなくなる」
「そう、ですか……」
凌のその台詞に、どうして、とは言えなかった。元々、彼にはそうする義務も義理もないのだから。彼自身の生活で響よりも優先することができたなら、そうするべきなのだ。
その時間はバイト三昧な響が確実に凌と逢える数少ないチャンスだったから、それが失われてしまうのは、少しさびしい。
うつむいた響に凌の腕が回され、彼の胸にきつく引き寄せられた。ぴったりくっついた背中全体で彼の温もりを感じる。
「深夜や早朝に、独りで出歩いて欲しくない。俺が口出しできることじゃないのは判ってるが――」
最後まで言わなくても、凌が響のことを心配してくれていることは充分過ぎるほどに伝わってきた。
けれど。
「……」
あのバイトは、辞めたくない。時給がいいから、ということも勿論だけれど、他にもっと大きな理由がある。
あそこは、凌と初めて逢った場所なのだ。
あの時間、あの場所で、あのバイトをしていなければ、凌とは出逢えなかった。
そんな思い入れがある場所なのに。
(リョウさんは、別に何とも思っていないんだよね)
自分にとっては大事なことが彼にはそうでもないことが、何となくさびしい。
「響?」
口を噤んだ響の上半身を片腕で抱き取るようにして、凌が向きを変えさせた。がっしりした腕に寄りかかるような形で心持ちのけぞった彼女の目が、彼のそれともろに合った。
凌は微かに眉間に皺を寄せながら、ジッと響の目を見つめている。
彼女の頭の中からは、一瞬にして、それまで話していたことがスルリと抜け落ちた。
至近距離で全然目を逸らさない彼に、響の鼓動は一気に速度を上げる。
少し前までは、こんなふうに接近しても全然平気だった。
この前のキス。
あれ以来、何かが変わったのだ。
一緒にいられるのは嬉しいし、安心できるし、心地良い。
けれど、何かの拍子に落ち着かない気分になる。彼の傍にいたいような、いたくないような。
走って逃げ出したい気持ちと、彼にしがみつきたい気持ちと、正反対な二つの気持ちでどうしていいのか判らなくなる。
思わず響が顔を伏せると、それがきっかけになったのか、唐突に彼が言った。
「クマがある」
「え?」
凌は首をかしげた響の腰を両手で掴んでぬいぐるみか何かのように持ち上げながら立ち上がり、彼女をベッドに下ろして繰り返した。
「目の下、クマがある。俺は帰るからお前ももう寝ろ」
言うなり、彼はテレビを消してしまう。
「でも――」
ベッドから下りようとしたら、片手で頭のてっぺんを押さえこまれた。
「いいから休んでおけ。それとも、寝かし付けてやろうか? 妹は五分で眠らせたぞ?」
凌のそんなセリフに唇を尖らせた響だったけれど、彼の目に見え隠れする微かな笑いに、からかわれているのだということを悟る。
子ども扱いとからかわれるのとどちらの方が良いのか決め兼ねる響に、凌はフッと口元を緩めた。
彼の笑みはあまり見られるものではなくて、それを目にした途端、響の胸がトクンと一つ音を立てる。ドギマギして、言葉もなく彼を見返した。
と、不意に、ベッドの上にペタリと座ったままの彼女を見下ろしていた凌が、身体を屈めてきた。頬に彼の大きな手が触れて、顔を仰向けられる。
唇と唇が触れ合って、ほとんど条件反射で響は目を閉じた。と、唐突に彼女の脳裏にこの間のキスが閃く。優しくて穏やかなその感触はあの時のものとは全然違うのに、彼の温もりで否応なしに思い出してしまう。
響の身体が強張ったのを感じ取ったのか、凌は唇を離し、身体を起こした。その頬に刻まれているのは、微かな苦笑か。
「あ、あの……リョウさん?」
嫌だったわけでも、怖かったわけでもないと伝えたかったけれど、響の口は彼の名前をこぼした所で固まってしまう。口ごもる彼女に、凌はまた微かに笑った。
「寝ろよ。俺が言ったこと、考えてみてくれ」
そう残し、響の髪をかき混ぜるようにくしゃりと頭を撫でると、彼は踵を返して玄関へと向かう。
静かにドアが閉まり、続いてカチャリと郵便受けに鍵が落ちる音が耳に届いて、響はホッと小さく息をついた。
何となく気が抜けて、ドサリとベッドに仰向けになる。
「もう……まだ、十時前だよ」
あっさりと出て行ってしまった凌に、何となく枕を投げつけてやりたい気分になる。
この間はあんなキスをしたくせに、それ以降は以前の彼と全く変わりがなかった――まるで、あんなことなどなかったかのように。
「別に、して欲しいわけじゃないけど!」
毎回あんなキスをされたら、響の頭がおかしくなってしまう。心臓だって、いつか止まってしまうかもしれない。
けれど、おくびにも出さないというのは、どういうことか。
もしかしたら、ナナのことで動転した響を落ち着かせようとしただけだったのかも。あるいは、単なる勢いだったとか。
やっぱり、響には凌の考えていることが今一つよく解からなかった。
片腕で両目を覆って、彼女は深いため息をつく。
凌との距離は、少し縮まったかと思ってもまたすぐに広がってしまう。彼の方が何段も上にいるような気がして。
(わたしも、リョウさんに何かしたいのに)
深夜のバイトも、無事を案じるよりも、問題はないと信用して欲しかった。
結局、彼の目に、彼女はどうやっても小さい子どものようにしか映らないのかもしれない。
やがて響は、不甲斐ない自分に対する自己嫌悪と共に眠りの淵へと引きずり込まれていった。




