最初の異変
響と並んで彼女の家に向かいながら、凌は時折チラリと横を見下ろした。
(バイトで何かあったのか?)
今日の彼女は口数が少なく、表情も硬い。
昼のナナのことが凌の頭の中を一瞬よぎったが、響のバイト先など、彼女が知る筈もない。きっと、仕事で何かあったのだろう。
響は凌と逢うとその日あったことをほとんど全て喋ってくれるのだが、それは良い事や面白かった事だけだった。多分、嫌なことは話してくれない。
それに気付かされたのは、ある日彼女を待っていた時だった。
響の上がり間際、いつものように裏口の近くで待っていた彼に、両手にごみ袋をぶら下げて中年男の方の店員が話しかけてきたのだ。
「あ、キミキミ、藤野さんの彼氏だろ?」
唐突に訊かれて戸惑いながらも頷いた彼に、その店員はわずかに声を潜めて言った。
「今日さ、ちょっとイヤなお客がいてさ。藤野さんは悪くないんだけど……まあ、ほら、ゴネた者勝ちっていうの? 彼女が謝んなくちゃ場が収まらなくてさ。もうじき上がってくるから、慰めてあげてよ――って、ゴメン、余計なお世話かな。でも、あの子って何か放っておけなくてね」
店員はゆっくりとした口調ながら一方的に言い終えると、ごみをごみ箱に放り込んで店に戻っていった。
彼の台詞通り、それから間もなく響が出てきていつものように帰途に着いたのだが。
凌はてっきり響が愚痴の一つもこぼすのだろうと思っていた。だが、帰り道に彼女の口から出てきたのは、楽しい事ばかりで。
あの時、響が自分に何でもかんでも話してくれているわけではないことに、彼は少し複雑な気分になったものだ。凌は響を真綿で包み込むようにしておきたいのに、彼女はそうされていてはくれないのだということに気付かされて。
問い詰めれば、語ったかもしれない。けれど釈然としない気持ちを抱きながら、その時の凌は響の選択を尊重した。そして、それまで彼女に対して抱いていた保護者めいた気持ちが、少し変化したのだ。
もちろん、響を守ってやりたいという気持ちは変わらない。その想いに、少し違うものが入り込むようになった。
それまでは、ただ彼女を守って抱き締めていれば満足だったのに、時折、不意にもっと荒い気持ちが射し込むようになったのだ。
響が自分の腕の中で寛いでいると、そのアバラを折らんばかりに力を込めたくなったりとか、キスも彼女に触れるのも、もっと深みを探りたくなったりとか。
響を傷付けたくないと思っている自分の中に潜むそんな考えを、凌は持て余した。
そんなふうに、一度にいくつもの感情を抱くことは、彼には経験のないことで。
響の前でため息をこぼしそうになったことも、一度や二度ではない。
(勝手が判らん)
指先で突くだけで粉々になってしまいそうな彼女を、どう扱ったらいいものなのか。
響と出逢う前の凌の世界は、全てにおいていたってシンプルだった。
これまで凌が関係を持ってきた女たちは、彼女たちの方から積極的に触れてきたからそれに応えるだけで済んだ。
だが、響が凌に望んでいる『役割』は、彼女たちが彼に望んでいたものとは違う気がする。同じように振る舞ったら、響は戸惑い、彼から逃げてしまうのではないのかと不安になる。
足を止めなければ当然別れる時が訪れてしまうもので、気付けば二人は響のアパートの前まで辿り着いていた。
いつもなら、この深夜コンビニバイトの明けは、彼女の部屋に寄らずに帰る。さっさと彼女を寝かせてやりたいからだ。
しかし、今日は。
「おやすみなさい」
視線を伏せたままでそう言って、響が扉を開ける。中に入りかけ、チラリと凌を見上げて、またすぐに目を伏せる。
(どう見ても、何かあるだろう)
とっさに、閉まりかけたドアを押さえていた。
「寄っていってもいいか?」
「え?」
凌の急な動きにたたらを踏んだ響が、ドアにすがりながらキョトンと彼を見上げてくる。
「寄らせてくれ」
もう少し、きっぱりとした口調に言いかえた。
響は少しためらうようにうつむき、そして頷く。
「はい……」
何となく『渋々』というようにも取れる風情の彼女を押すようにして、凌は部屋の中に入った。
響は凌にコーヒー、自分にはホットココアを用意して、テーブルを挟んだ向かいに座る。
「で?」
「え?」
どちらのカップも半分ほど中身が減った頃合いで凌が声をかけると、響はいくつか瞬きをして首をかしげてきた。
「何か、気にかかっていることがあるんだろう? 何だ?」
彼の問いに、響が固まる。
「お前がそんなふうに態度に出すのは、余程のことだろう? 言ってみろよ」
「別に、何も――」
「じゃあ、何故俺の目を見ない?」
逸らされていた視線が更に下がり、響はカップを凝視する。引き結んだ唇は、答えをこぼしそうになかった。
無言の時を持て余し、凌は手を伸ばして彼女の顎を上げさせる。その黒目勝ちの大きな目を覗き込んで、問い掛けた。
「なあ……俺か? 俺が何かしたか?」
「違います!」
とんでもない、と言わんばかりの口調で、響がそれまでのためらいを払拭して返す。
「じゃあ、何だ? お前がそんなふうに沈んでいても、話してもらえないと俺には何もできない」
「それは……」
響の唇が震える。また、言葉が止まったが、凌は何も言わずに待った。
何か言い掛けて止めるのを繰り返し、やがて響が微笑みを浮かべる。
その笑みは、いつもと違う。
そんなふうに笑われるぐらいなら、いっそ泣いてくれた方が良いとすら思わせる笑みだった。そんな笑顔で、響が言う。
「あの、彼女さんのところに行ってあげてください」
ようやく出てきた台詞だったが、訳が解からず凌は眉をひそめる。
「どういう意味だ?」
「や、ほら、わたしが頼りないからいけないんですよね。でも、だいじょうぶですから、わたしよりも彼女さんの方に行ってあげないと」
「……何を言っているのか、解からん」
「あの、きれいなヒト。あんまり放っておいたら、振られちゃいますよ? わたし、おじゃま虫にはなりたくないです」
冗談めかした口調だが、響の眼差しはそれを裏切っていた。
凌は事の次第を理解して、内心で舌打ちをする。
(――ナナか)
彼女が響に接触したに違いない。どうやって、響のバイト先のことを知ったのか――その結論は、すぐに出た。きっと、虎徹だ。
凌はテーブルを脇へ押しやって、響との距離を詰める。彼女は怯んだように下がろうとしたが、すぐ後ろにはベッドがあって、結局動けはしなかった。
凌は両手で響の顔を包み、ともすれば俯きがちになるのを上げさせる。しっかりと視線を合わせてきっぱりと言い切った。
「ナナとは、付き合っているわけじゃない」
凌のその台詞と共に響の視線が少し下がって彼の顎の下あたりを彷徨い、そして横へと逸らされる。
ナナが響にどんなふうに話したかが判らない以上、下手にごまかしたら余計に事態はこじれてしまうだろう。
凌が小さく息をつくと、響の肩がピクリと震えた。その震えに苦味を覚えながら、彼は簡潔に事実を口にする。
「確かに、あいつとは何度か寝たことがある。そういう相手は、他にもいた。あの頃は、女を抱くことを深く考えていなかった」
響がショックを受けたように目を見開く。彼女のそんな表情に、過去の自分を殴ってやりたい衝動に駆られたが、過ぎてしまったことはどうしようもない。今は現状を何とかしなければ。
「だが、お前と逢ってからは、一度もない。ナナとも――他の誰ともだ。そもそも、あいつとは『付き合う』という関係ではなかったんだ」
「でも、その……そういうことを、したんでしょう? 好きだったんじゃ、ないんですか?」
気持ちが無くても身体をつなげることはできるということを、彼女に教えたくはない。しかし、事実だ。あの頃の彼は、食べる物に無頓着だったように、女を抱くことにも無造作だった。凌にとって、食欲も性欲も、どちらも似たようなものだったのだ。
「殆どは、名前も知らない……知らなくてよかったし、知りたいとも思わなかった。名前を知りたいと思ったのは、お前が初めてだった。名前や、何を考えているかを知りたい――傍に居たいと思ったのは。少しでも離れていると、俺はお前のことが気になって仕方がなくなる」
言いたいことの十分の一も言えてない気がするが、とにかく言葉にしなければならないと凌は思った。響は大きく目を見開いて彼を見つめてくる。薄く開いた薄紅の唇に触れたい衝動を堪え、凌は続けた。
「ナナが何と言ったかは判らないが、多分、それは正しくない。俺はあいつのことを特別に想ったことはないし、お前と逢ってからは寝ていない。もう二度と触らないと、あいつ自身にも言ってある」
断言する凌に、響が顔を歪める。
「でも……」
響は言い淀むとその視線を凌の目から逸らせ、しばしば彼女が視線を走らせていた辺りを彷徨った。
「何だ?」
促されても、すぐには答えない。彼がジッと彼女を見つめたままで待つと、ようやく、続けた。
「その、首……ナナさんは、今日もリョウさんと――逢ったって」
「首?」
「赤く、なってます。虫刺されじゃ、ないですよね?」
言われて、彼女が示唆するものに思い当たった。あの時の、ナナの置き土産か。
やられた、と思いつつ、凌は響の顔を挟む手に力を込める。
「これは、確かに今日付けられた。だが、俺の方からは彼女に触っていない」
「だけど、すごくきれいなヒトじゃないですか。大人っぽいし、スタイル良いし……わたしとは、全然違う……」
そう言った響の目に、傷付いたような色が浮かぶ。いや、拗ねたような色、か。
(嫉妬、している?)
そう思った瞬間、何故か凌の胸の中がざわついた。
いや、もしかしたら親を取られそうになっている子どものようなものなのかもしれない。
けれど、いずれにしても、彼女のその様子は、凌を自分の元に引き止めておきたいと思っているのだと思わせた。
その瞬間、凌は身震いしそうなほどの高揚感に襲われる。
――そんなことをしている場合じゃない。もっと、ちゃんと話してやらないと。
そう思ったのに、凌の身体は勝手に動いていた。
響の腰を掴んでベッドに座らせ、少し見上げる形になった彼女の唇を奪う。そう、それは奪うという行為だった。
響が驚いたように息を吸いこんだ隙に、微かに開いた唇へのキスを深める。
いつもの軽く触れるだけの口付けとは違うそれに、彼女がビクリと身体を震わせるのが凌の手に伝わってきた。が、やがてその華奢な肩から力が抜けていく。
貪るように温かく潤った彼女の中を探ると、小さな手が、彼の服をきつく握り締めた。
「ふ、ぅ……」
キスの合間に、彼女が苦しげに息をつく。
名残惜しくも少し身体を離して、凌は響の目を覗き込んだ。彼女はボウッと目を潤ませて、見つめ返してくる。そこに戸惑いはあったけれども、怯えや嫌悪の色はなかった。
無防備な眼差しを向けてくる響に、凌は小さく唸る。
柔らかな身体を抱き締めるだけでは、足りない。
彼女を、自分の中に閉じ込めてしまいたかった。閉じ込めて、彼女の全てを自分のものにしてしまいたかった。
それは、彼自身戸惑うほどに強烈な衝動で。
彼女のことを決して傷つけたくはないのに、何よりも大事にしたいのに、同時に、頭から食らい尽くしてしまいたいような気もする。
そんな相反する気持ちに翻弄されながら、凌は身を乗り出した。そうして、再びキスを続けながら、響をそっと横たえていく。
この甘さは、彼女が口にしたココアの所為か。あるいは、彼女自身のものなのか。
いくら味わっても足りなくて、凌は何度も、何度も唇を重ねた。
どれくらい、そうしていたか判らない。
ふと、無意識のうちに両手が柔らかな頬から細い首筋へと滑っていたことに気付き、彼はようやく我に返る。
――もう、ここで踏み止まらなければ。
そんな声が凌の頭の中をよぎったのと、自分の下に横たわる身体の変化に気付いたのとは、ほぼ同時のことだった。
(……?)
仰向けになった響は、凌にそうされてからピクリとも動いていないように見える。彼のシャツを握り締めていた両手も、いつの間にかだらりとベッドの上に伸ばされていた。
不慣れなことに、意識を失ったのか。
慌てて身体を起こした凌は、彼女の様子に眉をひそめた。
響の両目は大きく見開かれていて、確かに凌に向けられている。が、そこに自分が映されているという実感が、彼には持てなかった。
身体はそこにあるのに、中身がない。
そんな感じ。
何かがおかしい。
「……響?」
そっと名前を呼んでみる。と、微かに目が揺らいだ。
「響!」
強い口調で呼び直すと、彼女がハッと息を呑む。それは、溺れていた者が息を取り戻す様に似ていた。彼女は大きく瞬きをして、その目にいつもの輝きが戻ってくる。
「リョウ、さん?」
響の口から自分の名前が出てきたことに、凌は脱力するほどの安堵を覚えた。何故か、彼女が失われてしまったかのように感じられたのだ。
「お前、大丈夫なのか?」
「え? 何が――!」
キョトンとした次の瞬間、彼女の顔が真っ赤になった。小さな両手で、ついさっきまで凌が触れていた唇を覆う。
「悪かった」
響を引き起こしながら思わず謝ってしまった。が、そんな凌に彼女は両手をベッドについて身を乗り出してくる。
「謝らないでください! わたし、イヤだったわけじゃ……」
言いかけて、また更に頬を赤らめた。
それはすっかりいつも通りの響の反応で、凌の頭の中からは先ほどの彼女の様子が薄らいでいく。
多分、彼が急ぎ過ぎただけだ。
性急に求め過ぎた彼に、ショックを受けただけ。
(きっと、何でもない)
凌はそう自分に言い聞かせたが、先ほどの彼女の様子と心の底に淀んだ微かな違和感を完全に消し去ることはできなかった。




