『ホンモノ』? 『ニセモノ』?
グイ、と目の前に突き出されたのは、一本のペットボトル。
まさに目の前――二十センチ程のところにあるそれに、響は少し面食らう。
「い……らっしゃい、ませ?」
お客はむっつりと口を噤んでいる女性だった。
猫のように目尻が少し上がった大きな目が印象的な、とてもきれいな女性なのだけれど、何だか睨まれているように感じるのは響の気の所為だろうか。
「いただいてもよろしいですか?」
女性客が握ったままのペットボトルに向けて、響は両手を差し出した。彼女は微かに目を眇め、それをカウンターに置く。
「百四十七円になります。袋、お入れしましょうか?」
笑顔でそう言っても、女性は笑みを返してはくれなかった。無言のままでカウンターの上のペットボトルを取る。
すぐに立ち去るのかと思ったら、そうではなかった。
「お客様?」
お釣りを受け取ってもまだレジの前に立ったままの彼女に、響は小さく首をかしげる。
今は他にお客が並んでいなくても、それなりに忙しい時間だ。できたら、脇によけて欲しいな、と思うのだけれども。
優に一分は経っても、女性客はジッと響を見つめたまま、動こうとしない。
困惑する響を小暮がつつき、彼女の耳元で囁いた。
「ねぇ……店長に電話する? もしかして、何かの苦情とか……」
「そう、ですね……」
響は彼と同じようにコソコソと返してはみたけれど、もしも苦情だとしたら彼女に対してのものに違いない。何しろ、その女性客は響しか見ていないのだから。
一応、クレームは店長が全て応じることになっている。彼はこのコンビニの上に住んでいるし、短縮番号一番を押せばすぐに出てきてくれるだろう。
(でも……)
響は躊躇する。
時刻は深夜の一時を回っていて、昼間店に出ている店長を呼び出すのは、気が引けた。
「取り敢えず、わたしがお話聞いてみます」
「そう? 大丈夫?」
「ダメだったら、店長に電話します」
「そっか。じゃあ、こっちは任せてよ」
「すみません、お願いします」
ペコリと小暮に頭を下げて、響はカウンターから出る。その間も、女性客の目はジッと彼女を追い続けていた。
(うわぁ……ホントに、何だろう……)
猫に狙われている鼠の気分はこんな感じだろうか。視線を物理的に感じることは本当にあるのだと思いながら、響はその女性に笑顔を向けた。
「あの、こちらへどうぞ」
こんな時間にこんなきれいな女性を路地裏に連れて行くわけにもいかない。少し迷ったすえに、選んだのはバックヤードの控室だ。
扉を閉ざし、店内の騒音が遠ざかっても、女性客は黙り込んだままで響を睨み据えてくる。すこぶる、居心地が悪かった。
「あの……わたし、バイトの藤野響と言います。何か、失礼がございましたか?」
「……フジノ、ヒビキ」
「はい」
名前を繰り返され、響は取り敢えず返事をする。
女性客はジロジロと響の頭の天辺からつま先まで視線を下ろし、また上げた。その眼差しは、あからさまに品定めをしているものだ。
胸を張ったその女性は、響よりも頭半分ほど大きい。彼女は顎を上げて響を見下ろしてきて、その険のある眼差しに、思わずほんの少しだけ後ずさった。
そんな響の弱気を見抜いたかのように、ナナが微かに目を細める。
「アタシ、ナナ。リョウから聞いてない?」
(――リョウさん?)
唐突に出てきたその名前に、響は面食らう。
「え、いえ……聞いてません……」
このきれいなヒトと凌とは、いったいどんな関係なのだろう。
響の頭の中は、疑問でいっぱいになる。いや、答えは一つしかない気がしたけれど、それを受け入れるのは、何だかイヤだった。
「アタシはリョウの彼女よ。あんた、人のモノに手を出さないでよ」
「モノ……」
響はその一言を繰り返す。繰り返しながら――頭の中では別のことを考えていた。
彼女を仇のように睨み付けてくるこの女性――ナナは、過去形を使わなかった。つまり、まだ、凌とナナは恋人同士ということになるのではないだろうか。
けれど、凌はかなりの時間を響と共に過ごしている。彼は、いったいいつ、この女性と逢っているというのだろう。
凌は響に触れる。とても優しく、とても親密に。
(――この人にも、同じように……?)
いや、目の前の女性と自分とが同じ扱いをされているとは、思えなかった。
ナナというその女性は、とても、きれいだ。すらりと背が高くて、スタイルも良くて、どんな男性も魅了されてしまうに違いない。
それに対して、自分はどうだろう。
色気なんて、全然ない。
響とナナを並べた時、男性が恋人として選ぶのは圧倒的にナナの方の筈だ。
その歴然とした事実に二の句を継げずにいる響をよそに、ナナは両腕を胸の前で組んだ。そして、自信に溢れた口調できっぱりと宣言する。
「身の程ってもんをわきまえてよ。リョウはアタシのなんだから、いい加減、返してくれない?」
「でも……どこに行くのかは、リョウさん次第だと思います。わたしがどうこういうものじゃ――」
「はあ? あんたがしがみ付いてるのが悪いんでしょ?」
「しがみ付いてなんて――」
いない、と言えるのだろうか。
響は口ごもる。
凌が自分のことを大事にしてくれているのは、伝わってくる。
(でも……)
彼の響への態度は、大人が子どもを甘やかすのと同じようなレベルなのかもしれない。
自分が子どもっぽいことは、響自身充分に判っている。外見だけではなく、中身的にも。
響の中の失われた十年――それを取り戻せたら、もう少し大人らしくなれるのだろうか。そうしたら、凌にももっと違う接し方をしてもらえるのだろうか。
きっと、凌の目に映る響は、幼い子どもの姿なのだ。
(だから、一緒にいてくれるの? 放っておけないから? 心配だから?)
そんな釣合の取れていない関係は、嫌だった。
そんな関係には、どうしても凌の胸の奥底に眠っている存在の陰がチラついてしまう。彼が今でも誰よりも大事に想っているのだろう、幼い少女の存在が。
響の心の奥にいつもくすぶっていた小さな炎が、ユラリとわずかに大きくなった。
彼女の口の中に消えた残りの台詞を見透かしたように、ナナが薄く笑う。
「アタシはもう何回もリョウと寝てるのよ? いつもすごく優しいんだから。リョウだって、アタシに満足してくれてる。でなきゃ、何度もヤろうなんて思わないでしょ?」
露骨な彼女の言い方に、響の頬が熱くなる。けれどそれとは裏腹に、お腹の底には何か冷たいものがズシリと溜まり込んだ。
わずかに身を強張らせた響に、ナナは追い打ちをかける。
「今日だって、逢ったわよ」
「え?」
「やっぱり、優しかった。……ウソだと思うなら、アイツの首、見てみなさいよ。アタシのモノだっていうシルシを付けといたから」
響は絶句する。
反論が無いことをどう受け取ったのか、ナナは目を細めて響を見返した。そこに微かな怯えにも似た色がよぎった気がしたけれど、それは多分響の錯覚だろう。ナナはいかにも自信ありげに彼女のことを見下ろしているのだから。
「いい? とにかく、早いとこ、リョウをアタシに返してよ?」
ダメ押しのようにそう言うと、ナナはさっさと店へと続く扉を押し開けて出て行ってしまった。
後に残された響は、悄然と立ちすくむ。
ナナは、きっと『ホンモノ』なのだ。凌は、彼女自身を好きなのに違いない。
あんなにきれいで、あんなに自信に溢れている女性なのだから、『誰かの代わり』などには決してならないだろう。
対する自分はどうだろう。
(リョウさんは、『わたし』に逢いに来てくれているの? 『わたし』に触れてくれているの?)
絶対に「そうだ」と断言できる自信がない。
「仕事に、戻らなくちゃ」
こんな私事に、ずいぶんと時間を割いてしまった。
揺らぐ気持ちを抑え込んで、店に戻ろうとドアに手をかける。が、そこに付けられているマジックミラーに映った顔は、とてもではないがお客に見せられるものではなかった。
「スウィッチ、切り替えないと」
響はグッと顔を上げ、深呼吸をいくつかして、出る。
「すみません、遅くなりました」
笑顔でそう言った響に、小暮がホッとしたような眼差しを向けた。
「ああ、戻ってきた。で、どうだった? 苦情?」
「あ、いえ……個人的なお話でした。すみません、仕事中だったのに」
「いや、そんなに忙しくなかったから、別にいいんだけどさ。なかなか帰ってこないから、店長に電話しようかと思ったよ」
「ご心配おかけしました。あ、休憩、入ってください」
そう言って響がにっこりと笑ってみせると、ようやく小暮の眉間の皺が消える。
「まだいいよ。まあ、揉め事にならなくて何よりだ」
彼のその台詞を最後に、レジにはバラバラと客が並び始めた。
響はレジの前に立ちながら、何とか笑みを顔に貼りつける。次から次へとカウンターの上に置かれる品物に、集中して。
その日の客の入りは結構多く、時間はあっという間に過ぎていった。シフトが終わる時間が近付くにつれ、響は落ち着かない気分になってくる。
何となく、凌と顔を合わせたくなかった。けれど、彼はいつものように迎えに来てくれているに違いない。
(何か用事ができて、リョウさんが来られないとか、ないかな)
響はかなり切実にそう願った。凌とどんな顔を合わせればいいのか、判らない。前にも同じような気持ちになったことがあったけれど、あの時よりも遥かに彼女の気分は沈んでいた。
(いっそ、ずっと働いていたいかも……)
しかし響のそんな願いも空しく、やがて仕事の時間は終わる。
「お疲れさん」
「お疲れ様でした……」
小暮の労いに笑顔で応えようとしたけれど、あまりうまくいかなかったようだ。
「あれ、ホントに疲れた?」
「あ、いえ、だいじょうぶです」
「ふうん? まあ、でも、いつもの彼氏が迎えに来てくれてるんでしょ? 心配なのは良く解かるけど、よく続くよねぇ。普通は途中でドロップアウトするよ」
何気ない小暮の台詞が、響に追い打ちをかける。その『彼氏』と逢うのが気まずいのです、とは言えなくて、響は曖昧な笑みでお茶を濁した。
「じゃあ、お先に失礼します」
「はいはい、ゆっくり休んでね」
そんな小暮に頭を下げて、響は控室に向かう。のろのろもたもたと着替えを済ませ、裏口のドアを開けた。
いつもの場所に、いつもの姿。当然のように、そこにいる。
見る度に胸がキュッとなるのだけれど、今日のそれは微かな痛みを伴っていた。
彼の姿を目の当たりにして、ナナの台詞が脳裏によみがえってくる。
(わたしって、もしかしてお荷物だったりするのかな。ホントは、彼女と一緒に過ごしたいのかも)
凌の前まであと数歩、というところで立ち止まった響を、彼が訝しげに見つめてきた。
「どうした?」
「あ、いえ、何でもないです」
案じる声をかけてくれる凌の元へ、響は歩み寄った。そして、チラリと彼の首筋に目を走らせる。
(――印?)
彼女の目に映ったのは、凌の首の筋の辺りに浮き出た赤い痣のようなものだ。
(何だろ?)
響は内心で首をかしげ、次いでハッと息を呑む。
(もしかして……)
その正体に思い当たって、思わず彼女は顔を伏せていた。無意識のうちに唇を噛んでしまったけれど、それよりも胸の痛みの方が強かった。
「やっぱり、何かあるんじゃないのか? 具合が悪いのか?」
頭の上からそんな声が響き、彼女の顎に大きな手が添えられる。拒む間もなく顔を上げさせられて、心配そうな凌の眼差しともろに行き合った。
(この人が優しいのは、どうしてなんだろう)
そんな疑問が響の頭をよぎってしまう。
彼の優しさが苦しいと思ったのは、初めてのことだった。
そして、優しさではなく、別のものが欲しいと思ったことも。




