執着
何故、何故、何故!
一心に足を動かしながらも、ナナの頭の中にはそれしかなかった。
凌は彼女のことを特別に愛している筈だった。
何故なら、彼は彼女のことを特別に抱いてくれたから。
ナナは苛々と爪を噛む。キレイに伸ばしていたそれは、もうギザギザだった。
最初に彼女に触れたのが誰だったのかは、忘れた。小さい頃から、母親の元にはたくさんの男達が出入りしていたから。母親は、まるでナナのことが見えないかのようだったけれども、彼女の『恋人』のうちの何人かは、母親がいない時にはナナのことを構ってくれた。
「可愛いね。好きだよ」
そう言いながら、母親にするように、ナナに接してくれた。
彼らは母親を『アイして』いたのだから、きっと、ナナのことも『アイして』いたのだろう。
一人一人の顔は覚えていない。だけど、ナナは、彼女を抱く時の彼らの言葉は覚えている。
(みんな、アタシのことを大好きだって言ってくれるもの)
彼女の身体をまさぐり、舌を這わせながら、皆口を揃えて同じセリフを吐き出した。
受け身から始まって、やがて時に彼女の方から誘いをかけるようになっていった。狂ったように求めてくれるのが、嬉しくて。
家を出て、街中で相手を見つけるようになるとセックスは無言の行為になったけれど、抱き方は皆同じだった。
性急に、時に彼女が痛みを覚えるほどに、欲しがってくれる。
たとえ言葉を伴わなくても、行為が同じなのだから、気持ちも同じ筈だ。
抱かれることが、ナナにとっては愛情のバロメーターだった。
(欲しいって思うのは、愛してるっていうことだもの)
そんなふうに、思っていた。
凌と出会ったのは、一年ほど前のこと。
遊び仲間に連れられて覗いた賭け試合で、彼が戦っていた。
顔もいいし、身体もいいし。
試合が終わって、ナナはいつものように誘いをかけた。
「ねえ、アタシとシない?」
彼の腕に胸を押し付けるようにして抱き付いて、すくい上げるように見つめて。
それだけで、いつも男たちはその気になった。中には、路地裏にナナを引っ張り込んで、その場で終わらせてしまう者もいる。それほど彼女のことを欲しがってくれるのだ。
けれど、激しく戦った後だというのに凌は淡々としていて、ナナが笑みを向けても他の男達のように涎を垂らさんばかりの様子にはならなかった。
「しない」
短く答えて腕を引き抜こうとした彼に、一瞬呆気に取られた。
「ちょっと、いいじゃん、シようよ!」
もう一度誘うと、今度は肩を竦めてあっさりと頷いた。
(何だ、やっぱりその気なんじゃない)
単に、格好付けただけなのかと思った。
けれど、並んで歩いていてもやっぱり全然彼女のことを欲しがっているようには見えなくて、少し拍子抜けでホテルに行って。
涙が出そうになった。
彼があまりに優しく彼女に触れたから。
そんなふうにナナを抱く者は、それまでいなかった。
いつも、快楽の中に痛みと苦しさを伴っていた。そういうものだと、思っていた。
終わった後に、思わず涙をこぼしたナナを彼は戸惑ったように見て、そして頭を撫でてくれた。まるで幼い子どもにするかのように。
大きな手の温もりを感じながら、この人は『特別』なんだ、と思った。
凌を見つけるのは大変で、なかなか逢えなかったけれど、逢えた時には必ず誘った。抱いてくれるのは十回に一回くらいでも、彼の手はいつも優しかった。
それなのに。
何故、もう抱かないなどというのだろう。
いいや、そんなのはウソだ。
(アタシには、リョウが必要なんだから。誰にも渡すもんか)
頭がそんなことを考えているうちに足は勝手に動いていて、気付ばナナは虎徹に教えられたコンビニの前に立っていた。
今の店内には、初老の男と金髪の若い男しかいない。
そういえば、虎徹が言っていた女のシフトがいつなのか、聞いていなかった。
ナナは店内に入り、中をぐるりと回ってペットボトルを一本選び、レジに向かう。やはり他に店員はいなくて、彼女はそれをカウンターに置いた。
「らっしゃいませぇ。百四十七円になります。袋入れますか?」
どことなく気怠そうな金髪の男が、ダラダラっと決まり文句のようにそう言う。目も上げない彼に、苛々とした口調でナナは問う。
「いらない。ねえ、ここって女の店員いないの?」
「はい?」
金髪男が怪訝そうに顔を上げた。初めて視線が合う。
「若い女って、ここでバイトしてないの?」
「や……いますよ、一人ですけど」
「いつ?」
「え?」
喰い付かんばかりの口調でのナナの問いに、金髪男が戸惑いを露わにする。更に問い詰めようとしたナナに、横合いからのんびりした声が割り込んだ。『店長』と名札にある初老の男だ。
「ああ、すいません、お客さん。あんまり個人的なことはお答えできないんですよね。何か彼女と問題でもありましたか?」
男はニコニコと愛想はいいが、譲りそうもない。
「別に……」
ムッツリと答え、ナナはペットボトルを掴んで出口に向かう。店は出たが、すごすごと諦めるつもりはなかった。
時計を見ると、もうじき二十時になろうとしている。
ナナは通りを渡って道の反対側に行くと、ガードレールに寄り掛かった。そこでペットボトルの蓋を捻って開ける。
今日が出勤の日なのかどうかすら知らない。けれど、その女が現れるまで、彼女はいくらでも待つつもりだった。
やがて一時間が過ぎ、二時間が経つ。
そうしている間にも、人の波は流れ続ける。こんなにもたくさんの人がいるのに、ナナに目を留める者はいない。まるで彼女が存在していないかのように通り過ぎていく。
まだ残暑の熱が残る時期で、寒いわけではない。
けれど、ナナの両手は無意識のうちに自分の身体を抱き締めていた。
誰でもいいから、抱いて欲しい。
身体中のどこよりも、胸が疼いた。
一度気付くと、その気持ちはどんどん膨れ上がっていく。焦燥と不安が込み上げてきて、喉から溢れそうだった。
ジッと待つことに耐えられなくなって、ナナが立ち上がったその時だった。
人混みの中、ずば抜けて大きな彼の姿は、すぐにナナの目に飛び込んでくる。
「リョウ……」
嬉しさのあまり思わず通りを横切って駆け寄ろうとして、立ちすくんだ。
いつも無表情な凌の顔。
それが柔らかく緩んで、その視線は、彼の傍らを歩く女だけに向けられている。
(あんな顔、知らない)
彼にとって、自分は特別なのだと思っていた。あんなふうに抱くのは、自分だけなのだと。
でも、あの顔は、何?
瞬きもできずにナナが見つめる中で、凌は手を上げ、女の頭を撫でる。
今の凌は彼女に背を向けていてどんな顔をしているのか判らなかったけれど、彼を見上げる女の表情から、それを察することは簡単なことだった。
(あの手は、アタシのモノなのに!)
ナナは唇をきつく噛み締める。鉄の味が口の中に広がっても、まるで気にならなかった。
二人はやがて別れ、女が店の裏手に消えていく。
両方の姿が完全に消えるまで、ナナは自分が息を止めていたことに気付かなかった。
ややして店のユニフォームを身に着けて女がカウンターに現れる。その姿を見据えながら、ナナは通りを横切った。




