彼女の過去、そして未来
聴いて欲しいことがある。
そう言ったきり、海からの帰りの電車の中でも、駅から響の家に歩いている今でも、彼女は黙ったままだった。
小さな唇を引き結び、響は少しうつむきがちに黙々と歩いている。
いつもは小鳥のようにひっきりなしに喋り続ける彼女のそんな姿に、凌はそんなに言いにくいことなのだろうかと眉をひそめた。
そんなに話したくない事なら、話さなければいい。
凌はそう思うけれども、それでも彼女が話さなければならないと決意するようなことは、いったいどんな内容なのだろう。
――凌からしたら話さなくてもいいと思い、彼女からしたらどんなに嫌でも話さなければと思うようなこと。
(もう、会わない、とか?)
一瞬、彼の足が止まった。
自分が『普通』の生き方をしてきていないことは、彼自身よく解かっている。
親に殴られて育ったことも話した。
その親を半殺しにして家を飛び出してきたことも話した。
夜の街をふら付き、何人かを病院送りにして少年院に入った経歴があることも話した。
そして、今は他人を傷付けて金を手に入れていることも、話した。
ごく平凡でも幸せに育てられてきたに違いない彼女には重荷に感じられたとしても、おかしくはなかった。
二人は、あまりに違い過ぎるのだ。
「リョウさん?」
凌が立ち止まったことに気付かず数歩先に行っていた響が振り返る。怪訝そうに見上げてくる彼女の目の中に、彼を疎んじているような色はない――と思いたい。
「悪い。何でもない、行こう」
呟くようにそう返し、凌は再び歩き始めた。
それからはまた無言のままで、二人はやがて響のアパートに到着する。
いつものように彼女は二人分のコーヒーを用意すると、テーブルを挟んで凌の向かい側に腰を下ろした。いつもは気にならないその距離も、妙に勘繰ってしまう。
部屋の中にはぎこちない沈黙が居座る。
響はテーブルの上のコーヒーを見つめて、ピクリとも動かない。強張った肩が彼女の緊張具合を示していた。
凌はうつむいたままの彼女の視線が彼に向けられるのを待つ。
――もしもその中にわずかでも彼を厭うものが見えたなら、黙ってこの部屋から出て行こう。
その考えは、彼に吐き気を催させる。
これまで多くのものを自分から切り離してきた凌だったが、響の中から自分が消えるのだ、彼女は自分とは無関係に生きていくのだと思うと、まるで腹を金属バットで殴られたような衝撃に襲われた。
思わず身じろぎをした凌とほぼ同時に、響がようやく決意したというようにバッと顔を上げる。
響を見つめていた凌はまともに彼女と視線がぶつかった。彼女はほんのわずかな逡巡も見せずに、真っ直ぐに彼と目を合わせる。そこに強い決意があることは凌にも見て取れたが、それ以外のものは何も見い出せなかった。
不安を押し隠す凌の前で彼女は小さな深呼吸をして、そして口を開く。
「リョウさんは、お父さんのこととか、お母さんのこととか――妹さんのこととか、たくさんわたしに話してくださいましたよね。いい思い出ばかりじゃないのに、つらかったこととかも、全部――良くないことも」
「ああ」
響の言わんとしていることが読めず、凌は慎重に頷いた。
「リョウさんみたいに強い人がそんなふうに何もかも人に話すのって、本当は、きっとすごく気が進まないことなんだと思います」
「別に……今までは話そうと思う相手がいなかっただけだ」
それは本音だが、響の言葉も正しい。確かに、いくら付き合いが長くても、響に話したことを虎徹にも聞かせようとは、たとえ殺されそうになっても思わないだろう。
彼の返事に、何故か響はこの上なく嬉しそうな表情になる。だが、明るい笑みはやがて苦みを含んだものになり、彼女の視線は、再びテーブルの上に戻った。
「わたしも、リョウさんに色々お話したいんです。わたしのことを、知って欲しいんです。でも……」
次第に小さくなっていく声は途切れ、また部屋の中はシンと静まり返った。
響には、話したくないような過去があるのだろうか。
屈託のない彼女に負い目に感じるような経験があるとは、凌には思えなかった。
だが、もしも仮に何かがあったとしても、彼にとって、それはどうでもいいことだ。
凌にとって大事なものは、今、目の前にいる響きであって、触れることもできやしない過去の彼女ではないのだから。
「別に、話したくなければ話さなくていい」
そう言った凌に、響は顔を上げる。大きなその目で彼を見つめると、彼女は緩く微笑んだ。そして、苦笑と泣き顔の、中間のような表情で言う。
「話したくないんじゃないんです。話せないんです」
「え?」
眉をひそめた彼に、響はもう一度繰り返した。
「話したいけれど、話せないんです」
良く理解できずにいる凌に、響は覚悟を決めるように深呼吸すると、真っ直ぐに彼を見つめて話し出した。
「わたし、十歳よりも前の記憶がないんです。覚えている一番古いことは、十歳の誕生日を伯母と過ごしたこと。それからははっきりと記憶にあるのに、それ以前のことは全然、なんにもないんです」
「十歳……」
言われて、凌は自分の記憶を手繰ってみた。遡れるだけ遡ってみて、出てくるのは三歳頃に一晩ベランダで過ごしたことだ。明確ではないが、とにかく寒かったことだけは覚えている。
――そうやって振り返ってみると、いくらでも古い記憶は掘り出せる。
とは言え、凌のその記憶も、ぼんやりと不確かなものばかりだ。響の言う「十歳以前の記憶が残っていない」という状態も、それほどおかしいことではない気がする。
そんな凌の表情を見て取り、彼女は苦笑した。
「違うんです。時間の経過で忘れたって言うんじゃなくて……なんていうか……十歳からわたしの人生が始まったっていう感じなんです。こう、ずっと眠っていて、その時突然目が醒めた、みたいな」
やはり、よく解からない。
眉間にしわを寄せて、凌は問うた。
「事故か何かか? 頭を打ったとか?」
「いいえ」
響は口ごもり、そしてゆっくりと、言葉を選ぶように――台本か何かを読むように、続ける。
「わたしの母は、わたしが五歳の時に亡くなりました。父は、それから四年後……九歳の時に」
響のそのセリフを聞いて、凌は悟った。
(彼女が伯母の家にいるのは、そういうわけだったのか)
微かに目を見開いた凌に、響が頷く。
「そうなんです。だから、高校を卒業するまで伯母に育ててもらいました。わたしが何も覚えていないのは……父が亡くなった時の状況のせいらしいんです」
「父親の?」
「はい」
頷き、響は微かに頭を傾けた。彼女の目が見えなくなって、凌はもどかしさに襲われる。
そうされてしまうと、彼女がどんな思いを抱きながら言葉を吐き出しているのか、まったく判らない。
凌はそれが嫌だった。
多分、いや、きっと、これから響が明かそうとしている話は明るく楽しいものにはならない。
だから凌は、たとえそれが苦しいものであったとしても、悲しいものであったとしても、彼女の中にあるものを見つめながらその話を受け止めたかったのだ。
――そんな彼の胸中を知ることなく、目を伏せたまま、響は続ける。
「父は、自殺でした。どんな亡くなり方だったのかは聞かされてません。でも、わたしは父の遺体と、三日間、一緒に過ごしていたそうです」
「……三日?」
凌は、それきり絶句した。
幼い少女が父親の死体と三日――など、いったいどういう状況なのか。
想像すらできない彼に、響がフッと小さな笑いを漏らす。
「はい。おかしいですよね。九歳なんだから、誰か呼びに行けばよかったのに、わたしは何もしようとしていなくて、意識を失った状態で発見されたんだそうです。その時のことを、わたしは全然覚えていません。それから一年くらいの間のことも、覚えてません。多分、父が亡くなったことがショックだったんだろうって、精神科の先生には言われました。必要ならまたいつか思い出すからって。でも、未だに思い出せません。父のことも、母のことも」
訥々としていた響の語りはいつしか堰を切ったようなものになっていた。早口できっぱりとした口調とは裏腹にその表情は頼りなく、凌の身体は考えるよりも先に動き出す。
テーブルを押しやった拍子に波立ったコーヒーが少し零れたが、気にも留めなかった。
凌は身を乗り出して、響を引き寄せる。細い彼女の肩は目に見えないほどの小刻みな震えを帯びていて、彼の胸は締め付けられた。
凌の腕の中で、くぐもった声がする。
「父にも母にも大事にされていたっていうことは、何となく……そう感じるんです。でも、忘れて、思い出さないんです。――薄情、ですよね。母の顔は伯母が持っていた写真で見たんですが、父のはそれすらなくて……どんな人だったか、わからないんです。親戚とかはいなくて、天涯孤独だったそうです。でも、絶対に優しい人でした。覚えていなくても、そう思うんです」
そう断言した響の小さな吐息が、凌の胸を暖めた。語り終えた彼女の身体からは力が抜けて、完全に彼に身を委ねている。
震えるようなそのため息。彼女の身体を抱き締める腕に力を増した彼の中に、強い想いが湧きあがる。
「俺は……お前の過去はどうでもいい。今のお前には関係ないだろう?」
凌の台詞に響の方がピクリと揺れた。ややして、彼女が顔を上げる。
「でも、今のわたしを作ったのは、生まれてからこれまで生きてきたわたしなんです。記憶にはなくても、今までの十九年間があったから、今のわたしになってるんです。父の事も、母の事も、それに無くなってしまった十年間も、それは本当はわたしの一部なんです。だから、それを覚えていないことが悔しい……」
響の目の中に時折よぎる影は、この所為なのか。
けれども、唇を噛む響の気持ちが、凌には解からなかった――失ったものを惜しむ彼女の気持ちが。
凌には、『今』しかない。いや、かつての彼は『今』だけだったが、響と出逢ってからは『未来』も見るようになった。
今、こうやって触れることができる響と、これからも共に過ごしていくこと。
彼女が、笑っていられるように、すること。
重要なのは、それだけではないのだろうか。
過去が響にとって重りとなっているのなら、そんなものは無くてもいいと凌は思う。それを忘れていられるくらい、『今』を幸せにしてやりたい。
そうしてやれれば、いいのだと思う。
だが。
(どうすれば、彼女をずっと笑顔でいさせられるんだ?)
彼の、その手で。
かつて凌は、同じくらいの強さで他者の幸福を願ったことがある。あれは、母と妹のことだった。
あの時は、自分が離れることでそれが実現するなら、それでもいいと思えた。
だが、響のことは、この手で、自分の傍で幸せにして、その時彼女が笑顔を向ける相手は自分でありたかった。
それは、利己的な欲望に近い。客観的に考えれば、凌以外の誰かの方が、よほど響を幸せにできるだろう。
凌は、幸せがどんなものかも知らないのだから。
しかし、他の誰かが彼女の傍にいる――そんな事態を想像するだけで、彼の心の中は波立った。
(俺は、もう前の俺とは違う)
響は、凌の中の様々なことを変えてしまった。何も感じず、何も望まなかった彼は、もう存在しない。
凌が望むのは響のことだけだが、彼女の存在がなければ息をするのもままならない。
凌は、自分の望みを成し遂げるにはどうすべきなのかを考えた。
少なくとも、今のままではいけないことは解かっている。今のままでは未来はない。
では、どうしたらいいのだろう。
凌は響の身体に回した腕に力を込める。
――その時、ふいに彼の頭の中に閃いたのは、一人の男の名前だった。




