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君がいる奇跡  作者: トウリン
探し、求めた、その先に

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13/74

そして、始まる

 彼は今日、来てくれるだろうか。

 バイト上がりの時間が近付くにつれ、(ひびき)は何だかそわそわしてくる。

 一昨日は急に(りょう)が『あんなこと』をするから、びっくりして、部屋を出て行くのをただ見送ってしまった。


 来てくれたら、どんな顔をしたらいいのだろう。


 響は落ち着きなく唇を噛む。

 とてもではないが、いつも通りの態度なんてできそうにない。

 かといって、彼に逢いたくないわけではないのだ。たとえ何があっても、たぶん、絶対、そんなふうには思えない。

 逢いたいのはやまやまだけれども、逢った時にどんなふうに笑ったらいいのかが判らなかった。

 いや、それ以前に、もしかしたら、もう来てくれないかもしれないのだけれども。


「うあぁ……どうしよう……」

 思わず呟きを口からこぼしてしまった響に、隣に立っていた小暮が振り返る。

「何? どうかした?」

「あ、いえ、何でもないデス」

 ヘラッと笑いながら、響はそう返した。と、小暮が時計を振り返る。

「藤野さんはもうおしまいでしょ? あと十分だし、お客もいないし、帰り支度してもいいよ?」

「え……いえ、ちゃんと時間までやります――やらせてください」

 早く上がってしまって外に彼がいなかったら、落ち込む。いるかいないか、その確認はできるだけ先延ばしにしたい。

「そ?」

「はい」

 響が力いっぱい頷いたところで、たかが十分はあっという間に過ぎていく。じきに本当にバイトは終わる時間になった。


「じゃあ、お疲れ様でした。お先に失礼します」

 時間を五分ほど過ぎたところで響は複雑な気分のまま小暮に挨拶をし、いつもよりも若干時間をかけて着替え、ようやく裏口に向かう。

 扉の前で一度立ち止まり、深呼吸をして、薄く開けた。そっと外を覗き――響の口からは小さな吐息が漏れる。


 いた。

 いつもの場所で壁に寄りかかり、あらぬ方向を眺めている彼が。


 戸の開く音が聞こえたのか、気配を感じたのか、凌がゆるりと彼女の方を見る。

 目が合った瞬間、思わず響は満面の笑みを浮かべていた。あまりに間が抜けていただろうことに気付いて、ハッと顔を引き締める。

 とっさに真顔に戻った響だったけれども、彼女が笑った瞬間にチラリと凌が見せた表情を見逃さなかった。彼の顔にはほんのわずか、ホッとしたような色が浮かんだのだ。


 一昨日のことは、彼も何かは感じているのかもしれない。

 もしかしたら、凌にとってアレは何の意味もない、取るに足らないことだったのかも、とも思っていた響は、彼が一瞬だけ見せたその表情が何となく嬉しく感じられた。


「……おはようございます」

 気分的には夜なのだが、真冬と違って七月のこの時間はすっかり夜も明け、「こんばんは」はそぐわない。

 響の挨拶に、彼は少し顎を引くようにして頷きを返した。これも、いつもと同じ仕草だ。

 一昨日以前と全く変わらぬ凌の様子に何となく釈然としない気分をくすぶらせながらも、変わっていないということに安堵した響は彼の元へ歩み寄った。


 ――彼がいつも通りにするのなら、わたしもそうしよう。

 そう心に決めた響だったけれども、意に反して、一歩彼に近付くごとに、ドンドン頬が熱くなる。勝手に赤くなっていってしまうことを恨めしく思いながら、素知らぬふりをして足を進めた。

 近付く響を、凌はジッと見つめている。そうして、彼女があと一歩、というところまで来ると、壁から身体を起こして歩き出した。


 何もかもが何もなかったかのようだ。けれど、いつもなら道中ずっとしゃべり続けるのに、彼の真意を測り兼ね、響は口を開くことができなかった。

(そもそも、リョウさんはなんであんなことをしたの?)

 そう尋ねたくてたまらない。

 けれど、そんなこと、訊けるわけがない。

 いつも通り黙ったままの彼の隣をいつもと違って口をつぐんで歩きながら、響はそっと彼の横顔を窺い、小さく息をついた。

 いわゆる、『ムラムラ来て』というのとは違う気がする――自分にそんな魅力があるとは思えない。


 凌は、響に合わせて一歩一歩を踏みしめるように、ゆっくりと歩いている。彼との間はちょうど人一人分ほど開いていて、遠くも近くもない距離だった。

 頭一つ半分ほど上にあるむっつりとした顔は、高くにあり過ぎて、より一層その表情を読み取りにくい。

 何となく、嫌われてたりとか嫌々ながらとかいう感じはしない。

 何故、送ってくれるのか、それだけでも訊いてみたいのだけれども。


(惰性とか、そいういうのかなぁ……一度関わっちゃったから、ズルズルと?)

 彼が何を考えているのかが判らない。判らないから――その距離を縮めることもの拡げることもできない。


 ――よし、訊いてみよう。


 響はそう意を決してこっそりと拳を握る。が――いざ口を開いたら、出てきたのは違う台詞だった。

「お花、きれいに咲いてます。今日のお昼に本を買ってきて、ちょっと勉強してみました。鉢植えでもいいんですが、とっても増えるらしいから、伯母の家のお庭にも株分けしようかな、とか」

 つらつらと、関係のないことばかりが口からこぼれていく。

(ああ、違う。こんなことを言いたいんじゃないのに)

 そうは思っても、止まらない。

「伯母の家って、結構広めのお庭があるんです。でも、ガーデニングとか全然興味ない人だから、花って言ったら雑草くらいしかなくって」

(いや、だから! 伯母さんの家の庭のことなんて、どうでもいいじゃない!)

 心の中でツッコみを入れつつも軌道修正できず、どんどん話はずれていく。


 彼がこんな無駄話を聞きたい思っているとは響だって思っていないのだけれども、退屈させたらもう来てくれないような気がして、つい舌が動いてしまうのだ。

「この春までは、伯母の家で暮らしてたんです。でも、高校も卒業したし、自活してみようって思って。あ、この間の誕生日の時は、久し振りに帰ったんですよ。ほとんど三ヶ月ぶりくらいで――」

 本当にどうでもいい話だ。響の声は、尻すぼみになっていく。

 チラリと見上げた彼の顔は、やはり無表情で。どことなく口元が和んでいるように見えると思ったのは、多分、響の希望的観測だ。

 響は視線を地面に落として口をつぐむ。そうして歩いていたから、彼のその問いが自分に向けられたものだとは、一瞬気付かなかった。


「――はい?」

 凌を見上げて、問い返す。

「何か、他の物が良かったか?」

 彼は同じ質問を繰り返し、響をチラリと見た。


『他の物』が何を指しているのかが判らず、彼女は首を捻る。が、ハタとあのキンポウゲであることに思い至って、響は慌ててかぶりを振った。

「いいえ! あれ、すごくうれしかったです!」

 勢いよく頭を振り過ぎて、クラリとした。ふら付いた彼女の腕を凌が掴んでくれる。その力はまるで卵を握ろうとしているかのようで、彼が細心の注意を払ってそうしてくれているのが伝わってきた。

「ありがとうございます」

 嬉しくて思わず笑顔になった響の顔を見て、彼が空いている方の手を上げる。それはためらうように一瞬止まり、そしてまた動いて、彼女の頬に引っかかった幾筋かの髪をそっと避けた。

 凌の指先が響の頬をかすめるように触れ、その感触に、彼女の脳裏には一昨日のことがパッと閃いた。途端に、冷めていた顔が再び熱くなる。おまけに心臓までドキドキといつもの倍の速さで打ち始めた。


(うわ、やだ、リョウさんにバレちゃう……)

 早く落ち着かなければ、彼に変に思われる。そうは思っても、コントロールできるものでもない。いや、むしろ、焦れば焦るほど、頬の熱は高まっていく。

 凌はそんな響を見下ろし、微かに眉をひそめ、そっと手を放した。そして、彼女に合図するように小さく顎をしゃくると、再び歩き出した。


 見えてきた駅に一歩一歩近付きながら、彼がまた同じ問いを口にする。

「あれを見たら、何となくあんたを思い出したんだ。だから、買った。誕生日だったのはたまたまだ。何か、他に欲しい物があれば、そっちにする」

 何でもないことのような彼のその台詞は、人に何かあげることに慣れているように感じさせた。


 不意に、響の頭に疑問が浮かぶ。


 ――あげる相手は、誰だろう?


 男同士でプレゼントのやり取り、というのは何となくイメージがわかない。やっぱり、女性だろうか。確かに凌は少し見た目は怖そうだけれども、こんなふうに誰にでも優しいのなら、きっとモテるに違いない。

 その考えに少なからぬショックを受けた自分自身を心の隅へ追いやって、響は彼に向けて笑顔を作った。


「あれがいいんです。でも、そうですね……もう一個、いいですか?」

「何だ?」

 凌は立ち止まって眉をひそめている。

 響は少しためらって、そして望みを口にした。

「あの、名前で呼んでもらえますか?」

「名前?」

 響を見下ろして眉間に皺を刻んだ凌に、彼女は頷く。

「はい。『響』って、名前で呼ばれるのが、好きなんです」

 軽い口調になるように努めて、響は言った。笑顔が引きつっていなければいいなと思いつつ。


『響』という名前は、彼女の存在を固める為の大事なカギだ。誰かに名前を呼ばれると、自分自身が存在していることに確信が持てる気がする。


 (なぎ)と暮らし始めた時、彼女が何度も『響』と呼んでくれて、それで自分が『響』なのだと思えるようになったのだ。

 凌の目を見返しながら、響は不安になる。名前を呼べだなんて、図に乗り過ぎただろうかと。

 響が見守る中、彼は前を見ながら口の中で一言二言呟いて、そしてまた彼女に目を向けた。


「……響?」

 彼女の鼓膜をくすぐる、低い声。凪や友達とは違うそれで呼ばれた名前は、いつにも増して響の心を震わせた。


「はい」

 彼に、名前を呼んでもらえる。

 ただそれだけのことが嬉しくて、幸せで。


 ――響は何故か泣きたい気分で彼に笑顔を返した。


ようやくここまでこぎつけました。

ここから本筋開始、ということで。

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