蝶になりたい花、花になりたい蝶
むかしむかし、あるところに、豊かな森と清らかな川に恵まれた、とても美しい国がありました。
けれど、人間たちは石炭を燃やす「蒸気」の力と、複雑に噛み合う「真鍮の歯車」を使って、自然をまたたく間に塗り替えていってしまったのです。
街の名前は、アルカディア。
今やそこは、空を覆うほどの巨大な黒い煙突が立ち並び、昼も夜も青白い蒸気と黒い煙を吐き出す、機械仕掛けの巨大な都市になっていました。
張り巡らされた無数の鉄パイプは街の毛細血管のようにドクドクと動いていて、大小さまざまな歯車がゴトゴトと重い金属の音を立てて回り続けています。
人間たちは、巨大な時計塔が刻む、決まった機械の時間を頼りに生きていました。
そして、本物の光や植物の代わりに、ガラスドームの中で大切に育てられた「人工の自然こそが一番素晴らしい」と思い込んでいたのです。
空には鳥の代わりに機械仕掛けの飛行船が飛び交い、すべてが金属と蒸気の熱に支配された、冷たくて、けれどとても力強い文明の街。
それが、今のアルカディアでした。
そんな近代都市のシンボルである王宮には、昼間になればたくさんの人々や着飾った貴族たちが、華やかなドレスをまとって行き交う、美しい遊歩道がありました。
その遊歩道の先、一番特別な場所に、ひときわ不思議な美しさを放つ、一輪の青い薔薇が咲いていました。
名前は、ソリス。
昼間は宮殿の主人や目の肥えた人々、通りすがる誰もに「奇跡の薔薇」と褒めちぎられながらも、地面に深く根を下ろし、決して動くことのできない、誇り高くも孤独な花でした。
夜になると、人間たちの気配が消えた頃、もう一つの青い影がひらひらと舞い降りました。
羽に月の光をそっと宿した、夜にしか飛ばない青い蝶、ルナです。
ルナはソリスのいちばん柔らかな花びらにそっと足をかけると、歌うような声で言いました。
「青薔薇のソリスさん。今日も蜜をもらいに来ました」
「またあなたね、ルナ。自由にどこへでも飛んでいけるあなたなら、もっと広くて素敵な世界を知っているでしょうに」
「いいえ。世界中どこを探しても、ソリスさんの蜜ほど気高くて、優しい味がするものはありませんよ」
ルナは満足そうに蜜を吸うと、その大きな羽をゆっくりと羽ばたかせました。
ソリスは思わず、小さいため息をつきます。
「羨ましいわ。あなたはその羽で、どこへでも行ける。人間の住む街へ行って、たくさんの人々に愛されることもできるのに」
「僕は、ただ愛されたいんです。人間の街へ行けば、珍しいおもちゃのパーツや、お金持ちのコレクションにしようと、網を持った人たちに追い回されてしまう。僕が欲しいのは、そんな怖い思いじゃありません。ソリスさんのように、宮殿の遊歩道でみんなに大切に見守られる花になれたら、どんなに幸せだろうって、いつも思うんです」
「ふふ、おかしなあなた。私は今すぐにでも、蝶になってあの空を飛び回りたいと願っているのに」
二人の青い瞳が、月光の中で静かに重なり合いました。
ソリスは意を決したように、一枚の花びらをルナへ寄せました。
「ねえ、ルナ。それなら、私のお願いを一つ、聞いてくれないかしら。先日、この遊歩道から街の貴族の元へと贈られていってしまった、私の幼い妹がいるの。風の噂で、新しい環境になじめず元気をなくしていると聞いたわ」
ソリスは、自分の体から集めた黄金の花粉団子を差し出します。
「この蜜をたっぷり含んだ花粉団子を、妹の元へ届けて、元気づけてきてほしいの。もし無事に戻ってきてくれたなら──私のこの身体を、あなたに代わってあげるわ」
ルナの胸が、期待と緊張で小さく跳ねました。
「……わかりました、ソリスさん。その約束、必ず果たします」
ルナは黄金色に輝く特別な花粉団子をしっかりと抱え込み、宮殿の高い壁を越えました。
放置して、黒い煙を吐き出すアルカディアの街の灯りを目指して、力強く羽ばたいていったのです。
ルナにとって、夜のアルカディアを飛ぶのは命がけの旅でした。
複雑に絡み合った真鍮のパイプから吹き出す熱い蒸気が、冷たい夜の空気をゆらゆらと歪ませています。
ルナを追い回す黒い煙を、抱えた花粉団子の温かな光が、かろうじて追い払ってくれました。
「あの巨大な時計塔の近くの、いちばん立派な場所にいるはず……」
ルナは自分の直感を信じて、大きな歯車がガチガチと噛み合う機械の迷路を進みました。
やがて辿り着いたのは、時計塔のすぐそばにある、人工の光で満たされた巨大なガラスドームの宮殿でした。
その豪華な窓辺の一輪挿しに、お目当ての花はありました。
ソリスと同じ、深い瑠璃色の薔薇。
けれど、花びらは街のチリとガラスに遮られた光の中で、元気を失ってしおれかけていました。
「ソリスさんの、妹さん……」
ルナは窓ガラスの小さな隙間から、ドームの中へとすうっと滑り込みました。
温度や空気がきっちり管理された冷たいガラスの部屋で、黄金色の花粉団子をその花びらの元へと捧げたのです。
「ソリスさんからの、贈り物ですよ」
黄金色の優しい光が、妹をふんわりと包み込みました。
すると、機械の熱でしおれていた花びらに瑞々しい張りと、深い瑠璃色の輝きが、またたく間に戻っていったのです。
「……ありがとう、ルナ」
小さな感謝の声を見届けて、ルナは安心したように再び窓の隙間から抜け出しました。
放置して、ソリスが待つ宮殿の遊歩道へと、夜空を舞い戻っていきました。
月光が一番強く輝いた時、遊歩道の先へと戻ったルナは、ソリスの花びらの上へと静かに舞い降りました。
「ソリスさん、約束は果たしましたよ」
「ありがとう、ルナ。さあ、私たちの願いを重ね合わせましょう」
ソリスが嬉しさに震えると、その身から黄金の花粉が勢いよく舞い上がりました。
花粉は、街の煙と混ざり合うように、青く輝く「冷たい光の霧」へと姿を変え、二人を包み込んでいきます。
霧の中で、ソリスの青い花びらがハラハラとほどけ、小さな青い蝶の群れとなって宙へ舞い上がりました。
それらは互いに溶け合い、やがて一羽の大きな、気高き青い蝶──ソリスの心を持つ蝶へと形を変えていきました。
一方、宙に浮いていたルナの羽は、ガラス細工のようにパリンと美しく砕け散りました。
けれど、そのきらめく破片は地面へ落ちることなく、まるで磁石に引き寄せられるように、残されたソリスの茎とガクへと一斉に吸い寄せられていったのです。
破片は触れたそばから、新しい花びらへと編み上がっていきました。
それは、他のどの青薔薇ともまったく違う美しさでした。
花びらの表面には、蝶の羽のように妖しく不思議な輝きが宿り、その縁には、かつてルナが持っていた艶のある漆黒の黒ぶちが、きれいに刻まれていたのです。
世界にたった一輪の、金属の街でも決して埋もれない輝きを持つ、蝶の血を引く青薔薇──ルナの心を持つ花の誕生でした。
「……私は、飛んでいるわ!」
蝶となったソリスは初めて、自分の意志で空を進む感覚に震えていました。
風を切り、真鍮のパイプラインを潜り抜け、アルカディアの街を上から見下ろす心地よさ。
ソリスが真っ先に向かったのは、あの時計塔のガラスドームでした。窓辺の一輪挿しで輝きを取り戻した妹の元へ、そっと滑り込みます。
「まあ……お姉さまの香りがするわ」
「ええ、私は自由になったのよ。これからは、いつでもあなたに会いに行けるわね」
自分の羽で大切な人に会いに行ける。
ソリスの胸は、自由の本当の素晴らしさで満たされていました。
同じ頃、朝が来ると、たくさんの人々や着飾った貴族たちが遊歩道を行き交いました。
彼らは花となったルナの姿を見た瞬間、誰もがはっと足を止め、息を呑んだのです。
「これほどの美は見たことがない! まるで青い夜空の輝きを閉じ込めたようだ」
圧倒的な気品と、不思議な輝き。
遊歩道の先で誰の目にも留まる場所に咲いたルナは、瞬く間に「この国で一番美しい薔薇」として、国中で話題となりました。
網で追い回される恐怖のない、誰もが羨む最高の特等席。
ルナは深く、その喜びを感じていました。
二人は間違いなく、それぞれの「最高の幸せ」の絶頂にいたのです。
けれど、その幸せは、巨大な時計塔の歯車が「夕暮れ」の重々しい音を刻んだ瞬間に、悪夢へと変わってしまいました。
妹との再会を終えて宮殿へ戻ろうとしていたソリスの目の前に、突然、黒い煙を吐き出す、機械仕掛けの巨大な捕虫飛行船が現れたのです。
この街において、野生の美しい青い蝶は、おもちゃのパーツやお金持ちのコレクションとして、高い値段で売り買いされる格好の獲物でした。
「見慣れない青いチョウだ、捕まえろ!」
空気を吸い込む大きなパイプが、容赦なくソリスを追い詰めます。
激しい煙に羽は黒く汚れ、息が苦しくなっていきます。逃げ続けなければ死んでしまうという、野生の厳しさに、ソリスは恐怖で身を震わせました。
同じ頃、宮殿の遊歩道でも、花となったルナを本当の絶望が襲っていました。
遊歩道で誰もが認める一番の美しさとなってしまったがゆえの、悲しい代償でした。
「これほどの薔薇だ。明日の式典で、皇帝陛下の胸を飾るブローチとして摘み取ることに決まった。今夜のうちに切り落としなさい」
庭師の冷酷な声とともに、ルナの目の前に、鋭く怪しく光る銀色の大きなハサミが突きつけられました。
花になれば、いつまでもここでみんなに愛してもらえると思っていたのに。
けれど、人間たちの愛は、動けない植物を「自分のものにして、使い捨てる」ための身勝手な気持ちに過ぎなかったのです。
遊歩道の真ん中で、一度根を下ろしてしまったルナには、迫り来るハサミから逃げる術は、どこにもありませんでした。
「待って、まだ切らないで……!
庭師のハサミが、ルナの茎に触れた──まさにその、一瞬前のことでした。
「ルナ!!」
夜空から、黒い煙にまみれ、羽をボロボロに傷つけたソリスが、弾かれたように飛び込んできたのです。
飛行船の追撃を命からがら振り切り、ルナの危機を察して戻ってきたのでした。
ソリスは残された最後の力を振り絞り、ルナの黒ぶちの花びらの上へと、きつく抱きつきました。
「ソリスさん……! ダメだ、逃げて! 僕はもう、ここで切られてしまう……!」
「いいえ、逃げないわ! 私は知ったの。あなたのいない空なんて、ただの寂しい檻だった!」
「僕も……僕を本当に愛して、僕のために泣いてくれたのは、あなただけだった……!」
庭師が驚いてハサミを止めるほどの、激しい青い光が二人を包み込みました。
ソリスの流した涙がルナの花びらに染み込み、ルナの纏う輝きがソリスの羽と同調して、眩いばかりの黄金と瑠璃色の大きな光の渦となります。
「私たちは、もう離れない。二度と、どちらも置き去りにはしないわ」
二人の心が完全に一つになった瞬間、庭師のハサミはカランと音を立てて大理石の床へ落ちました。
光の中から現れたのは、薔薇でもなく、蝶でもありませんでした。
それは、透き通るような青い薔薇の花びらで編まれたドレスをまとい、艶やかな黒ぶちの、どんな嵐にも負けない強い蝶の羽を持った、美しい「花蝶妖精」の姿でした。
一瞬にして根を大地から解き放ち、妖精となった二人は、美しく力強い羽をいっぱいに広げて夜空へと高く舞い上がりました。
二人が向かったのは、あの冷たい機械の街、そしてソリスの幼い妹が待つ窓辺でした。
妖精となった二人が羽ばたくたび、その羽からは、黄金色にきらめく「元気になる特別な光の粉」が、まるで雪のように美しく降り注ぎます。
その粉が触れた瞬間、窓辺の妹は、二度と枯れることのない永遠の命を得ました。
さらに、街の巨大な煙突からは黒い煙の代わりに白いきれいな蒸気が上がり、無機質だった真鍮の歯車の間から、青いきれいな若葉が次々と芽吹き始めたのです。
動けない薔薇の優しさと、どこまでも飛べる蝶の自由。
その両方を手に入れた二人は、互いを最高のパートナーとして大切にし合いながら、世界に永遠の再生の光を撒き散らし、どこまでも自由に、幸せに飛び回り続けるのでした。
(おしまい)




