弱った俺、メスガキ義妹に看病されて分からされる
玄関の鍵が開く音がした時、俺は熱でほとんど眠りかけていた。
意識が沈み切る直前の、妙に現実感だけ薄い時間。エアコンの送風音と、加湿器の蒸気が小さく噴き出す音だけが部屋に満ちていて、汗で湿ったパジャマが肌へ張りつく感覚すら、もうどこか他人事みたいだった。
朝から何も食べていない。
薬だけ飲んで、水を飲んで、寝て、汗をかいて、また寝て。その繰り返し。
喉が渇いているのに起き上がるのが億劫で、枕元のスマホを取ることすら面倒になっていた。
「ただいまー……って、あれ?」
階段を上がってくる足音。
テスト期間中だから今日は早く帰ると言っていた。両親は仕事でいない。
つまり、この家で今の俺を見つける人間は義妹しかいない。
ドアが開く。
制服姿の義妹が部屋を覗き込んだ瞬間、露骨に眉を寄せた。
「うわ。お兄ちゃん、それ本格的にやばいやつじゃん」
「……ん……」
返事をしたつもりだったが、自分でも何を言ったか分からないくらい声が潰れていた。
義妹は鞄を床へ置くと、少しだけ迷ったように俺を見た。それからわざとらしくため息をつく。
「あーあ、ほんとは帰ったら勉強するつもりだったんだけどなぁ。テスト期間中なんだけどなぁ。そんな顔で寝られてたら集中できないじゃん。……少しだけだからね。少しだけ、お世話してあげる」
言い方は雑なのに、足取りは早かった。
ベッドの横まで来た義妹は、俺の額へ手を置いた。外から帰ってきたばかりの掌が、熱を持った皮膚へじわりと沈み込む。
「熱っ……朝、『だいじょうぶ』とか送ってきたくせに、全然だいじょうぶじゃないじゃん。ほら、髪も汗でぺたぺた。強がって寝込んでるだけとか、ほんとお兄ちゃんって、ざこだよねぇ」
「……うるさい……」
「うるさいって言える元気はあるんだ?」
義妹は少し笑うと、部屋の空気を吸い込んだ。
その瞬間、ぴたりと動きが止まる。
「……うわ。部屋、空気こもってる。薬と汗と、ずっと寝てた人の匂いする。くっさぁ、気持ち悪ーい」
「……窓、開けて……」
「はいはい」
そう言いながら、義妹は窓を開ける前に、なぜかこちらへ顔を近づけてきた。
「ちょっと待って。これ、お兄ちゃんの匂い?」
「やめろ……」
「えー、だってすごいよ。はぁぁ……ちゃんと病人の匂いする。汗かいて、着替える元気もなくて、布団の中で一人でぐったりしてましたーって匂い」
「嗅がないで……」
情けない声が出た。
自分でも驚くほど弱い声だった。
義妹は目を細める。
「へぇ。やめて、嗅がないで、だって。看病してもらう立場なのに、お願いだけは一人前なんだ?」
「……ほんと、やめろ……」
「ふふ。じゃあ、ちゃんと言いなよ。『着替えさせてください』って」
言えるわけがない。義妹に服を替えさせてもらうなんて兄としてあまりにも終わっている。
そう思うのに、体は重く、背中のパジャマは汗で冷え始めていて、気持ち悪さだけがじわじわ増していく。
「……あとで、自分で……」
「あはっ、出たー。今できない人の『あとで』」
義妹は窓を少し開け、部屋に冷たい空気を入れた。それからタンスを開け、新しいTシャツとタオルを取り出す。
「はーい、起きろー♡」
「……むり……」
「ふーん、さっきまで偉そうに『やめろ』とか言ってたのに、起きるのは無理なんだ。でも、口でダメって言ってても、背中はもう汗でびしょびしょなんでしょ?」
「……やめろ……」
「またそれ? やめてほしいなら、ちゃんとお願いしなきゃ」
背中へ腕を差し込まれる。
「うっわ酷っ。ほら、こんな濡れてるじゃん」
制服越しの細い腕なのに、熱で弱った体は簡単に引き起こされた。上体が起きるだけで頭がくらりとして、思わず義妹の肩へ額が落ちる。
「わ、重っ……でも、寄りかからないと座ってられないんだ?」
「……」
「さっきまで偉そうだったお兄ちゃん、どこ行ったのかな? かわいそー。もう私が支えてないとつらくて起き上がれないんだね♡」
義妹の声が、耳元で少し笑った。
「ほら。ちゃんと言って」
「……なにを……」
「『着替え、手伝ってください』って」
喉が詰まる。
「ほら言え。言って、楽になっちゃえ」
熱のせいで頭がぼんやりしている。抵抗したいのに、背中を支えられている安心感の方が強くて、言葉がうまく出てこない。
「……手伝って……ください……」
「うん。よく言えました」
満足そうな声。
それから、汗で湿ったパジャマの裾が持ち上げられる。
肌へ張りついていた布が剥がれるたび、冷たい空気が触れて、ぞくりとした。義妹はからかうように笑いながらも、動きだけは丁寧だった。
「うわぁ……ほんとにべたべた。気持ち悪ーい。こんなになるまで一人で我慢してたんだ。水も飲まずに、着替えもせずに、スマホ取るのも面倒で、ただ布団で溶けてたんだね」
「……言うな……」
「言うよ。言わないと、お兄ちゃんすぐ強がるから」
濡れタオルが首筋へ触れる。
冷たさが、熱を持った皮膚へゆっくり染み込んだ。
「……っ」
「なにその声。冷たくて気持ちよかった?」
「……違う……」
「違わないでしょ。ほら、首拭かれて、ちょっと大人しくなった。お兄ちゃん、口では文句言うくせに、体はすぐ楽な方に従うんだ」
「……」
「そういうところ、ざーこ♡」
単語だけなら腹が立ったと思う。
けれど、自分の状態を一つ一つなぞられて、その最後に置かれると、反論できなかった。汗で濡れて、起き上がれなくて、支えられて、首を拭かれて、黙っている。
全部、本当だった。
義妹は新しいTシャツを広げる。
「はい、腕。出せる?」
「……出せる」
「じゃあ出して」
俺はゆっくり腕を上げた。
それだけで息が上がる。
義妹はその様子を見て、小さく笑った。
「さっきまで着替えも自分でやるって言ってたのに、今は腕出すだけで精一杯なんだ。えらいねぇ。ちゃんとお世話される姿勢になってきたじゃん」
「……腹立つ……」
「でも、逆らえないんでしょ?」
Tシャツが頭から被せられる。
袖へ腕を通され、裾を直される。義妹の手が胸元から脇腹の布を整えていくたび、自分が完全に着替えさせられていることを思い知らされた。
「はい、着替え終わり」
「……」
「ありがとうは?」
反射的に言い返そうとした。
でも、義妹は俺の体を支えたまま、逃がさないように顔を覗き込んでくる。
「汗だくのパジャマ脱がせてもらって、首も拭いてもらって、新しい服まで着せてもらったんだよね。看病してもらう立場なのに、まだ偉そうにするの?」
「……ありがとう……」
「ん。よろしい」
義妹は満足げに頷くと、今度はゼリー飲料を持ち上げた。
「次、これ飲むよ」
「……自分で……」
「飲めるの?」
手を伸ばそうとして、指先が震えた。
義妹はそれをじっと見ていた。
「ほら。今の見た? パウチ一個持つだけで手が震えてる。なのに『自分で』って言ったんだ。見栄っ張りのざこざこお兄ちゃん、まだ自分が元気なつもりなんだね」
「……」
「違うよ。今のお兄ちゃんは、私が支えて、着替えさせて、飲ませてあげないといけない病人。分かった?」
分かりたくなかった。
けれど、分かってしまっていた。
義妹は俺の背中を支え直し、パウチの先を唇へ近づける。
「ほら、口開けて」
「……」
「開けないなら飲めないよ。薬飲んだんでしょ。胃に何か入れないと気持ち悪くなるよ」
正論だった。
俺は少しだけ口を開ける。
冷たいゼリーが喉へ流れ込んだ。
「……ん」
「ちゃんと飲めた」
義妹の声が柔らかくなる。
けれど、すぐにまた意地悪な響きが戻った。
「さっきまで『自分で飲める』って言ってたのに、今は口開けて待ってるだけ。飲ませてもらって、ごくごくして、ちょっと楽になってる。そういうところ、ほんと赤ちゃんみたい。ざーこ♡」
「……やめろ……」
「やめてほしいなら?」
俺は目を閉じた。
悔しい。でも、体は楽になっている。
熱で重かった頭も、冷たいゼリーが喉を通るたび、少しだけ戻ってくる。
「……もう少し、飲ませてください……」
義妹が息を呑む気配がした。
それから、ひどく嬉しそうに笑う。
「うん。いいよ」
パウチの先がまた唇へ触れた。
今度は、俺も逆らわなかった。
背中を支えられたまま口を開けて、ゆっくりと飲み込む。ゼリーの冷たさ。義妹の手の温度。少し開いた窓から入る空気が混ざって、体の境目が曖昧になっていく。
「えらいね、お兄ちゃん」
「……子供扱いするな……」
「だって今は、子供より手がかかるもん。汗かいても着替えない。喉乾いても水飲まない。しんどいのに『大丈夫』って嘘つく。そんな面倒くさいお兄ちゃん、私が見てないと駄目じゃん」
その言葉に何も返せなかった。
義妹の指が汗で湿った髪をゆっくり梳く。
「でも、今日だけは許してあげる」
「……なにを……」
「駄目になるの」
その声は、さっきまでの煽りよりずっと静かだった。
「テスト勉強はあとでやる。今はお兄ちゃんがちゃんと水分取って、着替えて、寝るところまで見る。だから今日はもう変に偉そうにしないで、私の言うこと聞いて。ほら、返事は?」
「……はい……」
義妹は小さく笑って、耳元で囁く。
「よくできました」
その言葉と一緒に、義妹の指が髪をゆっくり撫でた。
汗で湿った前髪を指先で梳かれ、熱を持った額へ冷たい掌が触れる。たったそれだけなのに、張り詰めていた何かがじわじわ緩んでいく感覚があった。
熱のせいだ。
きっとそうだ。
普段ならこんなふうに世話を焼かれて、大人しく従って、褒められている状況に耐えられるわけがない。
なのに今は、背中を支えられている安心感から抜け出せなかった。
「……お兄ちゃん、なんかすごい静かになった」
「……喋る元気、ないだけ……」
「へぇ……」
義妹は笑う。
分かってるくせに。
その上で、わざと見下ろすみたいに言葉を落としてくる。
「でもさっきまで、『自分で飲める』とか『あとで着替える』とか、結構偉そうだったよね。それが今は私に支えられて、飲ませてもらって、『もう少し飲ませてください』ってお願いまでしてるんだ」
「……」
「ふふ。分からされちゃったねぇ」
悔しい。
悔しいのに、反論しようとすると喉が詰まる。
その沈黙を肯定と受け取ったのか、義妹はさらに体を近づけてきた。
「ほら、口開けて」
またパウチが唇へ触れる。
今度は、自分から少しだけ口を開いてしまった。
冷たいゼリーが喉を通る。
ごく、と飲み込んだ瞬間、義妹の肩が小さく揺れた。
「わ、自分から飲みにきた」
「……っ」
「すごっ。もうこれ完全に介護される側じゃん」
そのまま、義妹の指が俺の喉元へ触れる。
「ちゃんと飲み込めてるか確認してあげる」
「……やめろ……」
「なんで? だってお兄ちゃん、熱でぼーっとしてるし。ちゃんと見てないと危ないもん」
言い訳みたいに言いながら、義妹の指先はゆっくり喉仏をなぞった。
飲み込むたび、そこが上下するのを面白がるみたいに。
「……っ」
体が、びく、と震えた。
「わ」
義妹が目を丸くする。
「なに今の。ちょっと触っただけなのに、そんなに弱ってるの?」
「……ちが……」
「違わないでしょ。喉触られただけでビクってなった」
義妹は少しだけ黙る。
それから、ひどく楽しそうに笑った。
「へぇー……」
その声に嫌な予感しかしなかった。
案の定、義妹は逃がさないみたいに俺の背中を支え直す。
「お兄ちゃんってさ。熱出すと、ほんと弱くなるんだね」
「……うるさい……」
「だってそうじゃん。普段なら絶対こんな顔しないもん」
指先が、また喉を撫でる。
「汗だくで、ふらふらで、私に着替えさせられて、飲み物まで飲ませてもらって。その上、ちょっと触られただけでビクってしてる」
「……っ」
「ざーこ♡」
その言葉と一緒に、喉を軽く撫でられる。
また体が跳ねた。
義妹は完全に面白がっていた。
「うわ、また」
「……やめ……」
「なんで? 別に変なことしてないよ? 飲み込めてるか見てるだけ」
そう言いながら、義妹の指はやめない。
喉から首筋へ、ゆっくり熱を確かめるみたいに撫でていく。
冷たい指先。
熱を持った皮膚。
その温度差が、ぼんやりした頭へじわじわ染み込んでくる。
「お兄ちゃん、今すごい従順」
「……っ」
「さっきまで偉そうだったのにね。『やめろ』って言いながら、ちゃんと口開けるし、飲ませたら大人しく飲むし、触られても逃げない」
逃げられなかった。
熱で力が入らない。
それに、義妹へ寄りかかっているこの体勢が、思った以上に楽だった。
「悔しい……」
義妹は一瞬だけ黙った。
それから、少しだけ嬉しそうに笑う。
「今日はそれでいいよ」
また髪を撫でられる。
「だって、今のお兄ちゃん一人じゃ何もできないもん。だから辛い時は無理せず、私を頼ってくれていいんだよ?」
その言葉に、俺はもう何も言い返さなかった。




