異世界転移じゃありません。誘拐です。
壊れる音は、嫌いじゃなかった。
カチ。
と、小さく外れる感触。
「……あ」
リトナは、外れた部品を持ち上げて、
少しだけ目を細めた。
やっぱり。
ここ、外れるんだ。
机の上には、ばらばらになった魔術具。
歯車も、導線も、術式の刻まれた板も。
全部、分解されている。
普通なら、怒られる。
もう、戻せない。
(まあ、いいか)
リトナは気にしなかった。
この家の魔術具はどうせ——
数日すれば……
コツ。
コツ。
乾いた音に、顔をあげる。
ベッド横のキャビネット。
カタン、と下段の棚に何かが転がった。
見覚えのある形。
——昨夜、分解した魔術具。
戻せなかったはずの部品が、
何事もなかったように収まっている。
リトナはそれを拾い上げて、
軽く回した。
引っかかりもなく、なめらかに動く。
……すっかり元通りだ。
焦がした基盤さえ。
「……今回は、速いな」
小さく呟いて
キャビネットを見上げる。
背の高い木製の収納棚。
古びているのに、ひどく精巧で、
夜空を閉じ込めたような装飾。
蔓を伸ばすバラの蕾のレリーフ。
その配置は、見るたびに違っていた。
上段の扉は、どうやっても開かない。
そして——
上段の底から、落ちてくる。
どれだけ壊しても。
間違えても。
何もなかったみたいに直って、戻る。
——いつも、そうだった。
リトナは視線を落とす。
手の中の魔術具。
(今夜こそ魔石を丸裸に)
昨日も、同じところで止まった。
指先で、そっとなぞる。
ここ。
また、ここ。
「……悔しい」
小さく呟いて、少しだけ笑う。
リトナは何度でも開けて、確かめて、また壊す。
小さな頃から、ずっと。
ひとりで。
気づけば部屋は、可愛らしい飾りと、
奇妙な魔術具で、埋め尽くされていた。
そして今日もまた——
「こんな魔術式の使い方あったんだ」
新しい魔術具を手に取って、
リトナは首を傾げる。
◇
石造りの廊下は、朝の光を冷たく反射していた。
壁際には、魔術灯。
一定の間隔で並び、淡い光を落としている。
その下を、学生たちが行き交っていた。
誰もが手に工具か、術式ノートを持っている。
この学園では、それが当たり前だった。
「リトナ君」
聞きなれた声に呼び止められる。
振り返ると、猫背の教師が一人立っていた。
「今回の試験だが」
彼は言いにくそうに告げる。
「このままでは、進級は難しい」
リトナは瞬きをした。
「……」
教師は一拍だけ間を置く。
「魔術具理論。点がついていない」
言葉は厳しい。
けれど、声色は完全に突き放してはいなかった。
「君の実技は知っている。だが——」
視線が、リトナの手元に落ちる。
工具の傷跡。
細かな油汚れ。
「理論を理解しなければ、先には進めない」
リトナは少しだけ考えて、
こくりと頷いた。
「……がんばります」
教師は小さく息をついて、
懐から一枚の紙を取り出した。
「補修の予定と、再試験の範囲、日程だ」
差し出された紙には、
びっしりと文字が並んでいる。
「落とすつもりはない。時間はある、使え」
リトナはそれを受け取って、
軽く目を通した。
(多いな)
内容は半分も理解できなかったが、
とりあえず折りたたんで持つ。
教師はそれ以上何も言わず通り過ぎ……
かけて、
止まった。
振り返る。
「なんで君、あれだけ触れるのに」
「一つも、式が書けないんだ」
教師は今度こそ振り返らずに、
通り過ぎていった。
(……技術理論)
リトナは歩き出す。
手に残る感触。
分解して、
確かめて、
また組み直す。
それは分かる。
でも——
(言葉に落とすのは、難しい)
教室の扉が見えた。
中から、話し声が聞こえる。
数人はもう来ているらしい。
リトナはそのまま扉を開けた。
その瞬間——
床に、光が走った。
幾何学的な線が円を描いて広がり、
一瞬で教室全体を覆う。
円の外側では、
いくつかの光が小さく弾け散っていく。
「うわっ!」
「っ、なにこれ……!?」
中にいた数人が、一斉に声を上げる。
教室。
見知らぬ天井。
——元の教室。
石の床。
ぱち、ぱち、と視界が切り替わる。
(ずれてる)
机の位置。
扉の角度。
光の落ち方。
教室の床が傾き、リトナと学生達数人が
ぐらりと横にすべり落ちる。
その向こうに、見知らぬ天井の空間が重なる。
今度は——
自分が、そっちに滑っていく。
足元が外れ、
重さが抜けて、
視界が、90度、傾きーー、
「え、ちょわっ——」
教室から、零れ落ちた。
思考が追いつく前に、世界が入れ替わる。
乾いた音。
そして——
急な温度差に頬が熱い。
乾いた空気が肺を刺す。
リトナたちは石床に座り込んでいた。
乾いた衝撃が、遅れて伝わる。
そのまま、手に残る感触に気づく。
……重くて硬い。
視線を落とす。
握ったままの、扉。
教室のものだ。外れている。
「……」
周りを見回す。
学生たちは互いの腕や肩を掴んでいる。
支え合うみたいに。
リトナは、自分の手元を見る。
——扉。
(……なんで)
一瞬だけ、思考が止まる。
(そっちのほうが)
安定してる。
怖く、ない。
自分だけ違う。
しかも——これ(無機物)。
リトナは、そっと手を離そうとして、
やめた。
目立つ。
隠せっこない。
(……はぁ)
胸の奥が、少しだけ沈んだ。
ここはリトナ達だけではなかった。
人が、多い。
囲むように、無数の視線が突き刺さる。
「どこ……ここ?」
クラスメイトたちがざわめく。
見知らぬ大広間。高い天井。
香と金属の匂いが混ざっている。
壁には金の装飾と幾何学の紋様。
淡い燈火がゆっくり揺れていた。
北方国家の石造りとはまるで違う。
凍てついた“重さ”がない空間だった。
柱は象牙色の滑らかな材。
浮彫が途切れず続いている。
天井は高く、薄布が風もないのに揺れる。
その奥で、金属音だけが響いていた。
人々の服装も違う。
薄い布を幾重にも重ね、輪郭を曖昧にしている。
肌の色も見慣れたものではない。
リトナはゆっくりと視線を落とす。
石の床。
その上に、自分たち。
歪んで波打つ線の中。
線が、妙に太い。
ところどころ、刻みが潰れている。
読めない文字。
(……ここに、落ちた)
「……落ちた?」
ひと際豪奢な衣装の男が言葉を発する。
意味はわからない。
隣の男がすぐに言い換えた。
「異世界より召喚された皆様を、
歓迎いたします」
「マジで!?」
「やばくね!?」
「チートきた!」
「俺たちの無双街道!?」
クラスメイト達が一気に浮き足立つ。
しかし——
わずかに間を置いて、続く言葉。
「皆様には、我が国の発展のため——
その知識と技術を、お借りしたい」
空気が、すっと冷えた。
「……は?」
誰かが、間の抜けた声を漏らす。
「知識って……なにを?」
「オレたち、ただの学生だぞ?」
ざわつく声の中。
座り込んだままの少女が一人。
—―リトナは自分たちの足元に描かれた
魔術陣を見つめていた。
……静かに。
滑る床。
落ちた感覚。
読めない文字。
見たことのない術式。
——なにかが、
引っかかった。
けれど、輪郭がぼやけている。
思い出せそうで、思い出せない。
そのとき、聞こえた。
「……なるほどな」
低い、呟き。
その一言で、
近くにいた何人かが、ぴたりと口を閉じた。
「最初から、それが目的か」
誰に向けたわけでもない声。
思わずリトナは顔を上げた。
そして——見つける。
少し離れた場所で。
壁にもたれるように立ち、腕を組んでいる。
騒ぎには乗らずに——ただ、
周囲を観察している。
(……セイル・ヴァルク)
知ってる。
一番、頭がいいやつ。
その視線だけ、温度が違った。
周りが浮き足立つ中で。
一人だけ、違う。
(あんな顔、はじめて見る)
そのとき。
案内役として、
侍女と数人の魔術師が前に出た。
その中のひとりが——
ぴたりと、動きを止めた。
視線の先。
リトナ。
言葉が出ないまま、
口を開いて、閉じる。
隣の通訳が、困ったように彼の顔を覗き込む。
「え、あの……?」
小声で何かを聞き返し、視線を向ける。
リトナ
……の、手元。
握られている、扉。
通訳は一度見て、
もう一度だけ、確認するように見た。
「……はい?」
「え、……あの、扉を握っている彼女、で?」
確認するように繰り返すと、
二人はリトナの傍へ歩いてきた。
咳払いをひとつ。
「えっと……その……」
言いながらも、
視線がどうしても戻る。
リトナの顔。
そして——扉。
(なんで?)
隠す気のない顔だった。
「その、あなたのように美しい方が、
あなた達の世界には、たくさんいるのかと……」
彼は一息で言い切った。
扉をみないように。
リトナを中心に音が止んだ。
遅れて——一斉に、
「いや、いないですけど!」
「けど、こいつ顔に全フリしてるだけなんで」
「頭はポンコツなんっすよ」
「人の話、ほぼ聞いてないですよ」
口々に言いながら、
男子たちはさりげなく前に出た。
リトナと、
前に出てきた魔術師たちの間に入る。
通訳の視線が、
一瞬だけ遮られた。
——背中。
壁みたいに並ぶ。
(……あ)
気づけば一歩、後ろにいた。
(隠れてる)
守られてる、というより——
前に出されないように、
押しとどめられている。
雑で、乱暴で、
でも——遮っている。
(……なんで)
さっきまでの言葉と、
やってることが、合ってない。
リトナは、少しだけ首を傾げた。
「ちょ、ちょっと……!」
通訳が慌てる。
言葉を拾おうとして——
ちらり。
まだ、見てくる。
当然、扉は隠れていない。
(大きいから。)
リトナのいる場所は一目瞭然だろう。
「えっと……その……」
一度、目を閉じる。
気の毒に思えるほど必死な様子で、
通訳の男は再び顔を上げる。
(壁、意味ない……?)
「彼は……その……
あなたの瞳が、黒いのに光を返す、
黒蝶貝のようで、とても美しいと……」
言い切ってから、
ちらり。
やっぱり、扉を見る。
リトナは少しだけ首を傾げた。
「貝って……あの、スープの出汁にするやつ?」
壁よりも、扉よりも——
よく分からない人たちよりも、
リトナは足元の魔術陣のほうが気になっていた。
クラスメイトたちはあっけにとられ、
通訳はさらに頭を抱える。
その隣で魔術師は、
リトナの返答の意味を待っていた。
目を輝かせたまま。
女生徒たちは、
まだ状況に慣れきれず手を握り合っている。
わずかに震えながら。
その中で。
「……暖かい国だな」
ぽつりと、セイルが言った。
誰に向けたわけでもない。
けれど。
その一言で、少しだけ空気が落ち着いた。
やがて。
「こちらへ」
立ち直った通訳の言葉で、
学生たちは部屋へと案内されていく。
通されたのは、広すぎる一室だった。
十人では持て余すほどの広さ。
整えられた寝台。
食事用の机。
姿見。
規則正しく音を刻む、見慣れない形の道具。
刻まれている文字は、
すべて知らないものだった。
「……これ、なんだ?」
誰かが指さし、通訳が視線を追う。
「ああ、それは時間を示す道具です」
「時間?」
「はい。今は――」
告げられた刻。
誰かが小さく頷く。
「時計ってことか」
男子と女子の間には、簡易の衝立が置かれる。
「別室は不安」と伝えた結果らしい。
「食事は後ほどお持ちします」
「必要なものがあれば、
遠慮なくお申し付けください」
通訳が説明する。
「……なあ」
誰かが、小さく声を出す。
通訳が振り向いた。
「なんで、あんた——
オレたちの言葉、わかるんだ?」
一瞬だけ、間が空く。
通訳は、少しだけ目を伏せた。
「……この国は、過去にも何度か、
異世界から人を招いています」
ゆっくりと、言葉を選ぶ。
「その中に、あなた方と同じ言葉を使う者がいました」
部屋の空気が、わずかに変わる。
「その記録と、わずかに残された者たちから、
言葉を学びました」
誰も、すぐには言葉を返せない。
その後ろで。
先ほどの魔術師は、
何度もリトナの方を見ていた。
目が合いそうになるたびに慌てて逸らし、
それでも諦めきれないように視線が戻ってくる。
やがて、意を決したように一歩踏み出した。
小さく声を出す。
それを受けて、通訳が慌てて言葉を拾った。
「ご要望があれば、遠慮なくと……」
言い淀みながら、続ける。
「不安でしょうが、すぐに慣れます、と」
ぎこちない言葉だったが、
視線だけはまっすぐリトナに向いていた。
やがて案内は終わり、重たい扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
——少しして。
廊下の向こうで、
堪えきれなかったような声が漏れた。
短く、くぐもった笑い。
すぐに押し殺される。
けれどもう一度、
今度ははっきりと。
吹き出したような笑い声。
——静寂。
リトナは持っていた扉を、
壁に立てかけた。
——ことん。
その音を合図みたいに、
男子生徒たちは一斉に動き出す。
上着を脱ぎ捨て、窓や机、
調度品を確かめて回る。
叩き、引き、覗き込む。
「ここ、どこだよ……」
「とりあえず調べようぜ」
そんな声が飛び交う中で、一人が机を叩いた。
「なんか役に立つような魔術具、
作れそうじゃねぇか?」
「工具持ってるやついる?」
鞄は全員、教室に置いてきた。
短い沈黙のあと、
リトナが小さく手を挙げる。
「……少しなら」
制服のポケットから工具を取り出し、
机の上に並べた。
小さなドライバーと薄刃の器具。
それから紙と硝子ペン。
それだけで、何人かの視線が寄る。
一方で、女子生徒たちは
部屋の隅で身を寄せ合っていた。
状況が飲み込めず、まだ小さく震えている。
泣き出す者もいたが、
誰もそれを責めなかった。
リトナは机に紙を広げ、
何も言わずにペンを走らせる。
描くのは、さっき見た魔術陣。
もちろん、すべてではない。
覚えている部分だけ。
見たことのない術式。
知らない文字。
なのに、手が止まった。
(……教室で、横に滑って落ちた。)
(あれが異世界召喚なら、
これは……世界を渡る召喚陣?)
思考が追いつく前に、
それが、横にすべる。
机の縁を越え、
落ちる。
輪を抜けて——
ひとつ。
こちら側へ、零れた。
乾いた音。
——焼き付いている。
リトナは紙の上の線を見下ろした。
指先が、わずかに止まる。
(あの時も、円の外に散った)
(同じ動きだ)
あのとき見た光。
滑り方。
散り方。
けれど。
(……そんなはず)
思考が、そこで止まる。
小さく、息を吐いた。
「……」
声にはならない。
「なあ、何か分かったか?」
近くの男子が覗き込む。
リトナは少しだけ迷って、
紙の上の線を指でなぞる。
「……これ」
言葉を探すように、間を置く。
「異世界っていうくせに、途切れてない」
「は?」
誰かが眉をひそめる。
「……普通、飛ばされるなら、
切れるはず」
指先が、終点をなぞる。
「それに、これ。
……終点がある。
場所、決めてる」
沈黙が落ちた。
「……いや、何言ってんの?」
「これ、お前が描いたやつだろ」
リトナは小さく息を吐く。
「雑に見せてる。
……でも、これじゃない」
少しだけ止まる。
「……本当の線、別にある」
言葉を探すように止まる。
「……偶然来たんじゃない」
「は?」
顔を上げる。
「異世界転移って話、うさんくさい」
一瞬の静寂。
すぐに笑いが混じる。
「はいはい」
「また始まった」
「リトナの不思議理論降りてきた!」
誰もがリトナの言葉を拾わない。
そのとき、
別の男子生徒が紙を覗き込んだ。
「お、筆記用具持ってたんだな」
ひょいと裏返し、
—―固まった。
「……うわ」
横から覗いた生徒も顔をしかめる。
「なにそれ」
「再試験の通知じゃん」
くすくすと笑いが広がる。
空気が、軽く崩れる。
「……いや、もうお前はいいって」
「今それどころじゃねぇだろ」
声が重なる。
リトナは視線を紙に戻したまま、
もう一度、線をなぞる。
そのときだった。
「……いや」
声がひとつ割り込む。
疲れが滲むのは、皆同じだ。
だが、彼だけがリトナの声を拾った。
セイル・ヴァルクだった。
窓際に立ったまま、
部屋を見渡している。
「リトナの言ってること、筋は通る」
場の空気が変わる。
セイルはカーテンの布を掴み、軽く引いた。
指先で撫でる。
次に金属の器具を弾くと、乾いた音が鳴った。
床を靴先で軽く擦る。
ざわめきが広がる。
「……どういうことだよ」
誰かが問う。
セイルは視線を落としたまま答える。
「布は普通の織り。
引っかかり方が同じだ」
指先で金属をもう一度弾く。
「音も変わらねぇ。
響きが軽い」
靴先で床を軽く擦る。
きゅ、と乾いた音が返る。
一度だけ踏み直す。
「……磨き石だな」
わずかに目を細める。
「滑りも、鳴りも同じだ。
こういう場所でよく使われる」
一拍置く。
「異世界なら、ひとつくらい
素材から違和感が出るはずだ」
淡々とした口調だった。
視線が部屋をなぞる。
過剰な装飾。
異国”風”の意匠。
だが配置が不自然だった。
「“それっぽく見せてるだけ”って思わないか?」
何人かが動き出す。
窓を開け、絨毯をめくり、
家具を確かめる。
やがて、誰かが呟いた。
「……違和感がない」
「馴染む……」
空気が静かに変わっていく。
セイルはリトナの紙を見る。
「……魔術陣、もう一回見ればはっきりする」
「はぁ!?」
声が上がる。
「どうやってだよ」
「ここ王宮だぞ?
勝手にうろつけねぇだろ」
セイルはちらりとリトナを見る。
「行けるやつ、いるだろ」
視線が一斉に集まる。
リトナは即答した。
「無理でしょ」
「頼む」
短く言う。
「……やだ」
セイルは少し言いにくそうにして、
それでも口を開いた。
「……お前、
あの魔術師に気に入られてるだろ」
一瞬の間。
「……そんな人いたかな?」
リトナは首を傾げた。
周囲がざわつく。
「いたいた」
「さっきのやつだろ」
「チャンスじゃん」
軽口が飛ぶ。
「顔いいんだからさ」
「近づいてちょっと触れば——」
「キスでもすりゃ余裕だろ」
「おい」
セイルが遮る。
「そこまで言ってない」
—―コンコン
ノックの音に、皆が入口の扉を見る。
近くにいた女子生徒がおそるおそる開く。
「……リトナさん」
少しだけ硬い発音で名前を呼ばれた。
振り向くと、通訳を伴った魔術師が立っている。
あの時、何度も視線を向けてきていた男だった。
どこか落ち着かない様子で、
それでも意を決したように口を開く。
通訳が言葉を拾う。
「少し……お時間を、いただけますか」
広間にいたときと同じ視線。
まっすぐで、かくしきれていない。
「行ってこいって」
小さな笑いが漏れる。
リトナは軽く息をついて立ち上がった。
「……すぐ戻るから」
◇
案内されたのは、中庭だった。
石畳の中央に広がる花壇。
色とりどりの花が規則正しく並び、
淡い甘い香りが空気に溶けている。
見上げれば空は高く、風もやわらかい。
魔術師は花壇の前で立ち止まり、
どこかぎこちなく言葉を探した。
その顔を見て、リトナは首をかしげる。
「……ちょっと疲れてる?」
通訳がきょとんとする。
「目の下、黒くなってるよ」
そう言って、
自分のこめかみに指を当てる。
「ここ、押すと楽になる。
これくらいの力で」
魔術師の手を取って指を揉むと、
通訳が慌てて言葉に変える。
魔術師は一瞬ぽかんとして、
それから何度も頷いた。
嬉しそうに。
けれど次の瞬間、
リトナの視線はもう別のところに向いていた。
花壇の端。
石に埋め込まれた、
水を撒くための小さな魔術具。
(……あれ?)
少しだけ、水の出方が少ない場所がある。
周囲と比べると、
ほんのわずかに花々に元気がない。
リトナはしゃがみ込み、
覗き込む。
「これ、変じゃない?」
通訳が言葉を伝えると、
魔術師の表情が変わった。
「どこがですか?」
問いかける声が、少しだけ強くなる。
リトナは指で示した。
「ここだけ、水の量が少ない」
「水の流れる音に、
他の何か違う音が混じってる。」
魔術師が目を見開く。
半信半疑ながらも貯水タンクへ行き、
制御盤に触れ、動作を確かめる。
——よく、わからない。
隣からリトナが指で示す。
「ここかなぁ……
空気の混じる量が安定していないのが原因。
こう付け足すといいよ。」
さらさら、と地面に枝で何かを書いていく。
彼が術式を簡易の付属版へ補足すると——
確かに音が変わる。
ほんの僅かな、
普通なら見逃す程度の差異だった。
魔術師はリトナを見る。
わずかに目を細めて。
値踏みする者の視線だった。
「……どうして分かったのですか」
リトナは首を傾げた。
「音、違ってたし?
水が出る角度も、ちょっとズレがあったかな」
本当に、それだけだった。
沈黙が落ちる。
そして、魔術師は深く息を吐いた。
迷いが消えていた。
通訳が言葉を受け取る。
「……もしよろしければ」
一度言葉を切ってから、続ける。
「少し、見ていただきたいものが。」
通訳越しの言葉。
魔術士は羊皮紙の束を差し出す。
描かれているのは、複雑な術式。
リトナは一瞬だけ見て——
すぐに顔を上げた。
「……ごめん。これじゃ、わかんない」
「でも、見たいな」
そう言って笑う。
無邪気なはずなのに、
星屑がこぼれるみたいに、光が散った。
◇
研究室は、整っていなかった。
机の上には紙が積み重なり、
何度も書き直された術式が散らばっている。
壁には、失敗した構築式。
消されて、書き足されて、それでも残された線。
魔石の欠片が無造作に置かれ、
使いかけの工具がそのまま放置されている。
——止まっていない部屋だった。
考え続けている人間の部屋。
「これですが」
と、見せられたものは分解されたままの部品。
何度も組み直された跡。
術式の刻まれた板には、
上書きされた線が幾重にも重なっていた。
魔術師が何かを言い、
通訳が言葉を選びながら伝える。
「力の流れが……安定しない、と。
純度の高い魔石なら解決するが……」
言い淀む。
「高価で、現実的ではないそうです」
リトナは、黙って覗き込んだ。
少しだけ身を乗り出す。
視線が、装置の奥をなぞる。
(……あ、これ)
見覚えがあった。
一瞬だけ、机の端へ視線が流れる。
——何か、言われた気がした。
でも——
今は手の中の装置に夢中だった。
「……これ、開けていい?」
通訳が言い終わる前に、
リトナの手が動いていた。
小さな音。
留め具が外れる。
迷いはない。
中を覗き込んで、
指先で軽く触れる。
「……ああ、ここだ」
独り言みたいに呟く。
魔術師が息を止めた。
リトナは構わず、
部品をひとつ持ち上げる。
「これ、流れはいいのに
途中で変な揺れ方してる」
くるりと指で回す。
「……逃げてる」
「風、嫌ってるね」
通訳が詰まる。
言葉にできない。
リトナは近くの紙を引き寄せ、
迷いなく線を走らせた。
さらさらと。
淀みなく。
「ここ、足せばいいよ」
書き終えた紙を差し出す声音は、
拍子抜けするほど軽い。
魔術師は受け取り、視線を落とした。
動かない。
やがて元の術式へ。
再び紙へ。
眉間に皺が寄る。
短く、鋭い言葉が飛ぶ。
通訳が詰まった。
「えっと……どこを、どう直すのか、と……」
リトナは紙の一点を叩いた。
「ここ」
さらに装置を指す。
「ここに、これ」
言葉は少ない。
通訳が必死に拾う。
「流れを……少し、変える……?
えっと……回す……?」
魔術師が息を呑んだ。
理解が、半分だけ届き。
視線が、術式の流れを追い始める。
自分の知識で補い、
足りない部分を必死に埋める。
そして——
はっと顔を上げた。
急いで装置に戻る。
震える指で、
言われた通りに補助術式を組み込む。
起動。
かすかに唸っていた音が、すっと整う。
わずかな違い。
だが確かに、安定していた。
魔術師は身じろぎもせず、
装置を見つめている。
やがて、ゆっくりと顔を上げ、
リトナを見る。
理解の外にあるものを見たときの、
そんな目だった。
「……どうして」
かすれた声。
通訳を待って、リトナは首を傾げる。
「なんとなく?」
少し考えてから、言い直す。
「……よくわかんないけど」
装置を指で叩く。
「ここ、気持ち悪かった」
魔術師は無言で立ちつくしていた。
目はリトナから逸らせない。
なぜなら、
机の上の紙に書き足された術式。
その流れを、辿れば……
——”酷似”していた。
あまりにも。
我々が組み上げ、
彼らを招いた術式。
その中に隠した経路と。
視線が、止まる。
もう一度、辿る。
紙の線。
装置の流れ。
——同じだ。
喉が鳴る。
偶然であるはずがない。
なのに。
少女は、何も知らない顔で
それを書いた。
そして——
何のためらいもなく、
こちらへ差し出してくる。
喉が鳴る。
言葉が溢れる。
早口で、強く。
通訳が追いつかない。
「えっと……その……」
知っている言葉が足りない。
まるで足りない。
「あなたは……」
言葉が見つからない。
「……すごい、と」
違う。
魔術師は、首を振った。
そんな言葉では足りない。
理解した瞬間、背筋が冷えた。
(積み上げたはずの過程が、見えない)
知識の先に辿り着いた形には思えなかった。
——最初から、そこにあるみたいに。
「規格外の、才能……」
別の考えが、脳裏をよぎる。
——この一人でいい。
今回の召喚の目的は、
もう果たせる。
少女ひとり。
守る者もいない。
拘束することも、
連れ去ることも——難しくない。
そこまで考えて、
止まった。
脳裏に浮かんだのは、
何のためらいもなく笑った顔。
星が弾けるように、
光を散らしたあの表情。
あれが——、
この才能が——、
閉じ込めた瞬間に、
消えるかもしれない。
理論でもない。
言葉でもない。
積み重ねでもない。
触れた瞬間に答えへ届く、
異質な感性。
それを——
奪うのか。
「……どうしてそんなことができようか。」
どれくらい時間が経っただろうか。
唇が、わずかに震える。
「……師を」
かすれた声。
通訳が、はっと息を呑む。
その呼び方に。
「元の部屋へ」
(だが……)
(放せば——、残る)
「丁重に」
リトナは首を傾げた。
「?」
魔術師は、それ以上何も言わなかった。
ただ一度だけ、
視線を逸らす。
決めてしまった者の、
それだった。
部屋の中で、
組み上げられたばかりの装置の規則正しい音だけが残る。
◇
「……遅い」
セイルは同じ場所を、
何度も往復していた。
靴音だけが、やけに響く。
背後では、数人が壁にもたれている。
腕を組んでいる者。
ベッドに座り込む者。
誰も、落ち着いてはいなかった。
「大丈夫だって」
軽く笑う声。
「昼間だしさ」
そう言いながら、
指先が、無意識に袖を掴む。
「……ちがうだろ」
低く、押し殺すような声。
「オレは——」
一度、言葉が詰まる。
「なんで、一人で行かせた」
返事はない。
一瞬だけ、沈黙が落ちる。
すぐに、
「だってさ、あいつ……」
言いかけて、止まる。
言葉が続かない。
代わりに、別の誰かが笑った。
「ほら、リトナだし?」
無理に軽くする声。
けれど、その視線は扉から外れない。
「……すぐ戻るって」
ぽつりと。
今度は、誰も続けなかった。
セイルの拳が、わずかに強く握られる。
「こんな、わけがわからない場所で」
吐き出すように言う。
視線が揺れる。
誰も目を合わせない。
笑っているはずの顔が、
どこか強張っていた。
頭の中で、最悪の想像が、
勝手に形を持ち始める。
それを、誰も口にしない。
顔を上げる。
扉を見る。
開かない。
それだけで……、
「……クソ」
◇
——突然、扉が開き始めた。
誰も、すぐには動かなかった。
また誰かが来たのか、
それとも——
そんな考えが、皆の頭をよぎる。
ギギギ……。
開いた先に立っていたのは、リトナだった。
一瞬。
空気が、止まる。
「……は」
誰かの息が漏れた。
生きてる。
その事実だけで、張り詰めていたものがほどけかける。
——次の瞬間。
リトナは、ぴたりと止まった。
(……見られてる)
一歩、引く。
静かに、扉を閉める。
——パタン。
「「「「「は!?」」」」」
コン、コン。
律儀なノック。
ゆっくりと、もう一度扉が開く。
「ん?ただいま?」
「……お前なぁぁぁぁぁ!!」
「どれだけ心配したって思ってんだ!」
「もう!なんで入りなおすのよ!」
リトナは目を丸くする。
「えっ?ノックし忘れたから、
みんな見てたんじゃないの?」
「違うわよ、ホントばかなんだから!」
言いながら、女子が勢いよく抱きついた。
「うわっ」
リトナの身体が少しだけ揺れる。
「……なにこれ」
「なにこれじゃない!」
涙声が混ざる。
「心配したんだから……!」
「……あ、そっか」
少しだけ、間があく。
リトナはそのまま、ぎこちなく抱き返した。
「……初めてかも」
「何が!?」
周囲からツッコミが飛ぶ。
「……遅ぇ」
セイルは頭を抱えたまま、顔を上げる。
わずかに目元が赤い。
「どっかに連れてかれたかと思った」
リトナは笑う。
「魔術具、いっぱい見せてもらった
面白かった!」
「そうだろうよ」
「やっぱりリトナだよなぁ」
誰かが肩をすくめる。
「あと、あの魔術陣見たけど、
あたし理論とか意味とか説明できないよ?」
クラスの何人かが苦笑する。
「リトナだしな」
「まあ、そうなるよな」
セイルも、わずかに息を吐く。
張り詰めていたものが、
少しだけ緩む。
「だからさ」
リトナは一度だけ目を細める。
「セイル・ヴァルクが見てよ」
それが、当然みたいに落ちた。
「……どうやってだよ」
そのやり取りの最中だった。
リトナは何気なく、
床のじゅうたんをめくって、しゃがみ込む。
指先が、服のポケットを探る。
カツ、と小さな音。
白い欠片が、転がり出た。
「お前、それどっから――」
「ん……、さっき見つけた」
何も言わずに、線を引いた。
最初は、誰も気にしていなかった。
雑な落書きだと、思った。
だが――
一本、線が増える。
また一本。
円が閉じ、
記号が重なり——
どこかで見た形に、近づいていく。
「……おい」
誰かが呟いた。
話し声が、途切れた。
リトナは顔も上げず、
ただ手を動かし続けていた。
最後の一線を引いて、ようやく顔を上げる。
「はい、これ」
沈黙。
「なんかね、あの部屋にあったの。
試作品かな?」
軽く言う。
「超ラッキー」
指を2本立てて笑う。
その場にいる全員が、
同時に息を呑んだ。
誰も、すぐには動けなかった。
床に描かれたそれは、
ただの図ではないと分かる。
だが――
理解が追いつかない。
「……これ」
誰かが、かすれた声を漏らす。
「写したのか?」
「見て、覚えて……?」
言葉が続かない。
一人がしゃがみ込む。
線を目で追い、
途中で止まる。
「……おかしい」
もう一人が、別の箇所を見る。
「繋がってる……?」
「いや、でもこの配置――」
誰も最後まで言い切れない。
セイルは無言で、術式を見下ろした。
文字は読めない。
この国の言語で刻まれているためだ。
だが――
構造だけが、ぼんやりと浮かぶ。
線の配置と円の重なりが、
起点と終点を分けている。
「……ここだ」
指でなぞる。
「元の場所と、到達点」
リトナが来た方向へ、視線が自然と向く。
「この並びが、場所を示してる」
誰かが息を呑む。
「転移陣、ってこと……?」
セイルは答えない。
完全には掴めない
それでも――
“仕組み”だけが、頭の奥で形を持っていた。
その時だった。
「……あれ」
空気が、わずかに変わる。
声の主が、壁際を指さした。
円形の装置。
そこには刻まれた数字が、静かに光を返す。
「時計」
言葉が出るより先に、
起点の文字を写している生徒がいた。
駆け寄った生徒が息を呑む。
「……同じだ」
誰かが呟いた。
声は、少しかすれていた。
「起点と終点に数字……いや、数列なら」
「――領域識別コード……の可能性が高いな?」
セイルは起点を指した。
「先頭の三つの数字」
女子生徒が一人、文字盤を覗き込む。
「……待って、これ」
指が数字をなぞる。
「見覚えある。オルディアの……」
言葉が途切れる。
その瞬間、理解が落ちた。
「授業で見たやつだ」
「国コード……」
バラバラだった知識が、一つの形になる。
沈黙。
その中で——
セイルが口を開いた。
「……異世界じゃない」
低く、確信を込めて言い切る。
「ここは——」
一拍。
「同じ世界だ」
張り詰めていたものが、
一気にほどけた。
安堵と、疑念と、
理解が追いつかない戸惑いが混ざる。
誰も、すぐには言葉を出せなかった。
「……じゃあさ」
沈黙を破って、
ぽつりと誰かが言った。
「帰れる、ってことか?」
起点と終点の、この数字入れ替えて
—―そう、誰もが考えて、一つの問題に気づく。
「いや、この終点にあるコードは、
国王がいたあの広間だろ。」
「あの場所に、こっそり行くでしょ、
この魔術陣を間違いひとつなく描いて、
誰にも気づかれないうちに発動。
……どれも難易度高いよね」
指を折りながら女生徒が口にする行程が——。
その中で。
リトナだけが、”文字”ではなく”構造”を見ていた。
線の流れ。
円の重なり。
魔力が流れる筋道。
(やっぱり)
歪んでるからわかりにくかったんだ。
胸の奥がわずかにざわつく。
家にあるアンティークキャビネット。
入学の日に一度だけ、隙間が開いていた上段の扉。
覗き込むと、中は暗闇。
仕切板も、底板も見えない。
広さという感覚さえつかめなかった。
(暗すぎ。)
コツ、コツ。
唐突に、奥から小さなノックの音がすると
暗闇の奥で、淡い光が浮かんだ。
細い線と、読めない文字が
正円を描き、正確に重なりながら、
幾何学の形を組み上げていく。
ひとつの美しく精緻な光の魔術陣。
その、内側にーー見たことのない部屋が薄く、
薄く、透けて見えた。
読めない背表紙が並ぶ本棚。
本棚の隣には大きな窓。
窓の向こうには、
見慣れた街があった。
雪をかぶった屋根。
煙を上げる煙突。
鐘撞き塔の赤い屋根。
オルディアの街並みが、
高い場所から見下ろされている。
そして、
広くて重そうな机。
机の上から”それ”が横に滑って
机の縁を越え、
落ちる。
輪を抜けて——
ひとつ。
こちら側へ、零れた。
乾いた音。
下段に転がったそれは、
見覚えのある形。
——昨日、バラバラにしたはずのもの。
外れて戻せなかった部品が、
何事もなかったように収まっている。
壊す前と、同じ形をしていた。
一瞬の出来事。
けれど——
焼き付いている。
(あの環は——向こうから落ちてきた)
(これは——引っ張ってる)
(向きが、逆だ)
「……そっか、通ってる道は同じで」
手にはチョーク。
指先に力を入れ、床の術式をなぞる。
誰もまだ気づかない。
「……ここだね、引っ張ってる」
近くにいた一人が顔を向ける。
「へ?」
「ずっと、一方向」
線を指で追う。
「こっちから、こっちへ」
起点から終点へ。
流れは、途切れない。
「だから呼ばれたんだ」
セイルが短く言う。
「戻りはない」
女子生徒の息がわずかに乱れた。
誰も、次の言葉を探せなかった。
リトナは首を傾げる。
「……この術式で」
一瞬だけ間を置く。
「戻る前提で考えてるの、おかしくない?」
「……は?」
誰かが聞き返す。
「だってこれ、引っ張ってるだけだよ?」
指で線を弾く。
「……着いた側から動かしてたでしょ?」
一瞬だけ、目を細める。
「これ、呼ぶための形」
ざわり、と空気が揺れる。
「……取り寄せの原理」
セイルが低く呟く。
リトナはうなずいた。
「うん。」
迷いなく続ける。
「これ使って帰るの、危ないよ」
誰かが息を呑む。
「文字、読めないし。 どこに何の意味があるか、分かんない」
視線が術式に落ちる。
「それに、必要な情報は多い」
指先でいくつかの記号を弾く。
「一個でも間違えたら、 どこ飛ぶか分かんないでしょ」
「誰かが欠ける場合も……あるな」
セイルの呟きに、 理解がじわじわと広がる。
視線だけが術式に集まる。
リトナは円をなぞる。
「これで帰るのは無理」
少しだけ笑う。
「だから——」
少しだけ首を傾げる。
「作り変えたらいいよ」
空気が止まる。
「出口だけあるやつ」
誰も、言葉を返せない。
セイルだけが、ゆっくりと目を細めた。
「……排出、か」
リトナはうなずく。
「うん。入口はもう使わない」
さらりと言う。
「ここから、そのまま出すだけ」
リトナはチョークを持ち直した。
そして、
迷いなく線を引いていく。
「お、おい」
誰かが止めようとする。
リトナは止まらない。
既存の線に、
新しい流れを差し込む。
文字を消し、
さらさらと、書き変える。
セイルがしゃがみ込んだ。
無言で、
その手元を見る。
「……待て」
低く言う。
リトナの手が、一瞬だけ止まる。
「戻り先、どうするつもりだ」
指で示す。
当然の疑問だった。
座標がなければ、帰還は成立しない。
リトナは、少しだけ考えて。
「んー」
軽く首を傾げる。
「安全なとこがいいよね」
「当たり前だ」
「じゃあ、あれでいいや」
そう言って、
リトナは目を細めた。
思い出す、というより——
なぞる。
指先が、宙をなぞる。
見えているかのように。
そして、そのまま床へと線を落とした。
迷いはない。
一度も止まらない。
流れるように、記号が連なる。
しかし——
それは誰の知る文字ではなかった。
見慣れたオルディアの数字でも、
この国の記号でもない。
まったく未知の形。
「……どこだ?」
「あたしん家」
軽い調子で答える。
セイルの声にわずかに驚きの音が乗る。
「お前、自分ちの位置コード番号、
知ってるのか?」
「ううん」
あっさり首を振る。
「でも、こっちはちゃんと“零れてくる”から」
沈黙。
「向こうのは、
読めないし意味も分かんないでしょ」
指で元の術式を示す。
「同じ分かんないなら、
ちゃんと動く方がいいよね」
誰も、言葉を返せない。
リトナは続ける。
「家にさ」
少しだけ考えて、言葉を選ぶ。
「魔術具が、勝手に出てくる場所があって」
指で今書いた記号を示す。
「そのとき、これが出るの」
空中に円をなぞる。
「光で、ふっと浮かんで」
「……向こう側が、透けて見えるの」
沈黙。
「で、その中から」
手のひらを傾ける。
「ぽろって、落ちてくる」
誰も、すぐには理解できない。
「……は?」
間の抜けた声。
リトナは気にしない。
「大丈夫、大丈夫」
根拠のない声で、言い切る。
「見たまま、書いただけだよ」
「……お前」
かすれた声。
「……いい加減が過ぎる」
(ちゃんと繋がってるって言ったのに)
「美少女、それでいいんか!?」
(微少女?ちゃんと女の子です)
「ぽろってなんだよ!?」
(ぽろっじゃダメ?……ボト?ボトリ!?
それはちょっとヤダよ)
「待って、お願いリトナ落ち着いて!!」
(お前がな)
セイルは息を吐いた。
だが、呆れの色はない。
理解でもない。
——測れない。
その表情のまま、術式を見下ろす。
(こいつは——)
思考が、言葉にならなかった。
積み上げて届く場所じゃない。
最初から、
そこに立っているとしか考えられない。
その間にも。
リトナの手は、止まらない。
まるで——
最初から、完成形を知っているかのように。
◇
玉座の間は、静まり返っていた。
高い天井に吊るされた灯りが、
揺れるたびに影を歪める。
赤い絨毯の上、
列を成す貴族たちは一様に口を閉ざしていた。
誰もが知っている。
ここで誰かが口を開けば、すべてが露わになる。
玉座に座る王は、
肘掛けに頬を預けたまま動かない。
その視線だけが、階下を射抜いていた。
その中央で。
王宮魔術師だけが、膝をついていた。
「……皆さんご承知の通り」
掠れた声が、広間に落ちる。
「我々は——」
わずかに喉が鳴る。
「他国の子供たちを、攫いました」
空気が止まる。
だが、誰も動かない。
目を伏せる者も、顔を背ける者もいない。
初めて聞いた顔をする者は、
ひとりとしていなかった。
「……選んだのは」
言葉が一度、途切れる。
「扱いやすい年齢です」
その告白に、反応はない。
ただ、沈黙だけが重く積もる。
魔術師は顔を上げた。
「対象は、オルディア」
視線が巡る。
王も、貴族も、官僚も。
誰も逃げない。
「最も優秀な学生が集まる王立学園を選び、
転移魔術具で強制的に招き入れた」
「世界倫理に違反する行為であると——」
一瞬の間。
「理解した上で」
言い切る。
誰かの指先が、わずかに震えた。
だが、それ以上の反応はない。
「私も、その術式を組み上げた一人です」
沈黙。
責任は、分散している。
だからこそ、誰も逃れられない。
「そして」
声が低くなる。
「速やかに協力を得るため、
異世界召喚と偽り、欺いた」
燭台の炎が、ひときわ大きく揺れた。
玉座の上で、王の指がわずかに動く。
「……続けろ」
感情のない声だった。
魔術師は、目を逸らさない。
「理由は明確です」
「正規の手段では、間に合わない」
広間の奥で、誰かが息を吐く。
「人を送り、言葉を学び、文化を理解し、
技術を得る」
「それには、長い年月と膨大な資源が必要です」
「オルディアは遠い。
1年の大半が雪に閉ざされる最北の地」
「送り出した者が、成果を持ち帰る保証もない」
誰も頷かない。
だが、否定もされない。
それが、この国の現実だった。
「だから我々は」
「過程を省き、結果だけを奪おうとした」
沈黙。
「術式を奪い、構造を真似れば、
同じものが作れると考えた」
魔術師は、わずかに目を伏せる。
「——誤りでした」
はっきりと、断じた。
その瞬間、空気がわずかに軋む。
「術は形ではない」
「積み上げられた思考と、
試行錯誤の果てにあるものです」
握った拳が震える。
「それを理解せずに得たものは」
「再現できない」
「発展しない」
「この国は変われない」
沈黙。
重い、逃げ場のない沈黙。
「我々がしていたのは——」
わずかに声が落ちる。
「猿の真似事です」
その言葉が、床に落ちた。
誰も拾わない。
玉座の上で、王が目を閉じる。
長い時間が過ぎたように感じられた。
やがて。
「……では、どうする」
静かな声だった。
魔術師は、迷わない。
「返します」
即答だった。
「彼らを、全員無傷で」
貴族の列のどこかで、衣擦れの音が走る。
「その上で」
一歩、踏み出す。
「正規の手段を取るべきです」
「人を送り」
「言葉を学び」
「技術を学ぶ」
「時間をかけて」
顔を上げる。
「それ以外に、道はありません」
再び沈黙が降りる。
王は、ゆっくりと目を開いた。
そして。
「……遅いな」
ぽつりと、呟く。
その言葉が、広間に沈んだまま——
誰も意味を問えなかった。
◇
その頃。
学生たちの部屋では——
「……すでに、
術式陣が原形をとどめてないんだが」
セイルが眉間に皺を寄せる。
床いっぱいに広がった術式は、
もはや元の形を想像することすらできない。
線は組み替えられ、
流れは断ち切られ、
別の方向へと繋ぎ直されている。
「……お前、それ
魔術師の技術だぞ」
「そうなの?」
その円環の外側で。
リトナは、最後の線を結んだ。
かすかな音とともに、
術式全体が、わずかに脈打つ。
「これで——」
顔を上げる。
「帰れるよ」
光が、滲む。
床に描かれたはずの線が、
ふわりと浮き上がり、
空中に幾重もの輪を描いた。
重なり合う文字が、静かに回転する。
引き寄せる力ではない。
押し出す流れ。
外へ。
ただ、一方向へ。
「……いける」
小さく、呟く。
帰れる。
「たぶん!!」
「たぶんって言った!!!!!」
「つい!ごめん」
「じゃ、誰から帰る?」
軽い声だった。
「いや順番決めてる場合か!?」
「人体実験どんとこい!な人は魔術陣の中に
入っていってください」
くるりと振り返る。
「あ、でもタイムリミットは3分です」
さらっと続ける。
「ここの人たちに使われないように、
3分後に自壊する仕組みでーす」
一拍。
「もうカウント始まってるけど」
「は?」
「短すぎるだろ!」
「信用できるかそれ!」
「あと二分半くらい!」
「減ってる!?」
ざわめきが弾ける。
その瞬間。
コン、コン。
扉が叩かれる。
全員の視線が跳ねた。
「やべっ」
セイルが一歩、前に出る。
振り返らずに言う。
「この中に、知らない言語で書かれた術式を、
一回見ただけで記憶して、
再現して、改変できるやついるか?」
誰も答えない。
「……だよな」
短く息を吐く。
そして、振り返る。
「——オレは信じる」
迷いはなかった。
真っ直ぐに、リトナを見る。
「ここの誰が信じなかったとしても」
一歩、踏み出す。
「お前は、必ず時間内にくぐれ」
「約束な」
軽く手を上げる。
「じゃ、お先に」
そのまま、光の中へ踏み込んだ。
一瞬で、姿が消える。
「うそだろ……」
「消えた……?」
ざわめきが変わる。
迷いが、決意に変わる。
「くそっ、行くぞ!」
「失敗したら化けて出るからな、リトナ!」
「うおぉぉぉぉ」
「旅の守護神セリウス様、リトナ様、
あたしたちを守って!」
女子生徒たちが手を繋ぐ。
円を作るように。
息を合わせて——
一斉に飛び込んだ。
光が、大きく揺れる。
次々と、姿が消えていく。
その様子を、リトナは見ていた。
指先が、わずかに動く。
伸ばしかけて——
やめた。
ドン、ドン、ドン!
扉が激しく叩かれる。
怒声が混じる。
外に、人が集まってくる気配。
「オレで最後だ!」
男子生徒が一人、振り返る。
その視線が、リトナで止まる。
「……何やってんだ」
呆れた声。
だが、すぐに歩み寄る。
リトナの腕を、掴んだ。
「一緒、一緒 」
それだけ言って、引く。
「ほら、行くぞ」
「え」
反応するより早く、
身体が引かれる。
そのまま、光の縁へ——
あの時とは違う。
扉じゃない。
ちゃんと、掴まれている。
リトナは、少しだけ指に力を入れた。
ドンッ!!
扉が、内側へ歪む。
「リトナさん!」
通訳の悲鳴。
木片が弾ける。
扉が、破られた。
兵士がなだれ込む。
魔術師。
貴族たち。
怒号も飛ぶ中、
リトナは、くるりと振り返った。
男子の手に引かれたまま。
浮かび上がる、多重の光輪。
その中心で。
ひらりと、片手を振る。
「じゃ、またね」
王宮魔術師の目が、わずかに見開かれた。
次の瞬間。
光が、収束する。
二人の身体が、輪の中へ溶ける。
そのまま——
消えた。
遅れて。
術式が崩れる。
音もなく。
光も残さず。
ただ、消えた。
床には、何もない。
完全な、空白。
踏み込んだ兵士たちは、動きを止める。
誰も、次の指示を出せない。
その中央で。
王宮魔術師だけが、立ち尽くしていた。
やがて。
小さく、息を吐く。
視線は、何もない床のまま。
「……不要だった、か」
かすかに、笑う。
「帰す術式など」
わずかに目を伏せる。
「すでに、彼らの側にあった」
ーー首を振る。
「あれでまだ、学生とは」
そして。
ほんの僅かに、口元が緩む。
「……さすが」
かすかな、敬意。
「師」
——数日後。
オルディア。
見慣れた教室。
何事もなかったかのように、
授業は終わったはずだった。
だが。
リトナ達の教室だけが、妙に騒がしい。
「……結局、あれはなんだったんだ?」
誰かがぼやく。
リトナは窓の外を見たまま、答える。
「ただの誘拐だよ」
「は?」
「めちゃくちゃ田舎の国が、
ルールも知らないでやったやつ」
少しだけ、間。
「でも」
くすっと笑う。
「ちょっと面白かった」
隣で、セイルが吹き出した。
「同感」
「いや同感じゃねぇよ!」
ようやくツッコミが入る。
「普通にやばかっただろ!」
「戻ってこれたからいいじゃん」
軽い調子で言い切る。
——それで終わり、だった。
詳しい事情は、上が処理するらしい。
自分たちは、学生に戻った。
ただし。
ひとつだけ、変わったことがある。
——全員、無事だったからこそ。
「あんた達、
邪魔するならさっさと帰りなさいよ!」
「ただでさえ再テストまで
日数足りねぇっていうのにさぁ」
「セイルもよ!
雑談続けるなら邪魔!」
「ほらリトナ、次の問題解いて!」
「いや、その前に昨日の復習だろ!」
教壇の前。
なぜか教師が増えていた。
しかも全員、真剣な顔だ。
「基礎から叩き直す!」
「今回の件で証明されたでしょ!」
「才能があっても単位は出ない!」
「大丈夫、何時まででもわかるまで
つきあってあげるからね!」
「イヤ、さすがに時間ないし、丸暗記でいいんじゃない?」
「ぎゃふん」
リトナだけ、わずかに青ざめていた。
その隣で。
セイルは、いつも通り椅子に座ったまま。
何事もない顔で、頬杖をついている。
「……頑張れ」
完全に他人事だった。
口元だけが、わずかに緩んでいた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
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