第六話 笑う策士
麦を配って三日で、領内の空気は変わった。
目に見えて変わったわけではない。
飢えた村が一夜で豊かになることはないし、凍えた家々に突然ぬくもりが満ちることもない。
だが、人の目の色が違った。
それまで北部三村の人間たちは、ただ耐える顔をしていた。
耐え、削れ、黙って春を待つ。あるいは待てずに朽ちる。
そういう顔だった。
それが今は違う。
まだ痩せている。
まだ怯えている。
それでも、どこかで「誰かが見ているかもしれない」「奪われたものが戻ることもあるのかもしれない」という火が、小さく灯ってしまっていた。
希望は、飢えた土地では毒にもなる。
それを最もよく知っているのは、民ではなく支配する側だった。
ヴァルディア伯爵邸の西棟では、この数日で使用人たちの足音がひどく静かになっていた。
廊下を行き交う者は皆、余計な視線を動かさない。
耳に入ってくるのは、低く抑えられた命令と、扉の開閉音、暖炉の薪が爆ぜる乾いた音ばかりだ。
屋敷は今、嵐の前のような静けさに包まれていた。
その中心にいるのが誰なのか、知らぬ者はいない。
執務室で、レオンは報告書に目を通していた。
机の上には領内各地から集めた数字が並んでいる。徴税量、凶作率、病死者、失踪者、流民の増加。
紙の上では整然としている。
だが整って見える数字ほど、現実では醜い。
扉の前でハインツが言った。
「教会から使者が来ています」
レオンは顔を上げる。
「早いな」
「噂が王都へ上がるより前に、まず領内の教会が動くのは自然かと」
「自然、か」
レオンは書類を閉じた。
「通せ」
「いえ」
ハインツはわずかに目を伏せる。
「客間ではなく、正門前の広間にて待つと」
「招かれる側のつもりか」
「そのようです」
レオンは短く息を吐いた。
怒りではない。ただ、面倒だという認識だけがあった。
「行く」
広間にはすでに三人の男がいた。
中央に立つのは、痩せた中年の司祭だった。
白銀の法衣に濃紺の肩掛け。胸元には沈黙神殿の紋章が刺繍されている。
神が沈黙して三百年経ってなお、教会は祈りの形を変えず、人を従わせる術だけを磨き続けてきた。
司祭の両脇には、神殿兵が二人。
装飾の少ない鎧だが、剣はよく手入れされている。
司祭はレオンを見ると、ゆっくりと頭を下げた。
礼というより形式だ。
「ヴァルディア伯」
「名を」
「地方司祭アルベインにございます」
「用件は」
レオンがそう返すと、アルベインの細い目がわずかに笑った。
「単刀直入ですな」
「回りくどい話は嫌いだ」
「結構」
司祭は袖の中で指を組んだ。
「街道襲撃の件について、お耳に入れておきたいことがございます」
「聞こう」
「近頃、領内では奇妙な噂が広まっております。“奪われた麦が村に戻された”“伯爵家の誰かが民を煽っている”と」
広間の空気が少しだけ冷たくなる。
「それがどうした」
レオンは表情を動かさない。
アルベインは薄く笑みを保ったまま言った。
「民は弱い。ゆえに、与えられたものを恵みと思う。ですが一度でも“自分の意志で得られる”と知れば、祈りを忘れます」
「祈りを忘れて困るのは教会だろう」
神殿兵の片方がぴくりと反応した。
だが司祭は笑みを崩さない。
「民が祈りを失えば、次に持つのは不満です。不満はやがて怒りとなり、怒りは流血を招く。教会はそれを案じております」
「ずいぶんと慈悲深い」
「秩序を守るのが役目ですので」
沈黙。
レオンは司祭の目を見た。
この男は信仰を語っているが、信じているのは神ではなく秩序そのものだ。
そして秩序とは、いつの時代も力を持つ者に都合よく編まれる。
「つまり」
レオンは言った。
「口を出すな、と」
「慎みを、と申し上げております」
「同じことだ」
アルベインはそこで初めて少しだけ表情を消した。
「伯爵。火というものは、小さいうちなら踏み消せます」
「踏まれる火なら、最初から火ではない」
司祭の目が細くなる。
「……若さは時に刃ですな」
「鈍った老人よりは使い道がある」
神殿兵たちの視線が鋭くなる。
ハインツが横で静かに息を詰めるのがわかった。
だがアルベインは、やがて小さく首を振った。
「今日は忠告だけにしておきましょう」
「脅しではなく?」
「脅しが必要になるほど、事が進まぬことを願っています」
そう言い残し、司祭は踵を返した。
法衣の裾が石床を擦る。
神殿兵が続く。
重い扉が閉まり、広間に静寂が戻った。
ハインツが低く言う。
「敵を増やされましたな」
「最初から味方ではない」
「違いありません」
「王都にも上がるか」
「ええ。教会が嗅いだ以上、時間の問題かと」
レオンは何も答えず、窓の外へ目を向けた。
中庭の先で、若い侍女たちが水桶を運んでいる。
その中にミアの姿もあった。以前より顔色がましになっている。
たまたまそれが視界に入っただけだ。
だがその“たまたま”が増え始めていることに、彼は気づきつつあった。
その日の午後、もうひとつ報せが入った。
南門の詰所で、捕らえた輸送隊の兵がひとり口を割った。
街道の輸送には、王都への献納だけでなく、帳簿に載らぬ私的な取引が混じっていたこと。
その仲介に、領内の数名の商人と、王都の貴族、そして教会関係者の名があること。
ハインツが報告を終えると、レオンは即座に言った。
「商人の名は」
「三名。そのうち一人は、今日、伯爵家への出入りを願い出ています」
「商人が、か」
「正確には元貴族、と申しますか」
ハインツの目がわずかに細くなる。
「名を、エドワルド・セルベイン」
その名を聞いた瞬間、レオンは書類から顔を上げた。
「セルベイン……」
「ご存じで?」
「王都の内紛で没落した家だ。三年前に爵位を失っている」
「はい。ですが本人は生き延び、今は商人のような顔をして各地を渡っているとか」
「なぜ来る」
「それを確かめるためにも、会われますか」
レオンは少し考えた。
こういう時期に寄ってくる人間は、大抵が禍だ。
だが禍ほど使い道があることもある。
「会う」
面会は北棟の小応接間で行われた。
午後の薄い光が窓から差し込み、磨かれた床の上に淡く伸びている。
暖炉には火が入っていたが、部屋の空気はどこか冷えていた。
先に入っていた男は、立ち上がって一礼した。
三十前後。
痩せすぎず、太りすぎず、全体に隙のない体つき。
黒に近い茶髪を後ろへ撫でつけ、仕立てのいい濃灰色の上着を着ている。
装飾は少ないが、生地は良い。貧した元貴族が無理に見栄を張っている印象ではなかった。
顔立ちは柔らかい。
だが目が笑っていない。
いや、正確には、笑顔の作り方を知っている目だ。
「お初にお目にかかります、ヴァルディア伯。エドワルド・セルベインと申します」
「元セルベイン卿、だろう」
レオンが言うと、男は軽く肩をすくめた。
「痛いところを突かれますね。もっとも、肩書きなど落としてしまえば、ただの飾りです」
「飾りを惜しむ顔には見えない」
「惜しんでも戻りませんから」
穏やかな声音。
だが、一言一言がよく研がれている。
レオンは向かいの椅子に座った。
「用件を聞こう」
エドワルドも座る。
姿勢に無駄がない。執事よりも貴族らしく、貴族よりも商人らしい座り方だった。
「単純です。私は情報を持っている。そしてあなたは、今それを必要としている」
「自分から値札を付けるのか」
「ええ。誠実でしょう?」
レオンは答えなかった。
エドワルドは薄く笑ったまま続ける。
「街道で消えた麦。戻った子供たち。村に広がる噂。教会の牽制。先代伯爵閣下の怒り。ここまでは、すでに私の耳にも入っています」
「耳がいいな」
「金になる話には鼻も利きます」
「その情報を売りに来たのか」
「半分は正解です」
エドワルドは指を組んだ。
「残り半分は、見極めに来た」
「何を」
「あなたが、本当に始めるつもりなのかを」
部屋が静かになる。
ハインツは壁際で控えたままだが、その視線は鋭かった。
この男は危険だ。最初の一言でそれがわかる。
だが危険な男ほど、若い当主は退けない。そんな予感もあった。
レオンはエドワルドを見た。
「始める、とは」
「秩序の食い破り方には段階があります」
エドワルドの声はやわらかい。
「小麦を抜く。流民を匿う。帳簿を改める。商人を脅す。それだけなら、まだ局地的な揉め事です。ですが、あなたはそれでは終わらない顔をしている」
「顔でわかるのか」
「わかりますとも。私は、同じ顔を何度も見てきましたから」
「それで?」
「大抵は死にます」
さらりと言った。
「理想を口にする者から死ぬ。正義を信じる者も、たいてい先に死ぬ。生き残るのは、泥を飲める者だけです」
レオンは少しだけ目を細めた。
「お前は泥を飲んだのか」
「山ほど」
エドワルドは微笑んだ。
「だからこうして生きています」
「ならなぜ没落した」
その問いに、男は初めて少しだけ笑みを深くした。
「私一人では飲みきれない量の泥が、王都にはあったということです」
レオンは黙った。
誤魔化しているようで、誤魔化していない返しだった。
「持っている情報とは何だ」
「教会と王都貴族の裏の金の流れ。輸送路。仲介商人の名簿の一部。加えて、あなたの父君が何を差し出して生き延びてきたか」
ハインツの指がわずかに動く。
レオンは表情を変えない。
「見返りは」
「席です」
「席?」
「近くで見たいのです」
エドワルドは言う。
「あなたがどこまで行けるかを。そして願わくば、その道筋に少し口を出したい」
「用心棒でも軍師でもなく、観客のつもりか」
「最初は、で十分です」
「信用できないな」
「ええ。私もそう思います」
あまりにも自然な肯定に、ハインツでさえ一瞬言葉を失った。
エドワルドは続ける。
「ですが、信用できる人間ばかり周りに置いて勝てるほど、この世界は甘くない。違いますか、ヴァルディア伯」
レオンは机を指先で軽く叩いた。
この男は、自分がどう見られているかを知っている。
怪しいと分かってなお、踏み込んでくる。
つまり、拒まれても別の道があると思っているのだ。
「なぜ私に賭ける」
「面白いからです」
即答だった。
そして少し置いてから、もう一つ足す。
「それに、私も少しばかり、今の世界に飽きている」
その言い方は軽い。
だが軽さの奥に、妙に乾いたものがあった。
レオンは問う。
「お前は何を望む」
エドワルドはほんの少しだけ窓へ目を向けた。
薄曇りの空が映っている。
「綺麗な復讐ではありません。高潔な理想でもない。ただ、一度くらいは、自分が賭ける相手を自分で選びたい」
「王都では選べなかったと」
「選んだつもりでした。ですが、あそこではいつも、最後に選ばれる側になる」
その言葉だけは、作り物ではない響きがあった。
沈黙が落ちる。
やがてレオンは言った。
「しばらく置く」
ハインツが顔を上げる。
だが異を唱えない。
エドワルドは微笑んだ。
「ありがたい」
「ただし」
レオンの声が一段低くなる。
「裏切るなら、お前から切る」
「当然です」
「命乞いは聞かない」
「その方が明快で好きです」
どこまで本心なのか読めない笑顔のまま、エドワルドは深く一礼した。
その夜、ガルドとリシェルもその話を聞かされた。
場所は離れの小部屋だった。
この数日、二人は屋敷の外れに近い古い棟を使っている。使用人たちから見ても、できれば近づきたくない場所になっていた。
「元貴族の策士?」
ガルドは露骨に顔をしかめた。
「臭ぇな」
「臭いわね」
リシェルも壁に寄りかかったまま同意する。
「こういうの、たいてい裏で二、三枚噛んでる顔よ」
「顔でわかるのか」
レオンが言う。
「わかるわよ」
「お前も同類だろう」
「私は壊す顔。あれは売る顔」
ガルドが鼻を鳴らす。
「妙に納得できるのが腹立つな」
レオンは二人を見た。
「だが必要だ」
「本気で使うのか」
「ああ」
ガルドはしばらく無言だった。
火の明かりが、その横顔の険しさを揺らしている。
「……ひとつ言っておく」
「何だ」
「剣を向ける相手より、隣に立つ相手の方が怖い時がある」
「知っている」
「本当にか?」
レオンは答えなかった。
本当に知っているわけではない。
だが、知る必要があることはわかる。
リシェルがふと呟いた。
「でも、そういうのがいると話は面白くなるわね」
「お前は全部それだな」
ガルドが呆れる。
「だってそうでしょ。真っ直ぐなだけの話なんて、途中で折れるもの」
火が揺れる。
小さな部屋の中で、その明かりは三人の顔に別々の影を落としていた。
レオンは窓の外を見た。
中庭の向こう、雪の残る石畳の先に、屋敷の尖塔が黒く伸びている。
そのどこかで父が息をし、教会が睨み、使用人たちが怯え、そして今、新たに笑う策士が入り込んできた。
盤面は確実に広がっている。
同時に、手を誤れば一気に崩れる脆さも増していた。
その脆さを見ながら、レオンは不思議と嫌悪を覚えなかった。
むしろ、ようやく世界が形を現し始めたような感覚があった。
歪みは大きい方が見やすい。
削るべき場所もまた、明確になる。
その時、廊下の向こうで何かが割れる音がした。
小さな悲鳴。
続いて、誰かを怒鳴りつける女の声。
レオンが顔を上げる。
ガルドも眉をひそめた。
「またか」
レオンは無言で立ち上がった。
扉を開け、暗い廊下へ出る。
声は東側からだった。
先代伯爵付きの女官長、ゼルマの声に聞こえる。
行ってみると、角を曲がった先で若い下男が床に膝をついていた。
割れた皿の欠片が散り、ゼルマが顔を紅潮させて立っている。
「この役立たず! 何度言えばわかるの!」
下男はまだ十代そこそこだろう。
唇を切り、怯えた目で縮こまっている。
レオンの足が止まる。
数歩後ろで、ガルドも立ち止まった。
以前なら、ただ“不快な音”として処理したかもしれない。
だが今は違う。
同じ光景でも、どこが歪んでいるかが前より鮮明に見える。
そして、見えた歪みを放置することが、妙に耳障りだった。
「そこまでだ」
レオンが言うと、ゼルマが振り返った。
「レオン様……これはしつけでございます」
「皿を割った罪で顔まで割るのか」
「下の者は痛みで覚えます」
「ならお前もそうするか」
ゼルマの顔色が変わる。
だが、すぐに頭を下げた。
「……出過ぎた真似を」
レオンは下男へ目を向けた。
「立て」
少年は恐る恐る立ち上がる。
足が震えている。
「医務室へ行け」
「……は、はい」
逃げるように去っていく背を見送りながら、ゼルマは唇を噛んでいた。
不満も屈辱もあるのだろう。
だが逆らわない。まだ、この屋敷の権力が完全には割れていないからだ。
レオンはそれ以上何も言わず踵を返した。
部屋へ戻る途中、ガルドが低く言う。
「少しずつ、手を入れる気か」
「ああ」
「屋敷の中まで」
「中が腐っていれば、外だけ削っても意味がない」
ガルドはしばらく黙っていたが、やがて短く言った。
「……お前、思ったより面倒見がいいな」
レオンは足を止めない。
「そう見えるか」
「見える」
「違う」
「どこがだ」
「放っておくと、気分が悪いだけだ」
ガルドが小さく笑った。
「それを面倒見がいいって言うんだよ」
レオンは返さなかった。
ただ、自分の中にわずかに残るざらつきを確かめるように、無意識に指を握った。
その夜更け。
屋敷の北棟、客室にて。
エドワルドは一人、窓辺に立っていた。
薄暗い室内で、彼は窓ガラスに映る自分の顔を見ている。
笑みは消え、目だけが冷えていた。
やがて、誰に聞かせるでもなく呟く。
「……さて」
その声には、期待と、倦みと、ほんの少しの愉悦が混じっていた。
「どこまで壊してくれるかな、若君」
窓の外では、夜の屋敷が静かに眠っている。
だが、その眠りの下で、確かに何かが軋み始めていた。
火が灯れば、人が集まる。
火が広がれば、獣も寄る。
そして獣の中には、炎を恐れるものばかりではない。
むしろ、炎の中でしか笑えない者もいる。
エドワルド・セルベイン。
その男が味方か敵か、まだ誰にもわからない。
ただ一つ確かなのは、
彼が現れたことで、この反逆は少しだけ“戦”に近づいたということだった。




