表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灰冠の反逆者  作者: 大きい橋


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/18

第六話 笑う策士


麦を配って三日で、領内の空気は変わった。


目に見えて変わったわけではない。

飢えた村が一夜で豊かになることはないし、凍えた家々に突然ぬくもりが満ちることもない。

だが、人の目の色が違った。


それまで北部三村の人間たちは、ただ耐える顔をしていた。

耐え、削れ、黙って春を待つ。あるいは待てずに朽ちる。

そういう顔だった。


それが今は違う。


まだ痩せている。

まだ怯えている。

それでも、どこかで「誰かが見ているかもしれない」「奪われたものが戻ることもあるのかもしれない」という火が、小さく灯ってしまっていた。


希望は、飢えた土地では毒にもなる。


それを最もよく知っているのは、民ではなく支配する側だった。


ヴァルディア伯爵邸の西棟では、この数日で使用人たちの足音がひどく静かになっていた。

廊下を行き交う者は皆、余計な視線を動かさない。

耳に入ってくるのは、低く抑えられた命令と、扉の開閉音、暖炉の薪が爆ぜる乾いた音ばかりだ。


屋敷は今、嵐の前のような静けさに包まれていた。


その中心にいるのが誰なのか、知らぬ者はいない。


執務室で、レオンは報告書に目を通していた。

机の上には領内各地から集めた数字が並んでいる。徴税量、凶作率、病死者、失踪者、流民の増加。

紙の上では整然としている。

だが整って見える数字ほど、現実では醜い。


扉の前でハインツが言った。


「教会から使者が来ています」


レオンは顔を上げる。


「早いな」


「噂が王都へ上がるより前に、まず領内の教会が動くのは自然かと」


「自然、か」


レオンは書類を閉じた。


「通せ」


「いえ」


ハインツはわずかに目を伏せる。


「客間ではなく、正門前の広間にて待つと」


「招かれる側のつもりか」


「そのようです」


レオンは短く息を吐いた。

怒りではない。ただ、面倒だという認識だけがあった。


「行く」


広間にはすでに三人の男がいた。


中央に立つのは、痩せた中年の司祭だった。

白銀の法衣に濃紺の肩掛け。胸元には沈黙神殿の紋章が刺繍されている。

神が沈黙して三百年経ってなお、教会は祈りの形を変えず、人を従わせる術だけを磨き続けてきた。


司祭の両脇には、神殿兵が二人。

装飾の少ない鎧だが、剣はよく手入れされている。


司祭はレオンを見ると、ゆっくりと頭を下げた。

礼というより形式だ。


「ヴァルディア伯」


「名を」


「地方司祭アルベインにございます」


「用件は」


レオンがそう返すと、アルベインの細い目がわずかに笑った。


「単刀直入ですな」


「回りくどい話は嫌いだ」


「結構」


司祭は袖の中で指を組んだ。


「街道襲撃の件について、お耳に入れておきたいことがございます」


「聞こう」


「近頃、領内では奇妙な噂が広まっております。“奪われた麦が村に戻された”“伯爵家の誰かが民を煽っている”と」


広間の空気が少しだけ冷たくなる。


「それがどうした」


レオンは表情を動かさない。


アルベインは薄く笑みを保ったまま言った。


「民は弱い。ゆえに、与えられたものを恵みと思う。ですが一度でも“自分の意志で得られる”と知れば、祈りを忘れます」


「祈りを忘れて困るのは教会だろう」


神殿兵の片方がぴくりと反応した。

だが司祭は笑みを崩さない。


「民が祈りを失えば、次に持つのは不満です。不満はやがて怒りとなり、怒りは流血を招く。教会はそれを案じております」


「ずいぶんと慈悲深い」


「秩序を守るのが役目ですので」


沈黙。


レオンは司祭の目を見た。

この男は信仰を語っているが、信じているのは神ではなく秩序そのものだ。

そして秩序とは、いつの時代も力を持つ者に都合よく編まれる。


「つまり」


レオンは言った。


「口を出すな、と」


「慎みを、と申し上げております」


「同じことだ」


アルベインはそこで初めて少しだけ表情を消した。


「伯爵。火というものは、小さいうちなら踏み消せます」


「踏まれる火なら、最初から火ではない」


司祭の目が細くなる。


「……若さは時に刃ですな」


「鈍った老人よりは使い道がある」


神殿兵たちの視線が鋭くなる。

ハインツが横で静かに息を詰めるのがわかった。


だがアルベインは、やがて小さく首を振った。


「今日は忠告だけにしておきましょう」


「脅しではなく?」


「脅しが必要になるほど、事が進まぬことを願っています」


そう言い残し、司祭は踵を返した。


法衣の裾が石床を擦る。

神殿兵が続く。

重い扉が閉まり、広間に静寂が戻った。


ハインツが低く言う。


「敵を増やされましたな」


「最初から味方ではない」


「違いありません」


「王都にも上がるか」


「ええ。教会が嗅いだ以上、時間の問題かと」


レオンは何も答えず、窓の外へ目を向けた。

中庭の先で、若い侍女たちが水桶を運んでいる。

その中にミアの姿もあった。以前より顔色がましになっている。

たまたまそれが視界に入っただけだ。

だがその“たまたま”が増え始めていることに、彼は気づきつつあった。


その日の午後、もうひとつ報せが入った。


南門の詰所で、捕らえた輸送隊の兵がひとり口を割った。

街道の輸送には、王都への献納だけでなく、帳簿に載らぬ私的な取引が混じっていたこと。

その仲介に、領内の数名の商人と、王都の貴族、そして教会関係者の名があること。


ハインツが報告を終えると、レオンは即座に言った。


「商人の名は」


「三名。そのうち一人は、今日、伯爵家への出入りを願い出ています」


「商人が、か」


「正確には元貴族、と申しますか」


ハインツの目がわずかに細くなる。


「名を、エドワルド・セルベイン」


その名を聞いた瞬間、レオンは書類から顔を上げた。


「セルベイン……」


「ご存じで?」


「王都の内紛で没落した家だ。三年前に爵位を失っている」


「はい。ですが本人は生き延び、今は商人のような顔をして各地を渡っているとか」


「なぜ来る」


「それを確かめるためにも、会われますか」


レオンは少し考えた。

こういう時期に寄ってくる人間は、大抵が禍だ。

だが禍ほど使い道があることもある。


「会う」


面会は北棟の小応接間で行われた。


午後の薄い光が窓から差し込み、磨かれた床の上に淡く伸びている。

暖炉には火が入っていたが、部屋の空気はどこか冷えていた。


先に入っていた男は、立ち上がって一礼した。


三十前後。

痩せすぎず、太りすぎず、全体に隙のない体つき。

黒に近い茶髪を後ろへ撫でつけ、仕立てのいい濃灰色の上着を着ている。

装飾は少ないが、生地は良い。貧した元貴族が無理に見栄を張っている印象ではなかった。


顔立ちは柔らかい。

だが目が笑っていない。

いや、正確には、笑顔の作り方を知っている目だ。


「お初にお目にかかります、ヴァルディア伯。エドワルド・セルベインと申します」


「元セルベイン卿、だろう」


レオンが言うと、男は軽く肩をすくめた。


「痛いところを突かれますね。もっとも、肩書きなど落としてしまえば、ただの飾りです」


「飾りを惜しむ顔には見えない」


「惜しんでも戻りませんから」


穏やかな声音。

だが、一言一言がよく研がれている。


レオンは向かいの椅子に座った。


「用件を聞こう」


エドワルドも座る。

姿勢に無駄がない。執事よりも貴族らしく、貴族よりも商人らしい座り方だった。


「単純です。私は情報を持っている。そしてあなたは、今それを必要としている」


「自分から値札を付けるのか」


「ええ。誠実でしょう?」


レオンは答えなかった。


エドワルドは薄く笑ったまま続ける。


「街道で消えた麦。戻った子供たち。村に広がる噂。教会の牽制。先代伯爵閣下の怒り。ここまでは、すでに私の耳にも入っています」


「耳がいいな」


「金になる話には鼻も利きます」


「その情報を売りに来たのか」


「半分は正解です」


エドワルドは指を組んだ。


「残り半分は、見極めに来た」


「何を」


「あなたが、本当に始めるつもりなのかを」


部屋が静かになる。


ハインツは壁際で控えたままだが、その視線は鋭かった。

この男は危険だ。最初の一言でそれがわかる。

だが危険な男ほど、若い当主は退けない。そんな予感もあった。


レオンはエドワルドを見た。


「始める、とは」


「秩序の食い破り方には段階があります」


エドワルドの声はやわらかい。


「小麦を抜く。流民を匿う。帳簿を改める。商人を脅す。それだけなら、まだ局地的な揉め事です。ですが、あなたはそれでは終わらない顔をしている」


「顔でわかるのか」


「わかりますとも。私は、同じ顔を何度も見てきましたから」


「それで?」


「大抵は死にます」


さらりと言った。


「理想を口にする者から死ぬ。正義を信じる者も、たいてい先に死ぬ。生き残るのは、泥を飲める者だけです」


レオンは少しだけ目を細めた。


「お前は泥を飲んだのか」


「山ほど」


エドワルドは微笑んだ。


「だからこうして生きています」


「ならなぜ没落した」


その問いに、男は初めて少しだけ笑みを深くした。


「私一人では飲みきれない量の泥が、王都にはあったということです」


レオンは黙った。

誤魔化しているようで、誤魔化していない返しだった。


「持っている情報とは何だ」


「教会と王都貴族の裏の金の流れ。輸送路。仲介商人の名簿の一部。加えて、あなたの父君が何を差し出して生き延びてきたか」


ハインツの指がわずかに動く。

レオンは表情を変えない。


「見返りは」


「席です」


「席?」


「近くで見たいのです」


エドワルドは言う。


「あなたがどこまで行けるかを。そして願わくば、その道筋に少し口を出したい」


「用心棒でも軍師でもなく、観客のつもりか」


「最初は、で十分です」


「信用できないな」


「ええ。私もそう思います」


あまりにも自然な肯定に、ハインツでさえ一瞬言葉を失った。


エドワルドは続ける。


「ですが、信用できる人間ばかり周りに置いて勝てるほど、この世界は甘くない。違いますか、ヴァルディア伯」


レオンは机を指先で軽く叩いた。


この男は、自分がどう見られているかを知っている。

怪しいと分かってなお、踏み込んでくる。

つまり、拒まれても別の道があると思っているのだ。


「なぜ私に賭ける」


「面白いからです」


即答だった。


そして少し置いてから、もう一つ足す。


「それに、私も少しばかり、今の世界に飽きている」


その言い方は軽い。

だが軽さの奥に、妙に乾いたものがあった。


レオンは問う。


「お前は何を望む」


エドワルドはほんの少しだけ窓へ目を向けた。

薄曇りの空が映っている。


「綺麗な復讐ではありません。高潔な理想でもない。ただ、一度くらいは、自分が賭ける相手を自分で選びたい」


「王都では選べなかったと」


「選んだつもりでした。ですが、あそこではいつも、最後に選ばれる側になる」


その言葉だけは、作り物ではない響きがあった。


沈黙が落ちる。


やがてレオンは言った。


「しばらく置く」


ハインツが顔を上げる。

だが異を唱えない。


エドワルドは微笑んだ。


「ありがたい」


「ただし」


レオンの声が一段低くなる。


「裏切るなら、お前から切る」


「当然です」


「命乞いは聞かない」


「その方が明快で好きです」


どこまで本心なのか読めない笑顔のまま、エドワルドは深く一礼した。


その夜、ガルドとリシェルもその話を聞かされた。


場所は離れの小部屋だった。

この数日、二人は屋敷の外れに近い古い棟を使っている。使用人たちから見ても、できれば近づきたくない場所になっていた。


「元貴族の策士?」


ガルドは露骨に顔をしかめた。


「臭ぇな」


「臭いわね」


リシェルも壁に寄りかかったまま同意する。


「こういうの、たいてい裏で二、三枚噛んでる顔よ」


「顔でわかるのか」


レオンが言う。


「わかるわよ」


「お前も同類だろう」


「私は壊す顔。あれは売る顔」


ガルドが鼻を鳴らす。


「妙に納得できるのが腹立つな」


レオンは二人を見た。


「だが必要だ」


「本気で使うのか」


「ああ」


ガルドはしばらく無言だった。

火の明かりが、その横顔の険しさを揺らしている。


「……ひとつ言っておく」


「何だ」


「剣を向ける相手より、隣に立つ相手の方が怖い時がある」


「知っている」


「本当にか?」


レオンは答えなかった。


本当に知っているわけではない。

だが、知る必要があることはわかる。


リシェルがふと呟いた。


「でも、そういうのがいると話は面白くなるわね」


「お前は全部それだな」


ガルドが呆れる。


「だってそうでしょ。真っ直ぐなだけの話なんて、途中で折れるもの」


火が揺れる。

小さな部屋の中で、その明かりは三人の顔に別々の影を落としていた。


レオンは窓の外を見た。


中庭の向こう、雪の残る石畳の先に、屋敷の尖塔が黒く伸びている。

そのどこかで父が息をし、教会が睨み、使用人たちが怯え、そして今、新たに笑う策士が入り込んできた。


盤面は確実に広がっている。


同時に、手を誤れば一気に崩れる脆さも増していた。


その脆さを見ながら、レオンは不思議と嫌悪を覚えなかった。

むしろ、ようやく世界が形を現し始めたような感覚があった。


歪みは大きい方が見やすい。


削るべき場所もまた、明確になる。


その時、廊下の向こうで何かが割れる音がした。


小さな悲鳴。

続いて、誰かを怒鳴りつける女の声。


レオンが顔を上げる。


ガルドも眉をひそめた。


「またか」


レオンは無言で立ち上がった。


扉を開け、暗い廊下へ出る。

声は東側からだった。

先代伯爵付きの女官長、ゼルマの声に聞こえる。


行ってみると、角を曲がった先で若い下男が床に膝をついていた。

割れた皿の欠片が散り、ゼルマが顔を紅潮させて立っている。


「この役立たず! 何度言えばわかるの!」


下男はまだ十代そこそこだろう。

唇を切り、怯えた目で縮こまっている。


レオンの足が止まる。

数歩後ろで、ガルドも立ち止まった。


以前なら、ただ“不快な音”として処理したかもしれない。

だが今は違う。

同じ光景でも、どこが歪んでいるかが前より鮮明に見える。

そして、見えた歪みを放置することが、妙に耳障りだった。


「そこまでだ」


レオンが言うと、ゼルマが振り返った。


「レオン様……これはしつけでございます」


「皿を割った罪で顔まで割るのか」


「下の者は痛みで覚えます」


「ならお前もそうするか」


ゼルマの顔色が変わる。

だが、すぐに頭を下げた。


「……出過ぎた真似を」


レオンは下男へ目を向けた。


「立て」


少年は恐る恐る立ち上がる。

足が震えている。


「医務室へ行け」


「……は、はい」


逃げるように去っていく背を見送りながら、ゼルマは唇を噛んでいた。

不満も屈辱もあるのだろう。

だが逆らわない。まだ、この屋敷の権力が完全には割れていないからだ。


レオンはそれ以上何も言わず踵を返した。


部屋へ戻る途中、ガルドが低く言う。


「少しずつ、手を入れる気か」


「ああ」


「屋敷の中まで」


「中が腐っていれば、外だけ削っても意味がない」


ガルドはしばらく黙っていたが、やがて短く言った。


「……お前、思ったより面倒見がいいな」


レオンは足を止めない。


「そう見えるか」


「見える」


「違う」


「どこがだ」


「放っておくと、気分が悪いだけだ」


ガルドが小さく笑った。


「それを面倒見がいいって言うんだよ」


レオンは返さなかった。


ただ、自分の中にわずかに残るざらつきを確かめるように、無意識に指を握った。


その夜更け。

屋敷の北棟、客室にて。


エドワルドは一人、窓辺に立っていた。


薄暗い室内で、彼は窓ガラスに映る自分の顔を見ている。

笑みは消え、目だけが冷えていた。


やがて、誰に聞かせるでもなく呟く。


「……さて」


その声には、期待と、倦みと、ほんの少しの愉悦が混じっていた。


「どこまで壊してくれるかな、若君」


窓の外では、夜の屋敷が静かに眠っている。

だが、その眠りの下で、確かに何かが軋み始めていた。


火が灯れば、人が集まる。

火が広がれば、獣も寄る。

そして獣の中には、炎を恐れるものばかりではない。


むしろ、炎の中でしか笑えない者もいる。


エドワルド・セルベイン。

その男が味方か敵か、まだ誰にもわからない。


ただ一つ確かなのは、

彼が現れたことで、この反逆は少しだけ“戦”に近づいたということだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ