第二話 灰狼の種
ヴァルディア伯爵領の外は、屋敷の中よりもさらに冷たかった。
石壁の内側では、まだ秩序という名の形が保たれている。
だが一歩外に出れば、それは容易く崩れる。
レオンは数名の護衛だけを連れ、領都ラドスの南端へと足を運んでいた。
雪は止んでいたが、空気は凍りついたままだ。吐いた息が白く伸び、すぐに消える。
「この辺りです」
案内役の下男が足を止めた。
粗末な外套に身を包んだ男で、目は落ち着きなく周囲を泳いでいる。
そこは市場の外れだった。
本来なら農民や商人で賑わうはずの場所だが、今は人影もまばらで、屋台の半分は閉じられている。開いている店も品は乏しく、干からびた野菜や黒ずんだ肉片が並ぶだけだった。
その中で、ひときわ人が集まっている場所があった。
「……あれか」
レオンが目を細める。
人垣の中心には、痩せた男がひとり立っていた。
ぼろ布のような外套、無精髭、やつれた頬。だが背筋だけは奇妙に伸びている。
目の前には数人の農民たちがいて、何かを必死に訴えていた。
「お願いだ……これ以上は払えねぇ。もう家には何も残ってねぇんだ」
「子供がいるんだ……春まで持たねぇ……」
男は無言で聞いていた。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……それを、俺に言ってどうする」
声は低く、乾いていた。
「お前らの麦を取ったのは俺じゃない。領主だ」
その言葉に、農民たちは怯んだ。
だが、引くに引けないのか、ひとりが叫ぶ。
「だからだ! あんたは元騎士だろう!? 王都の命令にも逆らったって噂もある! だったら……」
「だったら、なんだ」
男の目がわずかに細くなる。
「お前らの代わりに戦えってか」
沈黙。
農民たちは視線を落とした。
その答えが、どれだけ都合のいいものか、自分たちでもわかっている。
男は短く息を吐いた。
「帰れ」
「……」
「ここで騒いでも何も変わらん。変えたいなら、自分で動け」
その言葉は冷たかった。
だが、嘲りはなかった。ただ事実だけを置いたような声音だった。
農民たちはしばらく立ち尽くしていたが、やがて一人、また一人と去っていく。
残されたのは、男と、遠巻きに見ていた野次馬だけだった。
レオンはその様子を静かに見ていた。
「誰だ」
隣の護衛に問う。
「ガルド・レイン……元聖騎士です」
レオンの目がわずかに動く。
「聖騎士?」
「はい。三年前、教会の命令に背いて追放されたと……」
「理由は」
「村の放棄命令を拒否したとか……詳しくは」
レオンは再び男を見る。
ガルド・レイン。
確かにただの流れ者ではない。立ち方が違う。重心がぶれず、視線が死んでいない。
そして何より、“諦めていない目”をしている。
だが同時に、どこかで折れている。
レオンは歩き出した。
人垣を割り、男の前に立つ。
ガルドがゆっくりと視線を上げた。
二人の目が合う。
ほんの一瞬、空気が張り詰めた。
「……貴族か」
ガルドが言う。
「そう見えるか」
「見えるな。靴が違う」
レオンは自分の足元を一瞥した。
確かに、ここにいる誰とも違う作りだ。
「名は」
「レオン・ヴァルディア」
その名に、周囲のざわめきが一段強くなる。
伯爵家当主。その肩書きは、この場所では“恐れ”と“憎しみ”の両方を意味する。
ガルドは一瞬だけ目を細め、それから肩をすくめた。
「ずいぶんと若い当主様だな」
「関係あるか」
「ないな。ただの感想だ」
短い沈黙。
レオンは言った。
「お前、剣は使えるな」
「一応はな」
「雇われる気はあるか」
周囲がざわつく。
この場で、こんな直球の言葉を投げるとは思わなかったのだろう。
ガルドはわずかに笑った。
「ずいぶん簡単に言うな。俺がどういう人間かも知らんだろう」
「必要か」
「必要だろうな、普通は」
「普通ではない」
レオンの声は淡々としていた。
「さっきのやり取りを見た。お前は民を見捨てたが、嘲らなかった。救う気もなければ、踏みつける気もない」
「……」
「中途半端だ」
ガルドの眉がわずかに動く。
「だが、だからこそ使える」
空気が凍る。
護衛が一歩前に出かけたが、レオンは手で制した。
ガルドはしばらく黙っていた。
やがて、低く笑う。
「気に入らねぇ言い方だな」
「そうか」
「だが……間違っちゃいない」
彼はレオンをまっすぐ見た。
「で、何をさせる気だ。農民の代わりに税を払わせるのか? それとも逆らう奴を斬らせるか?」
「どちらでもない」
レオンは一歩近づく。
「この領を、少しずつ壊す」
ざわめきが広がる。
「壊す?」
「腐っている。だから削る」
その言葉に、ガルドの目の奥がわずかに揺れた。
「……面白いことを言うな」
「興味はあるか」
ガルドは少しだけ考え、それから答えた。
「ある」
「なら来い」
「ただし」
ガルドが続ける。
「ひとつだけ聞かせろ」
レオンは黙って待つ。
「お前は、何のためにそれをやる」
雪解け水が足元で音を立てた。
遠くで子供の泣き声がする。
レオンは答えた。
「歪んでいるからだ」
「それだけか」
「それだけだ」
ガルドは目を細めた。
「……正義じゃないんだな」
「違う」
「復讐でもない」
「違う」
「なら、お前は何だ」
一瞬の沈黙。
レオンは自分の中を探る。
だが、やはり答えは出ない。
だからそのまま言った。
「わからない」
ガルドはしばらくその顔を見つめていた。
やがて、小さく息を吐く。
「いいな」
「何がだ」
「正直なところがだ」
彼はゆっくりと立ち上がった。
「いいだろう、乗ってやる。ただし、気に入らなければ降りる」
「構わない」
二人の間に、奇妙な合意が成立した。
その時、背後で誰かがぼそりと呟いた。
「……灰哭山にでも行く気か」
その一言で、空気が変わった。
レオンが振り返る。
「灰哭山?」
周囲の人間が顔を見合わせる。
言ってはいけない名を口にしたような、そんな空気だった。
やがて、ひとりの老人が低く言う。
「知らねぇのか……あそこは“捨てられた奴らの山”だ」
「捨てられた?」
「王にも教会にも見放された奴らが集まる場所だ。逃げ込んだら最後、二度と戻らねぇ」
ガルドが鼻で笑う。
「戻る理由がないだけだろ」
「違ぇ……あそこは……」
老人は言いかけて、口をつぐんだ。
レオンはその名を頭の中で反芻した。
灰哭山。
世界から切り離された場所。
秩序の外側。
(……使えるかもしれない)
そう思っただけだった。
だが、その考えが後にどれほどの意味を持つのか、この時の彼はまだ知らない。
風が吹いた。
市場の埃が舞い、遠くで扉が軋む音がした。
凍てついた空気の中で、何かが静かに動き始めていた。
レオンは踵を返す。
「来い、ガルド」
「ああ」
二人は並んで歩き出す。
背後で、誰かが小さく呟いた。
「あいつ……何か始める気だぞ」
だがその声は、すぐに風にかき消された。
まだ誰も知らない。
この出会いが、やがて王国を揺るがす火種になることを。
そしてその火が、誰を焼き、何を残すのかを。
灰は静かに積もり続ける。
その下で、確かに“種”が芽を出そうとしていた。




